208.おわりに
東映創立70年のまとめ
東映創立70周年を記念して2021年7月から始めた本ブログは、今回で終了いたします。
4年4か月、正月休み4回、盆休み1回をはさみ208回に渡り続けて参りました。
最終回となる今回は、これまでご紹介してきた記事をもとに東映の70年を振り返りたいと思います。
1.経営
(1)土地取得と活用
1951年4月、東映が創設され社長に就任した大川博は、東映の経営が少し安定するや否や全国の主要都市に土地や劇場を確保し直営映画館設立を積極的に進めました。
1942年12月、鉄道省にいた経理マン大川は、東急電鉄総帥五島慶太から引き抜かれ東急電鉄に入社。五島の薫陶を受けます。
その五島は、阪急電鉄総帥の小林一三のスカウトで同じく鉄道省から武蔵電鉄(現・東急電鉄)に専務として入社。以来、小林の鉄道経営を参考に事業を拡大し大東急を作り上げました。
小林から五島、そして大川へとつながる鉄道経営のノウハウは、小林が創設した東宝、五島が創設し大川が託された東映にて活かされます。
小林が進めた鉄道経営のビジネスモデルである土地取得と土地を活用した多角化事業による経営の安定が、不安定な映画産業を支える礎となり、日本の映画業界は、幾多の苦難を乗り越えながら現在まで続いて来ました。
五島譲りの「経営の合理化」と「予算即決算主義」を武器に東映の経営再生に乗り出した大川は、1953年11月、渋谷に直営劇場「渋谷東映」「渋谷地下劇場」2館を新築、今後の直営モデル劇場として地下に「サントリーバー」と「喫茶トーエー」を開店させます。
これが直営館関連事業の先駆けとなり、以降、東映直営館を利用した関連事業や不動産テナント事業へと発展して行きました。
映画全盛期となる1955年から1960年まで、大川は積極的に直営館を新築、既存館を購入することで直営館を増やし、所有土地を拡大させます。
また、1955年に京都撮影所を大映から買取るとともに製作本数を拡大するため周辺の土地を次々と購入。敷地面積を広げて行きました。
1960年代に入り、テレビ産業の勃興によって映画産業が斜陽と言われるようになると、直営館の再活用策としてボウリング事業に進出します。
大川社長時代に作り上げた直営館やボウリングセンター、独身寮や保養所などの施設は、岡田茂社長時代に住宅ブームの波に乗りマンションとして開発され、そこで経験を積んだ東映不動産部は事業用に土地を購入しマンション開発を進め、東映の苦しい経営を下支えしました。
丸の内東映会館、渋谷東映、福岡東映など大川が購入した土地、名古屋東映、大宮東映など借地に建てた建物の借地権などは東映の重要な資産として後世の東映を支えています。
また、1975年11月には京都撮影所のオープンセットを時代劇のテーマパーク・東映太秦映画村として開発し大ヒット。東映の経営と京都撮影所の作品作りに貢献しました。
50周年を迎える映画村は、現在リニューアルを進め新規展開を図っています。
(2)未来を見据えた大胆な投資(M&A)
映画製作に予算主義を徹底させた大川は、その収益を将来の価値に投資し、事業の多角化を目指しました。
①㈱日本教育テレビ(現:㈱テレビ朝日ホールディングス)
まずは次に来るメディアであるテレビで、1957年10月、旺文社と日本短波放送(日本経済新聞社子会社)と共に日本教育テレビ(NET)を創設、大川は代表取締役会長に就任します。
1959年2月に放映が始まると東映は刑事物、時代劇、子供特撮やアニメを中心に数多くのテレビ映画を制作しました。
㈱テレビ朝日ホールディングスとなった現在も持分法適用関連会社として深い関係を持っています。
②東映動画㈱(現:東映アニメーション㈱)
アメリカのディズニー作品に感銘を受けた大川は、東洋のディズニーを目指すことを決意。劇映画営業担当の今田智憲の提言を受け山本早苗社長のアニメ制作会社日動映画㈱をM&Aし新たに東映動画を創設しました。
