《31歳となった昭和51(1976)年には「先発」が増えて、13年間のプロ野球生活の中でも〝キャリアハイ〟となる15勝をマークした。一方、この年からコーチ兼任に…》
そのころからだったかな。なんとなくですが、球団サイドから「若手中心に切り替えたい。八木澤は、もういらない」といったような「空気」が伝わってきたんですよ。
それで、現役の投手兼ピッチングコーチ、トレーニングコーチの〝3足のわらじ〟を履くことになったのです。現役投手としてそう期待されていないのなら「気楽にやろう」と思ったのがよかったのか(苦笑)、15勝をマークできました。
翌52年も11勝。30歳を過ぎてからピークがきた、というのかな、「連続2桁勝利」ですよ。周りからは、「笛吹きながら(※コーチをしながら)15勝か?」なんて、からかわれましたけどねぇ。
《ところが翌53年、ロッテが勝っていた試合の終盤で、リリーフ登板した八木澤さんが打たれて逆転負け。これに金田正一(まさいち)監督が激怒。「八木澤はもういい、引退だ!」などとメディアに向けて〝放言〟したことで大騒ぎになってしまう》
ボクが監督の発言を知ったのは夜中の0時過ぎでした。まったくの〝寝耳に水〟というか、このときのボクは、その気(引退)がなかったから驚くやら、腹立たしいやらで…。
この試合は、終盤までウチが2点リードしていた。そこでボクがストッパー(抑え)として出たのだけれど、長打を浴びせられて負けたんです。
確かに、打たれたのはボクの責任ですよ。それは間違いない。だけどね、「なんでこのタイミングで(引退を)言うのか? それもメディアに向けて…」と釈然としなかった。
監督が〝引退勧告〟をしたいのならば、まずは、ボクに直接言ってほしかった。まぁ、監督の頭の中にはずっと、「若手のピッチャーをもっと使いたい」という気持ちがあったのかもしれませんけど…。
《結局、「なし崩し的」に八木澤さんはそのまま引退→コーチ専任になってしまう。事態はさらに二転三転。ロッテ投手陣に故障者が続出して、チームは泥沼の15連敗(引き分けを挟む)。八木澤さんの復帰を望む選手会の声も手伝って…》
チーム内でボクを応援してくれる人たちがいたことやチームが不振に陥り、ピッチャーが足りなくなって、約1カ月後、ボクは現役に復帰することに。
金田監督へのわだかまりですか?
少なくともボクの方には何もありませんよ。だいたいボクはどの監督さんともけんかしたことなど一度もないのだから。金田監督とは(シーズンオフに)ゴルフもよく一緒にやったしねぇ。向こう(金田監督)がボクをどう思っていたかは知りませんけど(苦笑)。
(金田監督は)やっぱり「1人でやる人」(ワンマン)なんでしょうね。コーチ陣の言うことにまったく耳を傾けないわけじゃないけれど、結局は自分で決めてしまう。
また、ボクの〝引退勧告〟のときのように「あれはダメ、こっちはいい」といったことをメディアに向けて話してしまうところも多かった。やり方は「人それぞれ」だから、ボクが言うことじゃないですが。
《このシーズンの八木澤さんは〝ブランク〟もあって、28試合に登板(※前年は40試合に登板)し、5勝(6敗)3セーブにとどまった。チームは4位に沈み、金田監督は、この年を最後に辞任(第1次政権)するのだが…》(聞き手 喜多由浩)