続編のないゲーム 植村比呂志 編
ゲーム考古学、ゲーム開発、導入の歴史はすでに40年を超えた。その歴史のなかで、ひときわ輝きを放ったゲーム、エンタテインメントはその時代を映す鏡だった。そんな時代を彩ったゲームとそれらを開発したクリエイターにスポットを当てたもの、ゲームの歴史の発掘作業と言ってもいい。それは壮大な砂漠で落とした方位磁石を探すようなものだ。今回は、かつて、セガで「甲虫王者ムシキング」、「オシャレ魔女ラブandベリー」などを開発したクリエイター植村比呂志である。
植村比呂志は1965年6月6日、福島県喜多方市に生まれた。喜多方ラーメンが良く知られているこの街には、古くからの蔵が多いことでもよく知られている。
少年時代をこの街で過ごした植村は、浪人生活を経て、武蔵工業大学(現・東京都市大学)の機械工学科に入学を果たした。そして、4年を経て、彼の運命を大きく変える就職活動の末、株式会社セガ・エンタープライゼス(現在のセガ:以下セガ)に入社を果たす。
植村のゲームを巡る人生を振り返ってみよう。
人生を変えた体感ゲーム
高校を卒業するまでの期間を福島県喜多方市で過ごし、高校卒業後、理科系志望校に入学することができず、上京し浪人生活を1年間送った。そして、1年後、晴れて武蔵工業大学の機械工学課に入学する。植村の人生を変える瞬間は大学4年生の頃だったという。
「大学4年の時かな……。セガの『アフターバーナー』がゲームセンターに登場したんです。ガシャガシャ動くクレイドル筐体で、あれを体験したら、自分の理系のキャリアを活かして『こんなゲームを開発する仕事がしてみたい』と思って、セガを志望するようになったんです。いわゆる体感ゲームを作りたいと思っていました。最初からセガが第一志望でした」
…とは言え、当時の機械工学科卒業生にとっての花形就職先は「自動車メーカー」だった。大学に入学し、特定の研究室に入った時点で、ある程度就職先も推薦などで内定が決まるというのが当時の4年後のセオリーだったという。つまり、機械工学科の特定の研究室出身者の成績優秀者の就職先は「大手自動車メーカー」だった。つまり、ある教授と大手自動車メーカーの開発部門には何十年と付き合いがあると、その系譜が連綿と受け継がれるルートがあったという。植村自身はそれらの研究室に所属していない時点でその道は諦めていたという。
ところが植村は学業よりものめり込んだものがあったのだ。それは演劇だった。
武蔵工業大学、演劇青年の青春
「僕は大学時代、ほとんどの時間、演劇にのめり込んでいたんです。あの頃は、寺山修司さんに注目していました。いわゆるアングラ劇団みたいなものがその頃ブームでした。私はなんでもやりましたね。ディレクター、演出、照明、音楽、当然キャストとして出演もしていました。最初の頃は裏方をやって、徐々にキャストで出してもらえるようになっていきます。最後は主役を務めた後に演出をするというものでした」
学生時代の演劇活動は植村にとってとても楽しい思い出だったという。それだけ楽しい活動であれば。卒業の選択肢に演劇活動があってもしかるべきことかもと考えるが、植村はどうだったのか。
「あの頃、楽しかったですね。大学を出て劇団を立ち上げた先輩もいました。そこにもお手伝いに行っていました。でも。その先輩方の生活を見ていると、苦しそうだなと思って、演劇の道は大変そうだと思いました。それでせっかく工業大学にいるんだから、普通に就職した方がいいんじゃないかと考えるようになりました。……とは言っても、大手自動車メーカーに送り込んでもらえるようなレベルじゃなかったんです。優秀な学生でもなかったですからね。真っ当な学校推薦はもらえないし、工業大学を4年で出て、一般入試で受けるなんてあまりいないんですよね。大体みんな推薦で入りますから」
『セガに推薦なんて、今まで出したことないよ』@大学就職課
植村は、そのあたりの事情はすべて含み済で、ゲームセンターで体験した「アフターバーナー」を開発したセガに就職先を絞り込んでいた。しかし、就職課に相談に行って相談したが「知らない」と言われた。
「平成元年、1989年でしたが、就職活動の時期に就職課に相談に行って『セガっていう会社に行きたい』という話をしたら、『いやぁ、知らないなあ』と言われたんです。就職課は、さらに『セガに推薦なんて、今まで出したことないよ』って言われてしまいました。まあ、そうかなと思って『わかりました』と言って、そこでは引いたんですけどね。でも、そんな心配は必要なくて、セガに連絡を取って、面接を受けたら『うちに来れば』とあっさり入社することができました。
あの頃は、いい時代でしたね。入社試験にエントリーシートを出したと思いますけど、ものすごく難しい選抜を通ったという印象ではなかったです。面接して、1回試験受けたのかな。とにかく全然入社に苦労した覚えはないです」
セガに内定をもらってから、喜び勇んで両親に報告したところ、両親はともに、セガという会社は聞いたことがないと言った。さもありなん、植村の父親は教師だった。そのためか、教職の資格を取れと言われていた。
しかし、植村は両親の期待には応えず教職資格は取らなかった。植村に依れば、戦前生まれの両親ともに保守的な考え方で、いわゆる大手製造業の東芝、日立、松下電器産業(現在のパナソニック)、トヨタ、日産などに入社することを望んでいただろうと語る。しかし、本人曰く、成績が伴わなかったという。その状況でこれから伸びる産業としてゲーム、伸びるであろう企業としてセガを選び、それを両親に説得したのだと言う。
「1989年は、『体感ゲーム』が大ヒットしていた時代で、その体感ゲームのムーブメントに憧れて入った学生の一人でした『R360』はまだ世に出てなかったけど、『ギャラクシーフォース』がありました。
『ギャラクシーフォース』のグルグル回る筐体を見た時は衝撃でした。『アフターバーナー』もすごいと思ったけど、『ギャラクシーフォース』を見た時は、『セガは、宇宙に行っちゃうんじゃないか……』と思ったくらいです。そう思えるほど、世界最先端の企業でした。今でいうNVIDIA(エヌビディア)みたいな感じで、ここに入ったら違う世界が見られるんじゃないかと思いました」
マイケル・ジャクソン「スクランブルトレーニグ」ネバーランドの思い出
当然ながら、世界最先端の技術とエンタテインメント要素を持ったセガでは稀有な他の企業や仕事では体験できないことがたくさんあったという。
「僕はマイケル・ジャクソンの自宅まで行ったことあるんです。ネバーランドです」