大泉学園にある東京撮影所の隣接地に最新の設備を整えた新スタジオを設立し、アニメ事業に本格的に参入します。
東映動画は、1958年、日本初の総天然色長編アニメ映画『白蛇伝』を公開、続けて長編アニメ映画製作に取り組み多くのアニメ制作人材を輩出しました。
テレビアニメの制作にも取り組んだ東映動画は、日本のアニメ業界を牽引して行きます。
集英社や講談社などの人気マンガ原作アニメ他、オリジナルアニメも手掛け、格闘アクションアニメ、巨大ロボットアニメ、魔女っ子アニメなど様々なジャンルのアニメを生み出し、国民的ブームとなったアニメ作品も数多く制作しました。
東映アニメーション㈱となった現在、国内のみならず海外でより大きな売り上げをあげ、東映の連結子会社として東映の経営を支えています。
③東映化学工業㈱(現:東映ラボ・テック㈱)
大川は1959年3月、8年前に小西六写真工業が調布に新設したカラーフィルム現像会社・日本色彩映画㈱を小西六からⅯ&Àしました。
第二東映を立ち上げた1960年、劇映画の製作本数が大幅に増加したため建物を増築、新機材も導入し東映化学工業㈱と改称します。
1961年10月、東証二部に上場(2007年上場廃止)した東映化学工業は、東映グループを支える企業となりました。
上場を廃止し東映ラボ・テックとなった現在も東映の連結子会社として東映の技術部門を支えています。
④㈱朝日テレビニュース社(現:テレビ朝日映像㈱)
1958年11月、大川は朝日新聞社と㈱朝日テレビニュース社(現・テレビ朝日映像)を創設しました。
この会社は映画館で上映する劇場用ニュース映画、NETで放映するテレビニュースなどの制作を手掛けて行きます。
⑤東映商事㈱(現:㈱東映エージエンシー)
1959年3月、大川は劇場CMを手がける「旺映社」をM&Aし、6月に東映シーエムシネマ㈱と商号変更しました。
更に8月、再度商号を東映商事㈱と変え、大川自ら社長に就任します。
日本教育テレビの本放送が始まる前年の1959年9月1日、東映系映画館で㈱朝日テレビニュース社製作の劇場用ニュース映画「東映ニュース」の上映が始まりました。
ニュース映画に劇場CMを付けることで映画館には料金負担をかけない方式は、これまで映画館に有料で配給していた他社のニュース映画に代わって一気に上映が拡大します。
㈱朝日テレビニュース社と東映商事㈱はともに順調に滑り出しました。
1963年11月、東映商事は、NET系で放送開始の東映動画初TVアニメ作品『狼少年ケン』から森永製菓をスポンサーとして広告代理店業に進出します。
以降、広告代理業を東映商事の主たる事業として位置づけ、全国規模の体制を作りました。
朝日テレビニュース社は、東映から離れてテレビ朝日の100%子会社のテレビ朝日映像㈱、東映商事㈱は㈱東映エージエンシ-となり現在も活躍しています。
⑥東映ホテル事業:(株)東映ホテルチェーン
1960年10月、大川は新潟県湯沢温泉にある湯沢観光ホテルを買収、湯沢東映観光ホテルと名称を変えて営業を始めました。
今も続く東映ホテル事業がスタートします。
その後着々と館数を増やし、1988年には、湯沢東映ホテル、新潟東映ホテル、釧路東映ホテル、南熱川東映ホテル、東映イン博多、東映イン松山、東映イン和歌山、東映イン長崎、天王寺東映ホテルと、全国に9つのホテルを有するホテルチェーンとなりました。
そのうちの新潟東映ホテル、湯沢東映ホテル、福岡東映ホテル(東映イン福岡改称)の3ホテルが現在営業中です。
⑦東映不動産㈱
1961年9月、多角化経営を目指す大川は、京都撮影所内に子会社東映不動産(株)本社、西銀座にある東映本社内に東映不動産東京支店を置き、不動産業に進出しました。
