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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

はっぴいえんど伝説を疑え

2007-07-02 02:32:30 | 60~70年代音楽

 昨日の日記に書きましたけど、あの【マイミク横断企画・日本のロック・アルバム・ベスト25】企画は私などが予想したよりずっと参加者も多く、凄い盛り上がりで。やっぱ、良いよなあ、音楽の話は。

 で、他の人のセレクトを覗かせていただいたり自分の選んだものの再確認などして、いろいろ、はからずも見えてきたものがあったり。これは思っていた以上の収穫がありそうです。

 たとえば、過去の名作の掘り起しなど進んでも、岡林信康なんて存在は蚊帳の外である、なんてのは痛快な話ですわな。そういえばそうなんだよ。あの男、今、あんまり語られることはないですね。
 いや私、あの男の正義のヒーロー気取りって、大嫌いだったんです、昔から。ああいう奴の再評価の動きとか始まらない事を切に願う、いやほんとに。

 それとも、そのうち、「あのような、本当のメッセージソングが歌える人に、もういちど注目が集まるべきなんです」とか余計な事を言い出す奴が出てくるんだろうか。いるかもな。レコード会社が岡林をもう一度売りたくなれば、当然。勘弁して欲しいなあ。他にも金儲けのネタはあるでしょ?

 それから、うん、こちらの話をしたかったんだ、ほんとは。

 はっぴいえんどの”日本語のロックの問題”は、ここでもいまだ持ち出されています。
 あの、もはや伝説のバンドなんでしょう、”はっぴいえんど”が、ロックを日本語で歌うべくさまざまな実験を重ねた、とか言う話。

 これも”日本のロック史”を語る際、繰り返し語られるわけですが。
 私は、この話題も昔から不思議でならなくてねえ。
 はっぴいえんど登場以前のGS連中や、さらに以前のロカビリーの歌手の人たちって、英語だけで”ロック”を歌っていたの?違うでしょ?

 ”恋に破れた 若者たちで いつでも混んでる ハートブレイク・ホテル~♪”なんて具合に、はっぴいえんどなんてバンドが世に出るずーーーっと以前から、日本の歌手たちは日本語でロックを歌って来たんだから。漣健児の必殺訳詞ワールドをなめるなよ、やいこら。

 あ、漣健児氏というのは、60年代アメリカンポップスの日本語訳詞を大量に行なった、当時の訳詞界の大家です。今挙げた”ハートブレイクホテル”や”恋の片道切符”や”シェリー”や”ダイアナ”などなど、人々に愛されたその訳詞作品は枚挙にいとまがない。

 そんな人もおられたというのに。
 それをねえ。皆はまるで、はっぴいえんどがデビューするまで誰も日本語でロックを歌ったことがなかったかのように言う。なにこれ?いっそ不気味でさえあります。

 はっぴいえんどが、GSや日本のロカビリー歌手たち、あるいは漣健児先生の作業と、革命的に違う事をしたとは思えないのです、私には。違うとすれば、何がどう違うの?説明して欲しいや、一度、きっちりと。誰にも分かる形で。
 という問いにまともに答えの返って来たためしもないんですが。

 なんか無理やり事を神秘めかした過大評価に思えてならないんですがね。


4 コメント(10/1 コメント投稿終了)