セガと故マイケル・ジャクソンの関係は古く、マイケルがアーケードゲーム機を中心に個人で購入し始めたのちに、本社の鈴木久司常務取締役(当時)と親しくなっていたという。マイケルが日本に来れば、セガに立ち寄り、鈴木の案内で新作のゲームや開発中のゲームを見て回ったと言い、逆に鈴木がロサンゼルスを訪れたときはマイケルが時間を取って会っていたのだ。植村のマイケル体験に話を戻そう。
「その当時、僕は『AS-1(※)』っていうモーション・シミュレーターの中のソフトウェアを作っていたんですよ。『AS-1』の『スクランブルトレーニング』のディレクターをやっていたました。
それで、ある時、マイケルがセガに来て、開発中の『スクランブルトレーニング』に乗ったんです。マイケルが来たから「乗せるぞ」って鈴木さんに言われて、『植村、オマエも一緒に乗れ』ということで、たどたどしい英語でマイケルに説明しました。
あれって、8人乗りなんですが、マイケルご一行様が体験して非常に盛り上がったんです。こっちも嬉しくなって、その時は『マイケル、サンキュー』って言って別れたんですけどね。マイケルはアメリカに戻った後に『あれに出たい』と言い始めたんです。
それでアメリカまで、マイケルのゲーム中のシーンをロサンゼルスに撮影に行ったんですよ。マイケルはかっこいい宇宙服を着ていまして、準備万端と言う感じで、バーッと撮影していたんですけど、途中でマイケルが『ごめん、ごめん、ちょっと止めて。これからエリザベス・テイラーへのバースデー・メッセージを撮らなきゃいけないんだよ……』って言い始めたんです。
映像収録のスタジオをキープしている時間は決まっていて、まだ撮り終えてないのに、マイケルがエリザベス・テイラーへのバースデー・メッセージを撮り始めてしまったんですよ。それで結局、収録は時間切れになりました。
向こうはユニオン(筆者注※組合)が厳しいから、時間通りに終わらせないといけないんです。それで、どうしようと思っていたら、マイケルが『僕の家で撮ろう』と言ったんです。それでリムジンをよこしてくれて、夜に行ったんですけど、あまりにも広大な敷地で、なにがなんだか、分かんないんですよ。
ネバーランドに着くと、マイケルがスーパーボウルのコマーシャルで踊っている時のコスチュームなどを飾った部屋に案内してくれましてね。これは貴重だ、すごいな!って思いました」
実はこの時までには映像は収録は終えており、あとは音声のみを収録することになり、セット組みした専用のスタジオではなくとも収録が可能な状態になっていたという。
「映像が必要なシーンはスタジオ撮影の時間内で撮り終わっていて、残りはゲーム要素の『ボタンを押すんだ!』みたいな音声部分だけだったんです。それで、マイケルの自宅でスタッフを入れて、マイクを立てて収録しました。それらを日本からは僕一人だったので全部やりました。通訳を連れて行きたいと申請したんですが、『こんなチャンスはないんだからお前一人で来い』と言われたんです。その時の写真が手元にあればよかったんですが、マイケルのお付きのカメラマンはバシバシ撮っていたんですが、カメラマンからは音声収録をしているときに『じゃあ、二人でツーショットを撮りなよ』と言われて、僕も喜んでマイケルと撮ったんですけどね。結局、写真はもらえなかったんです。彼らにしてみればこの日本人が誰なのかよくわからない訳ですし、セガのスタッフだってことは分かっていたでしょうけどね。まあ、紙焼きの時代ですからね」
注) AS-1(※) 1993年にセガ・エンタープライゼスが開発した8人乗り大型バーチャル・ライド・マシン
植村にとって、マイケルをフィーチャーした「スクランブルトレーニング」は非常によい経験になった。筆者は数多くのセガ関係者を取材しているが、1980年後半から90年にかけて、セガは大卒の優秀な人材を数多く採用した。彼ら、彼女たちが、後の3次元コンピュータ・グラフィックスを駆使した作品の多くに携わりセガが名作の多くのこの時代に生み出している。
「僕にとって、『AS-1』の『スクランブルトレーニング』は、ハードウェアと、ソフトウェアのインタラクティブ性を結びつける面白さがあって、まさにセガでやりたかったことなんです。そして、なんと、世界のスーパースター・マイケル・ジャクソンにまで出演して貰えた。それをセガでやらせてもらえたから『この仕事を頑張ろう』と思えたんです。
『スクランブルトレーニング』は、我ながらインタラクティブ性の完成度は高いと思うんです。
どういうことかというと、最初にロケットを打ち上げるんです。『AS-1』はコックピット型で、8人のプレイヤーそれぞれにボタンが付いています。『君たちの手元にあるのは点火ボタンだ。カウントダウンを聞いてしっかり点火しろよ』と説明されます。そこからカウントダウンが画面に出て、0(ゼロ)でボタンを押すんですが、誰かが押すタイミングを失敗すると点火失敗になって、墜落するんです。でも全員が成功すると発射映像がバーンと出て、油圧モーションで機体がグワッと上がる。失敗した場合は『〇番座席の点火が失敗しました……』となって、機体がビーンと揺れてゴワァーっと墜落します。モーションもちゃんと連動しているんです。だから『お前のせいで失敗した!』と盛り上がるし、全員成功すると『よっしゃー!』と拍手が起こる。
ゲームは、宇宙空間でトレーニングしようという流れになって、サプライズでお決まりの敵が攻めてくるストーリーです。そこからシューティングが始まります。点滅したらミサイルを打って敵を倒すんです。
それから、今度は傷を負って帰還するんですが、最後は胴体着陸で、シューティングパートで一番スコアが高かったプレイヤーに操縦を任せるという仕組みです。例えば2番プレイヤーが一番だったら、『2番プレイヤー、(注:着陸を)君に託す』となります。そしてそのプレイヤーのボタン操作で着陸が成功するか失敗するかが決まるんです。そのシーンでは全員が2番プレイヤーに注目して、画面に着陸のゲージが出る。そこをうまく通過できるかどうかで、失敗すると墜落してしまうんですが、それも面白いですよね。成功すると『やった!2番プレイヤー、君のおかげで着陸に成功したぞ!』と全員で拍手する雰囲気になるんです。
これを僕が『スクランブルトレーニング』として作ったんです。マイケルもそれに乗って仲間と盛り上がっていて喜んでくれました。そういうものを作らせてもらえる環境が当時のセガにはありました。そういうものが出せるのがセガというメーカーだったんです」
このマイケルが登場する『スクランブルトレーニング』は、当初リリースされた『スクランブルトレーニング』をバージョンアップした2.0バージョンと言えるもので、当初。市場にリリースされたバージョンでは、教官やキャプテンに相当するキャラクターは存在せず、すべてナレーション音声で構成されている。しかし、前述のようにマイケルが『キャプテン役で出たい』ということで、新しいバージョンを作ることになったのだ。
