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梶原和義のブログです。

2011-06-09 18:42:40 | 日記


イスラエルの回復が世界に真の幸福を実現する

人間が考えている幸せは、聖書から言えば罪人の頭で考えている幸せです。肉の思い(人間の常識、知識)で考えている幸せです。肉の思いは死であるということをまともに考えないで、ただ幸せになりたいと思っている。
国際連合の理想、政治の理想、経済の理想、家庭の理想と、いろいろな理想を考えていますが、結局幸せになりたいと言う一語に尽きるのです。
それをすべて、肉の思いを下敷きにして考えるのです。肉の思いが何であるかが、分かっていないのです。考え方の土台が間違っているのです。幸せを求めれば求めるほど、不幸せになるのです。妙なことをしているのです。
これは何のために地球があるか、何のために人間社会があるかを、正しく理解していないからそうなるのです。ただ現世に生きていることを、鵜呑みにしているのです。
現世に生きていることを丸呑みに肯定してしまいますと、今生きている人間の幸福が最大のテーマとなるのです。
宗教はそれを一生懸命に求めているのです。聖書に神の国という言葉がありますが、それは今生きている人間が救われるとか、幸せになるということを考えて、神の国へ行くと考えているのです。聖書が言う神の国は、人間が入るのでなくて、魂が入るところなのです。
死を真面目に考えない。この一点に尽きるのです。死を真面目に考えると、考え方の土台が変ってしまうのです。ところが、死を真面目に考えないで、生きていることを前提にして考える。そこで幸せにしても、信仰にしても、すべて間違ってくるのです。
生を土台にしないで、死を土台にして考えればいい。簡単なことですが、これができないのです。
生を土台にして考えると、ユダヤ人問題が考えられないのです。なぜかと言いますと、ユダヤ人は生を土台にして考えているからです。生を土台にして考えますと、現在のユダヤ人の間違いに、同調することになるのです。人間はユダヤ人の誤解と同じ誤解をしている。この間違いを正していく必要があるのです。
ユダヤ人は約束のために生きている民族です。約束の民です。約束を正しく信じれば、神の子になるのです。
ユダヤ人は約束の実体を正しく信じていないので、神の子になっていません。しかし約束の子に違いありません。神がアブラハムに約束を与えたことを変更できないのです。約束を与えたことは、世界の指導民族としたことで、ユダヤ人を中心にして世界は動いていく。それを変更することができないのです。ところが、キリストの十字架と言う明白な事実がありながら、いまだに歴史的事実になっていない。ユダヤ人がそれを受け入れないからです。
十字架が歴史的事実になって、世界の表面に現れたらどうなるのでしょうか。日本の政府がイエスをキリストとして認めれば、日本中の人々も認めるでしょう。
十字架が歴史の表面に現れるということは、国際連合が認めることになるのです。そうすれば世界中の人々が認めることになるでしょう。そうなるのがあたりまえです。
神は天地の主です。その人が十字架を立てた。従ってイエスがキリストであることを土台にしなければ、政治も経済も、法律も教育も、成り立たなくなるのです。これが実現するのが神の国です。千年王国です。こうなるのがあたりまえです。
この状態が現れていない日本社会ですから、遠慮をしながら聖書を勉強しなければならないのです。大きな顔をして聖書を勉強していることを世間に公表しますと、変った人間だとなるのです。
日本では聖書を信じていない人が普通で、聖書を信じていると変った人間になるのです。これは天地を造った神が表面に現れていないことを意味するのであって、こういう状態で人間に幸福があるはずがないのです。命なる神が、人間に隠れてしまっているのです。命の実物が隠れてしまって、ただ生活だけがあるのです。これで何になるのでしょうか。
イスラエルの回復のために、本当に祈る人がいないから、こういう曲がりくねった歴史が居座っているのです。肉の歴史、間違った歴史が、居座っているのです。
肉の歴史の親方は、この世の神です。悪魔です。悪魔が世界の大将になっている。これをくつがえさなければ、皆様の本当の幸福はありませんし、世界全体も幸福になりません。神の御名(実体)が、歴史の表面に現れないからです。こんなバカなことはあってはいけないのです。