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日本のロック (nagamatsu)
2008-02-10 21:46:35
日本のロックに関して、都内在住47年、日本のロック元年を’69年とする時、都内公立中学生3年生であった私’55年2月生まれの私は本当の日本のニューロックのバンドとして「エイプリルフール」の名をあげたいと思います。それまでの私は60年代初頭の歌謡曲からアメリカンカバーポップス時代、エレキ全盛時代、GS全盛時代を通じて、ミュージックライフ、平凡パンチ、ボーイズライフ等の雑誌やテレビを通じて、いわばいわゆるリアルタイマーとして十二分に音楽の世界にどっぷり浸ってきました。そんな時代背景の空気が一挙に変わってきたのが当時69年の夏から秋にかけてのことであったように記憶しています。自分もエレキバンドなどをやっていた(シャドウズのコピーバンド)関係もあり、中学生にして老成していたというべきか、コンテスト何かでもファズでも使ってもっと元気出せよとおしかりの評を受けていたりしました。そんな自分たちもコピーに飽き足らなくなったというよりももっと自分自身に等身大の音楽をやり始めたいと思っていたとき、目の前に居たバンドが「エイプリルフール」でした。紹介記事でも本格ロックバンド登場とか本場ローリングストーン誌が認めただとか、かなり成りもの的に扱われていました。その後解散してバレンタインブルー、はっぴいえんどと成ったわけですが、その中心にいた細野晴臣、松本隆といった人物こそが、日本のニューロック革命の担い手を一挙に背負ってしまいあのような日本語ロック論争の中心に巻き込まれていったというのが、我々まわりにいたものの
実感です。他にも井上孝之、エディー播、竹田和夫といった人々もいたのですが、僕は自分がギターをやっていた関係から、ナチュラルトーンからファズトーンへの一大転換、そしてチョーキングやアーミングへの妙へと変わっていきました。
新宿御苑スタジオでアルバイトをされていたそうですが、私もよくお世話になりました。野音でのロックコンサートもほとんどあの時代よく通っていました。きっとどこかですれ違っていたかもしれませんね。ロックはやはりあの時’69年後半に変わったのだと思います。あれから40年近く街も人の姿も大きく様変わりしてしまいましたが、東京に住み続けているものとして
途中ちょっと田舎暮らしなども経験しましたが、自分にはいまだ落ち着くべき場所などなかかなか見当たらない今日この頃、久々にこのブログを拝見しましてロックなどにちょっと思いを馳せてみました。
始まりが頂点だった? (マリーナ号)
2008-02-11 01:04:01
nagamatsuさんへ
どうも書き込み、ありがとうございます。本当にどこかですれ違っていたのかも知れませんねえ。
それにしても、”ファズでも使ってもっと元気出せよ”のフレーズには大いに笑わせていただきました。そういえば私もあの当時、安物のファズ使ってギターで轟音を轟かせていたものでした。
お書きになっている69年の風物は、読んでいるだけで血が騒ぐものですが、あれが始まりで、同時に頂点であったような気もしないでもありません。あれ以上面白かった瞬間って、その後、訪れなかったって思います。
そして私は、時が過ぎ、”日本のロック”が市民権らしきものを得る時代が訪れると同時にエレクトリック・ギターを捨てて、生ギター抱えてシコシコ自作の歌を歌って歩く世界に入っていったのでした。
日本語のロック詩以前の事情 (つなでかなしも)
2008-02-24 23:05:19
はじめまして!

「日本語のロック/はっぴいえんど」に関して。
漣健児氏、みナみカズみ氏の60年代、音羽たかし氏の50年代はたまた、それ以前の奥山あい、森岩雄、井田誠一氏等の天才的な翻詞に乗せて川畑文子、バートン・クレーン、淡谷のり子、宮川はるみ、中野忠晴などがその圧倒的な存在感で、洋の東西、ジャンルを問わず唄い、踊っていた時代を認識してみれば、はっぴいえんどの日本語ロックなどはレコーディング軽音楽史100年の間の出来事としては大した事ではありません。
 (マリーナ号)
2008-02-25 02:01:50
つなでかなしもさんへ
書き込み、ありがとうございます。
お説には、まったく大賛同!であります。困ったものですよね、”はっぴいえんど教”みたいなものは。
松本隆なる作詞家、あの一時期の若者たちの”気分”の一面を切り取ることに成功したに過ぎないとしか思えないですよ、良く言っても。そしてバンド解散後には腐ったような歌詞を垂れ流した、それだけのことですし。