ハプニングから生まれた完全試合 先発の村田投手が〝寝違え〟、金田監督は「歯痛」で休養

話の肖像画 日本プロ野球OBクラブ理事長・八木澤荘六<16>

 史上13人目の完全試合を達成し、コーチに手を掲げられる=昭和48年10月10日、仙台市の宮城球場
史上13人目の完全試合を達成し、コーチに手を掲げられる=昭和48年10月10日、仙台市の宮城球場

《1人のランナーも出さず、完投勝利する「完全試合(パーフェクトゲーム)」は昭和25(1950)年の藤本英雄投手(巨人)を第1号に約90年に及ぶ日本のプロ野球史上、たった16人しか達成していない。八木澤さんは48年、その13人目(当時)となった》

シーズンも最終盤になった10月10日、宮城球場で行われた太平洋クラブ(現埼玉西武)とのダブルヘッダーでした。(パ・リーグの)個人タイトル争いで、このときボクは「勝率1位」を、阪急の米田(よねだ)さん(※哲也氏、プロ通算350勝は歴代2位)と激しく争っていたんです。試合前の時点でボクの方が、ちょっと上だったかな。

ところが、ボクは中継ぎ(リリーフ)の登板が多かったものだから、規定投球回数(130イニングス)に10回弱、足りない。そこで、ダブルヘッダーの第2試合に先発させてくれることになりました。ボクとしては残り試合数も少ないし、「この試合で何とか5回分ぐらいは稼ぎたい」というくらいの気持ちだったのです。

第1試合の開始予定は正午。ボクは球場でランニングやウオームアップをしていた。そこへ植村コーチ(※義信氏、後に日本ハム監督)がツカツカとやってきて、いきなり「行ける(登板できる)か?」って。

第1試合に先発する予定だった村田(※兆治氏、〝マサカリ投法〟がトレードマーク。プロ通算215勝)が時間になっても来ない。聞けば、前夜の〝寝違え〟で、とても投げられる状態じゃないらしい。

ボクはすぐに「大丈夫です」と返事をしました。何しろ中継ぎは毎日のように登板しなければならないので、いつでもスタンバイ(投げられる状態)はできていましたからね。

《加えて「消化試合」ともいえたこの試合(※当時のパ・リーグは2シーズン制で前期は南海、後期は阪急が優勝し、プレーオフの前だった)に、監督1年目だった金田正一(まさいち)氏はいなかった。「歯痛」を理由に休養しており、高木公男2軍監督が代わって指揮を執ることに》

試合は予定の正午過ぎに始まった。相手の先発は東尾(※修氏、プロ通算251勝。後に西武の監督も務めた)でした。

試合は二回裏に、山崎(※裕之氏、通算2081安打)、キャッチャーの村上(※公康氏)の連打でウチ(ロッテ)が1点先制してくれた。だが、東尾もいいピッチングで、その回以外は得点を許しません。

この日のボクは取り立てて「調子がいい」とか「ボールが走っているな」という感じはなかった。頭にあったのは、いつものようにキャッチャーのミットめがけてストライクを投げ込むことだけ。当初の目標だった五回を過ぎると、「次は七回まで投げよう」と考え、淡々と投げ続けていたんです。

《〝最大のピンチ〟は七回表の太平洋クの攻撃のときだった。左打ちの福富邦夫さんが一、二塁間を破るかのような強烈な当たりを放つ…》

福富さんが打った瞬間に「やられた」と思いましたよ。それくらい強烈な当たりでした。

ところが、二塁を守っていた山崎が横っ跳びで、打球を止めたじゃないですか。やはり打球を追っていた一塁手のラフィーバー(※元米大リーグ・ドジャース)があわててベースに戻り、見事にアウト! 後から思うと、このときが最大のピンチだったんでしょうね。

そのころかな、ボクが完全試合を意識し出したのは、「あと3回だ」って。ウチのベンチも次第にピリピリしたムードになり、誰ひとり口を開く者がいません。だって1人でもエラーしただけでダメなんだから…。(聞き手 喜多由浩)

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