以降住宅建設ブームに乗り、順調に事業を拡大して行きます。
1973年2月、東映は「宅地建物取引業」の免許を取得。マンションの建設販売や宅地造成・建売住宅の販売、別荘地開発のほか住宅・宅地・土地の仲介斡旋など広くハウジング事業を展開して行きました。
バブル景気が崩壊するまでハウジング事業も東映の経営を下支えする事業であり、不動産賃貸業は、現在も堅実に利益を重ね東映を支える事業となっています。
⑧㈱東映フラワー(現:㈱東映建工)
1962年9月20日、大川はニュー東映の商号を変更して、銀座の東映本社5階に花卉・観葉植物の栽培・販売・賃貸、店内装飾を請け負う㈱東映フラワーを創設しました。
やがて貸鉢業ばかりでなく、出入りの百貨店などの年末店内装飾を手掛け売り上げが倍増して行きます。
内装工事に進出した装飾部門は大口の受注を獲得し、1972年8月1日、社名を㈱東映インテリアと改称しました。
東映インテリアは装飾部門を増々拡大し、1996年7月、建装部門を担う㈱東映建工に商号を変えます。
東映グループのシネコン建装を手掛け経験を積んだ東映建工は、シネコン業界で地位を築くとともに一般の内装工事も数多く受注してきました。
現在も東映グループの一員として様々な分野に進出し、東映本体を支えています。
⑨東映貿易㈱
劇場CMを始め、CM制作などに取り組み順調に成績を伸ばした東映商事は、1961年9月から貿易部門を設立しベルギーのゲバルト社の映画用フィルムの輸入を開始しました。
1963年6月には東映商事の貿易部門が独立し東映貿易㈱が誕生します。
様々な品の輸出入に手を広げた東映貿易は、フィルム部門、映機部門、食品部門、物資部門、機械部門を設け、大きく成長しました。
⑩㈱日本産業映画センター
東映商事は1965年9月、味の素・朝日麦酒・富士製鉄・日本鋼管・野村証券・東洋レーヨン・トヨタ自動車の7社が1961年に設立した㈱日本産業映画センターに出資。同社は企業PR映像制作会社として東映商事の系列会社となりました。
⑪東映シーエム㈱
1969年10月、大川は広告代理店としての躍進を目指すために東映商事の商号を(株)東映エージエンシ-に変更。同時に東映動画のCM制作部門を独立させ、東映動画社長の山梨稔が兼務する東映シーエム(株)を設立します。
東映シーエムは、電通や博報堂など大手広告代理店から仕事を受注し、業界内で地位を確立していきました。
各社とも東映グループの発展に寄与しましたが、日本産業映画センターは2004年5月末、東映貿易は2012年9月に役割を終え解散します。
⑫東映芸能㈱
1962年8月、明治座で開催した東映歌舞伎公演は大成功をおさめ毎夏の恒例イベントとなりました。
1965年10月、大川は、東映歌舞伎をはじめとする実演や広告出演など俳優に関する演劇活動の拡大を鑑み、独立した新規事業として東映芸能㈱を発足します。
東映芸能は、東映歌舞伎公演を行うだけでなく、新規スターの発掘、東映歌謡音楽教室の設立、新劇団の旗揚げ、東映フェスティバルの開催、海外公演、レコード事業への進出、など新しい取り組みを行いました。
1971年11月、東映テレビ企画営業部長の渡辺亮徳(よしのり)が東映芸能(株)を兼務することになり専務に就任しました。
12月、渡辺は、関東支社時代の部下相原芳男を東映芸能に異動させます。
渡辺の指示で「仮面ライダーショー」に取り組んだ相原は「キャラクターショー」の販売システムを確立しました。
1977年8月、東映芸能(株)は東映ビデオ(株)と合併し、東映芸能ビデオ(株)となります。
1980年3月から相原を始め東映芸能の「キャラクターショー」部門の担当者が東映の本社映像事業部に異動。新たに芸能事業室が立ち上がりました。
映像事業部管轄となった「キャラクターショー」は、各支社がその地域を担当し組織化したことにより全国で大きく拡大します。
