《本拠地の東京スタジアム(球場)が昭和47年に閉鎖、ホームを失ったロッテオリオンズは、日程が空いている各地の球場を転々とすることに。メディアには〝ジプシー球団〟(※定住地を持たない放浪の民族の意味で)と揶揄(やゆ)された》
今日は、仙台(※宮城球場=現・楽天モバイルパーク宮城)、明日は後楽園、神宮、静岡か…。どこで試合をやるのか、よく分からないときもあったから選手は大変ですよ。
まだ、東北新幹線がなかったころで、仙台までは在来線の特急で行くしかない。九州のチームとやるときはいったん羽田空港まで行ってから飛行機。そりゃあ、疲れますよね。
本拠地の球場がないから、選手のロッカーもない。バスの中に皆、野球道具を持ち込んで移動せざるを得ません。相変わらずお客さんは少ないし、テレビ中継される試合もほとんどない。それでもボクは辞めようと思ったことがなかった。〝数少ない〟ファンの応援ぶりがとても〝アツかった〟しねぇ。
《48年からは、ロッテの監督に400勝投手の〝カネやん〟こと、金田正一(まさいち)氏が就任する。派手なパフォーマンスや言動で注目を集め〝お祭り男〟ともてはやされたり、独断専行のワンマンぶりから〝天皇〟と揶揄されたり…》
金田監督がすごいピッチャーであったことは改めていうまでもありません。日本のプロ野球史上、ナンバーワンといっていいでしょう。
監督としての指導法は選手に対して、とにかく「走れ、走れ!」。ボクら投手陣も例外なしで、あれはキツかったなぁ。ボクは投げ込みなら何百球投げても平気だったけどね。
というのも、ボクの持論は「投げることで使う筋肉は〝投げ込み〟でしか付かない」。ウエートトレーニングやランニングで鍛えられるものではない、と考えていたからです。
それでも「結果」(チームの成績)がついてきたからね、後には納得しましたけど。
《金田監督就任1年目のロッテは、3位に終わったが、カネやん人気もあって、観客動員数は前年比約3倍に。2年目の49年には、前・後期制をとっていたパ・リーグを制し、日本シリーズでも中日を4―2で破って日本一に輝く》
チームの先発陣は、従来の木樽(きたる)(正明氏)、成田(文男氏)、村田(兆治(ちょうじ)氏)に加えて、金田留広(とめひろ)氏(※金田監督の弟、日拓から移籍、49年は16勝で最多勝に輝く)や三井(※雅晴氏。同年のパ・リーグ新人王)らが加わって、より盤石になったし、アルトマン、ラフィーバーの外国人勢に、有藤(ありとう)(道世(みちよ)氏)、山崎(裕之氏)らの打線も強力でした。
そのシーズンは、前期こそ2位(優勝は阪急)に甘んじましたが、後期は優勝。プレーオフも3―0で勝ち、45年以来、4年ぶりにパ・リーグ優勝を勝ち取ったのです。
この年のボクは12試合に先発して、8勝(7敗、2セーブ)。日本シリーズも2試合に登板(いずれもリリーフ)します。多少なりとも「24年ぶりの日本一」(※25年の毎日オリオンズ以来)に貢献できたんじゃないかと思いますね。
金田監督のやり方ですか? まぁ、ああいう方ですからね(苦笑)。だんだんと下の方(コーチや選手)も「監督がそういうのなら…」という感じになっていったのかな。
《実は金田監督との〝因縁〟は長い物語になる。それはひとまず置いて、次回は日本一の前年(48年)に八木澤さんが成し遂げた偉業について語ってもらうことにしよう》
(聞き手 喜多由浩)