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宗教・占い探玄  

はてなblog 「tomoyotanのブログ」に引っ越ししました。変わらぬご愛顧の程、宜しくお願いします。

血脈譜

2011-09-29 08:56:03 | 日蓮・富士門流
 天台宗が円教・密教の統合に力を入れていたのは、日本天台の元祖である伝教大師からの伝統である。ただ依憑天台宗等の著作から考えられるのは、伝教大師は天台(法華経)の教えの方が優れているとしていることです。伝教以後、2つの価値観の比重は、あるいは同、あるいは勝密と、どちらかと云えば、密教優勢の考えが主流になって来ました。平安後期から鎌倉初期に活躍する証真法印は、円密に優劣はないとしました。むしろ円教に比重を置いた考えを示しました。元三大師以降、円密の相承は両方とも重要な価値観を持っていたので、証真法印のような学者が登場する基盤は出来ていたんだと思いますね。

 鎌倉時代、叡山では法華を宣揚する学者が輩出されました。中でも俊範法印は法華勝、真言劣を主張する学者であったと云います。日大直兼問答を見ると、俊範法印は叡山における日蓮聖人の師匠にあたる方のようです。(三塔の学頭が一介の若年僧をマンツーマンで教授したとは思えないので、ここでは大勢いた聴講生の立場で教えを受けたとする方が正しいかも知れません。)聖人の御書を読むと、法華勝の考えを持っていた僧侶は、複数に亘り存在していたようです。「法華の優位を知りながら、主張しないとは何事か!世の天変地異は仏法の乱れが原因じゃ」と聖人は考えたんでしょうね。

 日蓮聖人の著作を読むと、「戒体」に言及している箇所が所々あります。若年期の論文も戒体を論じたものでした。真言にしても天台にしても、菩提心を発展させて仏果に至る理論が完成されています。仏果の本に成る部分に焦点を当てたのは将に慧眼ですよね。人が仏に成るための根本的な教えは何か?ですが、日蓮聖人は結果的に法華血脈と結論づけました。聖人が何故ご本尊と云う今までにない信仰の対象物を創作したかと云いますと、信心する人々により簡便な方法で観心を成就させるため、法華血脈を相承させたかったことにあります。ご本尊の構成は「(玄旨)戒壇」「(玄旨)本尊」「観心(題目)」から成り立っています。

 日蓮聖人は「余経も法華経も詮なし、ただ南無妙法蓮華経なるべし」と書いたのは、法華血脈を受け継がなければ意味がないですよ、と云う意味なんですね。天台には円頓と云う考えが根本にあります。三諦円融がその基本テーゼです。この教えは法華経にしかないんですね。三諦円融こそ仏種です。しかし、これは信心と機根の両方でしか受け取ることが出来ません。これを自分の胸に納めることこそ下種なんですね。方法論としては一心三観等、天台の教観に詳しいです。しかし、末法愚鈍の衆生は機根が優れていないので、一般的な行法での悟り、将又仏種を下種することは甚だ困難と日蓮聖人は考えたんじゃないかと思うんです。凡夫が観心を成就させるにはどうすればいいか?そこで法華経の中にある戒体(法華血脈)に着目したんですね。そこでたどり着いたのが、三大秘法だったんですね。日蓮家が謗法を喧しく云い、他宗を寄せ付けない(否定する)のは、純円こそ日蓮義の根幹であるからです。以信代慧こそ日蓮義の観心成就の生命です。また、仏法の正師たちが、本覚を説きながら始覚の考えを捨てないのは、下種・調熟と云う「行」が仏になるために人間には必要なんですね。

 普通、得度するだけでもかなりの費用が要ります。また、当時の天台は玄旨灌頂など、円教の奥義を知る儀式に参列するにも多額の費用が必要でした。それがどうです、今の日蓮信徒は労せずして手に入れることが出来ます(信心さえあれば)。聖人の弟子である日朗上人はご本尊のことを玄旨本尊とも呼んでいます。ここで云う玄旨とは、即ち法華経の極意を意味します。「紙に題目を書いているだけで、何の功徳があるのか?」「梵字でもない漢字に何の意味があるのか?」と知らない人は云います。では何故お経は漢字ばかりですが、それを読むのでしょう?それは漢字であっても、観心が成立するから功徳があるのです。この辺りは中古天台の書籍を読めば分かると思います。漢字にも観心はあるのです。

 日蓮聖人の叡山での師、俊範法印が権門の信者に乞われて法華血脈を授ける時、「南無妙法蓮華経」を授けました。天台真盛宗の重授戒灌頂でも「南無妙法蓮華経」を授けます。「南無妙法蓮華経」とは以信代慧を基本とする「妙法」観法の寶号であり、本来備わっている自身の寶号でもあります。「一言の妙旨・一教の玄義」は古来より色々と云われていますが、「南無妙法蓮華経」でいいんじゃないかと思いますね。また、日蓮家の三大秘法から見る法理は、天台宗の円頓戒(戒灌頂)と内容的には同じです。余談ですが、28日はお不動さんの縁日です。お不動さんの大祭に突風が吹く時がありますが、あれは「逆風」と云い真言師が祈祷した現証です。祈祷する人物の徳にも拠りますが、真言秘密の修法は円頓戒(戒灌頂)の法理を弁えて修さねば良い結果は得られにくいのです。この辺りは、日蓮聖人の祈祷抄に書いてあるので参考にして下さい。

<追記>仏種はこの身五大(行者自身=自分が法界塔婆=五輪)の三諦円融にあります。どうも日蓮家ではお題目至上主義に流れがちですが、本末顛倒しているように思います。日蓮聖人は行学二道を励むように門弟に言い残しています。「行」(唱題行)の理屈の補填として、「学」がどうしても日蓮家の教理には必要です。その補填の「学」として日蓮家に不可欠なのは三諦円融観です。仏像に譬えるなら、像本体がお題目、その中に入魂するべきものが三諦円融観である。勿論、理観での三諦円融は智恵のある行者の「行」なので、学びとして理屈を頭に刷りこんで置くのです。日蓮聖人にとって、三諦円融、一念三千、十如是、五重玄、お題目は各々別名にして、しかも一つでした。理屈がばっちりでないといけないと云っているのではありません。肝心な知識だけは胸に畳んでおかなくては唱題の効果は乏しいです。簡略化した唱題行を基本に置いているだけに、「観(唱題行)」の部分を「教(理屈)」で補う必要があります。教観二門は両翼に等しいです。浄土門無相文雄の金剛寶戒を解説した書の中に、法然上人が念仏より心法が優れていると断じている箇所があります。人が仏法に目覚め、その理屈を探究して、更なる強情な確信を得るために「学」は大切なのです。また、信仰の対象物を目当てに観心が成立しやすくなるのは当然と云えるでしょう。鏡像円融で云う、自身を鏡に写し、本来の面目を観想することこそ極意なのですから。(唯、強盛な信心は除きます。その人は人中の優曇華のような方です。智者、愚者の差別なく立派な冥益が得られるでしょう。更には、三大秘法は強盛な信心により、簡単に功徳が得られるようシステム化されています。)非常に大切なことなので追記しておきます。