ミソジニストは我が子の夢を見るか?
noteで以下の記事(以下、「rei氏の記事」)が流れてきた。先日の記事で、私は「少子化対策との訣別をし、少子化を前提にした社会設計を目指すべき」と述べたが、下記の記事ではそれは「敗北主義」であるらしい。たしかに、「子どもの数を増やすこと」が勝利であれば、私の主張は敗北主義かも知れない。
他方、この記事で展開されている主張の一部は、過去これまで私がデータで示している点――特に所得の向上が出生率の向上と直ちに結びつくわけではない、という話と同期する部分もある。
この「経済的負担」を少子化の主因とする政策的診断は世界的な人口動態の構造的トレンドと、歴史的な出生率上昇の実証分析の両方によって、その妥当性を著しく疑われている。というよりハッキリと否定されている(尚且つ後述するように日本政府もそれを認識している)。
全体的に見るに、rei氏の記事はミソジニー(女性蔑視)っぽい印象を受けるが、私の主張とカブる部分もありつつ、ミソジニーっぽい主張を展開している論理構造がどうなっているのか、という点に興味が出た。結論的には、論理構造自体は破綻していたのであまり見るべき点はなかった(以前分析した参政党の主張と被る点も多い)のだが、ちょっとモノを考える契機にはなったので、メモを残しておく。
rei氏の記事の論理構造
rei氏の記事の論理構造(及び事実認識)は、先程述べた通り破綻していて、イマイチ追いかける意味がないのだが、簡単に書ける範囲で検証しておこう。
まずrei氏の記事の主張の根本は、
・(夫婦の)経済的負担が少子化の主たる要因である、という分析の否定
・少子化の主たる要因は「自由で豊かな国における女性の自由選択の結果」であること(正確には、日本政府が過去このような分析をしており、rei氏自身もこの解釈が正しいと言っている)
の2点。そしてココはやや解釈違いかも知れないが、
・少子化を不可避なものとするのは「敗北主義」であり、「若い男性の賃金を引き上げ、女性の社会進出を抑制する」ことで、出生率を上昇させることができる。
ということも合わせて主張しているように見える。最後の点は、rei氏の記事では慎重に明言を避けられているが(日本政府の現状の少子化対策が誤っている、ということは明言している)、rei氏の主張から「少子化を防ぐ策」を考えるとそう読まざるを得ないと思う。「若い男性の賃金を引き上げ、女性の社会進出を抑制する」という言葉自体は引用だし。
この「経済的負担」を少子化の主因とする政策的診断は世界的な人口動態の構造的トレンドと、歴史的な出生率上昇の実証分析の両方によって、その妥当性を著しく疑われている。というよりハッキリと否定されている(尚且つ後述するように日本政府もそれを認識している)。
…
合計特殊出生率低下の主要な駆動要因が経済的貧困ではなく「女性の教育水準の向上」と「避妊へのアクセスの改善」であると実証された点だ。女性が教育を通じて自己決定権を獲得し、キャリアを追求するようになれば、出生率が人口置換水準(約2.1)を下回ることは経済発展の必然的な帰結であることは、もう疑いようがなくなっているのである。
まとめれば日本政府は少子化の原因を「自由で豊かな国における女性の自由選択の結果」と、かなり昔から把握していたということだ。そして今インターネットで騒がれるような「女性の高等教育は少子化を促す」「少子化の根本原因は婚姻数の低下で(夫婦の)産み控えではない」「経済的インセンティブ付与は少子化解決に寄与しない」的な論点も把握している。それにも関わらず、何故日本政府は誤った少子化対策を続け、更には「地方創生の為に所得制限撤廃等の大都市への人口流入政策をやるぞ!」という支離滅裂な方針を掲げるのだろうか?冒頭で述べた「目を背けている」という表現は生ぬるい。政府は「見ている」うえで、意図的に真実とは異なる道を選んでいるのだから。
現在少子化は案の定、後述の歴史や証拠に目を背けて「少子化は先進国の避けられぬ必然であり、技術の進歩、富、教育、科学、都市化、個人主義、幼児死亡率の低下その他良い事の代償である」的な言説が唱えられ始めている。この理論は正否は別に「私達は少子化による滅びを受け入れてるしかないが、既存の少子化対策はそれを遅らせるぐらいの効果はあるので継続していき、穏やかな着地を目指そう」という敗北主義を肯定する為のものだ。
政府は自らの政策が少子化を加速させることを(少なくともデータ上は)知っている。高等教育無償化が地方の若者を大都市に吸い上げ(地方創生との矛盾)、支援金が若年男性の可処分所得を奪い(婚姻率の低下)、女性への経済支援が彼女たちの「自由な独身生活」を補強すること(人口問題研究所の指摘)等を、全て理解しているのだ。
それでも、この矛盾した政策を続けるのは何故か。
