以前から、これについては書いておきたいなあと思っていたのだが、うまい取っ掛かりが見つからぬままに放り出していたら、アーティストご本人が意外な急逝をされてしまったのでますます書きにくくなってしまった。と言えばもちろん、”ザードのボーカル”こと坂井泉水なのですが。
その件については先に、工藤静香に関する記事の付け足しみたいに触れてみましたが、その部分は、このようなもの。
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そういえば、と言う扱いでいいのかどうか、”ザードのボーカルの坂井泉水”が亡くなりましたね。
彼女は、作品は非常に日なたの存在であるにもかかわらず、ご本人は日常、なにをしているのか分からない。ライブをするわけでも無しねえ。そのあたりが不思議だった、というか、そう思わせるのも戦略だったのかもしれないが。
それが、ガンの治療を受けている最中、病院の階段で転落死と。突然の知らせに、”魔境”に生きることの、実は昔から何も変わらない孤独など嗅ぎ取ってしまったんですが。
まあそもそも、”ザードのボーカル”ってさ、構成メンバーははじめから実質、彼女しかいないのは誰でも知っていることで、でもあくまでも”ザードのボーカル”って肩書きが強調され、テレビのニュースでまでもそう呼ばれる。この辺が今風の典型的芸能界の嘘のありようなんですね。
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先日、この文に関する感想をいただいたので、それに対して書いてみた返事
などの延長線上に何か書けるかも、などと今、思いついた次第であります。
いただいたコメントの中で興味を引かれたのが、「ジュディ&マリーや大黒磨季を
好きと言うのには比較的抵抗がないが、ザードを好きと言うのは抵抗がある。
なぜだろう?」というくだり。なるほどねえ。それは実感として非常にリアルなものに
思える。と感じて、下のような返事を書いてみたけれど。
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それこそまさに、ザードの音楽が日本人の琴線により深く食い込んでいたから、でしょう。基本的に日本人って、ああいうのが肌に合うんだと思います。あの線の細さとかフォークっぽさとか。だからこそ、パンツの中を見せてしまうような恥ずかしさがあるんでしょう、好きと言ったら。
それに比べると、”JUDY AND MARYや大黒摩季”って、より外国からの借り物くさいものがある。”本気”とは一本線を引いたところがある。だから好きと言っても恥ずかしくない。んだと思います。
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などと。とりあえず、思うところはこんなところか。
で、私がザードの音楽に関して考えていたこととは。とりあえず青春時代にロックのミュージシャンになど本気でなる気でいた自分にとって”ザードのようなタイプの音楽の変わらぬ人気”というのは、ある意味、挫折の記念碑のようなものであった、と言うこと。
日本人てさあ、やっぱりパワーないんだよ。生命体としての。ああいうザードみたいな音楽って、要するにフォークでしょ?私の青春時代の言葉を使えば”カレッジ・フォーク”って奴です。
C-Am-F-G7なんていう、恥ずかしくなるほど安易なコード進行をギターでかき鳴らしながら、よく言えば水彩画のように爽やかな、悪く言えば人畜無害できれい事のメロディを作り、いかにも低血圧な癖のない美声で歌い上げる。
そんな音楽を、我が日本民族はずっと前から好んできたんですねえ。なんと申しましょうか、四畳半を吹き抜ける竹林よりの風、一陣。みたいな余情ですか。
なんかねえ、そんなちまちましたものではなくもっとパワフルでもっとでっかい世界観が提示できないものかなあ、そんな苛立ちがあったわけですね。ロックを志した青少年としては。
けど、カレッジ・フォークからニューミュージック、それから今度はJポップて言うの?時代は変わり貼られたレッテルは変われど、脈々と、歌い手も入れ替わりつつ、そのような低血圧音楽は大衆の内に生き続けているのですなあ。もてはやされているのですなあ。
そして時を経て。まあ、日本人てのはそういうものだからしょうがないじゃないかと私も諦めがついた。と言いますかね。いやまあ、そんなことを考えるのも邪魔くさくなってしまった。どうでもいいじゃないか、世間の皆がどんな音楽を好もうと。皆がそれを好きなら、聴いてればいいじゃん。
ただ一つ。例の”ザードのボーカル”って言い方で相変らず亡くなった歌手を呼ぶのが当たり前となっているみたいだが、せめてそれだけはなんとかしてくれないものかと思う。これって、なんか彼女のいたポジションをロックっぽい扱いにしたいってわけなんでしょ?
ああいう”フォークソング”をなぜか執拗に”ロック”扱いしたがる理不尽、これが納得できないんだがなあ。その方がアーティストずらしやすいとか、商売上有利とかあるんだろうか?
