史上初の春夏連覇も「カヤの外」 優勝逃したら宇都宮に帰れなかった、野球やめるしかない

話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<7>

作新学院の「春夏連覇」を報じた昭和37年8月22日付サンケイ新聞栃木版
作新学院の「春夏連覇」を報じた昭和37年8月22日付サンケイ新聞栃木版

《史上初の甲子園「春夏連覇」がかかった昭和37(1962)年夏の大会。エースの八木澤さんは大会直前、思わぬアクシデントに見舞われる》

栃木から甲子園に向けて出発する前日、練習も休みだったので実家に帰ったのです。きょうだいが7、8人くらい激励に集まってくれていたかな。

夏だから、かき氷を食べたのですよ。思い返せば、あれがよくなかったんだと思いますね。(学校がある)宇都宮に戻って、次の日に出発。もうそのときは体の調子がおかしかった。列車で移動中に下痢が止まらない。ただ、そのうちに治るだろうと考えて、部長や監督さんには言いませんでした。

《当時、甲子園の地元である関西で、感染症が発生、他県から来る選手には予防接種を義務付けることに》

予防接種の場所でボクが何げなく「下痢が続いている」と言うと、医師はびっくり。予防接種は中止して、検便をさせられました。結果が出るまでに時間がかかるのでボクは宿舎に戻り、練習にも参加。翌日の開会式にも出たのです。

ところが、しばらくすると、ボクは呼び出された。白衣を着た人が3、4人いて「赤痢なので隔離します」って…。そのまま病院の隔離病棟にひとり、入れられました。「大会はどうなるんだろう」って不安で仕方なかったですよ。

でも騒ぎは大きくなるばかり。作新の出場辞退まで取り沙汰されました。ボクは「チームに迷惑をかけてしまった」と悔やみ、一時は野球部を辞めることまで考えましたね。

その後、チーム全員の検便を行った結果、かかっていたのは「ボクひとりだけ」と分かりました。作新の試合日程をずらした上で、チームの大会出場はかなうことになったのです。

ボクは相変わらず、下痢が続き、30分置きにトイレに通うありさまで、寝ることもできないし、食事もできない。そのころには発熱もあったかな。途中から両親と姉が病院に駆けつけてくれましたが、隔離病棟なので見舞いもかないません。結局、おふくろが感染覚悟で病室に入ってくれたのですが…。

《入院は約1週間に及んだ。体調は次第に回復し、一度はあきらめかけた大会出場への思いが募ってくる》

病室内でひそかにトレーニングをしたり、院長先生に頼んで検便の再検査の結果を急いでもらったり。体調が回復してくれば「できれば出たい」と思うでしょ。そして、再検査の結果は「陰性」。大会の出場もOKになって途中からベンチ入りを許されました。

準々決勝の岐阜商戦では途中まで作新が大きくリード。指揮を執っていた山本(理(おさむ))先生から「投げてみるか?」と言われたのですが、ぐっと堪(こら)えて断った。ボクに代わってマウンドに立った加藤(※斌(たけし)氏、後にプロ野球、中日)の調子がすばらしくて、その流れを壊したくなかったからです。

《作新学院は加藤さんの好投に加え、センバツでは沈黙した打線が爆発。準決勝では優勝候補の中京商(愛知)を破り、決勝では久留米商(福岡)に1―0で勝って、史上初の「春夏連覇」を成し遂げる。ただ、八木澤さんは最後まで出場することがなかった》

さびしいとか、悔しいという思いはなかったですね。それよりもチームメートががんばって優勝してくれたことがうれしくて、うれしくて…。優勝を逃していたら、もう宇都宮には帰れなかった。野球もやめるしかない。それくらい悲壮な覚悟で試合を見守っていたのです。(聞き手 喜多由浩)

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