1983年5月、東映芸能ビデオ(株)は東映ビデオ(株)となりました。
東映芸能が確立した「キャラクターショー」は、現在、東映の映像事業部から名称が代わった事業推進部が管轄、東映催事部門の大きな柱となっています。
⑬東映ビデオ㈱
1961年9月、教育映画部は光学録音方式による世界初8ミリトーキーフィルムとそれを上映する映写機を世界で初めて開発しました。
日本映画の家庭での個人視聴を可能にする8ミリ映画のトーキー化は新たな事業の始まりを予感させます。
1970年6月、大川は今後発展が見込まれるビデオ・ソフトウェア事業を積極的に進めるため、8ミリ映写機事業を進めて来た東映教材特機本部特機映像室を発展させ東映ビデオ㈱を設立しました。
この後、1975年にソニーからベータ・マックス方式、翌1976年日本ビクターからVHS方式のビデオ録画機が発売され、ここからビデオ産業は大きく飛躍して行きました。
それにともない、8ミリ映写機事業から始まった東映ビデオも東映グループを支える大きな存在となっていきます。
大川は、次に来る時代を見こし大胆な投資によるM&Aで次々と新会社を設立し後世に大きな資産を残しました。
⑭㈱ティ・ジョイ
1996年5月、松竹が㈱松竹マルチプレックスシアターズを創設し、1997年3月には東宝が天神東宝を新設、1998年4月には東急レクリエーションも109シネマズ港北を作りシネコン事業に参入します。
2000年8月29日、東映が中心となって㈱ティ・ジョイを立ち上げ、代表取締役社長には東映常務取締役岡田裕介が就任。取締役会長は東急レクリエーション代表取締役社長の佐藤進が就きました。
その後、館数を増やしたティ・ジョイは、現在パートナー会社の経営館も含め、24館に拡大しています。
2025年7月、東映の完全子会社となりました。
(3)人材への投資(定期採用)
1952年4月、大川は、会社の信用を高め、将来を担う人材確保をめざし、社員定期採用制度を導入、第1期社員25名が入社します。
以降、逝去による社長退任まで業績に関わらず毎年定期採用を続け、次世代に活躍する人材を確保しました。
2期生の渡辺亮徳、3期生の高岩淡など、後の東映を支える若手を育成。芸術職では、深作欣二、降旗康男、工藤栄一、山下耕作、中島貞夫など東映映画を代表する監督を採用します。
しかしながら岡田茂社長時代、1975年から1981年まで7年間定期採用を中断し、高岩淡社長時代の2000年、岡田裕介社長時代の2002年、2004年も新入社員の採用は見送った時期もありました。
(4)海外への人材派遣
1953年4月の海外出張で多大なる影響を受けた大川は、帰国後の8月、営業部に外国課を新設。営業課長の今田智憲(後に東映動画社長)が課長を兼務し外貨獲得にむけて外国市場の開拓と映画祭への参加に踏み出しました。
1956年9月には海外輸出のより活発化をめざし、ロスアンゼルスに竹林英二が連絡員として駐在します。ここから東映初の海外駐在が始まります。
1958年5月、営業部にあった外国課開発係と輸出係を新たに外国部を設置、下に外国課渉外係と輸出係を置きました。
その後、1960年2月にニューヨーク、1961年2月にローマ、1963年4月にパリと海外駐在所を設置し、社員を派遣します。
1964年2月、海外で活躍できる社員を養成する目的で社内で海外駐在員試験を行い4名が合格。さらに定期採用に外国語貿易職を設け3名が外国部に、東映貿易にも数人を入社配属させました。
8月には香港出張所を開設し、海外駐在所は4カ所になります。
岡田茂に社長が代わった1972年5月、本社に洋画部が設置され、ポルノ作品を中心に洋画作品を仕入れることになり、6月、海外業者との交渉窓口となる外国部は国際部に名称が代わりました。