旧約聖書を見ますと、やがて神の御名が歴史の表面に現れると書いています。全地はエホバの御名のみになると書いてあるのです。これは神が歴史の表面に現れること、キリストが世界の王として、堂々と真正面に現れること、世界の政治はキリストの名によって取り仕切られるようになると、聖書は預言しています。
聖書の預言は必ず成就します。そのためにイスラエルの回復の祈りをするのです。イスラエルはどうなったらいいのか。約束の子であると言う自分を自覚するだけでいいのです。ただそれだけでいいのです。
ユダヤ人は選民だと言っていますが、それはユダヤ教で考えている宗教の選民です。宗教の選民ではなくて、神の選民にならなければいけないのです。神の選民であることに気がつけば神の御名を崇めるようになるでしょう。ユダヤ人はモーセの掟を崇めています。これは宗教です。神を崇めていないのです。掟を崇めているのです。それが本当の宗教だと思っているのです。そういう間違いをしているのです。
約束の民が悔い改めて福音を信じるなら、世界歴史の表面に、神の御名が現れます。そして、世界は驚くべき平和になるでしょう。
人間は心から願っているものが、何かを知らないのです。学校の先生も、大学教授も、会社員も、商売人も、知らないのです。本当の目的が分かつている人がいないのです。
本当の目的が分かっていないのに幸せを求めている。幸せを求めることが悪いのではありませんが、肉の思いで幸せを求めることが間違っているのです。それを是正するためにイスラエルの回復を祈らなければならないのです。イスラエルが約束の真意をもう一度考えること、アブラハムの気持ちに、立ち返ってほしいのです。
イスラエルの回復を祈るという方法しかないのです。今、ユダヤ人一人ひとりを捕まえて、文句を言っても仕方がない。イスラエルのために祈れば、ユダヤ人が心を開いて、新約聖書を信じようという気持ちになるでしよう。そういう気風が現れるでしょう。これさえできれば、世界中を振り回しているユダヤ人の中心思想が変るのですから、まともな世界が現れるに決まっています。
これに、世界中の人が全く気が付いていないのです。神の御名が全地に現れるためにどうすればいいか、キリストの王国が世界に実現するためにどうすればいいかが、全く分かっていないのです。
御国を来たらせ給えと言って、祈っている人はたくさんいます。イエス・キリスト来たり給えと祈っている人もたくさんいます。いくら祈っても来たり給わないのです。来たり給うことができないのです。
旧約聖書に次のような預言があります。
「私は恨みをおく、
おまえと女のすえとの間に。
彼はおまえのかしらを砕き、
おまえは彼のかかとを砕くであろう」
蛇の子孫が、キリストの踵を砕いたので、立てないのです。足の踵の修理をしなければならないのです。アキレス膳が切れたぐらいなら立てますが、踵が砕かれると、立てないのです。足の踵を治すことが第一に必要なことです。
足の踵とは何か。これがイスラエル民族です。キリストの足の踵がイスラエル民族ですから、踵を治さなければ、キリストはこの地上に立てないのです。踵を治すとはどうすることか。アブラハムの約束を守るべきイスラエル民族が、それを全く忘れて自我意識、現象意識の虜になってしまった。これが踵がくだかれたことです。この間違いに気がついてもう一度アブラハムの心境に立ち返ることが、踵の修理になるのです。これができないと「その日には彼の足が東の空ルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ」(ゼカリヤ書1・4)という預言が成就しないのです。
踵の修理の祈りが、イスラエルの回復の祈りです。この秘密が、世界中のキリスト教信者に分からないのです。世界十数億のキリスト教信者がいますが、どうしたらイスラエルが回復するか、分からないのです。イスラエルの回復が、歴史の急所、地球の急所であることが、分からないのです。
イスラエルさえ回復すれば、世界の歴史は一変します。人間は勝手に幸福になるのです。この祈りは、必ず神に聞かれます。祈ることが神の業であって、自分が祈っているのではありません。神によって祈らされているのですから、必ず聞かれるに決まっています。一言、一言、必ず聞かれると信じて、神の耳に言葉を吹き込むような気持ちで祈るのです。折り方は下手でもいいのです。上手に祈らなくてもいいですから、どうぞ頼みますと、神にすがりつくように祈るのです。
