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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

人間関係の優れた教科書 松下幸之助のメッセージ

2025-09-26 23:24:33 | 心理

最近、Youtubeで松下幸之助のメッセージをよく聴く。

貧しい家庭に育ち、尋常小学校を9歳で中退し丁稚奉公に出て、苦労して小さな町工場をあのパナソニックという世界的大企業にまで育て上げた経営の神様と呼ばれた人物だ。

今まで経営者など全く興味が無かったが、たまたまYoutubeで見つけた彼のメッセージを聴くにつれ、惹き込まれてしまった。

彼のメッセージは驚くことに、私が40年間、実体験をもとに学び続けて得た人間心理と全くというほど共通していた。

彼が単なる成功した経営者というだけでなく、人間心理についての深い洞察力を自らの体験でもって獲得してきたことが分かる。

下記のYoutubeの投稿は非常に参考になる。是非、視聴していただきたいと願う。

人間には残念ながら恐ろしいことに、人の心を踏みにじっても、ずたずたに引き裂いても何とも思わない人間がいる。

そのような人間に関わると回復するのに何十年、いや一生かかっても回復出来ないほどの深手を負うことがある。

Yottubeの後半に出てくる職場の人間関係で注意すべき人間像として、嘘をつく人というの出てくるが、実際に言ってもいない虚偽の内容を密告して引きずり降ろそうとする人物がいる。私は過去にそのような人物の被害に会った経験がある。

松下氏の良いところは、このような人物に対しても本人が自覚し、改善する気持ちがあれば寛容にすることをアドバイスしている。

人間に対する根源的な暖かさが感じられる。しかし自分の幸福を阻むものに対しては一貫して、線を引くことを強調している。

 

【人間関係の地雷】“この言葉”を口にする人は危険、松下幸之助が警告!関わると不幸になる人の決定的特徴|松下幸之助

 

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ガスライティングの恐ろしさ

2025-08-16 00:41:57 | 心理

最近、「ガスライティング」という言葉を耳にするようになった。

きっかけはYoutubeの投稿である。

近年、人間心理をテーマにした投稿をかなり多数見かけるようになった。

投稿者自らの体験により、「絶対に関わってはいけない人物とはどのような人間か」、「心の苦しみを解決するにはどうしたよいのか」といったテーマを扱っており、私も時々見ている。

このような投稿をする方は、心理的に問題を抱えた人間の犠牲になりメンタルを病んだが、自らその苦しみと向き合うことにより苦難を乗り越え、幸せをつかみ取った方々であり、投稿で述べられる言葉には強い説得力と凄みが感じられる。

私が最も苦しかった20代の頃にこのような投稿に出会っていたらどんなに救われただろう。

当時はこのような情報を得ることは皆無であった。

私は当時、苦しみの解決のために殆どの時間を費やしていた。当時は書籍かカウンセリンでしか解決法を得る手段が無かったが、書籍に関しては大学の先生や精神科医が書いたもののみであり、そのような著者たちの書いたものは言っちゃ悪いけど著者自身の体験が無いが故に全くというほど役に立たなかった。唯一、加藤諦三氏だけの著作が頼りだった。加藤諦三氏の著作は殆ど全て読んだ。

 

現在Youtubeで投稿されているものの中には非常に助けになるものがある。

心が病む人というのは、例外なく、真面目で自責の念の強い人、自己否定の構えのある人、優しいけど心が弱い人、自分は周囲から受け入れられないと思い込んでいる孤独な人たちである。

