早すぎたチームメートの死 冬の日光街道で事故 一緒にがんばってきた「仲間」「同志」

話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<8>

 昭和37年夏の甲子園で優勝投手となった加藤斌さん(右、中日時代)
昭和37年夏の甲子園で優勝投手となった加藤斌さん(右、中日時代)

《昭和37(1962)年、作新学院(宇都宮市)は史上初の「春夏連覇」を達成。凱旋(がいせん)したチームを迎える地元は春以上のフィーバーに沸き立つが、急病のために、出場機会がなかった八木澤さんは…》

もう、後ろの方に隠れていましたよ。だって晴れがましい場でボクの出る幕はないじゃないですか。だから、引っ込んでいました(苦笑)。

もちろんチームの優勝はうれしかったし、ホッとしたことは間違いありません。ボクが病気になったせいでチームが負けていたら、申し訳なくて野球をやめる覚悟をしたことは前回(7日付)話しましたよね。

そして、さぁ、今度は秋の国体(※国民体育大会、現・国民スポーツ大会)で「三冠」を目指すぞ、って、気持ちを切り替えたんですよ。実際には三冠どころか、早々に敗れてしまいましたけどね…。

《夏の甲子園で優勝投手となったのは、それまで控え投手だった加藤斌(たけし)さんだった》

加藤は180センチを超す長身でね。1年生のときは上から投げるオーバースローだったが、コントロールが定まらない。そこで山本先生(※理(おさむ)氏、作新学院の部長、監督を歴任)が「横から投げてみろ(※サイドスロー)」とアドバイスして、グンとよくなったのです。

加藤の武器は、鋭く打者の懐へ食い込んでくるシュート。ボクのシュートはちょっとしか曲がらないけれど、加藤のそれは、打者が「来たな」って思う瞬間には大きく曲がって中へ入ってくるから打てない。

夏の大会は、打つ方もがんばったが、優勝できた最大の要因はもう「加藤がよかったこと」に尽きるでしょうね。

《この夏の作新学院は初戦の気仙沼(宮城)戦こそ接戦だったが、続く慶応(神奈川)戦と岐阜商戦を大差で撃破。加藤さんはこの大会で優勝候補だった中京商(愛知)を準決勝で完封、決勝の久留米商(福岡)戦も0点に抑える》

もしもボクが元気で(春のように)投げていたらどうなっていたかって? まぁ、勝てたのかもしれませんが、それは分かりませんねぇ。

加藤とは、チーム内での「ライバル」でしょうか。1年のときから一緒にがんばってきた「仲間」「同志」でもある。

夏の大会まではボクが主に投げていたけれど、常に2人で切磋琢磨(せっさたくま)してきた。互いに追いつけ、追い越せですよ。敵のチームにいるライバルとはまったく違いますね。このときのチームは仲がよかった。チームワークのよさも優勝できた要因のひとつじゃないですか。

《大活躍した加藤さんには複数のプロ野球球団から誘いが来た。その中から加藤さんは中日ドラゴンズを選ぶ。ルーキーの年(38年)に初勝利を挙げ、翌年も2勝。将来を嘱望されたが、2年目のシーズン終了後の正月休みに悲劇が襲う》

正月に地元へ帰り、日光街道(栃木)で自分の車を運転していて、事故を起こし亡くなってしまいました。道路が凍結していたとか、スピードを出していたとか、聞きましたが…。作新学院の仲間の集まりの帰りだったそうで、助手席の同期生も大ケガを負いました。

加藤はまだ20歳だったんです。早すぎますよ。悔やんでも悔やみきれません。

《春夏連覇を達成したチームからは、加藤さんのほかにもプロに進んだ同期生がいたが、八木澤さんはプロへの思いを封印して早稲田大進学を選ぶ。大学では高校時代を上回る「猛練習」が待っていた》 

(聞き手 喜多由浩)

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