マニエル死球事件の「真相」とは メディアに〝あること、ないこと〟さんざん書かれました 話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<19>

死球を与えた近鉄のマニエルさん(右)に謝罪(左) =昭和54年
死球を与えた近鉄のマニエルさん(右)に謝罪(左) =昭和54年

《現役生活も終盤を迎えた昭和54(1979)年6月9日、日生球場(大阪市)での対近鉄戦五回裏…。野球の神様は八木澤さんにもう一つ、とんでもないドラマを用意していた。〝相手役〟は「赤鬼」のニックネームを持つ190センチの主砲・チャーリー・マニエル氏》

(死球の瞬間)ボクが思ったのは「えっ? なんで(チャーリーは)よけないの?」。

《八木澤さんが投じた内角高めのストレートはマニエル氏の顔を直撃。下あご粉砕骨折の大けがだった。この時点でマニエル氏は打率・371、本塁打24本と絶好調。「(それゆえに)狙われた」などとマニエル氏が発言したため、大騒ぎに》

故意に狙った(死球)なんてとんでもない。ボクとしては考えていたところから〝ボール1個分〟中へ入った感じでした…。それまでボクは彼にあまり打たれていなかったしね。

チャーリー(マニエル)は、いつもちょっと後ろに下がって構えるんだ。だから胸元へ投げやすいんです。キャッチャーはそこの(内角)〝高め〟を要求してきた。ボクとしては少々、中へ入ってしまったけれど、思い通りのところへ投げたつもりなんですよ。ところが相手がそこへぐっと踏み込んできて、アッと思ったときには…。

ボクがまず思ったのは、「相手側のサインの読み間違え」か? というのも当時、大きな声では言えないけれど、どのチームも(センターから相手バッテリーの)サインを盗むことをやっていたから。もうひとつは球場の照明の影に入ってしまい、ボールの行方を見失ってしまったのか? それぐらい当たったことが意外だったのです。

チャーリーは血まみれになったあごを手で押さえながら、ガーッとボクの方を振り返った。そして3、4歩、マウンドに向かってきたのですが、ひざを折って倒れてしまう。

《当時の近鉄はマニエル氏の打棒に引っ張られる形でパ・リーグ前期(当時は2シーズン制)の首位を快走中》

ボクは、ベンチから飛び出してきた西本さん(※幸雄氏。近鉄監督)に向かって「監督、すいません」と謝ったけれど、西本さんは激高。「おまえ、こんなことやりおって!」と怒りが収まらない様子でした。

《この死球で骨折したマニエル氏は8月に復帰。顔に、アメリカンフットボール用を改造した「フェースガード」を着け、話題になった》

彼が復帰してからボクは、近鉄のベンチにチャーリーを訪ね、謝罪にいったんです。「(死球を)ぶつけてしまったことは本当に申し訳なかった」。ただ「狙ったなんてことは絶対にない」と通訳を交えて説明しました。だって、当時のメディアには〝あること、ないこと〟をさんざん書かれていましたからね。ほとんどが批判です。ボクは読まなかったけど…。

チャーリーはボクの説明を黙って聞いていた。雰囲気は険悪で、とてもじゃないが、握手するようなムードはありません。ただね、彼は最後にひとこと「OK!」と言ってくれた。ボクとしては「分かってくれた」と思いましたね。

《復帰したマニエル氏はそのシーズン、37本塁打をマークし、パ・リーグのホームラン王。近鉄は悲願の初優勝を飾り、マニエル氏がMVPに》

その後、チャーリーとの対戦ですか?

一度もありませんでしたよ。それに、ボクはそのシーズンを最後に引退してしまいましたからね。 (聞き手 喜多由浩)

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