《先の大戦末期にあたる昭和19(1944)年12月1日、日光街道の宿場町だった栃木県今市(いまいち)町(※当時。今市市を経て現在は日光市)で生まれた》
生家は農家です。おやじ(善吉=ぜんきち=さん)は、家業のかたわら、栃木県の県会議員や今市の市長(※昭和31~39年)を務めていました。ボクが小学校高学年から大学2年生までは、ずっと市長をやっていたかな。
ボクは10人きょうだいの9番目、六男です。長男とは20歳違うから、そっちが〝お父さん〟みたい。自宅は敷地が100坪くらいあった大きな家でした。そこに一番多いときで家族13人が一緒に暮らしていましたね。
だから、ごはんも2回に分けなきゃいけない。まるで〝1軍、2軍〟みたいにね(苦笑)。おふくろ(キチさん)は天真爛漫(らんまん)な人だったけど、子育ては大変だったでしょう。
《「荘六」という名前は、父・善吉さんが好きだった明治の軍人、川上操六(そうろく)(※1848~99年。薩摩藩出身。陸軍大将で参謀総長など歴任)にちなんで名付けられたという》
それがねぇ、ボクがちっちゃいころは兄たちから別の名前(※「あきら」)で呼ばれていたんですよ(苦笑)。だから戸籍名が「荘六」だと知ったのはしばらくたってから。その経緯は今も知りません。おやじが川上操六さんのどこを気にいったのか、って? それもよく分かりませんねぇ。「(荘)六」は六男だからでしょうな。兄たちも五男を除いてみんな名前に数字が付いてますから。
上の兄たちとは年が離れてるのできょうだいげんかをした記憶はほとんどありません、というかけんかにならない。むしろかわいがってもらったかな。おやじは温厚な性格で怒ることはめったになかったけど、きょうだいでも「下」の方だったボクにはもう〝ノータッチ〟ですよ。
《小学校時代はソフトボールをやっていた。本格的に野球を始めたのは今市中学で軟式の野球部に入ってから》
小学校の3、4年生のころかな。自宅の蔵の壁でボールをぶつけてひとりで遊んでいた。だんだん投げる距離を長くしていって、十数メートルも投げられるようになった。それが面白くてねぇ。これがボクの「野球の原点」でしょうか。
当時は、野球がボクら少年たちにとって一番の人気スポーツ。中学では野球部に入りましたが、軟式しかありません。部員は30人くらいいたでしょう。最初のポジションはファースト。しばらくすると監督さんから呼ばれて「八木澤はピッチャーに向いている。やってみろ」って。それからずっとピッチャーですよ。投げることが面白くて仕方なかったですね。
打つ方ですか? こっちはダメでしたねぇ。打順も7番か8番。当時の体格は身長167~168センチ(プロ野球当時は172センチ)だったかな。ボクより大きい選手もいましたよ。
《中学当時からコントロール抜群。カーブ、シュート、スライダーの変化球もそのころから投げていたという》
変化球の投げ方は野球の本を見ながら、自分で覚えた。そういう意味ではボクに〝お師匠(しょ)さん〟はいません。
ボクは3年生でエースになりました。そのときのチームは強かったですよ。栃木県の大会で決勝まで行きましたから(※結果は準優勝)。
《県大会準優勝のエースピッチャーとして「今市中に八木澤あり!」と県内の野球関係者にその名が知れ渡る。高校進学を前に「誘い」が来た。それが作新学院(宇都宮市)だった》(聞き手 喜多由浩)