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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ケルトの押し付けを排す

2008-03-22 05:59:38 | いわゆる日記


 (ラーメンの丼の模様とケルトの遺跡の文様と似てないか?)

 まずは先日の続き。Yの葬儀にはやっぱり覚悟を決めて(?)行ってきた。行ってみたら、これもYの人柄なんだろうか、えらく参列者の多い葬儀で、とにかく車を停める場所がない。会場の整理係ももはやヤケを起こしていて、「その辺に停めて置いてください」と、寺とは何の関係もない近所の駐車場を指さす有様。

 まあ、しょうがないからね、私もそこに車を停めて、文句が出ないうちにと、大急ぎで彼の家族に挨拶をし、焼香だけして帰って来たのだが。これは感傷的になっている暇がなくて、逆に良かったのかもしれない。
 実は、葬儀会場へ行く途中、車のハンドルを握る腕が妙なこわばり方をしていて、「やだなあ」と感じていたのだ。何を俺はテンパっているのだ、と。けどねえ。

 友人の死を体験するのは、それは、これが初めてではない。けれどYは、ほんの小さな頃からの遊び仲間なのだ。オトナになってからだって、すぐ近所にある奴の店に飲みに行っていたんだ。そいつが今日から、もうこの世にいないのだから。

 そして帰り道。暗くなった国道を車を走らせつつ、自分がなぜYの葬儀に出るのに乗り気になれなかったのか、本当のところがやっと分かった。
 私は、菊の花なんかに飾られた祭壇の上にYの写真なんか見つけたら、自分は泣いてしまうんではないかと恐れていたのだった。
 実際行ってみれば、車を置いた場所が問題だったので気もそぞろのままに焼香を済ませ、祭壇の写真なんか見る余裕もなかったのであるが。

 現実と言うのはいつもこんな具合に索漠たるものである。

 で、本日のお話。これも先日と似たような話になってしまうんだけど。

 さきほど、長嶋一茂が主演らしき、”ポストマン”なる映画の宣伝番組がテレビから流れていた。どうやら映画では大々的にアイルランド風のトラッドというか、いわゆる”ケルトっぽい”音楽が頻繁に流れる仕組みのようだった。
 一茂やら北乃きいやらの演技のバックに、いわゆるケルトっぽいフィドルやティン・ホイッスルの嫋々たる演奏が被る。

 まあ、私もヨーロッパの古い民謡は好きで、いわゆるトラッド・ファンのはしくれだから、聴き始めは良い気持ちで聞いていたのだった。不思議な切なさと懐かしさに溢れた、遠い昔に失われたヨーロッパ先住民の残したメロディ。
 が、しばらくすると、その演奏が鼻についてくるのだ。なんだか、その音楽がそこにあることの不自然さが、非常に居心地の悪いものと感ぜられてくる。

 一茂たちが出ているのは、どう見ても”ケルティック”とは関係のない、日本の日常を舞台の映画なのである。そこに”ケルトな”音楽が割り込まねばならない理由は、基本的にはないのである。それは、そのような立場の音楽をあえて使うファイクの面白さ狙いという手法もあるが、それを成立させるための配慮のタグイは、どう見てもなされていない作品である。

 聴いて行くうち、無理やり木に竹を接いだわざとらしさの先に、「こんな音楽を持ってくる私ってセンスが良いでしょ?音楽ファンだったら分かるよね?」といった観衆への甘えたもたれかかりも感じられはじめ、ますます不愉快となっていった私だった。

 昨年あたりからかなあ、テレビのコマーシャルとかのBGMに、”いわゆるケルティック”なメロディが頻繁に使われるようになった。”サリー・ガーデン”あり”シェナンドー”あり、ともかくくどいくらいに日々、”ケルトなメロディ”を聞く羽目となった。。
 その真っ只中、”ケルティック・ウーマン”なるアイルランドのコーラスグループの唄の、まったく押し付けと言いたくなる過多オンエアに、すっかり食傷してしまい、何の恨みもないそのグループを、あるアンケートの”嫌悪するミュージシャン”の一位に挙げてしまったりしたものだった。

 なにか我が国の”業界”にケルト贔屓の仕掛け人のタグイがいるのだろうか?などと勘ぐりたくなってくるのだが。
 あれらの音楽をCM界に持ち込んだ者、どのような立場か知らないが、もしいるとして。
 ご当人としては「自分は我が国における”ケルティック”な音楽の普及に貢献した」なんて浮かれた自己評価に淫しているんではないかと思う。

 だがそれは、残念ながら見当はずれの認識だ。
 音楽には、その性質に応じた流れるべき場、というものがあるだろう。今風に言えば”読むべき空気”というものが。
 日常的に垂れ流すのに向いた音楽もあれば、プライベートな時間に密室の秘儀として聴くべき音楽と言うものもあるはずだ。
 そして”ケルトな音楽”は、ここ日本においてはまだまだ、秘儀の範疇に収められるべき音楽であろう。

 アイルランドでは、そのような音楽が日常的に奏でられているのかも知れないが、ここ日本と、かの国とは文化も風土も異なるのだ。デリケートな配慮がなされてしかるべきなのは当たり前である。
 ただ単にあちこちで垂れ流し、無理やり聴かせれば聞き馴染んでファンになるに違いない、なんて考えは、音楽ファンをブロイラーかなんかと間違えているぞ。その行為、むしろ我が国における”ケルト”のイメージに悪い手垢を付けてしまう結果しか生まないのではないかと、私などは危惧しているのだ。

 なんて書いてみても分からないんだろうなあ。困ったもんだよ、無神経な奴って。



2 コメント(10/1 コメント投稿終了)

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あるべき場所にない音楽 (シン@本)
2008-03-26 02:37:53
>日常的に垂れ流すのに向いた音楽もあれば、プライベートな時間に密室の秘儀として聴くべき音楽と言うものもあるはずだ。

なるほどなあ、と思います。「東京大空襲」の話もそうですが、あるべき場所にある音楽と、そうでない音楽がある。テレビはそういうことはおかまいなしに音を流す……。

今日の、というか昨日も「報道ステーション」で『あしたのジョー』懐かし企画をやっていたんですが、流れていたのが「ヘイ・ジュード」だったんで「日本の歌流せよ」と思ってしまいました。洋楽の方が「オシャレ」なんでしょうか。

チベットはどうなるのか……。
昔のチベット音楽のこと、話してもらえませんか?
. (マリーナ号)
2008-03-26 14:58:42
 「あしたのジョー」と「ヘイジュード」ってのは、どういう取り合わせか、さっぱり分かりませんね。リアルタイムで「ジョー」に接していた者としてふと気が付いたのですが、ひょっとして「ジョー」がストーリーとして盛り上がっていた時期に流行っていたのが「ヘイジュード」だったから、なんて・・・
 いすれにせよ、違和感しかない選曲でしょう。
 チベット音楽に関しては、まだまだ勉強中で書けることがあまりないのですが、まあ、いずれ、と言うことで。