カードゲーム開発の原点を探る
1980年代後半から90年代の後半ごろまでのセガには著名人、特に世界的に名の知れた人物が本社を訪問したり、海外で面談したりするケースが多かった。筆者が記憶しているだけでも、マイケル・ジャクソン以外に、スティーヴン・スピルバーグ監督一行、F1ドライバーのアイルトン・セナなど、時代を象徴するようなスターが大鳥居の地に舞い降りたのだ。植村もセガでの仕事の毎日が楽しかったという。そんな植村の人生を方向づけた作品がある。
「1989年に入社して、最初に配属されたのは第4研究開発でした。その頃はまだAMとかCSという名称は無かったです。入社して半年くらいしてから第5研究開発部に異動になりました。
最初は設計で入りましたけど、4研の頃は設計の研修で基礎を学んでいました。5研に移った時にこういう体感ゲームを作りたいとか、こういうアトラクションを作ってみたいと要望を上司に言っていたら、『植村君、企画になれば』と言われたんです。アトラクションは企画とものすごく密接に関係していますからね。設計も分かるし、企画にもなれるだろうということで5研に入った時から企画に関わったんです。
その流れで『スクランブルトレーニング』、『AS-1』のソフトの企画をやることになりました。最初に担当したのは、セガが当時出していた『キディライド』(※)です。100円を入れると、筐体がガーッと揺れるマシンで、色々なシリーズを作っていました。
当時は、新人だから、企画としてこういうものからやってみればと言われて担当したんです。それが『アンパンマン』のキディライドで、『わくわくアンパンマン』です。
バンプレストさんと共同開発したんです。もともと日本テレビ音楽さんとバンプレストさんが版権をやり取りしていて、セガの小形さんがバンプレストさんと交渉をして、『製造までセガがやるから共同で販売しよう』という話になりました。バンプレストさんにも販路があるし、セガにも業務用ゲームの販路があるので、だからお互いの得意先に売っていこうということで、さらに『アンパンマン』効果でものすごく売れたんです。
『アンパンマン』のキディライド『わくわくアンパンマン』は、『アンパンマン』のカードが出てきて、ボタンを押すと『アンパンチ!』という声で、『バイキンマン』をやっつけるゲームでした。インタラクティブなモニター付きの「キディライド」で、その「キディライド」にモニターを最初につけたのがセガなんです。そこからどんどんビデオの知識も学んでいって、さらにカードも出して、こういうふうに連動して遊ばせると子供に人気が出るんだなという知識がどんどん溜まっていきました。それが『ムシキング』につながるんです」
意外性を感じるが、この『アンパンマン』のキディライドが、ゲームとカードのマッチアップが後の植村の出世作品である「ムシキング」につながるというのは非常に興味深いものがある。植村自身もその点を強く認識しており、「わくわくアンパンマン」と「AS-1」、この2作品が彼のセガ人生を決めたものだという。
※小形武徳 おがたたけのり セガ・エンタープライゼス常務取締役 当時
新規事業開発という名目のリストラ施策からのブレイクスルー
しかし、それらが芽吹くまでにはやや時間を要した。その間、セガの業績が低迷し、新規開発も制限を受けるようになったという。
「セガが非常に低迷していた時期がありました。2001年1月31日にドリームキャスト撤退があったんです。その後、あまり間を置かずにアトラクションの新規開発も制限を受けるようになりました。その理由は、セガにとって一番必要なのはすぐに血となり肉となる利益だったからです。アトラクションは運営側も開発側にも長期スパンのビジネスです。その頃のセガにとって、アトラクションは優先順位が低くて、会社そのものが買収されるかどうかという話が日々されている状況で、経営陣からすれば待っていられないです。10年ぐらいで利益が回収できますというような事業に人を割けませんからね。それで我々は一旦、新規事業という枠に置かれることになりました」
この状況下で植村は新規事業に配属される。しかし、それは新規事業という名前があるものの、ある種の「篩(ふる)い」のようなものだったという。
「2001年にアトラクションを作っていたチームは全員、新規事業に移りました。当時はアメーバ組織が流行っていたんでしょうか。上層部からは『新規事業の中で何をやるかは、上からは言わないから、君たちでグループを組んで、生き残るために売上を上げる策を考えなさい』という方針でした。
そこで私は開発スタッフ8人でチームを組んで取り組んだんです。例えばマクドナルドさんのファミリー広場みたいなのところで、お父さんお母さんが安心して子どもを遊ばせられるようなタッチパネルを使った知育遊具を作ろうという話になりました。当時はまだタッチパネルが珍しかったのですが、幸いだったのはドリームキャストの業務用にコンバートされた開発環境があって、それが非常に優秀だったことです。
ドリームキャスト自体は撤退してしまったけれど、それを流用したNAOMI基板などの開発環境が整っていました。そこで子供向けタッチ遊具を作ろうという流れになって、『タッチであそぼ!』という遊具でしたが、マクドナルドさんとセガの営業が組んで最初から一緒にやりましょうということになりました。ただ、非常に高価で、1台あたりの価格が高すぎてあまり売れなかったんです。
それ以外に作ったのは、『くら寿司』のタッチパネル注文端末です。しかし、現状で動いているシステムは、セガとは全く関係ないんです。最初に『くら寿司』の社長さんとうちの営業が話をして、タッチパネルで注文できたらロスも減らせるし良いというところから開発が始まりました。
そこで我々が作ったのは、画面の中をマグロやタイが泳いでいて、タッチするとお寿司に変身して、それで実際に注文がかかるという演出です。子供が触って遊べるように、ホタテをタッチするとビュッと水を吹いて逃げるとか、そういう仕掛けを入れたんです。それは非常に面白くて、人気も出たんですけど、やっぱり高すぎて売れませんでした。
その数年後に、もっと安いシステムを使って『くら寿司』独自のタッチシステムができましたけど、当時は我々がそういうものを作っていました。コンピュータ・グラフィックスでリアルな生き物の生態を子供たちに体験してもらう、そういうものが多かったんです。そのリアルな生き物の中で魚の次に作ったものが虫でした。
マクドナルドの『タッチであそぼ!』の中に、『レッツむしとり』というコンテンツがあって、触ると虫がインタラクティブに反応するんです。実際に虫を触った時のようにちょっと動いたりして、その中でカブトムシとクワガタムシが木の上で戦って、それを子供たちがタッチして応援するような仕掛けで、これがものすごく人気でした。
