《昭和41(1966)年のプロ野球ドラフト会議。東京オリオンズ(※ロッテオリオンズを経て、現千葉ロッテマリーンズ)に1位指名される》
ボクは大学(早稲田)の3年生くらいからプロへ行く決意を固めていた。3、4年で20勝を挙げ、プロでやる自信めいたものができましたしね。
家族に相談? まったくしませんでした。オヤジ(※栃木県今市(いまいち)市長を務めた善吉(ぜんきち)氏)とおふくろ(※キチさん)は神宮球場に応援に来てくれていましたが、おふくろの方は、そもそも野球をよく知りませんしねぇ(苦笑)。ドラフト会議前になって初めて、プロ入りの希望を伝えたかな。両親は反対をせず、喜んでくれました。
この年(41年)のドラフトは、高校生・社会人の第1次(※9月実施、国体出場者は除く)とボクら大学生と国体出場者の第2次(※11月実施)の2回に分けて行われました。選手側への事前のあいさつや下交渉は禁止されており、伝わってくるのは〝新聞情報〟くらい。
だから、どこの球団が指名してくれるのか、まったく分からなかったけれど、ボクの希望は「在京球団」。というのも、幼いころからボクは、巨人一辺倒。かといって圧倒的に強く、人気もある巨人(※当時、V9の2年目)でやれるとは思わない。せめて「同じ東京」の球団で、と願ったわけですよ。
《八木澤さんは、東京のほか、大洋ホエールズ(※現横浜DeNAベイスターズ)と東映フライヤーズ(※同北海道日本ハムファイターズ)の3球団が競合指名した》
3球団とも首都圏が本拠地ですから、ボクはどこでもよかった。セ・パ(リーグ)の人気の違い? そのときはまったく気になりませんでしたねぇ。結局、東京に決まりました。
フランチャイズは、東京・南千住にあった「東京スタジアム(球場)」。米大リーグ、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったキャンドルスティックパークをまねてつくられた新しい球場で、内野スタンドには2階があった。外野は、ふくらみがなくてホームランが出やすく「ピッチャー不利」ともいわれましたが、ボクは好きな球場でしたね。
《当時のオーナーは映画会社大映社長の永田雅一(ながたまさいち)氏。ニックネームは〝永田ラッパ〟。そのワンマンぶりでマスコミをたびたび、にぎわせていた》
契約を行ったのは大映の本社だったかな? 笑顔の永田オーナーと一緒に撮ったユニホーム姿の写真が残っていますが、会ったのはそのときが初めて。
驚いたのは、契約金の1千万円を紙袋に入れて、その場で渡されたことです。金額は当時の「上限」。ドラフト制度が始まる前の自由競争の時代は、争奪戦が過熱して5千万円もらったという噂も聞きましたが、1千万円でも現在なら1億円くらいになるかな? まぁ、もともとボクは、おカネにあまり執着しないタイプなんですよ。
大金が詰まった紙袋は契約の場に同席していたオヤジが大切に抱えて、トイレに行くときも持っていった(苦笑)。後でちゃんとボク名義の貯金にしてくれたと思いますけど。
《入団時の監督は、プロ野球、阪急(※現オリックス・バファローズ)などで活躍した野手出身の戸倉勝城(とくらかつき)氏》
戸倉さん(の監督時代)は短かった。6月には休養、8月には永田オーナーから解任された。後任監督となったのがヘッドコーチだった濃人渉(のうにんわたる)さん(※プロ野球、中日の監督など歴任)。プロでボクはなかなか勝てなかった。(聞き手 喜多由浩)