仏とは、解けてしまうことです。心の中にあるもやもやが解けてしまうのです。自分は神の子であると言う自覚を持つことが、仏なのです。自分はいないという自覚を持つことが、仏になったことです。
自分自身はいないけれど、今、ここに生きているという事実はあります。これが神の子です。神の子であるという自覚を持つことが仏になったことです。仏になると、人生のもやもやが消えてしまうのです。
ヨハネによる福音書に、次のような話があります。
「イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、てぬぐいを取って腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいで拭き始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに『主よ、あなたが私の足をお洗いになるのですか』と言った。イエスは彼に答えて言われた。『私のしていることは今、あなた方には分からないが、あとで分かるようになるだろう』。ペテロはイエスに言った。『わたしの足を決して洗わないで下さい』。イエスは彼に答えられた。『もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私となんのかかわりもなくなる』。シモン・ペテロはイエスに言った。
『主よ、では、足だけではなく、どうぞ手も頭も』。イエスは彼に言われた。『すでに体を洗ったものは、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなた方はきれいなのだ。しかしみんながそうなのではない』」(13・3~10)。
ヨハネは人々に水でバブテスマを授けました。これは旧約の状態から新約の状態に移るための悔い改めのバプテスマでした。
イエス・キリストによるバプテスマは、魂にバプテスマされたのです。水によるバブテスマは、肉体そのものを消してしまうと言う意味があり、イエス・キリストのバブテスマは、人間の自我意識、現象意識に基づく、古き人を否定してしまうことなのです。これが御霊のバブテスマです。この両方を受けて完全になったかと言いますと、そうではないのです。ガラテヤ教会のように、御霊を受けてからでも、愚かなガラテヤ人とパウロに叱られて失敗していることもあるのです。ガラテヤ教会だけでなく、コリントの教会でも同様のことが言えるのです。
異邦人が御霊に導かれて、聖書を信じるということは、全く奇跡的なことです。そこで足を洗う必要がないかと言うと、そうではないのです。
イエスは、お互いの足を洗えと言ったとき、弟子たちの足を洗ったのです。しかし、それだけではいけない。お前たちも互いに足を洗えと言っているのです。
足を洗うとはどういう意味か。自分は固有名詞の人間に関係がない。生きた町や、家庭、教育にも関係がない。自分は神から造られたものだという認識にたてば、イエスに足を洗ってもらったことになるのです。暗きの権威から、愛子の国に移された。この世から神の国に移されたことを意味するのです。
最初にイエスが、私が足を洗わなければ、お前たちと何の関係もないと言ったのは、現世に生きていて、地面の上を歩いている。この世の人間であることをやめると言う意味です。そのためには、イエスに足を洗ってもらう以外に方法がないのです。
自分がイエスであるという、自覚を持つことです。イエスであるという自覚を持つと、すぐに宗教観念になりやすいのですが、実は人の実体はリビング・ソールである。魂であるということをはっきり確認すれば、おのずからイエスであるのです。リビング・ソールであると言う自覚を持たないままで、イエスであると言う自覚を持とうとすると、宗教観念になってしまうのです。
人はリビング・ソールであるということをまず承知して頂きたいのです。現世に生きている間、人間には歩みがあります。これらを一度イエスに洗ってもらったらいいというわけにはいかないのです。
自分は現世の人間ではないと自覚しても、これからの日々の歩みで、お互いの足を洗いあっていく必要があるのです。自分で自分の足を洗うことも必要ですが、自分の足は自分ではなかなか洗いにくいのです。