国際部は映画、アニメ、特撮テレビ作品の輸出他、岡田が進めた洋画配給事業の窓口として海外のポルノ作品や洋画作品を輸入するなどの業務を担当します。
その後、映画輸入では香港映画の輸入で大ヒットを飛ばし、テレビ番組輸入においては20世紀FOXとテレビ放映権契約で収益を確保しました。
アニメや角川映画との提携で洋画配給部の国内業務が忙しくなったこともあり、岡田は1982年3月に香港出張所、1986年3月にはニューヨーク出張所を閉鎖します。
この時点で東映の海外出張所はパリのみとなりました。
この後、国際部が窓口となり、「パワーレンジャー」の世界的大ヒットの実績を上げます。
1997年4月、国際部は国際営業部に名称変更し、出張所をパリからロサンゼルスに移設しました。
2009年6月、ロサンゼルス出張所を廃止します。
これによって50年を越える東映の海外出張所は終了しました。
東映動画は、アジア市場での販売拡大を目指し、1997年3月、香港にてANIMATION INTERNATINAL LTD.と共同で、放映権・商品化権の在香港販売子会社TOEI ANIMATION ENTERPRISES LTD. (現連結子会社)を設立します。
1998年10月、東映動画は東映アニメーションに商号変更。2000年12月にアニメ製作会社として初めて東京証券取引所に店頭上場しました。
東映アニメーションは2004年3月、アメリカ・ロサンゼルスに販売子会社「TOEI ANIMATION INCORPORATED(TAI)」(高橋浩CEO)を創設します。
続いて2004年12月、ヨーロッパ・中近東・アフリカでの事業を拡大するため、フランス・パリに「TOEI ANIMATION EUROPE S.A.S.(TAEU)」(高橋浩CEO)を新設。2006年7月には巨大な中国市場での事業拡大を目指し、中国・上海に駐在員事務所「TOEI ANIMATION SHANGHAI REPRESENTATIVE OFFICE(日本东映动画株式会社上海代表处)」(高橋浩代表)を開設しました。
これらの海外子会社が活躍し、2024年度には海外売上が606億円を記録。国内売上と合わせ1000億円の大台を突破します。
1956年の東映動画創立時に大川博が描いた東洋のディズニーへの夢は、苦労しながらも70年の時を経て大きく花開きました。
2.コンテンツ
(1)子供向けコンテンツの製作
東映の経営の根幹を確立した大川博に対し、映画作りの基礎を築いたのはマキノ光雄でした。
「日本映画の父」牧野省三の次男であるマキノは、父の映画プロデューサーとしての才能を受け継ぎ、父譲りの映画作りのノウハウで東映の映画企画を牽引します。
その最大の功績は、子供を対象とした東映娯楽版の創設でした。
東映は、1954年1月、新作二本立て配給に取り組みます。
そこでマキノは、父が尾上松之助で成功した子供向けヒーロー映画に習い、連続冒険時代劇「東映娯楽版」を企画。若手イケメンを主役にした中編映画は子供たちの人気を集め大ヒットしました。
大きな利益をもたらした娯楽版の成功もあり、東映は1956年に年間配収日本一となります。
その後テレビ時代を迎えた時、子供向け冒険活劇のノウハウは特撮ヒーロー番組に活かされ、京都撮影所(京撮)出身の平山亨プロデューサーにより「仮面ライダーシリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」などヒットシリーズが誕生。以降、後輩たちにより現在まで数々のヒット作品が続きました。
時代劇アクションのノウハウは、勝間田具治など京撮出身の演出家たちによってアクションアニメの演出にも活用され、『マジンガーZ』や『ゲッターロボ』など数多くの名シリーズが生み出されます。