あの種の音楽の演者がキャリアを積んで、「ロックにこだわってやって来て良かった」とかコメントするのを聞いた時の背筋をゾワ、と駆け上る気色悪さ、これだけは・・・ロックにこだわって来た奴にしか分からんだろうぜ。
うんまあ、これも本来、どうでもいいことなんだろうけどねえ。もはやロックとかにも思いいれは失っている私なんだから。それとも、これが私のうちに残っている、ロックへの最後のこだわりなんだろうか?むむ・・・
JUDY AND MARYとかは、「最近の音楽なにが好き?」と聞かれたときに答えるための方便みたいなものなのかもしれません。
「ジュディマリが好き」
「へ~、おしゃれなの知ってるね」みたいな。
「ZARDが好き」と言ったら
「ふーん……(じろじろ)ZARDねえ」
と、いろいろ見すかされるような気がする。
(でも考えてみたらどちらも「最近」ではないかも)
あれはフォークだな、とは前から思っていました。
系譜をたどると、「ふるさとの話をしよう」とか「早春の港」とか……童謡や唱歌からしてそうですね。
でも唱歌ってアイルランド経由でしたよね。
(違ったかな?あいまいな記憶ですみません)
近代以前はどうだったんでしょう。ZARDから江戸の歌までを考えてしまいました。
でもZARDってロックは意識していないのでは?
ファンも(つまり私も)ロックにあまり重きを置いていないし(笑)。
むしろバンドブームに乗っかったのでは、と思うのですがよく分かりません。
こんなに長く書くってことは、自分の心にモヤモヤがあったんですねえ。あらためてそう思います。
いずれもう一度、ちゃんとした形でザードについて書いてみたいと思っています。
唱歌ってのは、いずれにせよ西洋かぶれの音楽家によって作られた、あんまり自然なものではない作り物ですよね。近代以前はどうなんだろう?わらべ歌なんてのは、普通に日本音楽の系譜につながるものと思っていましたが、詳しく調べてみると何か出てくるのかもしれません。
”ザードとロック”を考える時、基本になるのはあの「ザードのボーカル」って言い方ですよね。”ザードのメンバー”って”ボーカル”しかいないって明白な事実なのに、テレビのニュースのアナウンサーまでもが、その言い方をする。これって、”ザードはロックだぞ”と念を押すためのものと思うんですが、では何のために?この辺も、解きたい謎です。
ザードはどう聴いたってポップスだと思うんですが・・・。
当時、自分の周りにはザードが好きだと言う人、結構いましたよ。ザードよりもTボランやワンズが好きだと言う人の方がほとんどいませんでした。
はい、ザードは多くの人に聴かれているんですが、我ら日本人、”洋楽ファン”としてあれこれ音楽を聴いてみても、結局限界はあのあたりじゃないか、なんて諦念が私の内なる”音楽を演奏する側”にあるわけです。
その一方、”ザードのボーカル”って言い方で、あれがロックであったかのように印象付けちゃう思惑が売る側にあるようで、そいつがますます口惜しく思われたりするのであります、私には。
いや、それはどうでしょうか。
ZARDに、ロックと思われていいことがあるとは思えません。今でもロックの印象といえば「騒々しい音楽」なんですから、さわやかなイメージで売ってきた彼女には、ロックと呼ばれるのはむしろマイナスだと思います。
実態のないバンドをZARDとして存在させ続けることによって、神秘的な雰囲気を作ろうとしていたのではないでしょうか。テレビにも雑誌にも出ない、という戦略の一環だったように思います。
その”バンド”ってのがアレなんですね。今、日本で、”ボーカル”なんてパートのいる”バンド”ってのはロックバンドしかいなんで、やっぱりあれは”ロック”って商標で売りたいのでは?
”ロックは騒々しい音楽”ってのは、そりゃ洗練された文化に生きる人が持つイメージで、”ロック→西洋の音楽→あっちから来たものは無条件にお洒落”なんて貧困な価値観のうちに生きているのが一般大衆というものではないでしょうか。
で、そんな”大衆”に”かっこいいもの”としてアピールしようって戦略だったんじゃないかと。
ボーカルのいるバンド=ロックバンド
という公式は、どうかな、あまり成り立たないんじゃないでしょうか。
最初はそうだったかもしれないけど(詳しいことは分りません)、今はロックだなんて意識せずに「ボーカルのいるバンド」をやっているところが多いような気がします。
いえね、なんでこんなにこだわるのかというと、私自身ZARDをロックだなんて感じたことは一度たりともないんですよ。全然、まったく、ロックではないもん。
これがBzとかGRAYとかだったら分るんですよ。ロックと思われることがステータスになる、ということが。でもZARDはねえ。ロックと思われて得することがあるとは想像できないんです。
”ザードのボーカル”と付け足す必要がある誰かがいる。しかも彼は一般のニュース番組にまで影響を及ぼす”権力”を持っている。これはなんなんでしょう?
レコード会社がバンドとして売り出して、その結果バンドとして売れたから「ZARDの坂井泉水」として呼ばせて、それが定着したのかもしれません。
特に深い意味はないような気がします。
あ、今思いついたんですが、「ブギの女王、笠置シヅ子さんです!」や「永遠の若大将、加山雄三さんの登場です」に近いのかもしれない。「ZARDの坂井泉水さん」って。
最初はバンドの名前だったのが、形骸化するにつれてだんだんと枕詞のようになっていったんじゃないでしょうか。
ん~、でも本当はよく分らない。というか、私、あんまり気にしたことなかったんです。
亡くなってみると、彼女の歌が無性に懐かしい。なんだかんだ言っても結局好きだったんだなあ、と今になって思います。