ただ、その頃は『くら寿司』の端末や『タッチであそぼ!』を作っていても、結局どれも高すぎて売れなかった。これはダメだなと暗い気持ちになって、どうにか生き残りを考えないといけないなと思いました」
ここで植村は前述のマクドナルドの『タッチであそぼ!』の中に、『レッツむしとり』の中でのバトルに、子供たちがすごく熱中していたことに注目した。そして、「わくわくアンパンマン」のカードをカブトムシやクワガタムシのカードに切り替えれば、もしかしたらウケるのではないかと言う発想に至った。さらに、コインを毎回投入することで売り上げも確保できると考えたのだ。
逆転の発想、コイン投入型ゲームマシン
「コイン投入型のゲームマシンにすれば、売り上げが入るのではないかと考えたんです。それで生まれた1号機が『甲虫王者ムシキング(以下:ムシキング)』でした」
同様な発想で『タッチであそぼ!』で女児が熱中したものが「すてきなおひめさま」という髪型を変えたり、着せ替えができるコンテンツだ。これが『ラブandベリー』となる。追い詰められて研究して作ったものが日の目を見た瞬間だったのだ。
「これらは、僕らが突然、思いついた発想じゃなくて、ずっと色々なことをやらせてもらってきた中で、これはすごくウケるとか、これは可能性があると気づかせてもらったものを集めたのが『ムシキング』であり、『ラブandベリー』なんです。
机の上で考えて出てきたものではないんですよ。だから、そこから僕は常にお店に行って子供たちのプレイスタイルを見る、ということをやりました。会議室で唸っていても答えは出ないから、お店に行って実際にプレイヤーを観察しようと思ったんです。業務用は作った後に必ずお客さんのプレイスタイルが見られるんですよね。家庭用と違ってそれができるからこそ、業務用で生きていくなら、とにかく現場に出ようというスタイルになったんです。お客さんを見ようということですね。そのお客さんから教えてもらっていた訳です。お客さんの反応がイマイチならこれはダメだとすぐ分かる。北海道であろうが沖縄であろうが、イマイチなものはイマイチなんです」
おそらく植村が試行錯誤している時代は、セガが人員削減やキャッシュフローの改善を試みていた時期と重なる。ゆえに、発想はしたものの、会社の稟議や予算的にも苦労したという。それらを承認してくれた恩人がいるという。
「僕らはもともとアトラクションチームから新規事業に移っていて、その新規事業のトップが田副康夫(※)さんだったんです。田副さんはAM施設を担当していた方で、『旧アトラクション部隊は俺が面倒を見る』と言ってくれた人でした。その中で『ムシキング』は田副さんの稟議で作らせてもらえたんです。
当時は今のゲームやスマホ開発のように開発費が大きいわけじゃなかったから、田副さんが『植村、やってみろ』と言って予算稟議を承認してくれたんです。あとは『新規事業部ではこういうこともやっています』と、経営陣に説明してくれていました。その枠組みの中に僕らがいたので、滞りなく開発することができたんです。さらに、田副さんはコンテンツ開発は僕らに任せてくれて、余計な口出しをしなかったんです。僕がこういうことをやりたいと言うと、分かったと、何も言わずにやらせてくれたんです。資金も潤沢ではなかったけれど、本当に良かった。もしマーケティング的にどうだとか言われていたら、『ムシキング』は生まれてなかったと思います」
※田副康夫 たぞえやすお セガ常務執行役員(当時)
さらに、植村は、当時のセガの環境もプラスに作用したと言い、市場動向の分析が活かされたのもセガだったからだという。
「それができた時代というのが、セガの本当に良かった頃です。例えば、もし僕がバンダイさんに入っていたら、入社数年のスタッフがオリジナルを作りたいと言っても許してもらえなかったと思うんです。バンダイさんは強力なIPをいっぱい持っているから、これをやれば儲かるというのがありますからね。でもセガはそうではなくて、とにかく新しいものにチャレンジしてみろという雰囲気がありました。そういうチャレンジができる時代だったんです」
終末期のサムライ8人が新しいコンテンツ『ムシキング』を開発
「開発に際しては、外部発注も使いましたが、基本は事業部のメンバー8人でやりました。当時は社員を増やすなんて許されない時代でしたからね。僕も課長になっていましたが、リーダークラスが何人もいて、それぞれが俺たちはこれで生き残ると言って挑戦していました。
その中で、僕を中心とした8人のチームが、前半戦はダメだったけど、『ムシキング』を開発して頑張ろうと奮起します。プログラマー、デザイナー、サウンド担当など、その8人がコアになって、手が回らない部分は外注を使って作っていました」
シンプルに考えると3次元コンピュータ・グラフィックス(以下:CG)でカブトムシやクワガタなどの昆虫を創るのは大変だったと思うがという筆者の問いに対して植村は・・・・・・。
「我々は、まず魚を作りましたよね。当時、ハリウッドのCGでは『ファー』と呼ばれる毛並みの流れを表現する技術が流行っていました。でもリアルタイム処理では毛並みの表現は難しいんです。じゃあリアルタイム処理で目を引くものは何かと考えた時に、魚が良かったんです。
魚には毛がなくて、鱗は硬質で光が当たれば反射します。処理が重くないのに見栄えがするし、骨の動きも計算で再現できるので、CGにぴったりだったんですね。その次に動物ではなく昆虫にしたんです。カブトムシやクワガタは硬質で、光が当たればメタリックに光るんです。そういうものは当時のCGでも十分表現できました。しかも、目立つ毛が生えているわけじゃないので処理も軽いですからね。
あの時代のCGスタッフはいかに少ないポリゴンで表現するかを競っていましたからね。例えば『バーチャレーシング』の最初の人間キャラなんて、確か200ポリゴンくらいです。だから2000ポリゴンもあれば十分作れるんです。むしろ、昆虫にそんなに使っていいの?という感覚でした。それを可能にしてくれたのが、ドリームキャストのアーキテクチャと優れた開発ツールでした。あれがあったから僕らは有利に作れたんです」
ご存知の通り、『ムシキング』は大ヒット作品になり、多くの業務用マシンが流通し、発行カードも累計で約5億枚が出荷(※)されている。それまではある種のリストラ対象だったメンバー、チームだったが、『ムシキング』のヒットで植村自身とそれを取り巻く環境にも少しずつ変化が生まれたという。
※)セガ公式案内に依れば累計出荷枚数 4億9800万枚以上とのことで、約5億枚出荷と表記した。