一方、人の心に意図的にダメージを与え、心を病ませるような人物はどのような人間なのであろうか。

一言で言えば、心に深刻な問題を抱えた人間である。生育過程で何らかの心的外傷を受け、癒しがたい苦しみを抱えた人たちである。

ここで重要なのはこのような人たちの特徴は、このような心の苦しみに自ら向き合おうとせずに、その苦しみから生じる不快感情を人を利用して解消しようとすることである。

とくに注意したいのは、その解消方法が極めて巧妙で狡猾であるということだ。

誰が見ても犯罪と分かるようなあからさまな方法で人を傷つけることはしない。

誰から見てもその解消方法が悪いことだと判断されることなく、着実に実行される。

そしてこのような人物の犠牲になるのは先に述べた、自己否定が強く、自分は至らない、悪い人間であるが故に誰からも相手にされない人間だと錯覚している人たちである。

心を病ませるような人間は決して、自己肯定感が強く味方がたくさんいるような人間をターゲットにすることはない。彼らのターゲットとする人間を嗅ぎ分ける能力は天才的と言える。

Youtubeの投稿ではこのような注意すべき人物の見分け方や対処方法、病んだ心の回復方法まで解説してくれている。

最も重要なことはこのような人物を見抜けるようにすることである。

しかし自己否定が強い段階ではそれが難しい。自己否定から脱し、自己受容、自己肯定がある程度出来るようになって判別が出来るようになってくる。

とにかくこのような人物から何がなんでも離れなければならない。メンタルがボロボロになってからでは遅い。回復するのに何十年も要するようになる。このような人物の犠牲になり自殺した人がどれだけいるだろうか。まさに「魂の殺人」である。

 

話がだいぶ反れたが、「「ガスライティング」とは一体どのようなものなのか。

ネットの「日本の人事部」というサイトで詳しく具体的な解説がされているのを見つけた。

ちょっと以下に抜粋及び要約させていただく。

 

「ガスライティング」とは、意図的に誤情報を与えるなどして相手が「自分の記憶や判断がおかしいのでは」と疑うように仕向け、心理的に支配しようとする行為。

具体的な事例としては、ある会社において上司が部下に「「昨日のミーティングで決まったじゃないか」と叱責し、会議メンバーは沈黙、その部下は「自分が聞き漏らしたのかもしれない」と反省し、ミスを謝罪した、とういもの。

このサイトでの上記事例について「ガスライティングの典型例。加害者は過去の行動や発言を都合よく書き換え、弱い立場の人の認知を揺さぶりながら支配関係を強めようとしています。」と述べている。さらに「健全な職場で働いている人には信じられないかもしれませんが、常習的に標的を作って追い込む人が存在するのが現実です」と述べている。

 

この事例において加害者は日常的に心に深刻な問題(苦しみ)を抱えており、その心の問題に自ら向き合うことを拒否し、その苦しみから生じる怒り、憎しみなどのマイナス感情を人を利用して一時的に解消していることが分かる。

しかもその解消方法が、その真意を気付かれることなく確実に達成するために最も安全なターゲットを選択し、第3者からも加害者であることが見抜かれないように巧妙であることだ。

 

私も若い頃に上記の事例と同じような体験をしたことがある。

正義、正論を隠れ蓑にした悪意ほど気を付けなければならないものは無いだろう。

相手の思う壺にはまればメンタルは確実に病む。最悪自殺に追い込まれる。

私は勤め先で企業倫理推進担当という役割を担っているが、このような被害により自殺に追い込まれた事例を多数見て見て来た。

ターゲットにされたら際限がなく攻撃が実行される。何故ならば加害者の心の苦しみが本質的に解決されることがないからである。

このような事例に遭遇した時に、唯一頼りになるのが、「言われた瞬間、何とも言えない釈然としない気持ちが湧いた」ということである。

心というのは何が正しく何が間違っているのか、何が真意なのか、ちゃんと見極める機能を根源的に持っているのである。「釈然としない」気持ちが沸き起こったという事実を軽視してはならない。

自分の心を守ることが出来るのは自分の心の感じ方にかかっている。

 

