”Nyboma & Kamale Dynamique”
ブラック・アフリカを席巻したコンゴのルンバ、わが国で言われるところの”リンガラ・ポップス”に展開の3つの道あり。本場コンゴの音楽の都、キンシャサで猛者のバンドたちと切磋琢磨する、あるいは西に向かい、ヨーロッパ行きの道が控えているコート・ジボワールでのレコーディングに賭ける、さらにもう一つは東はケニア方向へ向かい、異郷、異文化の元での銭儲けに邁進する、と。
この構図を知ったのはもう20年も前のことになるのだが、今でも情勢は変わっていないんだろうか。当時の私はケニアあたりで行われているいかにも辺境、といった荒削りな輝きのあるサウンドに惹かれていて、なかなか手に入らないケニア盤を追いかける、報われない日々(?)を送ったものだったが。
この”アフリカ一の美声の持ち主”とまで言われた男、リンガラ界の人気歌手ニボマは、コートジボワール経由でヨーロッパ、つまりはパリのアフリカ音楽シーンで活躍したリンガラ・ミュージシャンの代表格とでも考えたらいいんだろうか。ヒット作の”ペペ”などは”ケニア派”の私も当時、購入して、結構楽しんで聞いたものだったが。そんな彼が70~80年代に世に問うた作品群からのベスト盤が昨年出ていた。
さすがに人気者、と言った華やぎが横溢した、楽しい盤になっている。パリに向かうとはつまり、かの地におけるアフリカ音楽愛好シーンに飛び込むわけだが、その需要のありよう、要するに銭金の動きって、どうなっていたんだろう。かっては音楽のありようだけしか興味もなく、「ヨーロッパに行けば、そりゃ儲かるんだろうな」とか浅くしか考えていなかったのだが。
ニボマを迎えたヨーロッパの観客たちの構成を想像するに、パリに滞在するアフリカ人たち、あるいはアフリカ音楽を好んで聞く、ワールドミュージック好きのヨーロッパ人などになるんだろうが、どれほどの厚みがあったのか。
今、CDのジャケを見ていて、ニボマが当時使っていたレコーディング・スタジオが名門、パテ・マルコーニだと知り、へえと思ったのだが、さすがにサウンドは洗練されている。流麗なギターの響きに導かれ、黒光りのするニボマの歌声が鞭のようにしないつつ躍動する様は、まさにアフリカの若大将であり、当時のアフリカ音楽の盛況を物語っている。一時代を築いた、といっていいんだろうな。
この輝きは、今でもパリの街の片隅で失われずにいるのだろうか。そういえばシンガラの新しい情報って、さっぱり入って来ないなあ。私が追うのを怠けているだけかも知れないが。80年代、アフリカ音楽が迎えていた一つの高揚の確かな証ともいえる作品集である。
あの当時、『ドゥブレドゥブレ』(紹介のアルバムのひとつ前の時代のモノ)はケニヤのナイロビで何回も街中で耳にしましたよ。この曲、コートジボアールのアビジャンに在ったディスコ・ストック社がオリジナル盤じゃなかったでしたっけ。。手元にLPが無いので、記憶の彼方という。。しかし、今から考えるとこのディスコ・ストック社、録音はパリでしていたのかも知れないですね。要するに製作元はアビジャンのディスコ・ストック。歌手はザイールからニボマ。録音場所はパリと。。。で、出来たLPをパリ、ブリュッセル、キンシャサ、ブラザヴィル、アビジャン、ナイロビと。そして、更に東京(日本盤が出ましたよね、確か)。と言う風にばら撒く事に相成ったのですから、儲かったでしょうね。ディスコ・ストック社は。そしてこの音楽を享受したのは、殆どリンガラ語圏の人とその他のアフリカ人。アフリカ人以外はホンの数%でしょう。日本盤だって売れた枚数なんて500枚かそこらでしょう。。
私も最近のニュースなんてまったく知らないので、今現在、ニボマがどんなかは知らないですが、キンシャサに戻って自身のオケでも持って、タブー・レイみたいになっているなら、OK! パリかブリュッセル辺りでお腹空かして居るようだったら。。いや、それは無いかな?このアルバムがその証拠!少なくとも小金は掴んだ筈。。で、一安心と。
ニボマに関する、このCD以外の最新情報というと、95年の新譜、というのがあるんですが、アリャリャ、もう10年前の”新情報”だ。私としては昨年、手に入れたんですが。
そいつを聞く限り、あのアビジャン・マナーというかパリ・マナーというか、例の音は健在ですね。商売的にはどうなのか知りませんが、音楽的には元気でやっているんでしょう。ジャケ写真を見ると、ルックスはすっかりオヤジ化してしまっていますが(笑)