「発言力が増しました。ちょうどその頃、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』に取り上げてもらいました。確か2006年ですね。『ムシキング』、『ラブandベリー』ともに、一番儲かっていた時期ですね。
でも、それが同時に破滅を生むことにもなりました……。
今だから話せることなのですが……。発言力がどんどん増して、スタッフも増えて大きな部署になりました。そうすると、僕の意見に異を唱える人が減っていったんです。大きな組織を抱えながらも徐々に売り上げが落ちて来て、焦った僕は、次々にキッズカードゲームを出していきました。
あの当時は、『(ヒットを連発した)あの植村が言うなら……』と企画が通りやすかったんです。
でも、それは本当にその時点で売上が出る可能性のあるベストな企画だったのかと言えば、疑問が残ります。これは僕自身の勉強不足でした。なぜなら、僕はキッズカード、アーケードカード機の成功体験に固執していたんです」
モバイル・アプリ・ゲーム時代の到来と植村の成功体験
さらに、それらを悪化させたのは、時代の変化であり、その変化を見誤っていたことだ。その変化こそが、モバイル・アプリ・ゲーム時代の到来だった。
「時代はそろそろモバイルに移りつつありました。本来、ゲームを作る人間なら、全方位的に色々なゲームに目を通して、何が伸びるのかをリーダーとして見極める感性を働かさなければならないんです。
過去の成功にしがみついてはいけないんですね。
ゲーム業界では、昔の成功体験をもう一度夢見てはいけないんです。
でも、僕は社内でも発言力が増して、誰からも意見を言われなくなったから、いつまでも、キッズカードでもう一度成功したいと固執してしまいました。もう一つは、本当に事業としてやっていくなら、うまくいかなかった時点でやるべきことは、他社さんとアライアンスを組むことだったと思うんです。具体名は出しにくいですが、例えば当時、『ポケモン』も『ドラクゴンクエスト』もキッズカードにはなっていなかったけど、その後、どちらも大人気になりましたよね。
当時、キッズカードをやろうとしていたのは、バンダイさんと、少し遅れてタカラトミーさんくらいだったと思います。なぜかというと、彼らは玩具を作っているメーカーで子ども向けビジネスに強い先見性があったからです。『これはセガだけに任せておけない』と考え、『仮面ライダー』や『ウルトラマン』など、次々とカード化していきました。一方で、ある意味、セガに近い発想を持っていたのがポケモンさんやスクウェア・エニックスさんです。テレビアニメに依存せず、ゲームからIPを広げていくスタイルでした。『ドラクゴンクエスト』はゲーム中心にしてアニメの展開は多くありませんでしたし、『ポケモン』もアニメ展開がありつつ、やはり本家のゲームが主導権を握っています。それに比べてバンダイさんは毎年新しい『仮面ライダー』シリーズを出し、ライダーベルトは新しいギミックの新商品を作るし、キッズカードも販促として次々と展開すればすごい人気が出るという戦略なのです。ポケモンさんやスクウェア・エニックスさんはそういう動きにはすぐ乗らず、少しずつアーケードのカード事業を試し始めていました。その最先端にいたのが僕らだったから、競争は厳しい状況です。その時に、他社さんと共同制作する方法も探ればよかったんですけど、やることができませんでした」
植村は、今だからこそ、振り返って自身の判断ミスと思うことができるが、当時はセガという会社のステイタスの向上にも貢献し、自身が開発したキッズカードゲームこそが至上であり、至高のものだと思っていたのではないだろうか。そうなると当然ながら自分から他社に申し出をすることはできなかった。
「僕はセガのオリジナルで押し切ろうとして、結果的に視野が狭まっていました。そこで他社IPを取りに行こうと誰かのアドバイスがあったとしても、僕自身にその発想もなかったし、そういう意見を受け入れる度量や雰囲気も作れなかったんです。
マーケティングに優れた人材も置いていませんでした。
なぜなら、僕はプロダクトアウト型の人間だったからです。
でも、そのプロダクトアウトも、振り返ってみると僕一人の発想ではなかったんです。長い間、成功と失敗を繰り返して、僕が学ばせてもらったマーケティングの積み重ねがあったからこそなんです。でもそれが生まれた途端に、自分が作るものは必ず当たると勘違いしてしまったんです。その瞬間から、マーケットを学ぶ姿勢ではなく、プロダクトを作ることそのものを重視してしまいました。これが僕自身の失敗であり、セガのキッズカード事業を続けられなかった直接の原因は、この僕の運営のまずさだったと思います」
あの頃のことを振り返って、どう思うかという筆者に問いかけに対して、植村はNHKで放送された「プロジェクトX」のDVDソフトを手にこう語った。
「今、このDVDを見るととても恥ずかしいですね。イキっているとでも言いますか……」
ここまで自身を断罪する植村は、今の年齢になってそれらの振り返りができるようになったという。おそらく、かつての植村には誰しもを寄せ付けないムードがあったのでないかと問えば、その通りだったかもしれないと明言する。
「おっしゃる通りです。『ムシキング』を作ったのが30代後半で、ヒットしていたのは2005年頃で、僕は40歳でした。自分では20歳でヒットを出したならいざ知らず、40歳にもなれば、もう天狗にはならないだろうと思っていたけれど、実際にはうぬぼれていたわけです。しかも、それに自分で気づいていなかったんです。40歳で結果を残すと、周りで意見を言ってくれる人もいなくなります。
会社や、周囲から期待されて悪い気はしないし、「じゃあ、僕のやりたいことをやります」となってしまうわけです。結果的に、キッズカードのアーケードビジネスの先を見誤り、誰ともパートナーシップを築けなかったんです。
まだまだ手付かずのIPがたくさんあった時代です。『ムシキング』、『ラブandベリー』で6〜7年の実績を積んでいれば、他社と組むことも十分に可能だったはずでした。それを全くやらず、2008〜2010年頃にはモバイルビジネスが伸びていて、コナミデジタルエンタテインメントさんもそこで成功していたのに、僕には新しいジャンルを一から勉強していこうという発想がありませんでした。
また、その頃、周りには独立して会社を作る人も多くいましたが、彼らは社員を食わせるために必死です。だから、他社のIPをやりたくないなんて人はいないし、新しいジャンルに目を向けないなんて経営者はいません。経営者としては考えなければいけませんが、僕はセガの中の開発者という恵まれた環境にいたために、経営者的なプレッシャーを負うことはありませんでした。だから当然やるべきことをやらなかったんです」
