阪神は4日、監督として1985年に球団史上初の日本一に導いた吉田義男さんが3日午前5時16分、脳梗塞(こうそく)のため亡くなったと発表した。91歳だった。現役時代も阪神ひと筋で17年プレーし、華麗な守備で「牛若丸」と呼ばれた。1年目から遊撃のポジションを不動のものとし、2年目に盗塁王を獲得。指揮官としては計8シーズン率いた。背番号23は永久欠番。京都弁で親しまれた「よっさん」が天国に旅立った。
「牛若丸」と呼ばれた吉田さんが旅立った。昨年11月30日、阪神OB総会が最後の公の場。新OB会長に就任した掛布雅之氏を励ますなど、元気な姿を見せていたが、12月には入院生活を送っていた。今年1月には、甲子園の公式戦にファンを招待する「吉田義男シート」の設置を発表。「球団創設90周年を記念して、長年応援してくださっているファンの皆さまに感謝を伝えたい」との思いを形にしたばかりだった。
プレースタイルは「守備の人」だった一方、性格は「攻撃の人」だった。75年に阪神監督就任。77年に辞任も、85年に復帰すると、4月の巨人戦で伝説のバックスクリーン3連発を放ったバース、掛布、岡田のクリーンアップを軸に猛虎打線を形成。打率は前年の2割6分4厘から2割8分5厘と上昇し、本塁打は165本から球団初の200本超となる219本に増えた。
積極采配でチームをけん引。左腕の福間納が巨人・原辰徳にサヨナラ本塁打を浴びたが、翌日のピンチで原を迎えた際も福間に勝負させ、一日でよみがえらせた。同年に21年ぶりのリーグ優勝を果たし、全国的なフィーバーに。日本シリーズでは現役時代のライバルで巨人の遊撃手だった広岡達朗監督が率いる西武を破り、球団史上初の日本一に輝いた。興奮のあまり、大阪・ミナミの戎橋から道頓堀川へダイブする人が続出し、警察も出動するなど社会現象となった。
現役時も虎ひと筋。167センチ、56キロと小柄だったが、遊撃守備は現在でも史上最高と評される。俊敏さを称賛したフレーズが「捕るが早いか、投げるが早いか」。グラブで捕球した時には、もう送球したように見えるほどの早業だった。
打撃も研究熱心で、小柄な大リーガーを参考にバットを寝かせた構えからミート打撃を身につけた。400勝投手の金田正一の“天敵”。大柄な金田を悩ませるさまは、弁慶をひらりひらりと苦しめた牛若丸のようだった。64年には初の打率3割(3割1分8厘)をマークし、自身2度目のリーグ優勝に貢献。ベストナイン9回、オールスター出場13回の功績をたたえられ、背番号23は永久欠番となった。
17年間で1864安打、350盗塁、900得点。92年に野球殿堂入りした後も、フランス代表の監督を務め、野球の国際化に貢献。「ムッシュ」(仏語の男性への敬称)と呼ばれた。97年には3度目の阪神監督に就任するなど、挑戦をやめなかった。
猛虎愛を貫き、「よっさん」と愛され続けたレジェンド。その輝きは、いつまでも色あせない。
◆吉田 義男(よしだ・よしお)1933年7月26日、京都市生まれ。山城高2年夏に甲子園出場。立命大を中退して53年に阪神入団。54年に51盗塁で初タイトル獲得。56年も再び盗塁王。通算2007試合で打率2割6分7厘、66本塁打、434打点。264犠打は球団記録。球団で唯一、3度監督を務めた。現役時代は167センチ、56キロ。右投右打。