まあとりあえず、ワールドミュージックを語ることを標榜している場所で、フランク・シナトラを話題にするバカがどこにいる?ってなものだが、その方向で言いたいことが出て来てしまったのだからしかたがない。
そもそもは、ひょんなことからフランク・シナトラのアルバムを本当に久しぶりに聞いてみたあたりから始まる。何しろいつもはアジア=アフリカ方面の貧乏臭い。もとい。素朴なローカル・ポップスばかりを聞いている私なのであって、そこへ何の準備運動もなしに、バックに豪華フルバンドを配して朗々と歌い上げる事を常とする、アメリカ合衆国の金が余っている側を象徴するようなシナトラの歌を聴いたものだからその落差に唖然としてしまい、そしていろいろ余計なことを考える羽目となったのだ。
ともかく、シナトラのでかいツラした歌と比べると、まあこういうくくり方でいいのか?とも思うが、いつも聞いている有色人種たちの音楽は、なんと慎ましやかな芸能のありようだろうかと思わされた。それはまさに、道路の隅っこを申し訳なさなさそうに歩いて行く、寄る辺ない遊芸者の姿である。
それに対しシナトラの歌は、堂々たる支配者の側の歌だった。それは、道路の道幅すべてを使ってパレードしながら歩いて行く誰も文句のつけようのない”勝ち組”の歌声だった。
だけどちょっと待てよ?シナトラって、貧しいイタリア移民の子ではなかったのか。なんかいろいろヤバイ事をしては過酷なアメリカのショー・ビジネスの世界をよじ登って来たのではないか。タイのモーラムの歌い手やギリシャのレベーティカの、あるいはアフリカの路上のバンド、そんな連中と基本は何も変わらないはずではないか。歌舞音曲を売りものとする、後ろめたい歌手稼業を生きている者ではないのか。
なのに、なんでそんなに彼だけ”デカい顔の歌”が可能なのか。
ここで私はふと、シカゴ・ブルースの最初の顔役、マディ・ウォータースのマッチョ・ソングになど思いをはせるのである。ハードなバンド・サウンドに乗せて「俺は男だ」と威張り散らし、ギトギトと脂ぎった男の性を誇示する、裏通りの顔役の歌声。それは、黒人ゆえに社会から一段下った存在として扱われる、そこから受けたプレッシャーを、性や暴力という方向に発散させて精神の均衡を図る社会的被疎外者の、歪んだ虚勢の発露である。
シナトラの豪華さも、本質はそれと変わらない筈なのだ。虚業である歌手稼業で世を渡る不安があり、それはその裏返しゆえの華やかな外見を持った。そいつがいつかどこかで、どのような成り行きでやら、全盛期を迎えんとするアメリカという万能幻想を一方で支える虚構として迎えられた。
いったんそうなってしまえば隠し持った危うさはむしろ、同じように寄る辺ない心根の砂の如き大衆にとって、幻想を共有するよすがたる聖痕として作用したのではないか。
晩年に至っても、”世界の覇者、アメリカ合衆国”の位置付けが国際情勢の激変によって危うく思われるたびに”奇跡のカムバック”を行っては、アメリカのタフさを変わらぬ豪華なフルバンドをバックに全世界に向かって誇示してみせた、シナトラのあの歌声。国家の、国民の、巨大で不定形な妄想を吸い上げて、国民歌手という妄想の大樹が、その枝葉を広げて行く。
そういえばランディ・ニューマンは、そんな国民歌手の内面を思って”ロンリー・アト・ザ・トップ”なる歌を送ったのだった。
いつも思うんですが、こちらのBlog名に使われている、“ワールドミュージック”という言葉。。。例えば、今現在も日本のCD屋でコーナー分けするために使われていますか?で、そこで使われている意味合いと、マリーナ号さんがコチラで遣っている時の意味合いは同じものなのか、どうなのかな?と思う次第です。
私の感想としては、突然、フランク・シナトラが出てくるような、そういう事が普通な事です。。ココでは!という方を断然、支持します。むしろ、どこまで、コノ手合いはココでは取り扱い外の音楽ですと言わない事が出来るかに、掛かっているのではと思いますが。。。
人のやってる事の基本スタンスにモノいうの、誠に僭越なことですが、お許し下さい。ネ。
たとえばシナトラのような歌手を、旅回りのモーラム一座の歌手や旅先のケニアのステージに立ったモレーノと同じ舞台に上げ、同列に分析してみよう、そんな試みは、これからも大いに行って行こうと考えています。
私の意図とまるで同じ事をkomtaさんが期待して下すっていること、非常に心強く、またやりがいあるものに感じています。ありがとうございます。これからもよろしく!