セガでの恩人 田副康夫を語る
植村のセガにおける開発人生に大きなスポットライトを当ててくれた存在、それが田副であり、セガという企業が総合的なエンタテイメント部署が多様にあり、それらがうまく融合して機能したからではないだろうか。
「もともと、僕が『ムシキング』を田副さんに承認してもらえたのも、『ジョイポリス』(※)のようなテーマパークを立ち上げたり、運営する部隊は、人件費や開発費を施設に紐づけるのが妥当だと判断されたからです。
これはやはり、田副さんが施設開発の人だからです。通常のアミューズメントゲーム開発部門は機器販売部の小形さんを筆頭に、その時代の事業責任者に紐づいていました。そこで『ラウンドワン』が何台買うかとか、『イオンファンタジー』が何台買うかとか……、そういう営業的な話が一般的ですよね。
でもアミューズメント施設は違っていて、そこに人が呼べるかどうかで判断します。人が呼べればプライズ機など周辺の売上も伸びるはずで、だから田副さんは『施設に人を呼ぶものを作ろう』と考えていたんです。
『ムシキング』もその方針で承認されたものです。
最初、セガは『ムシキング』をキッズメダルの発展系として売ろうとしていました。当時、セガのキッズメダルは1タイトル当たり150台くらいしか売れていなくて、大きな商売ではありませんでした。『アムジー』さんが低価格のキッズメダルを出していたので、セガのものはそこまで売れなかったんです。
だから機器販売的にはあてにできる数字ではありませんでした。『ムシキング』も国内ではそんなに売上は期待できないだろうという話でした。
そこで田副さんが『ムシキング』筐体をレンタルにするという方針を打ち出したんです。その展開に僕らは驚きましたが、田副さん曰く、セガはもともとはジュークボックスのレンタルから始まったという歴史を教えてくれました。セガの原点は、アメリカからジュークボックスやピンボールを輸入してレンタルし、そのメンテナンス部門が開発までするようになったのが始まりという話です」
※) ジョイポリス セガが手掛けたテーマパーク型ゲームセンター。現存するのはお台場デックス東京にある。
セガの歴史に詳しいかたならばご存じだろうが、創業時のセガはゲーム系のエンタメ企業ではなかった。詳しい歴史は割愛するが、植村が田副から言われたように、第二次大戦後の駐留米軍のための遊具、ピンボール、スロットマシンなどの輸入と、レンタル、メンテナンスを行っていた。その後、自社でゲーム開発を行い現在に至るというものだった。
「田副さん曰く、その当時やっていたレンタルのノウハウがあるんだから……ということで、『ムシキング』も筐体販売は行わず、無料レンタルにして、その代わりに筐体から配出されるカードを売って利益を出すという形にしたんです。僕ら世代にはそんな発想はなく、全員が驚いていました。でもその結果、1万台を超える筐体が市場に出ることになりました。
ゲーム開発をしたのは僕らのチームですが、実質のビジネス的な意味での『ムシキング』のプロデューサーは、田副さんなんです。
ただ、田副さんは、あまり自分からしゃしゃり出てアピールしない人だったんです。
僕は演劇をずっとやっていたので、人前で話すのは好きでしたから、経営陣へ色々とアピールしましたが、実際に筐体のレンタル・モデルを発案したのは田副さんです。
しかし、植村には残念に思うこともあるという。
「『ムシキング』の筐体はレンタル方式で画期的でしたが、だからこそ起きた結果もありました。それは、『ムシキング』も『ラブandベリー』もセガが公式にサービス終了を告げた瞬間、何千台もの筐体が一斉にセガ返却され、倉庫に山積みになったんです。それらの保管だけで莫大な費用がかかるので、リサイクルできる素材を除いて、端から産業廃棄物として処分しました。だから今、国内にはプレイヤーが遊べる筐体が1台も残っていません。それはとても残念です」
セガトイズへの転籍
『ムシキング』、『ラブandベリー』の撤退、その結果、植村は社内で信用と行き場を失っていくのを肌で感じだ。誰も口に出しては言わないが、厳しい視線が、今まで黙っていた人々から注がれた。しかし、植村は初心に帰ってセガトイズでやり直すことを選んだのだ。
「2012年のことでした。『ムシキング』と『ラブandベリー』の稼働が終わって、その後、色々なキッズカードを立ち上げたけれど全部失敗したんです。
僕はその当時、事業部長で、ファミリーエンターテインメント事業部というのを立ち上げたいという提案を経営陣に提案したのです。営業も自分でコントロールしたいと、事業部長をやらせてもらったんですが、結果はことごとく失敗しました。
それで、もうダメだなと思って……『会社辞めます』と言ったら、まあ落ち着けと言われまして、しばらく社長室勤務になりました。
その頃、セガトイズには、まだ僕の悪い評判は届いていなくて、向こうから声をかけてもらえたんです。僕自身も変わらなきゃダメだと思っていた時期でもあって、グループ会社ですし、思い切って異動を決断しました。
だから、玩具を一から学びたいと思って移籍しました。結果的に、それが自分を変える第一歩になったのは間違いないです。とはいえ、セガトイズでも、自分の悪い部分は引きずっていました。僕はやっぱりプロダクトアウト思考から抜け出せなかったんです」
しかし、植村のプロダクトアウト志向があったからこそ、素晴らしいコンテンツが生まれたのだが、それを過信し過ぎたのか、それとも、周囲のプレッシャーに対して過剰に応えようとした実直さだろうか。それらは、植村が望んで移籍したセガトイズで改めて感じることになる。
「セガトイズ、つまり、玩具業界に入ってわかったのは、そこではプロダクトアウト思考は全然通用しないんです。例えばバンダイさんやタカラトミーさんは、企画者が究極のマーケターなんです。
彼らマーケターは市場を全方位で徹底的に見て、『次にこれが来る』と思ったものに飛び込むんです。それが玩具で成功する方法です。僕はプロダクトアウト思考だったから、完全にそこに乗り遅れていました。でも、僕自身がその指向性に転換ができなかったんです。さらには、事業部長をやっているなら、それは一番ダメなんです。部下の生活がかかっているわけですからね。
でも、剥き身の僕はやっぱり自分が表現したいものを作って、それで誰かが喜んでくれたら最高というタイプなんです。それをセガトイズでもやってしまったので、会社としては扱いづらい人だったと思います」
察するに、植村の仕事への向き合いでは、セガトイズという器にはうまく嵌らなかったようだ。植村自身も、その点を察知し、2年半ほどセガトイズに勤務した後、セガサミー・グループを退職する決意をしたという。
