《昭和37(1962)年、甲子園で作新学院が「春夏連覇」の偉業を史上初めて達成したが、八木澤さんは赤痢のため夏の大会の出場がかなわなかった。八木澤さんはプロ野球への思いを一時〝封印〟して早稲田大への進学を決める》
当時の東京六大学野球は人気も、実力もすごかった。どんなカードでも3万人以上の観衆が集まったし、早慶戦ともなれば5万人以上入ったでしょう。神宮球場の外野席は今ではイス席に変わりましたが、当時は芝生。だから、立ち見のままぎゅうぎゅうに詰め込んでいく。
ボクが高校1年生のときに、伝説の「早慶6連戦」(※35年秋、優勝が決まらず6試合目で早稲田が優勝)があって、社会現象になったくらい。早稲田大のエースで連投に次ぐ連投だった安藤元博さん(※後にプロ野球、東映など)らの活躍をワクワクしながら見守っていたことを覚えています。
ボクらの時代になっても早慶戦での歓声はけた違い。甲子園(高校野球)の大声援とはちょっと違って、(早・慶の応援団が陣取る)内野スタンド両側からグーッと押し寄せてくる感じかな。その大迫力の中で、投げられる喜び、といったら、ほかにはありません。
《八木澤さんが入部した38年、2学年上には、江尻亮(えじりあきら)さん(※同、大洋など)、石山建一さん(※早大監督、社会人プリンスホテル監督やプロ野球、巨人の編成本部長補佐など歴任)。同期には、西田暢(とおる)さん(※後にプロ野球、中日)らがいた》
新入部員だけで70~80人はいたでしょうか。(野球の技能で選抜される)セレクションのほか、一般入試で入部してくる部員もいました。ただ、初めは人数も多いのですが、時間がたつにつれて、どんどんやめていくんですよ(苦笑)。
というのも、新入部員には、入部して最初の1週間、「安部球場(※初代の野球部長、安部磯雄(いそお)氏の名を冠した早稲田大野球部の本拠地。当時の早稲田キャンパスから、現在は東伏見に移転)を100周」の〝伝統の猛練習〟が課せられます。
野球部の練習についていける体力があるか、どうかを見極める目的と、当時野球部員が100人以上もいて、一緒にはグラウンドに立てないからでしょう。「100周」についていけない新入部員はやめるしかありません。
ボクですか? 走ることはまったく苦にならなかった。ボクを含めて新入部員の中に3人、走るのが得意なヤツらがいて、いつもトップを競っていたくらい。とにかく、大学の野球部の練習は、質・量とも高校時代とは次元が違いましたね。
《八木澤さんは新入部員として異例となる1年生春のリーグ戦・早慶戦に出場した》
ボクは投手としては体が小さい(※身長172センチ)けれど、コントロールがよいところを見込まれた。これで(大学野球でも)何とかやれるかな、と自信を持ちましたね。
(早稲田大時代は)毎日、300球から500球の「投げ込み」をやりました。それによって肩や肘を痛めたことはまったくありません。投げ込みでボクが気を付けていたことは全力で速いボールを投げるのではなくて、コントロール重視で緩い球を投げ続けること。
投球フォームさえちゃんと正しくしていたら何球投げても大丈夫。投げ方というのはすごく大事なんですよ。今のピッチャーは腹筋や背筋を鍛えるためのウエートトレーニングを、よくやっていますが、ボクらのころはやらなかった。「投げることに必要な筋肉」は投げ込みを行うことでしかつくれない、というのがボクの持論です。(聞き手 喜多由浩)