肉体の足なら簡単に洗えますが、生活の足は互いに洗いあう必要があるのです。自分自身の歩みは、自分ではよく分からないのです。分からない部分があるのです。それで互いに足を洗いあえと言っているのです。自分の一人合点にならないように、他人同士が足を洗いあうのです。
自分は間違いないと思っても、他人から見ると間違っているようなところがあるのです。足を洗う人も、洗われる人も、しかられるとか、認められるとかを考えないで、自分の歩みが清くなければなるほど神に栄光を返すことになりますから、イエス・キリストのために、互いに足を洗いあうことをするべきです。できるだけ親切、丁寧に、善意と好意をもってするべきです。
イエスは言っています。
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思い煩い、何を着ようかと自分の体のことで思い煩うな。命は食物に勝るではないか。からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るが良い。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる。あなた方は彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」(マタイによる福音書6・7)。
初めの人アダムは、生ける魂となった。これは海のものとも山のものとも分からない状態で、この世に出されたということです。
魂はまだ生まれていない人間です。アダムが鼻の穴から命の息を吹き込まれた。人即ち生ける魂になったとあります。生ける魂となったけれど神の子になったのではありません。又悪魔の子として決まったものでもない。生きているのでもないし、死んでいるのでもない。まだ生まれていないのです。
イエスは魂のために、何を飲み、何を食べようかと、思い煩うなと言っているのです。
皆様は、自分を人間だと思っている。固有名詞があり、どこかに住んで、何才だと思っているが、魂は人間ではないのです。
イエスは自分を人ではなく虫であると言っています。現世において、肉体的に生きている自分を虫であると言い切ってしまうと、楽です。自分が人間であると思うと、自尊心とか自分の立場、自分の感情がすぐ問題になるのです。
自分が虫であると考えると気楽です。人のことをあれこれ言う必要がないのです。自分は虫であって、本質は魂です。魂とはどういうことかと言いますと、神の言葉が肉となったということです。肉体となったという日本語訳の聖書もありますが、これは間違っています。肉という言葉を英語はフレッシュ(flesh)と訳しています。ボディ(body)ではないのです。
肉は形はあるが実体はないのです。形はあるが存在していないのです。山田さんとか加藤さんは、形はあるが存在していない。しばらく現れて、やがて消えていく霧のようなものです。霧は形はあるが、実在していないのです。
実は、山も海も川も大陸も、地球全体が言葉が肉となったものです。これはどういうことなのか。この意味を見分けることができるかどうかによって、その人の命運が決まるのです。命運とは命の運勢です。運命と言うのは、この世における人間の定めです。命運とは、過去、現在、未来における永遠の命の運勢です。これが決まるのです。
肉という言葉に対する考え方によって、皆様の永遠の運命が決まるのです。これが分かれば、現在の人間社会も、文明も、地球も、すべて霧であることが分かるのです。人間は言葉が肉となったことが分からないので、イエスを信じることができないのです。
イエスは魂のために、何を飲もうと何を食べようと思う煩うなと言っているのです。命のためとは言っていないのです。命と訳しても、全く間違っているとは言えませんが、魂と訳した方がいいのです。
魂という言葉は、生理機能と心理機能が一つになっている状態を言うのです。肉体的な働きと、心理的な働きが、一つになっているのです。これが肉です。
なぜ肉があるかと言いますと、五官を働かせるために、肉がいるのです。肉がなければ、目や耳が働かないのです。人が五官を経験するためには、肉がどうしてもいるのです。
肉体があるのではなくて、肉があるのです。言葉が肉体となったという日本語訳は、間違っているのです。永井訳では、「また言肉となりたまえり」になっています。肉体となったのではないのです。
キリスト教を信じている人々は困ったことに、肉体人間がいると思い込んでいるのです。あるキリスト教の人々は、永井訳を定本にしていながら、間違えているのです。定本にしただけではだめで、御霊を崇めないといけないのです。永井訳を定本にしますと、世間のキリスト教では通用しないのです。