【追記】

ガスライティングする人間をなかなか見抜けない理由として上記以外に、このような人物が意外に社交的であったり、地位の高い人であったりすることがあげられる。

そのためガスライティングの被害を受ける人は「自分が悪いからこのようなことを言われるんだ」と結論付ける傾向がある。

ガスライティングする人間は隠れ蓑を着ているがターゲットだけに自分の本当の姿を見せる。

逆にいうと、自分にだけに見せた相手の真の姿を見抜けるようになれれば、それが相手にとって脅威になるということでもある。

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「ずべ公」と「優秀な刑事」

2025-07-04 22:46:10 | 心理

明日は休日だがちょっと早く起きて、マンドリン合奏のための個人練習をしようと思った。

寝る前に少しだけど書いておこう。

今日、ちょっと大きな仕事が片付いたのだが、久しぶりに上司や同僚と上手く、また気持ちよく連携して仕事が出来た。

何故かというとよく分からないのだが、今朝の通勤の電車の中で、自分の不完全さを受け入れられないと、その不完全さが鏡として映った他人(すなわち本当の自分)を責めたくなるのは辛い生き方だな、ということをあらためてふと思ったのである。

そして不完全でいい、不完全で当り前、みんな不完全、だから自分をもう責めなくていいんだ、という感覚になったのである。

不思議なことに完全、完璧を目指すと人は自信を失い、不完全でいいと思えるようになると人は自信を持つように出来ているようだ。まさにパラドックスの心理だ。

不完全であることを許し受け入れられるようになると、他人に対する親しみが強くなる、というのは人間の心の真理のようなものだと思う。

 

不完全であることを受け入れられれば、仲間と協力して最大限の効果をもたらすことが出来る、というのもこれも真理、というか心の法則のようなものだと思う。

「心理的安全性」と言う言葉を近年、職場の研修で聴くようになったが、「心理的安全性」とは「不完全であることを受け入れている」人たちの集まりで初めて実現可能な状態、環境であろう。

 

先ほどGメン75を見たが、「ずべ公」、「どぶねずみ」と見下げられた女性と優秀な男性刑事との心理描写の対比が描かれたストーリーであったが、前者の心の核心は純粋で人間の心を失っていなかったのに対し、後者の心は野心や出世欲にまみれた冷酷で狡猾なものであった。

前者の女性は初めはその外見や他人の証言により響刑事(Gメンの女性刑事)から人生の落伍者と蔑まされ、激しく叱責された。しかし、響刑事は最後にはこの女性の純粋な偽りの無い心に圧倒された。

「不完全さを受け入れる」こととこの「純粋な偽りの無い心」とは連関していると思う。

 

人間、どう生きようが自由であるが、どちらの生き方が幸せと言えるだろうか。

 

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対人恐怖症の解決の糸口として簡単に実行出来ること

2025-06-27 22:48:24 | 心理

勤務先で最近、ある取り組みが行われている。

それは、とにかく挨拶すること、ほめること、そして、ありがとう、と感謝の気持ちを進んで表現しようというものである。

当たり前のことだと思われるかもしれないが、これが日常、自然に出来ていない人は結構いるのではないだろうか。

別に、嫌ならしなくてもいいのである。

しなかったと言っても責められる筋合いはない。

以前の自分はなかなかこの基本的なことが出来なかった。

何故かと言うと、言っても無視されるのではないかという恐怖があったからだ。

おはようございます、お疲れ様でした、と言っても何も返ってこなかったときの何とも言えない気持ちを感じたり、ありがというと言っても素気ない態度を取られた、など嫌な体験をしたからではないかと思う。ある意味トラウマだと思う。

実際に同じ職場、同じサークルでも、顔は知っている程度の人には挨拶をされてもしない人は少なからずいる。

以前は毎日同じ環境にいるのに何故この人は挨拶を返してくれないのか、私は挨拶もしてもらえないほど存在感の無い、無価値の人間なんだろうかと思い悩むこともあった。

でも相手が挨拶するかどうかはあくまでも相手が決めることなのである。それは相手の性格、価値観、習慣、人間に対する親近感の度合いによって差が現れる。こちらがコントロール出来るものでないし、コントロールするものではない。

