観客50人の日も 球団経営難のなか3年目に初勝利 10年ぶりのリーグ優勝にも貢献

話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<14>

オリオンズの本拠地だった東京スタジアム(球場)=昭和37年、東京・南千住
オリオンズの本拠地だった東京スタジアム(球場)=昭和37年、東京・南千住

《八木澤さんと同じ年のドラフト会議(昭和41年)で指名された同期生は阪神の江夏豊(ゆたか)(大阪学院大高)▽夏の甲子園優勝投手で南海の上田卓三(たくぞう)(三池工)▽巨人の槌田(つちだ)誠(立教大)▽大洋は甲子園で戦った松山商出身の山下律夫(りつお)(近畿大)と平松政次(まさじ)(日本石油)各氏らそうそうたる顔ぶれがいた》

江夏は、そりゃあ、すごかったですよ(※高卒ルーキーで12勝をマーク、奪三振王に輝く)。槌田は、飛び抜けた存在ではなかったけれど、いいキャッチャーでしたね。

ボクは入団当初、中継ぎのリリーフでした。起用法に不満はありませんよ。当時のオリオンズには、いい先発ピッチャーがそろっていましたからね。小山さん(正明氏、プロ通算320勝)が健在だったし、成田(文男氏)、木樽(きたる)(正明氏)らすごいメンバーです。

それに、ボクはプロ入りから「3年」をメドにしていたんです。それで芽が出なかったらやめようかって。なかなか勝ち星は挙げられなかったけれど、あせりも失望もなかった。もし野球がダメならば、プロゴルファーに転身しようと、考えていました。ゴルフは15歳のときに始めて、プロ野球に入ってからもオフにはよく、コースにも出ていましたから。

ただ実際には、プロゴルファーになれるほど〝腕前〟が上がらなかった(苦笑)。3年目の44年には初勝利(※44試合に登板し、3勝2敗)を挙げることができたし、球団が契約してくれるなら「もう1年…」と続けることになったのですよ。

《このころのパ・リーグ各チームは観客動員数が減り、経営難にあえいでいた。東京オリオンズも親会社の大映が映画の不振で苦境に陥り、44年からはスポンサーになった菓子メーカーの「ロッテ」を名乗る》

巨人や阪神などの人気球団を持つ、セ・リーグとの格差が広がっていった。お客さんも来ないし、新聞などマスコミも大きく報じてはくれません。

後のことになりますが、川崎球場でのホームゲームのとき、試合開始の午後6時に観客が50人あまりしかいなかったことがあった。もうがっくりですよ。今はパ・リーグにもお客さんがたくさん来るし、立派な球場になりましたけどねぇ。

《それでも翌45年のシーズンにロッテオリオンズは独走し、パ・リーグを制する。投手陣では八木澤さんの翌年に福山電波工(広島)から入団した村田兆治(ちょうじ)さんが加わり、打線ではロペス、アルトマンの〝助っ人〟に榎本喜八(えのもときはち)、有藤道世(ありとうみちよ)、山崎裕之の各氏らが気を吐いた》

ボクは先発と中継ぎでこのシーズンはチーム最多の43試合に登板(5勝4敗)し、優勝にも貢献できたと思います。オリオンズの優勝は、10年ぶり(※35年の大毎オリオンズ時代以来)のことでした。

日本シリーズの相手は、V9時代の巨人。ONを擁した最盛期ともいえる時期で、残念ながらボクらが勝てる気がしなかったことはこの連載の最初の方で話しました。ボクも2試合、リリーフで登板しましたが、結果は1―4で巨人にV6達成を許してしまいましたねぇ。

《46年、大映は倒産し、球団経営から撤退、永田雅一(ながたまさいち)オーナーも退陣する。名実ともにロッテが球団経営を行うことになったが、本拠地の東京スタジアムは他企業に渡り、翌47年閉鎖。最後の年は主催65試合で約31万人しか集まらなかった。チームは主催試合の開催地を求めて、仙台、東京、川崎、静岡などを転々とすることに》

苦しかったね。毎日バスで移動の連続だったもの。(聞き手 喜多由浩)

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