毎年五月のこの季節になると東京の山の手大空襲を想い出す。B-29による本格的な東京への空襲は昭和19年(1944年)11月24日から20年8月15日の敗戦までの10か月間に81回を数えるが、このうち大空襲とされているのは3月10日(下町)4月13日(城北)同15日(京浜)5月23日(山の手)同25日(山の手)の5つである。しかし、戦後相当な時期まで、僕は城北空襲の事は知らなかったし、二つの5月の山の手空襲を同じ日だと混同していた。
3月10日の下町空襲時、僕は東京の五反田(品川区)に住んでいて被害に会わなかったが、遠く業火が夜空に上がるのを望見している。4月15日の京浜空襲では、動員先の六郷(大田区)の軍需工場が焼失、焼跡整理に従事している。5月23日未明の空襲時、わが家は強制疎開で引っ越した今の地(目黒区)に住んでいたが、落ちてきた焼夷弾の破片を火叩きで消火した。しかし、4月13日の城北空襲と5月25日の山の手空襲には直接かかわりがない。
亡父の日記によると、5月25日から27日まで、わが家は停電でラジオを聞けず、新聞もなかった。28日になって五社共同のタブロイド版の新聞が届き、各地の空襲の被害を知った。亡父は23日の空襲の後も渋谷駅まで歩き、地下鉄で虎の門まで出勤しているが、初めて渋谷駅から神宮にかけての惨状を目にしている。僕だけではなく、当時の都民の多くは自分の周囲の被害は知っていたが、遠くの地の事については知らなかった。この結果、僕のように二回あった山の手空襲を混同していた者も多い。
3月10日の下町空襲時、僕は東京の五反田(品川区)に住んでいて被害に会わなかったが、遠く業火が夜空に上がるのを望見している。4月15日の京浜空襲では、動員先の六郷(大田区)の軍需工場が焼失、焼跡整理に従事している。5月23日未明の空襲時、わが家は強制疎開で引っ越した今の地(目黒区)に住んでいたが、落ちてきた焼夷弾の破片を火叩きで消火した。しかし、4月13日の城北空襲と5月25日の山の手空襲には直接かかわりがない。
亡父の日記によると、5月25日から27日まで、わが家は停電でラジオを聞けず、新聞もなかった。28日になって五社共同のタブロイド版の新聞が届き、各地の空襲の被害を知った。亡父は23日の空襲の後も渋谷駅まで歩き、地下鉄で虎の門まで出勤しているが、初めて渋谷駅から神宮にかけての惨状を目にしている。僕だけではなく、当時の都民の多くは自分の周囲の被害は知っていたが、遠くの地の事については知らなかった。この結果、僕のように二回あった山の手空襲を混同していた者も多い。
日本中でいえば、一番空襲が多かったのは、神戸だったそうです。
東京が一番かと思っていましたが意外です。
ただ、東京は人口も密集していますから、被害が一番すごかったのでしょう。
今では、そんな面影もありませんから想像もつきません。
だから忘れては、いけないのですよね。
5月25日の空襲では3651人の方がなくなっています。また、皇居、明治神宮なども焼けているためか、戦後山の手大空襲として資料を集め1冊の本になっています。しかし23日の空襲は、同じ山の手であり、762人が犠牲になっているのに総合的な記録がありません。
亡父の日記によれば、、連日の空襲で公共交通機関が停まっても歩いて、かなりの距離を歩いて通勤しています。今ならとても考えられませんね。