単に挨拶しなかった人間はそういう種類の人間であったにすぎないということである。

しかし、中には、殆ど面識が無くても積極的に挨拶してくる人もいる。ドアを開けたときに先方から丁寧によけてくれたり、こちらが譲れば丁寧に感謝の意を表す方もいる。こういう方と接したときには自然と気持ちが嬉しくなる。

このような人は観察していると本質的に人間が好きで、警戒心が薄い人である。また人に対するマナーが若いときから鍛えられている人でもある。

今いる勤務先には同じフロアに大勢に人間がいるので、実に様々な人間がいることに気が付く。

本質的に人間が嫌いで、敵と感じている方はなかなか挨拶をしなかったり、ドアで鉢合わせになったり狭い通路ですれ違うときでも自分からよけようとしない。それは当たり前のことである。何故ならば、挨拶をしたり、譲ったりすれば「自分が負けた」、「自分の価値が下げられた」と認識するからである。

でも実はこのようなふるまいをすることでそのような人はますます、人間が嫌い、人間は敵だという無意識に定着した感じ方を強化しているのである。

一方、対人恐怖症に苦しんでいる人は殆どの場合、本当は人と親しくしたいのだけど、過去の人との恐怖体験から挨拶や感謝の気持ちを表現出来ない。

気持ちを表現して無視されたり、拒絶されたときの恐怖が身に染みているからである。

しかし、あえて言いたいのは、それでも本当に人と親しくなりたいという純粋な気持ちがあるのならば、思い切って挨拶したり、ありがとう、と言ってみてはいかがだろうか、ということだ。

10人のうちは半分は返ってくるかもしれない。そのうち、何も返ってこなくても何も感じなくなる。

挨拶をしてくれないのはその人の選択であり、自分に無関係であることが実感出来るようになるからである。

挨拶をするしない、感謝の気持ちを表現するしないは全く自由である。誰も咎めることは出来ない。

しかし、あえて言いたいのは、挨拶をする、感謝の気持ちを表現することで人間が好きだ、人間に親しみを感じるという感情が強まっていく効果があることは間違いないということだ。

「行動はその背後にある動機を強化する」、これは確かジョージ・ウェインバーグの言葉だったと思うが、自分の体験からもそのとおりだと思う。

 

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最近得た気付き

2025-05-09 22:04:40 | 心理

昨日だったと思う。

ある重要な気付きがあった。

通勤電車の中でボーっと窓の景色を見ていたとき、こんなことが浮かんできた。

20代のころの、こんな自分では駄目だと思い、凄まじい努力をして自分を立派な人間に変えようとして、心を病んでしまったときの自分がふと浮かんできた。

そのときに、あの頃、結果的には間違った選択、すなわち自分を破壊する選択だったにしても、自分で正しいと信じて疑わずに一生懸命に、真剣に努力していたんだな、と心底思えたのである。

自分の心を自ら破壊する行為であったのにもかかわらず、自分なりに生きることにものすごく真剣で、誠実であったんだなと。

その真剣さ、誠実さというものが半端でなかったことに気が付いたのである。

 

間違った解決方法だったけど、一生懸命に頑張った自分がなんかいとおしく感じたんですね。

それから1つ大きな重しが取れたように感じられた。

自分を丸ごと受け入れる、ということがこういうことなのかな、という実感があった。

 

音楽でいうと、チャイコフスキーもベートーヴェンもシューベルトも最後には苦しかった人生を丸ごと受容する心境に至ったのではないかと思っている。

彼等の最後の方の音楽を聴くとそんな感じがする。

プラス、マイナス、ゼロ。

このマイナスを受容できるようになって初めて、ゼロ、すなわち、ものごとの価値に差が無いことが実感として分かってくるような気がするのである。

 

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