それは真の対策を打つことの政治的コストが、国家が破滅するコストよりも「今この瞬間」においては高くつくからだろう。或いは権力的に出来ないのかもしれない。「若い男性の賃金を引き上げ、女性の社会進出を抑制する」などという政策を打ち出せば、メディアや特定の圧力団体から猛烈な非難を浴び、政権は倒れて指導した官僚の首も飛ぶだろう。なんなら「若年女性支援や所得制限撤廃や育児支援は効果がないのでやめる/縮小しまう」だけでも、色々危うくなるだろう。
事実認識/解釈の誤り?①
rei氏の記事の誤りの一つは、事実認識の誤り、あるいは引用している記事の主張の解釈?の誤りである。具体的には下記の点。
ベビーブームの直接的な原因は結婚ブーム…婚姻率の上昇だと結論が出ている。というか日本の少子化の婚姻率の低下が直接的な原因だ。これ自体は左右問わず見解が1致している。そして何が結婚ブームを引き起こしたか?も答えが出ている。それは「女性の労働力参加率(低下)」「若い男性の賃金(上昇)」「男性の失業率(低下)」の組み合わせだ。
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00324728.2016.1271140
さて、rei氏の記事でもともと引用されているhttps://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00324728.2016.1271140の記事、実は「何が結婚ブームを引き起こしたか?も答えが出ている。それは「女性の労働力参加率(低下)」「若い男性の賃金(上昇)」「男性の失業率(低下)」の組み合わせ」であるということは一言も言っていない。
当該記事の主張は、①(欧米での)ベビーブームは第二次世界大戦の「前」に起きていること(第二次大戦後の集結がベビーブームをもたらしたという俗説の否定)と、②その要因は、家電技術の進歩、医療技術の進歩、そして住宅アクセスの容易化が一体となって子供を持つことのコストを急激に引き下げた、というものだ。
正直rei氏の記事の主張(女性の労働参加率云々)に重なる部分の記述がなさすぎてびっくりしている。というより、この引用元では、rei氏の記事の主張と真っ向から反する結論になっている。原文は結構長いのだが、念の為結論部分だけでも、原文と翻訳を並べよう。
1970年代以降、出生率はゆっくりと低下し続けています。今日、ヨーロッパには人口置換水準を上回る出生率の国は一つもなく、イタリアで1.3、スペインで1.2という低さです。20世紀初頭がそうであったように、西側諸国は再び「人口の冬」の真っ只中にいるのです。
再び「春」を迎えるための真の機会を得るには、政策立案者はベビーブームを振り返り、ある幸運な世代にとって、親になることがいかにして猛スピードでより簡単かつ安全な選択となったのかを考察すべきです。
…
もしベビーブームに関する「子育てコスト」理論が正しいのであれば、それは「子供を持つ」という選択をより安全で容易なものにすることによって、出生率を上げることができることを示唆しています。今日、私たちがベビーブームをもたらしたと論じてきた(当時の)発展と、現代において最も明白に類似しているのは、以下のものです。すなわち、親の子育てを容易にする安価な家電製品、より寛大な体外受 精(IVF)政策から人工子宮に至るまでの、より質が高く安価な母体医療と生殖補助医療、そして家族向けのより安価で豊富な住宅です。
2023年1月、国連は人口高齢化を「不可逆的なトレンド」と表現する報告書を発表し、1936年のカー・サンダース博士の発言を彷彿とさせるような、避けられない運命であるかのように出生率の低下を語りました。しかし、カー・サンダース(の予測)は「進歩」が持つ強力な対抗力によって間違いであったことが証明されました。そして、子供を持つコストを削減する「物質的な改善」に焦点を合わせることで、私たちは今日、同じことを成し遂げることができるのです。
Birth rates have continued to slowly decline since the 1970s. Today, there is no European country with a fertility rate that exceeds replacement rate, with rates as low as 1.3 in Italy and 1.2 in Spain. As it was in the early twentieth century, the West is again in the midst of a demographic winter.
To have a genuine shot at seeing spring again, policy makers should look back at the Baby Boom and how, for a lucky generation, being a parent became an easier and safer choice at breakneck speed.