東映娯楽版から続く子供コンテンツは、特撮やアニメにおいて東映の財産となりました。
(2)若手スターの発掘と育成
牧野省三は、歌舞伎界から片岡千恵蔵や市川右太衛門など若手イケメンをスカウトし、次々と映画に主演デビューさせます。
彼らは、瞬く間に人気を集めスターになりました。
父のスター作りを学んだマキノ光雄も、同じく中村錦之助や大川橋蔵などのイケメンを歌舞伎界からスカウトします。
東映娯楽版で主演デビューさせ子供たちのヒーローとして売り出し、続いて招き入れた大スター美空ひばりの相手役に起用して若い女性たちの人気も集めました。
それとともに大作映画の重要な役でも出演させ、主演映画のヒットで大スターとなるスター育成システムを確立します。
また、三船敏郎や久我美子などを輩出した東宝ニューフェイスオーディションに習い、1953年から東映ニューフェイスオーディションを実施します。
1970年第13回まで続いた東映ニューフェイスオーディションからは、高倉健や里見浩太朗、千葉真一、梅宮辰夫、佐久間良子など東映を支えるスターたちが誕生しました。
1977年12月、東映社長の岡田茂は、この年4月に日活を退社した黒澤満(みつる)をスカウトし、東映芸能ビデオ製作部の嘱託として雇用します。
日活所長時代の人脈を活かした黒澤は、松田優作、舘ひろし、岩城滉一などニューアクションスターを生み出しました。
1980年11月、東映ビデオは映画、テレビ制作子会社セントラル・アーツを設立、黒沢満が社長に就任します。
黒澤は『ビー・バップ・ハイスクール』を製作し、この作品から仲村トオル、清水宏次朗などの若手スターが誕生しました。
また、黒澤は舘ひろし、柴田恭兵、仲村トオルが出演する「あぶない刑事」シリーズや人気歌手長渕剛主演映画を製作し人気を呼びます。
2000年代に入り「仮面ライダーシリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」は若手スターの登竜門として、多くのスターを輩出しました。
(3)シリーズ物とオールスター映画
マキノは若手スターによる東映娯楽版だけでなく、片岡千恵蔵の「遠山の金さん」「多羅尾伴内」「金田一耕助」、市川右太衛門の「旗本退屈男」、月形龍之介の「水戸黄門」など、大スター主演の人気シリーズを確立します。
そして路線が確立した1956年1月、戦前日活で誕生したオールスター映画『赤穂浪士 天の巻 地の巻』(松田定次監督)を公開しました。
千恵蔵、右太衛門、月形、大友に加え、錦之助、橋蔵など若手スターも総出演するオールスター映画は、国内年間配収でナンバーワンとなる大ヒット、盆正月の名物となります。
任俠映画時代には、鶴田浩二主演「博徒」「関東」「博奕打ち」、高倉健主演「日本侠客伝」「網走番外地」「昭和残侠伝」、藤純子主演「緋牡丹博徒」、若山富三郎主演「極道」「極悪坊主」などの任俠人気シリーズが生まれました。
そして人気任侠スターたちが総出演する「列伝シリーズ」などオールスター映画が作られ大ヒットします。
テレビが普及した1960年代以降、東京撮影所(東撮)では刑事物と特撮キャラクター物、京撮では時代劇物のテレビドラマシリーズが制作され、次々とヒット作が誕生しました。
ヒーローが大集合するオールスター作品は、テレビ特撮で人気を集めます。
「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」などの歴代ヒーローが集合する作品が映画やスペシャルドラマ、オリジナルビデオで製作され、大ヒットしました。
© 2017「超スーパーヒーロー大戦」製作委員会
© 石森プロ・テレビ朝日・ADK・東映AG・東映
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.