言葉が肉になったというのは、実体が与えられたことではない。五官が働く場が与えられたのです。これが肉です。肉が無ければ、暑さ寒さが分かりません。スイカという肉がなければ、スイカである色も味も香りも分からない。それではスイカとして現れている神の愛が、全く認識できないのです。
もし桃に味がなかったら、何を食べているか分からないでしょう。それでは桃がかわいそうです。
そのように、天地万物には、それぞれの味わいがあるのです。万物を通して、神の愛が人の魂に響いてくるように造られているのです。
仏典でいう法は、物理的法則のことです。これがダルマです。天地はダルマで満ちてます。大木の一つ一つの木の葉がダルマですし、すべての動物、植物、鉱物もダルマです。ダルマが千々万々、何億何兆の形になって、万物として現れているのです。これが神の知恵、知識です。
法が万物になって現れている。これを色即是空、空即是色と言うのです。それを知ることが成仏することです。法を知れば如来になります。法を見たものは如来である。如来となった者は法に生きると仏典にありますが、如来は法を現し、法は如来を表すのです。
人間は法を見るために生れてきたのです。法を見るためには、肉となった魂がなければ分かりません。そのために私たちは言葉が肉となって、世にきたのです。これがイエスです。
人間は理性と良心が肉となって、この世に生きているのです。ところが理性と良心は神の言葉ですから、自分で勝手に用いてはいけない。信仰によって用いなければいけないのです。ここが難しいのです。
理性と良心は神の財産ですから、これを自分の思いで勝手に用いると、不法行為、犯罪行為になる。そこで地獄へ行かなければならないことになるのです。
皆様は幻です。人間は幻です。ダビデは次のように言っています。
「見よ、あなたは私の日をつかのまとされました。私の一生はあなたの前では無に等しいのです。
まことに、すべての人はその盛んな時でも
息にすぎません。
まことに人は影のように、さまよいます。
まことに彼らはむなしい事のために
騒ぎまわるのです。
彼は積みたくわえるけれども、
だれがそれを収めるかを知りません」。
(詩篇39・5、6)
この世に生きているのは影です。幻です。二十歳~三十歳くらいまでの人は血気盛んなときです。その時でさえも、息に過ぎないのです。ただ鼻から息をしているだけです。だからしばしの間現れていて、やがて消えていく霧なのです。
人の世にあるは影に異ならず。人間がこの世に生きていることは、影だと言っているのです。これをはっきり実感することが、イエスに足を洗ってもらうことです。
言葉が肉となった方に足を洗ってもらいますと、同じように言葉が肉となるのです。イエスに足を洗ってもらうと、イエスと同じような気持ちで生きられるようになるのです。そうすると、人の世にあるは影であることが分かるのです。商売をしてお金を儲けたといっても、虚しいものです。現世のことに執着したらだめです。
イスラエルの回復を願うというのは、人間の考えではなくて、神の信仰です。この世で幻の肉体を持って生きている分際でありながら、神の信仰に基づいて祈らされるだけなのです。イスラエルの回復と言うテーマは、人間の思いとは違います。神の切なる願いです。だから、必ず成就するのです。
言葉が肉となったということが、幻を意味するのです。ナザレのイエスでさえも、幻だったのです。イエス様ではなかった。幻様だったのです。この人に足を洗ってもらいますと、幻の兄弟になるのです。
この世から足を洗うのです。やくざの世界から足を洗うように、皆様もこの世から足を洗うのです。肉の思いから足を洗うのです。幻になったらもう死にません。幻は死ぬはずがないのです。
自分が幻であることに気づいた人は、神の国を見つけたのです。神の命を見つけたのです。とこしえの命を見つけたのです。
イエスが幻でした。地球も幻です。この世において私たちは、神の信仰によって生きているのです。損も得もないのです。
リビングとは、ただこの世で生きていることです。リビングが魂です。魂がリビングです。生きていることが、そのまま魂です。言葉が肉となったことが魂です。魂はただこの世で経験しているのです。良い事も悪い事も、すべて経験しているのです。実体ではないのです。心から悔やんだり、悲しんだりすることはないのです。