…
If the parenting costs theory of the Baby Boom is right, it suggests that birth rates can be increased by making it safer and easier to choose to have children. Today, the most obvious parallels with the developments that we have argued gave us the Baby Boom are cheaper household appliances that make it easier for parents to raise their children; better and more affordable maternal healthcare and fertility assistance, from more generous IVF policies to artificial wombs; and, cheaper and more plentiful housing for families.
In January 2023, the United Nations published a report which described population ageing as an ‘irreversible trend’, speaking of declining fertility with an inexorability that echoes Dr Carr Saunders’ remarks in 1936. But Carr Saunders was proved wrong by the powerful countervailing effects of progress, and by focussing on material improvements that reduce the costs of having children, we can accomplish the same today.
要するに、この引用元論文では「子供を持つコストを削減する「物質的な改善」に焦点を合わせる」=子持ち世帯に経済面等での支援をすることで、ベビーブームを再度起こすことができる、と主張しているのだ。rei氏の主張とはミリも被っていない。解釈の誤り、という次元の誤りではないと思う。何故この論文を引用したのか、理解に苦しむ(なお、rei氏の記事では、この記事で使用しているグラフを引用しているので、リンク先の誤りとかでもないはずである)。
先日ヨビノリたくみ氏の数学史の解説がハチャメチャに間違えており、引用文献で否定されている俗説を普通に紹介している、というnoteがバズっていたらしい(下記)のだが、それとほぼ同じ構造。
※なお私は、ヨビノリたくみ氏の主張と以下の数学史のnoteのどちらが正しいのかは知りません。
論理の誤り①
上記の事実認識/解釈の誤りは、決して枝葉の誤りではない。なにせ、rei氏の記事の主張は、「若い男性の賃金を引き上げ、女性の社会進出を抑制する」ことで、出生率を上昇できるということだと思われ、ベビーブーム(rei氏の主張では、その前の結婚ブーム)が「「女性の労働力参加率(低下)」「若い男性の賃金(上昇)」「男性の失業率(低下)」の組み合わせ」によってもたらされたというのは、rei氏の記事の主張を直接的にサポートする内容だからだ。
上記の通り、これは引用文献からは全くサポートされない。私は欧米のベビーブーム(と先駆けての結婚ブーム?)の要因が何だったのか知見はないが、いずれにせよ「「女性の労働力参加率(低下)」「若い男性の賃金(上昇)」「男性の失業率(低下)」の組み合わせ」がベビーブーム(と先駆けての結婚ブーム?)の要因だったというのは、完全に「rei氏の記事内でそう言っているだけ」の話になっている。もちろん他にサポートできる分析等が示されていればよいと思うけど、少なくとも、引用文献が直接サポートになっていないことから、rei氏の記事自体の論理性はかなり脆弱になっている。
論理の誤り②
長々書いてきたが、実はもっと直接的に論理が破綻している部分がある。本設の細書で引用した部分だが、再度引用しよう。
この「経済的負担」を少子化の主因とする政策的診断は世界的な人口動態の構造的トレンドと、歴史的な出生率上昇の実証分析の両方によって、その妥当性を著しく疑われている。というよりハッキリと否定されている(尚且つ後述するように日本政府もそれを認識している)。
rei氏は「経済的負担が少子化の主因ではない」と明言している(その点は私と共通している)。にも関わらず、何故「若い男性の賃金を引き上げ、女性の社会進出を抑制する」ことが少子化対策につながるのだろうか?また「若い男性の賃金(上昇)」「男性の失業率(低下)」が結婚ブームを引き起こすのだろうか?
経済的負担が少子化の主因ではないのなら、少なくとも若い男性の賃金を引き上げる意味もないはずだし、ベビーブームの要因にもならないのではないか?
