東京六大学100周年 早慶戦のマウンドはいいねぇ もっと高いと思ってたけど錯覚かなあ

話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<12>

早慶戦で始球式を務める =2日、神宮球場(田村亮介撮影)
早慶戦で始球式を務める =2日、神宮球場(田村亮介撮影)

《今年は、東京六大学野球連盟が結成(大正14年)されて100周年にあたる。さまざまな記念事業が行われ、2日の早慶戦では八木澤さんが始球式に登板。30人のレジェンドの「大トリ」を飾った》

始球式は、高校野球の栃木県予選でやって以来で、久しぶりだったねぇ。体が動くかどうか、心配だったので、プロ野球の球団の室内練習場を借りて、キャッチボールの練習を数カ月前からやってました。

当日も(早稲田大の)小宮山(こみやま)監督(※悟(さとる)氏、日本のプロ野球、ロッテなどで通算117勝、米大リーグにも在籍)自ら、ベンチの前でキャッチボールの相手を務めてくれました。

もちろん、昔のスピードなんか出ませんよ。キャッチャーに届けばそれで十分。球種ですか? 始球式のときはいつも「シュート」を投げると決めていた。なぜならば、ボクにとってそれが一番、ストライクが取りやすい球だから。

ところがねぇ、マウンドに立って、いざシュートを投げようとしたら、指の具合がよくなくて「真っすぐ(ストレート)」になっちゃった(苦笑)。ストライクを投げたつもりだったけど、ちょっとキャッチャーの前でワンバウンドしたかな。

《八木澤さんが早慶戦のマウンドに立つのは約60年ぶり(※昭和41年の早大4年以来)のこと。ユニホームの背番号も4年時の「10番」だった》

やっぱり早慶戦の雰囲気はよかったなぁ。昔と変わらず、すごい歓声でした。

ボクの記憶では、もっとマウンドが高かったと思っていたけれど、まぁ「高さ」がそうそう変わるわけがないから、ボクの錯覚ですかねぇ(苦笑)。

《伝統の早慶戦は、連盟結成よりも古い歴史を持つ。今から122年前の明治36(1903)年に最初の対戦が行われ、記念すべき第1戦は慶大が勝利を収めた。それ以降、中断された時期もあったが、往時にはプロ野球をはるかに上回る人気を集め、幾多の名勝負でファンを沸かせてきた》

ボクが高校野球の夏の甲子園(昭和37年)では急病(赤痢)のため、試合には出られなかった(ベンチ入りのみ)ことは話しましたよね。

もしも、夏の大会で活躍していたら、すぐにプロ入りして、早稲田大には行かなかったと思う。チームメートにはすぐプロ入りした選手もいたが、(夏に投げられなかった)ボクには誘いナシ。そのことで悔しい思いをしたことはありません。

それは早慶戦へのあこがれが強かったこともありますね。以前も触れた伝説の「早慶6連戦(※優勝が決まらず、第6戦までもつれ込み、早大が優勝)」はボクが高校1年生(35年)の秋。神宮球場には計40万人近いファンが殺到したらしい。当時の早慶戦といえば〝国民的関心事〟でしたからね。

ボクは幸運にも、1年生の春から早慶戦で投げることができました。というのも、早慶戦にルーキーが登板することなどめったにない。聞けば、戦前の小川正太郎さん(※1910~80年、早大入学は昭和4年。「早稲田の至宝」と呼ばれた左腕)以来、というんですからねぇ。

早慶戦のマウンドに上がってみたら、いつもの試合とは雰囲気がまったく違う。当時の神宮球場は5万人以上入ったでしょう。外野の観客席はイスがなくて芝生だったので立ち見のままどんどん詰め込む。その大観衆が、早慶の真っ二つに分かれて声援を送るのだから、すさまじいことといったらもう。

ボクは早稲田大へ進学してよかったと思う。技術向上のみならず、真の意味の「野球」ができたからです。(聞き手 喜多由浩)

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