現世で、世間の人間が考えているような、喜び、悲しみがあると思う人は、イエスに足を洗ってもらったことにはならないのです。イエスと関係がない人間です。イエスに足を洗ってもらった人間なら、言葉が肉となっただけですから、幻です。
これを本当に信じるためには、勇気が要ります。神の勇気は、悪魔の一切の反逆をものともしないのです。神は必ず勝つと確信しているのです。勇気がなければ本当の信仰はわかりません。肉に勝つのは勇気だけです。
人間はこの世から去るに決まっています。ですから、この世における自分は影であるに決まっています。
皆様は肉の思いによって、この世に何十年か生きていたと思い込まされていたのです。肉の思いは、現世に現れている形を、実体と思っているのです。これが間違っているのです。
霊の思いというのは、魂として生きていることです。霊の思いで自分を見れば、現世における利害得失、喜怒哀楽、毀誉褒貶は一切ありません。魂は現世へ、ただ命を経験するために来たのです。遣わされたのです。神は魂をこの世に遣わすと同時に、その人が一生食べるだけの食糧を、その人の背中に背負わせて送り出したのです。
命は糧に勝る。魂は糧よりも大事です。魂をこの世へ遣わした神は、一切の糧をつけているのです。この世に生まれてきて、真面目に生活をしていて、食べられない人はいないのです。戦争とか内乱とか、特別の事情がある場合は別ですが、よほどひどい、無茶な生活をしない限り、真面目に生きていれば、必ず食べられるのです。
何を飲もうか、何を食べようか、命のことで思い煩うな。伝教大師西澄の言葉ですが、道心に餌食あり、餌食に道心なしと言っています。道心とは、魂のことを思う人間です。何を着ようか、何を食べようかと思い煩っている人間には、道心がない。魂に対する配慮が一つもないのです。ところが魂のことを心配している人は、何を着ようか、何を飲もうかと心配しないのです。魂の中に餌食が入っているからです。
命は糧より勝っている。体は衣より勝っている。体は魂が肉体的に働く拠点、ポイントです。魂のなかには、一生の餌食が入っているのです。神は肉体を与えた時、糧を与えたのです。糧を与えずに、肉体だけを与えるような、無茶なことをしないのです。
人間は、自分で働いて食べているのではありません。太陽がなかったらどうして働をしているのです。空の鳥を誰が養っているのでしょうか。野のユリを誰が咲かせているのでしょうか。誰が人の心臓を動かしているのでしょうか。人間は、空の鳥よりましではないかと、神は言っているのです。考え違いをしてはいけないのです。
明日のことを思い煩うな。生きていることの中に、餌食が入っているからです。明日の中に、明日の衣食住が入っているのです。一日の苦労は一日で足れりです。
皆様は人間ではなく、魂です。皆様の自我意識、現象意識は空なるものです。五蘊皆空、色即是空です。この世でただ経験しているのです。経験して何をつかまえるのか。神の愛をつかまえるのです。
夏は暑い。夏が暑くなければ、風の有難さが分かりません。海水浴の有難さも分からないでしょう。風の有難さ、海水浴の楽しさを味わうためには、夏の暑さが必要です。
冬の寒さは、太陽の暖かさを知るためです。私たちは現世で、ただ神を経験しているのです。夏が暑いのも、冬が寒いのも、すべて神を経験しているのです。人が自分を理解してくれても、くれなくても神です。気に入ることも、気に入らないことも神です。良いことも悪いことも、人間がこの世で経験することは、すべて神です。
五蘊皆空、人間の思いは皆間違っています。人間である自分が経験したことは、皆間違っているのです。人間は空気や水なしに、働けるのでしょうか。太陽がなくて働けるでしょうか。人間は根本的に考え違い間違っています。魂が経験したことは、すべて神の恵みになるのです。
魂として生きるのです。魂が皆様の本体です。人間はいません。魂がいるのです。魂がこの世に出てきたのであって、これに気づいた人は、海の世界から新に生まれるのです。海は宇宙の子宮です。血潮が漂っている真ん中に、赤ん坊が浮いているのです。
地球は子宮です。皆様はこれから生まれるのです。この世が海であると気がついた人は、生まれるチャンスを与えられているのです。
人がこの世にあるは影に異ならず。これが分かりますと、初めて生まれる資格を与えられたのです。この世に生きていないことが分かるからです