この辺のrei氏の記事の主張は混乱していて、端的には「貧しい独身男性から税金を取って、少子化対策=子どもがいる裕福な世帯に再分配するのはおかしい」という主張をするために、当初の「経済的負担が少子化の主因ではない」という主張を放棄しているように見える。もちろん結婚と出産の間に直接的な関係があるかは微妙なのだが、rei氏の記事ではそもそも結婚の要因云々の議論と少子化の要因云々が交絡しており、そのへんの論理全体が非常にわかりにくくなっている。
事実認識/解釈の誤り?②
ちなみに長くなりすぎるので簡単にだけ言及するが、rei氏の「少子化は「自由で豊かな国における女性の自由選択の結果」」という根拠として引用されているIPSS(国立社会保障・人口問題研究所)の論文で、rei氏はかなり恣意的な引用を行っている。
引用元では、女性の高学歴化(正確には、高学歴化に伴う結婚年齢の高齢化)が少子化に影響を与えることを認めつつ、少子化対策として「女性が高学歴を持つことの弊害を安易に述べるに留まることなく、男性を含めた働き方や生活の仕方といった総合的な視野で議論することが必要となってくる。」と述べている。
現行の日本の政策は、(この提言が正しいかどうかは別にして)この提言にある程度沿ったものとなっていると思われる。こう考えると、rei氏の記事にある「政府は「見ている」うえで、意図的に真実とは異なる道を選んでいる」という主張は的外れではないだろうか。
言い換えれば、柔軟性に欠けるタイムテーブルの設定が、結婚をするかしないか、仕事を続けるかやめるか、子どもを産むか産まないか、といった各ステージごとの選択を二律背反的なものとし、結果として若年女性が子どもを持とうとしない状況を生んでいるといえるかもしれない。少子化は各個人の社会的選択の一現象である。
-----rei氏の記事ではココまで引用
-----以降、引用元で続いて展開されている文章
なぜ、子どもを産まないことを選択したのかを真剣に考えることは、女性が高学歴を持つことの弊害を安易に述べるに留まることなく、男性を含めた働き方や生活の仕方といった総合的な視野で議論することが必要となってくる。婚外子が極端に少なく、若年者の同棲割合も低い我が国において、子どもを産むことと結婚することは同時決定的であり、結婚へのステージに移行することが子どもの出産を決定する前提条件となっていく。結婚があって、子どもの出産を迎えるという整然と取り決められたタイムテーブルからの縛りつけが強いほど、若年女性を結婚から遠のかせ、子どもを産まない状況に追い込んでいく可能性を高めているのではないだろうか。柔軟な生き方を受け入れ、援助していく社会システムの構築こそが、少子化対策の鍵となりうるように思われる。
女性の社会進出抑制の経済的帰結
結婚しない男性は、何故結婚しないのか
結婚しない男性は、何故結婚しないのか。個人でも色々理由はあるのだろうが、データでは、「適当な相手がいないから」が多数派である。経済的要因を理由に挙げる者も、絶対数で少ないとはいえないが、相対的には少ない。そしてこれは男女で共通した要因だ。
※ちなみに下記データの出所は、rei氏の記事で、少子化の要因が金銭的問題でないことを国が把握している根拠と言及している国立社会保障・人口問題研究所である。ので、rei氏の記事に従えば、下記のグラフも当然国は把握していることになる。
(出所:出生動向基本調査)
ちなみに結婚メリットの有無についても男女の考え方は大体同じだし、結婚意志や結婚に関する障害の有無についても、男女の考えに極端な違いはない。
(出所:出生動向基本調査)
(出所:出生動向基本調査)
要するに、rei氏の主張では、少子化は「自由で豊かな国における女性の自由選択の結果」となっているが、男性も自由な選択をしているのではないか。男性もまた、女性と同じく「結婚しない自由」を謳歌しているのではないか。男女でそうした考えに差異があるとみなす根拠はあるのか。
我が娘の社会進出は抑制されるべきか
「少子化対策のために女性の社会進出抑制をすべき」という主張自体がミソジニーによるものかはよく分からないが(ミソジニーの定義は多分にふわっとしているようだし、倫理的にはともかく、命題として真偽は問える)が、なんとなくミソジニーっぽく見える。少なくとも、男女ともに社会進出という自由選択を選好している可能性がある一方で、女性の選好のみ問題視することはアンフェアに思える。
もちろん男性は子どもを産めず、(多くの)女性は産める、という生物学的に決定的な違いはある。ので、結婚が進まない理由として、男女の考え方が同じであったとしても、女性の考え方のみを問題視することには、(倫理的にはともかく)一定の合理性があるともいえる。
ただこれは、世の女性に対して一般的にその考え方を問うべき思想である。つまり、自分の従姉妹や姪や娘であっても、社会進出を抑圧すべきということだ。rei氏(またrei氏に賛同するする人たち)は、自分の娘や親族であっても、彼女らの社会進出には反対するのだろうか?
