論考②
「〜かもしれない」という語が付随したからと言って「〜」に当てはまる部分が語りえないとは限らない。「彼は将棋が好きかもしれない」と言われて彼は将棋が好きだろうかと思慮することが懸念されるが、「~」に当てはまる部分という挺では、将棋が好きなら将棋が好きだと語りうることが可能であろう。将棋が普通の好印象である場合は、彼は将棋が好きだと言わず、先ほどの「〜」に当てはまる部分を語りうることはできない。「努力すればよいかもしれない」という語があるとき、努力すればよいか否かは決まっている。一般的に、努力すればよい場合があるときがあるかもしれないし、努力してよくない取り組みがある。努力すればよいときが見出されるならば、その見出したことに努力すればよい。しかし努力してよくない取り組みもア・プリオリに存立している。余計な努力は破滅を生む危険性がある「努力すればよいかもしれない」という語の「努力」という語の対象はあったのだろうか。ピアノを努力すればよいかもしれない、という語があるとき、ピアノをやればよいか否かを導き出せばよいのであろう。往々にして「努力すればよいかもしれない」というとき、その対象は具体的にはなく、精進せよ、と言っていることとほぼ同義であろう。精進せよ、という語の意味は、努力しろ、という内容である。努力しなさい、勉強しなさい、というとき、その対象は具体的にはなく、ただ何かに向かって頑張りなさい、ということを示していた可能性がある。示す、というのは語りえない内容において使用される。神がいたら助けて欲しい、というとき、神について語りえない箇所というものが示唆される。神という語で示すだけで、それは語りえないというのである。魂はどこにあるか、という問いに対しても、魂は示すことができるが、魂がどこにあるか語りえない筈である。示す、というのは暗黙的であり、語りうる、というのは具体的な能作である。ウィトゲンシュタインは語りえないものを示すことの意義を熟慮していた。語りえないものについては沈黙せざるをえない、と彼は論考の語尾末に書いたが、語りえないものの中の明瞭化・明晰化が可能な箇所を諦めたわけではなく、「哲学探求」(以下「探求」と称する)という著書の名の通り、哲学的に探求していく姿勢が窺える。十二年越しに「探求」で復帰したウィトゲンシュタインは、論考における執筆の誤りを認めているという。
2.像とは何か
論理像とか像とかいうのは、イメージで見える対象である。私たちは永遠という語を聞いたとき、いつまでも終わりがない、という感のある像を思い浮かべることがある。無限性のある語においては、無限性の感のある像を思い浮かべることがある。論理像というのは、3個のアイスがあるとき、一個を父に、もう一個を母にあげたときに一個残る、ということを加味したときのイメージである。引き算で論理像を浮かべたり足し算で論理像を浮かべたりすることも懸念される。それにしても、完璧な像をいつも描くという風に上手くいくだろうか。物事に対するひとつのぼんやりした像、あるいは誤像を描いては拍子抜けしてしまう可能性がある。完璧な論理像にして考えてみても、1時間前の出来事という像と3000秒前という形の像とを結んで一緒くたにしてしまう誤った見掛けの論理的像も懸念されうるのである。完璧な論理像というのは、1+3=4という形の論理像である。語とは対象との対応関係にある、というときに、新たな語を新たな対象と結び付くという論理像が挙げられる。対象は単純である、とウィトゲンシュタインはいう。単純対象という語はあれど、複合対象という語もある。それが正しければ、彼の、対象は単純対象である、とは詭弁ではないか。また、語が対象を指示している、と彼は「探求」で述べたが、すべての語が対象を指示しているとは限らない。「あ」という語は何も指示していない可能性がある。「ファナスティ」という語は何も指示していない可能性がある。この何も指示していない語は結局もって誰かがニュアンスを加えない以上、言語的意味がない。意味がないこの語たちは理解されもしないし、語りえない。
究極の言語という語をウィトゲンシュタインは重視していた。究極な論理をウィトゲンシュタインは求めていた。私見では、究極な言語とは、完璧な秩序を具えた純粋な言語である。究極な言語によって随所適所を正しく説明することが彼の目的である。どんな単語にも置き換えることのできないはずの単語を可能な限り更新していく、こうした究極な言語を見出すことをトピカ的能作と呼ぶ。結局彼は究極の言語を深く語ることはなかったが、後世に初々しい一説として評価されることであろう。
存在の論理はともに超越論的である。語りえないものは、有意味な命題が語られることにおいて示される、とウィトゲンシュタインはいった。


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