両撮で制作されるテレビドラマは、現在も新たな人気作品を生み出しています。
(4)文化、教育への貢献
小林一三、五島慶太は経営者として教育並びに文化事業の育成に努めました。
五島の弟子の大川博も教育に力点を置き、1954年9月、東映本社内に「教育映画自主製作配給委員会」を設置し教育映画事業に取り組みます。
翌1955年6月には教育映画部を設立し、以降数多くの名作を製作しました。
1974年6月には、中村稔が企画した同和教育・人権教育のバイブルとも言われる『差別と人権の歴史』の配給を開始します。
大川が創設した東映の教育映画部は、毎年開催される教育映画祭の文部大臣賞などで数多くの賞を獲得してきました。
コンテンツ営業部教育映像室となった現在も教育映画製作の第一人者です。
(5)男性対象に不良性感度の高い映画作り
東撮所長岡田茂は、映画作りにおいてテレビとの差別化を図るために不良性感度に注目しました。
日活『花と龍』の大ヒットを見て、尾崎士郎原作『人生劇場』の中の登場人物である俠客を主人公に『人生劇場 飛車角』を製作、1963年3月に公開します。
この任俠映画は日活同様大ヒット。ここから岡田が主導した東映のやくざ路線が始まりました。
1964年に京撮所長に復帰した岡田は、交友範囲の広いプロデューサー、俊藤浩滋を起用し任俠映画を本格的に進めて行きます。
7月、俊藤が東宝からスカウトした鶴田浩二主演『博徒』(小沢茂弘監督)、続けて8月、高倉健主演『日本俠客伝』(マキノ雅弘監督)を公開すると両作品とも大ヒットしました。
俊藤が企画する任俠映画は本物の雰囲気があると評判を呼び、他社の任俠映画を圧倒します。
東撮でも高倉健主演『網走番外地』(石井輝男監督)、『昭和残侠伝』(佐伯清監督)も大ヒットシリーズ化しました。
1968年、岡田は、不良性感度をより高めた任俠路線に加え、天尾完次をプロデューサーに起用し好色路線を過激に推進して行きます。
岡田は、新東宝でセクシーエロス映画を数多く監督し東撮にて大ヒットシリーズ『網走番外地』を生み出した奇才石井輝男を京撮に呼び、『徳川女系図』を監督させました。
岡田が企画したこの刺激的な性愛映画は、5月に公開すると大ヒットします。
任俠映画、好色映画と大ヒットを飛ばした岡田は、この年5月に東映の映画企画本部長に就任。社長の大川博から東映の映画に関する全権を委任され、企画の最終判断と責任を持つゼネラルプロデューサーとなりました。
「路線が確立しなければ単発で当てても儲からない」という信念を持つ岡田は、俊藤浩滋を起用し確立した任侠路線に続き、自ら陣頭指揮して好色路線の確立を目指し「温泉芸者シリーズ」、「異常性愛シリーズ」を立ち上げます。
1971年8月、大川の急逝により常務取締役の岡田茂が代表取締役社長に就任しました。
社長になった岡田は、天尾の好色映画をより過激に推進。池玲子、杉本美樹主演の「女番長(すけばん)シリーズ」やサンドラ・ジュリアンやクリスチナ・リンドバーク、シャロン・ケリーなど外国人ポルノ女優を起用した過激ポルノ映画を製作しヒットさせます。
藤純子が芸能界を引退した1972年を契機に任俠映画が下火になって行きました。
1973年1月、日下部五朗プロデューサーが企画した『仁義なき戦い』(深作欣二監督)が大ヒット、ここから実録路線が始まります。
1977年、映画・洋画配給部長の鈴木常承は、東急レクリエーション興行部の紹介で『宇宙戦艦ヤマト』製作者の西崎義展と出会い東京都内の東レク4館以外での配給を担当しました。
8月に公開すると公開前日から劇場前に徹夜の行列が並び配給収入で9億円も上がる大ヒットを記録します。
