「関白さん」就任で早稲田復活 監督命で新幹線食堂車の「カレーを全部平らげた」は大ウソ

話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<10>

早大時代。石井藤吉郎監督(手前)と八木澤さん(後ろ右側)
早大時代。石井藤吉郎監督(手前)と八木澤さん(後ろ右側)

《早稲田大2年の昭和39(1964)年、監督が石井連蔵(れんぞう)氏(※監督を2度務め、令和2年野球殿堂入り)から石井藤吉郎(とうきちろう)氏(平成7年同)に代わる。当時チームは低迷。日本中を熱狂させた「早慶6連戦」(35年秋、6試合目で早稲田が優勝)以来、優勝から遠ざかり、6シーズン連続でBクラスに甘んじていた。藤吉郎・新監督にチーム再建が託される》

ボクが新入生の年(38年)、早稲田は春、秋とも5位。当時の戦力がどうだったのか、下級生だったボクにはよく分かりません。ただ、チームの状態がよくないときというのは、何をやっても打てなくなるし、投げては打たれるという〝負の連鎖〟に陥ってしまう。

結局、成績不振の責任を取る形で、その年(38年)を最後に連蔵監督は辞任されました。

《藤吉郎・新監督は大正13年生まれ。水戸商(旧制)から早稲田大。181センチの長身投手、好打の野手として活躍したが、召集され、シベリア抑留で辛酸をなめる。監督に就任したときは野球を離れて、茨城県で家業の旅館を継いでいた》

連蔵監督と藤吉郎監督。同じ「石井」姓で、出身も同じ茨城県…。でも、指導者としてのタイプがまったく違った。

連蔵監督は、早稲田伝統の「猛練習」「精神野球」で選手を鍛えてゆくタイプ。グラウンドでは腕を組んだまま、じっと練習を見ていて、余分なことは言わない。ときおり、口を開くときは強い調子で叱咤(しった)されるものだから選手は緊張する。1年生のボクなんか、ほとんど口もきけなかった。威厳はすごくありましたよ。

それが、藤吉郎監督になってからは「なごやか」になったというか、選手との距離がぐっと近くなった気がします。

お酒が好きで、選手を行きつけの焼き鳥屋さんに連れて行ってくれたり、安部寮(早稲田大野球部の寄宿寮)でも、よく将棋をさしたり、していた。水戸弁で、よく話もされたが、野球の話はあまりせず、四方山(よもやま)話が多い。まぁ怒ることはめったになかったなぁ。

かといって練習がラクになったとか、楽しんで野球ができるようになったというのは「誤解」ですよ。藤吉郎監督も練習では、バッティングケージの後ろに陣取って、いつも熱心に見守っていたし、指導の方法も実は「的確な指摘」が多く、選手は、ためになりました。

しかも選手の自主性を尊重するやり方なので江尻(えじり)さん(※亮(あきら)氏、八木澤さんの2級上、早稲田大では投手と打者、両方で活躍。後にプロ野球大洋など)のようにそれがうまくハマって活躍した選手も多かったね。

《藤吉郎監督が就任した最初のシーズン(39年春)、早稲田大はいきなり優勝を飾り、見事に復活を遂げる》

2人の監督は、それぞれの持ち味があったし、どっちが「良いとか悪い」とかの問題ではありません。

ただ、それまで緊張することが多かった選手が藤吉郎監督になってリラックスできた部分はあったのかもしれないね。

《藤吉郎監督のニックネームは「関白(かんぱく)」さんだった(※関白・豊臣秀吉の以前の名=木下藤吉郎にちなむ)》

選手は「関白さん」なんて呼べませんよ。でも、ボクらの上級生は親しみを込めて「オヤジさん」なんて呼ぶことがあったかもしれません。

そうそう、ある遠征でボクが藤吉郎監督の命で新幹線食堂車の「カレーを全部平らげた」なんて話がまことしやかに伝わったことがありますが、これは大ウソですからね(苦笑)。(聞き手 喜多由浩)

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