田淵、高田、星野…六大学の好敵手 監督から交代を命じられてもボールを渡さなかった投手

話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<11> 

法政大時代の田淵幸一選手(打者)と対決する八木澤さん(投手)
法政大時代の田淵幸一選手(打者)と対決する八木澤さん(投手)

《早稲田大3年になり、同大のエースナンバー「11」をつけ、主戦として活躍する》

ボクは大学4年間で24勝していますが、このうち3、4年で20勝を挙げました。在学中の優勝は3度。中でもボクが7勝をマークした3年秋のシーズンは特に印象深いし、最後の4年秋は、石井藤吉郎(とうきちろう)監督に命じられて主将をやったので、こちらも思い出に残っています。

部長、監督に次いであいさつの場に立ったり、(優勝校に与えられる)天皇杯を受け取ったり、もしましたねぇ。

ボクが4年のときに、新入生として、谷沢(やざわ)(※健一氏、後にプロ野球、中日で首位打者2度に輝く)、荒川(※堯(たかし)氏、同ヤクルト)、阿野(あの)(※鉱二氏、同巨人)らが入ってきて、戦力的にも充実していた。この世代は後に7、8人がプロに入ったんじゃないかな。いわゆる「黄金世代」ですね。

《これに先立つ昭和40年12月、フィリピン・マニラで開催されたアジア野球選手権大会の派遣メンバーに選出。チームの選手は、東京六大学野球の選抜で、監督は早稲田大の石井藤吉郎氏が務めた》

2級下の法政の田淵(※幸一氏、同阪神など)、1級上の慶応の江藤さん(※省三氏、同巨人など。慶応大監督も務めた)、やはり慶応の広野さん(※功氏、同中日など)、明治で1つ下の高田(※繁氏、同巨人。日本ハムなどの監督も歴任。大学時代の通算127安打は長く東京六大学記録だった)らが一緒で、皆すっかり仲良しになったもんです。

大会は、フィリピンや韓国、台湾(※当時は中華民国)、そして日本の4チームが参加して行われましたが、日本チームが5勝を挙げて優勝。そのころはまだ他チームと実力の差があった時代だったと思います。

ただ、当時のフィリピンは治安が良くなくて。勝手に出歩くといきなり「(銃で)ズドーンとやられるぞ」なんて脅されたものだから、期間中はほとんどホテルと会場の往復だけだったのは残念でしたねぇ。

試合では、田淵とバッテリーを組みました。的が大きくて(※田淵氏は186センチ)投げやすい。リードもキャッチングもうまかった。いいキャッチャーだと思いました。当時は体も〝細かった〟ので、足も速かったしね(苦笑)。

《そのころの法政大は「打」では、後に六大学新記録(当時)となるホームラン22本をマークした田淵さんと、同級の山本浩二さん(※後にプロ野球、広島、監督も)、富田勝(まさる)さん(※同、南海など)の〝三羽がらす〟、「投」では、東京六大学記録の通算48勝を誇る、山中正竹さん(※八木澤さんの3級下。後に社会人野球、住友金属)らが活躍していた》

田淵には、そんなに打たれた記憶はないんだけどねぇ。法政では、長池さん(※徳士氏、同プロ野球、阪急でホームラン王3度。八木澤さんの1級上)によくやられましたね。

でも大学時代で一番打たれたのは、やはり、明治の高田かな。大きいの(ホームランなど長打)はあまりないんだけど、とにかくバッティングはうまいし、足は速い、守備もすごい。走攻守三拍子そろった、すごくいい選手でした。

明治といえば、田淵らと同級だった星野(※仙一氏、同中日、監督も)も印象に残っている。ある日の対戦で、明治の島岡監督(※吉郎(きちろう)氏。〝御大(おんたい)〟と呼ばれ、明治大野球部の監督を長く務めた)から交代を命じられた星野がマウンドでボールを渡さない。「交代はイヤだ」という意思表示です。まぁ、大学当時から「強気」でなるピッチャーでしたねぇ。(聞き手 喜多由浩)

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