以後、「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」や東映動画の松本零士原作『銀河鉄道999』などの劇場版宇宙SFアニメを洋画系にて配給し、アニメブームを巻き起こしました。
実録路線が行き詰った1970年代後半、岡田茂と映画・洋画配給部長の鈴木常承は、角川春樹と交渉し、角川製作映画第2弾松田優作主演『人間の証明』(佐藤純彌監督)の配給を東映洋画で請け負います。
1977年10月に公開すると年度2位の大ヒットとなり、この後、角川との関係を深めて行きました。
実録映画の後、日下部は深作欣二監督で『柳生一族の陰謀』『宇宙からのメッセージ』『魔界転生』『里見八犬伝』、「女性文芸大作シリーズ」、「極道の妻たちシリーズ」などを企画、大ヒットします。
岡田茂は、1960年代後半からの映画斜陽期を不良性感度の高い映画を激しく推進することで、1980年代前半まで日本映画界をリードしました。
(6)テレビキャラクタービジネスの確立
1964年6月、関東支社長今田智憲は、関東支社で映画セールスを担当していた渡邊亮徳(よしのり)を大川社長に推薦し、営業部テレビ営業課に異動させます。
「ブルドーザー」と呼ばれていた渡邊は、大川、岡田の下でテレビ部にてメディアミックスを促進、東映のテレビキャラクタービジネスを確立して行きました。
1971年、MBSと共同製作した石森章太郎原作『仮面ライダー』が大ヒットします。
その際、バンダイ子会社のポピーが製作販売した「仮面ライダー変身ベルト」が大ブレイク。以降、ポピーの杉浦幸昌常務とタッグを組み、東映動画制作の巨大ロボットアニメ『マジンガーZ』の大型玩具「ジャンボマシンダー」や「超合金マジンガーZ」などの大ヒット商品を生み出しました。
「超合金」の名称は、ポピーがバンダイに吸収された後も戦隊ロボットや「ガンダムシリーズ」など様々な作品で使用され、バンダイの誇る一大ブランドとなります。
渡邊亮徳は、東映のテレビ・ビデオ部門のゼネラルプロデューサーとして、出版社、テレビ局、新聞社などの大手メディア、電通や旭通信社、東急エージェンシー、東映エージエンシ-など広告代理店と連携、東映のテレビ、アニメ、映画、ビデオのメディアミックスを陣頭指揮し強力に推進、また、ポピー・バンダイと協力して東映グループのキャラクタービジネスを確立しました。
4.映連各社との数字で見る近年実績比較
日本映画製作者連盟(映連)各社の年度別実績を決算短信から比較します。
(1)東宝
(2)松竹
(3)KADOKAWA
(4)東映
(5)2024年度各社実績比較
5.最後に
来年4月で東映は75周年を迎えます。
現在の東映は、先人たちの努力の積み重ねで成り立ってきました。
東映の歴史を振り返ると創業時に作った有形・無形の資産を時代に合わせてリノベーションしながら次世代に引き継ぎ資産を拡大してきたことがわかります。
断捨離という言葉がありますが、一度失ったものは帰ってきません。
先人がその時代に努力して獲得してきた資産と同じものを新たに獲得するには時代が経過していることを加味すると2度と手に入らないものです。
現役の人々が時代に合わせて利活用しながら資産を増やし、次の世代のために可能な限り資産を継承することを考え、創立100周年を目指してほしいと願っています。
本ブログも感謝の言葉を最後に筆を置きます。
4年と4か月に渡りお付き合いいただきありがとうございました!
長い間お世話になっている東映についてまだまだ書き足りないことが多くあり、またどこかの機会でご紹介できればうれしく思います。
面白い会社ですよ、東映は。
See you again!
トップ写真:東映の明日を見ていた男、満面笑顔の大川博


本当にお疲れ様でした。映画だけではない東映、再確認致しました!是非単行本化を期待致します。