柴田勲投手と投げ合って自信に 甲子園? 「大きな球場だなぁ」って 緊張はなかったかな

話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<5>

作新学院では早くからエースとして活躍
作新学院では早くからエースとして活躍

《作新学院(宇都宮市)は同校のホームページによると、明治18(1885)年、下野(しもつけ)英学校として、船田兵吾氏らによって創設された》

ボクの中学(今市=いまいち=中)に作新学院の院長先生が誘いに来られたんですよ。当時理事長だった船田中(なか)先生(※衆院議長などを歴任)の妹さんでした。

条件は授業料免除の特待生だったようですが、これはボクのオヤジ(善吉=ぜんきち=氏)が断った。当時すでに今市市長を務めていましたから「市長の息子が授業料免除はダメだ」って…。だから、授業料はちゃんと払っています(苦笑)。

オヤジは政界にいましたので、(栃木県の大物政治家である)船田先生とは親しかった。そういう関係もあって作新学院を選んだのかもしれません。

《作新学院野球部は今や夏の甲子園2回、センバツ1回の優勝を誇る全国区の名門校だが、八木澤さんが入学したころ(昭和35年)はまだ、甲子園出場経験1回(33年夏)のみ》

当時の夏の甲子園の代表枠は隣の群馬県と一緒だったかな。そこを勝ち抜かないと代表になれない。県内でも宇都宮工(※34年の夏の甲子園で準優勝)、宇都宮商などの強豪校がいましたね。その中にあって作新学院も一応、栃木県勢の「上」の方にはいたと思います。

野球部のOBには下野中学(旧制)時代の天知俊一(あまち・しゅんいち)さん(※29年、プロ野球、中日ドラゴンズ日本一の監督)、ボクの1級上には、島野育夫(しまの・いくお)さん(※プロ野球、南海、中日などで活躍。阪神、中日でコーチも務めた)がいます。

島野さんは当初、ピッチャーでした。肩が強くて剛速球を投げていたのですが、コントロールがよくない。そこで(当時の指導者だった)山本理(おさむ)先生が島野さんを野手にコンバートして成功したんですよ。

ボクは最初からピッチャー。ただし、硬球を握ったのは初めて。「重さ」に慣れるのにしばらくかかったかな。でも、練習が厳しいと感じたり、やめたいと思ったりしたことは一度もないんです。とにかく投げることが好きで、ずっとブルペンで投げ込んでいましたから。山本先生の指導法もどちらかといえば「放任主義」。うるさく言われなかった。そのやり方がボクには合っていましたね。

《当時の高校球界は「超高校級」と騒がれた柴田勲(しばた・いさお)投手(※後にプロ野球、巨人で、俊足巧打のスイッチヒッターとして活躍)擁する法政二高(神奈川)が35年夏と36年春の〝夏春連覇〟。同校と甲子園で3度激闘を演じた〝怪童〟尾崎行雄(ゆきお)投手(後にプロ野球、東映=後に日拓)の浪商(なみしょう)(大阪、36年夏には、同校が優勝)などが強かった》

柴田さんはボクの1級上、尾崎は同学年でした。柴田さんはコントロールがいい投手で打つ方でも主軸。加えてあの〝甘いマスク〟でしょう。すごく騒がれて、関東ではピカ一の大スターでしたね。

その柴田さんとは水戸市で開催された関東大会で〝2試合〟投げ合ったことがあります。2試合とは、最初のゲームが延長十二回で日没引き分け。翌日の再試合はボクが二回からのリリーフ。チームは敗れたが、あの柴田投手と互角に投げ合ったことはすごく自信になりました。

チームでは早くからエース格になって、2年春のセンバツに出場。チームは2回戦で負けました。

甲子園ですか? 「すごく大きな球場だなぁ」って感じましたよ。何しろ、それまで地方球場しか知らなかったので(苦笑)。緊張はしなかったな。だって、ちゃんとストライクが取れたもの。(聞き手 喜多由浩)

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