「2014年の年末にセガトイズを退社し、セガサミー・グループから離れました。会社に未練はなかったです。
……というのも、どれだけ自分が恵まれた立場にいたかということに、それまで気づいていなかったんですよ。その後、色々な会社を回って、初めてセガやセガトイズに対する感謝が生まれました。僕に良いものを作らせようと、どれだけ環境を整えてくれていたかということですね。離れた直後はわかっていなくて、数年経ってからようやく、あれはすごいことだったんだと気が付いて感謝と同時に激しく後悔しました」
マーベラスへの転職と中山隼雄の強烈なプレッシャー
植村はセガサミー・グループを退職した後に転職した会社が株式会社マーベラスエンターテイメント(現 マーベラス)だった。マーベラスはセガ中興の祖と言われる中山隼雄(なかやまはやお)が株式の大半を持っていた会社で、子息の中山晴喜(なかやまはるき)が代表取締役社長として創業したものだ。
「その後は、マーベラスさんにお世話になりました。ファウンダーが中山隼雄さん、代表取締役会長が中山晴喜さんです。
マーベラスさんに入社したのは、セガトイズを辞めた時、昔一緒に『ムシキング』をやっていた元セガの営業さんが、『中山隼雄さんのところに、セガトイズを辞めたという挨拶に行きませんか』と誘ってくれたんです。
僕も将来を考えていた時期だったので、ご一緒してご挨拶に行きました。中山隼雄さんは即決の人で、その場で『お前、マーベラスに来いよ』と言われたんです。
そこで僕も驚きましたが、よろしくお願いしますと答えていました。
ただ、そういう経緯があったので、会長の中山晴喜さんはじめ、全員にとって僕は『(晴喜さんの)父であり、大株主の隼雄さんが直接連れてきた人』という立場でした。
だからこそ中山隼雄さんは厳しかったですね。ご自身が採用の判断をしているわけですからね。毎回、会議などでは『植村、お前は何をやっているんだ』と厳しく言われました。もちろん隼雄さんにはその資格もあるし、僕も、ある意味ではコネ入社みたいなものですからね。
そのマーベラスでは、タカラトミーアーツさんと組んで『ポケモン』ゲーム関連をやっていました。それらは、今もマーベラスさんの稼ぎ頭で続いています。
僕が入った時にはスクウェア・エニックスさんや、カプコンさんとも開発案件が進行していて、それにも参加しました。
マーベラスさんでは、僕に事業拡大の期待をしてもらい、キッズカード部門の売上目標をかなり高く設定したんです。しかし、キッズカードは業界全体のムーブメントがあって、どこも盛り上がる時もあれば、下がる時もあります。マーベラスさんでは機種をたくさん出しました。『モンスターハンター』、『ドラゴンクエスト』、『パズル&ドラゴン』も運営しました。そうやって、色々なキッズカードを出していたんですが、それが目標未達になってしまいました。その結果、『管理職としてどうなんだ……』と日々問われるわけですね。そんな2年間でした」
筆者もセガ時代に中山氏のもとで働いた経験もあり、中山隼雄のもとで働くことの意義と、その反面の厳しさを理解している。そして、植村が在職した頃のマーベラス社は、中山隼雄と社員との関係が濃密で濃厚な関係だった。すると当然ながら、求めるもの、求められるものの量と質が厳しく問われることになるのだ。
「中山隼雄さんには御世話になりました。でも、ご自身が採用したという部分もあるのでしょう。会議では特に厳しくなるんです。
二人きりだと期待してもらえたりするんですが、会議では徹底的に叩きのめされます。
それが分かっていても僕は浮上できなかったですね。売上があれば良かったんですが、どうしても目標達成の見込みが立ちませんでした。それで志半ばで逃げるようにマーベラスを辞めることになりました。
マーベラスさんを退社してからは、タイトーさんにも御世話になりました。
実はタイトーに入る前に田副さんの会社に誘っていただいたんです。田副さんはセガに45年以上いらっしゃった大先輩で、僕より20歳年上です。
田副さんは、僕がマーベラスで苦しんでいることを噂で聞かれたようで、電話をくださったんです。それで『マーベラスを辞めるところです』と伝えたら、自分のところに来るように誘われて、田副さんの会社に1年くらいお世話になりました。
ただ、そこは社員制度のある会社ではなく、田副さんの個人会社で、出来高制で報酬が支払われるシステムでした。中国向けに色々なコンテンツのプレゼンをやったりしていました。
まだ、日本に入ってくる前のテンセントともやりとりしましたね。中国でキッズカードを展開すればビジネスになるんじゃないかという話で、僕も企画を考えたりして、恥ずかしながら中国では、『日本で成功したクリエイター』だという触れ込みで売り込んでいました。しかし、どれだけ提案をしたり、企画を考えても、出来高制なので売り上げがなければ、給料が出ません。
1年近くそんな感じでしたが、日本以外のキッズカードマーケットの将来が刺激的で、それを示して下さった田副さんへの感謝もあり、無給でも仕事を続けていました。
そんな時、ヘッドハンティングのような形でタイトーで人を探していると声をかけていただいたんです。もちろん僕だけでなく、色々な人に声をかけていたようですが……。
でも当時、僕は田副さんの事務所で無給で働いていた立場なので、タイトーから正式に誘っていただいた時に、田副さんに『すみません、タイトーさんに行かせてください』とお願いしました。
別に田副さんへの不満があったわけではなくて、誘っていただいた恩もあり、感謝しかありません。とても刺激的で貴重な体験をさせていただきました。その後、タイトーでは開発のトップを任せてもらい、家庭用、業務用、モバイルと全部見ました」
タイトーへの転職と『らくがキッズ』開発への邁進
ここでタイトーに転職した植村は、今までの反省を込めて新しいプロジェクトに打ち込んだ。その経緯と結果を聞いてみよう。
「タイトーさんへの入社は2018年です。遡るとマーベラスは2016年で退職して、田副さんの会社にいたのが2017年末頃まで、そして2018年4月からタイトーです。タイトーはちょっと長くて、2021年の夏頃までいました。
タイトーでは管理職として本当に色々な経験をさせてもらって、感謝しかないです。
ただ1つだけ、自分がやりたいことをやらせてもらったんです。本来、僕は開発本部長なので直接プロジェクトをやる立場ではなく、部下のプロデューサーが動くべきですが、1つだけお願いしてやらせてもらったのが、施設用アトラクションの『らくがキッズ』でした。
