もうずいぶん前の話になってしまうけど、ラウンド・ミッドナイトなる映画があった。なんか評判がよかったみたいなんだけど、私としてはまったく納得できないと言うか、世の中に感じている疑問点がある意味象徴的に現れている映画だったんで、いまさら遅いけど論じてみる気になった次第。
そもそもその映画自体は、アメリカで食い詰めた黒人の老ジャズ・ミュージシャンが、稼ぎ場を求めてヨーロッパに、それもジャズを「芸術」として認識し受け入れているらしいフランスに旅立つ、その彷徨記の如きもの。本物のジャズ・ミュージシャン、デクスター・ゴードンが主人公を演じていた。
こちらとしては音楽映画は好きだからソッコーで見に行ったのだが、なんかすっきりしない出来上がり。何をいいたいのやら分からない代物なのだ、一見。
老ジャズマンが、アメリカでは見つからなかった仕事を見つけられたり見つけられなかったり、お定まりの人種差別にあってみたり、の物語がつずられて行くのだが、まあ、それだけの話である。
それはいいとするとしても、その老ミュージシャンの周りをやたらとチョロチョロ動き回る、彼のファン、という設定のフランス人ジャーナリスト役の男が邪魔でならないのだ。こいつはなんの役に立っているのか?始終、老ジャズマンに賛美の言葉を送り、彼が人種差別を受けたからといって憤激したりするのだが、物語の構成上、何の役に立っているのかが、さっぱり分からない。
物語は進み・・・以下のような会話が、老ミュージシャンとジャーナリストの間に交わされるに至って、私は映画の裏に隠された本当の主題、つまり「ジャズ賛美に名を借りた白人絶対主義」という狡猾な代物の存在に気がついたのである。二人はこのような会話を交わした。
ジャズマン「俺はクラシックも聞くよ。あれは最高だ」
ジャーナリスト「本当かい!君もクラシックを聞くんだ」
ここに、この二人、と言うかヨーロッパの白人と、彼等の社会に取り込まれて生きる黒人との間に取り交わされた密約が顕わになっている。
すなわち、「俺を”土人”ではなく人間扱いしてくれ。あんたたちには絶対服従を誓うから」という黒人側の条件と「お前らが”我々黒人は白人より優れている”などと言い出したりしなければ、我々白人は、お前らを2流ながらも人間と認めるにヤブサカではないぞ」との、白人側の出した条件の合致である。
ジャーナリストは黒人ミュージシャンを映画の中で終始賛美し続ける。まるで黒人を自分以上の存在と認めているかのようだが、この会話によって、白人のための確実な安全弁が用意される。「黒人はジャズという立派な音楽を持っているけれど、白人も、それに劣らない高度な音楽、”クラシック”を持っていて、なにしろ当の黒人ミュージシャンさえも、その素晴らしさを認めているほどなのである」そんな安全弁が、あの短い会話のうちに成立しているのだ。
そして、ジャーナリストの黒人ミュージシャンへの賛美は、この密約成立後には、別の意味を主張し始める。すなわち、「その上白人は、その黒人の生み出した音楽の素晴らしさを見い出す”目利き”としての才能さえ有しているのだ。なんという偉大な事であろう」と。
なんの事はない、白人ジャーナリストは黒人の偉大さを賛美するフリをしつつ、実は、自らの偉大さを讃えて、その場にひれ伏しているのだ。あくまでも形としては、他人の偉大さを讃えるかのような姿で。実に狡猾な話である。
密約の成立後は、もう老ミュージシャンに利用価値はない。だから映画の中で次に用意されているのは、白人ジャーナリストが黒人ミュージシャン急死の知らせを受け取るシーンである。
いかにも「芸術に理解のあるフランス人」を象徴するかのような豪華なコンサート会場で、老黒人ミュージシャンの追悼コンサートが行われる。
演奏されるのは、彼が死の直前まで取り組んでいた、との設定の「一味違う、芸術的ジャズ作品」である。ステージには、ベースやチェロが複数並んだ、ジャズを演奏するためには相当に変則的な楽器編成のバンドが鎮座ましましている。「このくらいプログレッシヴな代物でないと、ワシら”偉大な芸術好き”には物足りないんだよね」と言わんばかりだ。
そんな風に”感動的”に映画は幕を閉じる。どこをどうすりゃ感動できるんだ、こんな映画に、と思うのだが、あちこちで”良質な映画”との評価を得たようだ。おめでたい話である。
ちなみに・・・この種の狡猾な密約の成立は、日本では、ビートたけしの番組に「いわゆる文化人」が出演する際に、頻繁に見る事が出来る。「文化人」は彼なりの発言はするのだが、たけしの立場は終始尊重し、絶対に逆らわない。常に、彼なりの隷属的な立場に居続ける。
この卑屈な行為によって「文化人」たる彼が手にするのは「たけしとテレビに出ていた人」「たけしと近しい人」なる世間的な認知である。もしかして、うまく立ち回れば、どこかの番組にレギュラーで出演も叶うのかもしれない。
一方、たけしが手にするのは、あの文化人と対等に、いやそれ以上の立場で会話しうる”超文化人としてのたけし”なる世間的認知である。
実に愚劣な話と思う。早く世間の皆の目が覚める事を切に願う。