もちろん反対するのだろう。ただ、ミソジニストに未婚男性が多いという一方的な偏見が正しいとしたら、彼らに「娘の社会進出にも反対するのか」と問うのは、正直仮定に仮定を重ねたうえでの回答となり、実際の振る舞いとしてそうなのか、という信憑性は高くないのではないか。
またさらに厄介なのは、この論理は、ミソジニストではない男性にもそういう思想を周知徹底する必要がある点だ。「将来自分が娘を持ったら」という、自分に関する仮定ですらよく分からないのに、「将来の他人」に対してそれを強制できると考えるのはちょっと楽観的すぎるのではないだろうか。少なくとも今の若い人は、男女平等が当然(その平等感がどこまでかは色々水準感があるだろうけど)と思っており、自分が享受し謳歌した男女平等や、自分自身が追求する社会進出を、性別を理由に娘には追求させない、というのは、心情的になかなか難しいのではないかと思う。
低スキル男性の競争激化
そのうえで、仮に女性の社会進出が抑制されたと仮定すると、おそらくこれは(rei氏の記事では、少子化対策の名のもとに特に搾取されているとされる若年男性を含む)低スキル男性にとっては、かなり厳しい環境になるだろう。
「女性の社会進出の抑制」を、女性が高校卒業後(大学等に行かず)すぐに働く、または家庭に入ると解釈する。その場合、全体的な女性の労働参加率が減少し、また労働市場にいる女性は低スキルが多くなると考えられる。端的には、高スキル女性の供給が大幅に細り、低スキル市場への女性参入率が上昇する可能性がある。後者は女性全体が労働市場から退出する効果とある程度相殺される可能性もあるが、仮に若い頃に結婚して子どもを産んだとしても、子育てが落ち着いた頃にはパート等で働くというのは十分有り得、結果として「低スキル労働市場への女性参入率が上昇」という方が十分ありうる帰結だと思う。
要するに、「女性の社会進出の抑制」は低スキル労働市場での競争を激化させる可能性があるのだ。「低練度の外国人労働者が、低賃金の仕事を奪う」理論と同じであり、要するに低レベル労働市場で戦う男性は、より厳しい競争に曝される可能性がある。もちろん高スキル女性がいなくなったことにより、低スキル男性がそちらの市場に吸収される可能性もないわけではないが、士業を筆頭に、男性だろうが女性だろうが、低スキルではできない業務というのが確実に存在し、そういう市場には、低スキル男性は参入がそもそもできない。高スキル女性の後釜に低スキル男性が入りやすくなる、というのは、いくらなんでも希望的観測が過ぎるだろう。
逆に、高スキル男性にとっては、競争相手である高スキル女性がいなくなるので、環境的には改善するかもしれない。まあそんな都合の良い話はそうそうなく、外国から高スキル男性を呼び寄せるか、高スキル男性も「24時間働けますか」状態にさせられるか、という可能性のほうが高いような気がするが。
結語
rei氏の主張と私の主張は、経済的苦境が少子化の原因ではない(かもしれない)という点では共通しているが、なんで最終的な主張がこんなに食い違うというか、ロジックがどうなっているんだろう、というのが最初の興味だったが、ミソジニーっぽい人たちのロジックを(少し)突き詰めるとどうなるか、というのを考えてみることになってしまった。結果として、少なくともrei氏の主張に従うと、低スキル男性にとっては少々働きにくい世界になりそうな気がする。
これ自体は、以前の参政党の主張の分析の拡張、という感じもあって、全く無益ではなかった。rei氏の記事が論理的にどう破綻しているか、という部分の記載は、個人的には無駄だったけど(rei氏の記事には、他にも変な部分があるのだが)。
個人的には、タイトルにしたとおり、ミソジニーの人たちは、自分が親になるつもりがあるのか、あるとしたらミソジニーっぽい態度は維持できるのか、という部分がすごく気になったところだ。ミソジニーの性別と配偶関係に関するデータを知らないので、案外自分の子供だろうと親族でも、ミソジニー的態度は崩れないのかも知れない。
論理的一貫性を担保しようとしたらそうなるし、過去の家父長制が強かった頃は、そういう姿勢が世代を超えて再生産されていたので、私もミソジニー的態度が絶対に維持できない、とは考えていない(ほぼ確実に維持できないとは考えている)。
ただむしろ、ミソジニー的社会に移行する場合に、どのような齟齬や軋轢が生まれるのか、純粋に知的な関心はある。あと、話の流れの都合上全く触れなかったけど、ミサンドリー(男性蔑視)的な人たちもどうなんだろう、という疑問もある。ミソジニーもミサンドリーも、単純には対称的関係だが、出産経験については非対称なので、ミソジニー的社会とミサンドリー的社会がそれぞれどのように異なりうるか、という思考実験は成り立つように思う。世の中的には対消滅してもらった方が良い存在かも知れないけど。


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