これは『ラクガキ王国』(※)という、タイトーが昔から持っているIPの落書きを描くエンジンを活かしたものなんです。そのエンジンを子供たちにもっと楽しんでほしいと思ったんです。それに僕自身、ずっとアトラクションをやってきたじゃないですか。その当時のセガを見ると、もう施設向けコンテンツの開発には力を入れていませんでした。アトラクション施設のジョイポリスもチャイナアニメーション(※)という会社に売ってしまって、アトラクション開発の部隊はすべてセガから切り離されることになりました。一方で、タイトーは施設を非常に重視していました。これがタイトーステーションですね。そこで施設の中に入れるコンテンツを作りたいとタイトーの経営陣にプレゼンしたら、じゃあ作ってみろという話になり、『らくがキッズ』を開発することになったんです。『らくがキッズ』をタイトーでやれたのが本当に幸せでした。
これは今も続いているアトラクションで、一番思い出深いプロジェクトです。デジタルとアナログの融合という、僕が業務用でこだわってきた方向性の発展形でした。簡単に説明すると、子供が端末で落書きを描いて、そのデータを腕時計型端末の『らくがきウォッチ』に入れます。それで、屋内遊園地の吊り橋など色々なアクティビティを体験しながら、各所にあるタッチポイントでウォッチをかざすと、自分の落書きが進化していくんです。何度も体を使って頑張ることで進化を重ね、最後に「バトル広場」という大きなスクリーンに進化させた落書きを開放すると、相撲大会のように戦い始めます。それで強く育った落書きが優勝するという仕組みです。
『らくがキッズ』は本当にいい経験をさせてもらったと思いましたが、僕自身はやはり管理職や部下の育成をするよりも、オリジナルIPを自分で制作したいタイプの人間なんだと思います。
タイトー退職の背景、そして『カブトクワガタ』開発
植村の持つ経験と、タイトーが持つ過去のマシン、IPが融合した『らくがキッズ』が高稼働したものの、予期せぬことでタイトーを退職することになる。それは年を重ねればだれもが直面する家族の看取りだった。
「タイトーさんを退社した理由は、家族の介護と看取りのためです。福島県会津若松にいる母親のところに戻る必要があって、実家の売却手続きとか、お墓の改葬など諸々もあって、その後にタイトーに戻るという選択肢は考えていなかったんです。
相続などの手続きも落ち着いた頃ですかね。会津若松にいる時、昔、お付き合いがあった小学館の『コロコロコミック』の編集担当さんから連絡をもらって、一緒にゲームを作りませんかというお声がけがあったんです。これが虫をテーマにしたゲームを作れないかというお話でした。
それがきっかけで、その昔、『ムシキング』の宣伝やイベントなどでご一緒した小学館さんからのオファーを受けるかたちで再びゲーム作りに復帰しました。
2022年に、虫のゲームを制作するスタッフをチームアップし、そこから、小学館さんと一緒にゲーム開発をして、ニンテンドースイッチ版の『カブトクワガタ』(※)を作ったんです」
※)カブトクワガタ 2023年の3月15日に発売 任天堂スイッチ版
2023年3月15日に販売した『カブトクワガタ』の市場動向を振り返って思うことはという問いに関して植村はこう答えた。
「特大ヒットにはなりませんでしたが、まあまあの結果だったと思います。関わった全員がフルリモートで開発しました。募集したスタッフが全国に散らばっていたので、一か所に集まって開発する事ができませんでした。
その後、『カブトクワガタ デラックス』というタイトルでパッケージ版としてリリースしたのですが、コロコロコミックの本誌で大きく宣伝してもらったり、著作表示を『Ⓒ2023 小学館・うえむらひろし』としてもらえたり、それらがとても嬉しくて、僕はこういうことがやりたかったんだなと改めて思ったんです」
消えてゆく宿命のゲーム筐体を探して
前述のように、『ムシキング』、『ラブandベリー』の筐体は、田副が発案したレンタル筐体だった。レンタルがゆえに、店舗側も気安く設置ができ、運営することができたと植村は振り返る。が、しかし、レンタルがゆえに現存する筐体が無いという事実にも直面する。リサイクできない部分は産業廃棄物として最終処分され世の中に原型をとどめて残っているものはほとんど無いという。
「僕が持っている『ラブandベリー』の筐体は海外のオペレーターから買ったものです。
国内は筐体販売は行ず、すべてレンタルでしたが、当時セガには海外事業部があり、東南アジアなどにはレンタルではなく販売していたと思います。
『ラブandベリー』も海外で人気が出るかもしれないということで、輸出販売をしていて、レンタルと違い筐体自体に返却義務がないおかげで、20年の時を経て、インドネシアのオペレーターから買うことができました。
インドネシアのゲームセンターでは、『ラブandベリー』がちょっと前まで、現役で稼働しているところがあったんです。ただし、20年前の機械なので現地でも役目を終えて倉庫に眠っているものがあって、それを譲ってもらいました。
植村比呂志の未来展望
「僕にはその権利もありませんし、あくまでも個人的な想いですが、『ムシキング』や『ラブandベリー』のゲームを復活させたいですね。
当時のファンの方々と一緒に、もうみんなアラサー世代ですけど、平成男児向け、平成女児向けゲームを作るなら、こういうものがいいといった企画妄想ミーティングを重ねています、
当時のファンに『ラブandベリー』の筐体を見てもらうと、親子で出かけて、カードをコレクションした思い出が刻まれていて、筐体に触れることで子供の頃の楽しくて幸せな記憶が蘇るんです。それは作り手としてはとてもうれしいことです。
だからこそ、僕がやるべきことは、思い出の筐体に触れてもらったり、新作ゲームの夢を話し合ったり、それが当時熱中してくれたファンの方々への恩返しだと思っています。
この自身が持つアトリエでは、一緒に話したり、たまにゲームをしたりしながら、昔の思い出から、将来のことまでを語り合います。
『ムシキング』や『ラブandベリー』のファンと、一緒にゲームをして、当時の思い出を話しながら、もし新しいゲームを作るならどんなものがいいかを夢として語り合う。そういう場を持つことが、僕にとって今一番やりたいことです。
そこでいい企画を思いついて、それをゲーム化できたら、それは最高の夢の実現ですね。もちろん、ゲームは個人で作れるものではなく、今は開発コストも膨大です。だからこそ、60歳を過ぎたプランナーにそういうチャンスを与えてくれる人がいればワークライフバランスを捨てて、ぜひ挑戦したいと思います。
以上)取材 2025年7月
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