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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”ラウンド・ミッドナイト”批判

2005-10-08 02:12:09 | 書評、映画等の批評

 もうずいぶん前の話になってしまうけど、ラウンド・ミッドナイトなる映画があった。なんか評判がよかったみたいなんだけど、私としてはまったく納得できないと言うか、世の中に感じている疑問点がある意味象徴的に現れている映画だったんで、いまさら遅いけど論じてみる気になった次第。

 そもそもその映画自体は、アメリカで食い詰めた黒人の老ジャズ・ミュージシャンが、稼ぎ場を求めてヨーロッパに、それもジャズを「芸術」として認識し受け入れているらしいフランスに旅立つ、その彷徨記の如きもの。本物のジャズ・ミュージシャン、デクスター・ゴードンが主人公を演じていた。

 こちらとしては音楽映画は好きだからソッコーで見に行ったのだが、なんかすっきりしない出来上がり。何をいいたいのやら分からない代物なのだ、一見。
 老ジャズマンが、アメリカでは見つからなかった仕事を見つけられたり見つけられなかったり、お定まりの人種差別にあってみたり、の物語がつずられて行くのだが、まあ、それだけの話である。

 それはいいとするとしても、その老ミュージシャンの周りをやたらとチョロチョロ動き回る、彼のファン、という設定のフランス人ジャーナリスト役の男が邪魔でならないのだ。こいつはなんの役に立っているのか?始終、老ジャズマンに賛美の言葉を送り、彼が人種差別を受けたからといって憤激したりするのだが、物語の構成上、何の役に立っているのかが、さっぱり分からない。

 物語は進み・・・以下のような会話が、老ミュージシャンとジャーナリストの間に交わされるに至って、私は映画の裏に隠された本当の主題、つまり「ジャズ賛美に名を借りた白人絶対主義」という狡猾な代物の存在に気がついたのである。二人はこのような会話を交わした。

ジャズマン「俺はクラシックも聞くよ。あれは最高だ」
ジャーナリスト「本当かい!君もクラシックを聞くんだ」

 ここに、この二人、と言うかヨーロッパの白人と、彼等の社会に取り込まれて生きる黒人との間に取り交わされた密約が顕わになっている。

 すなわち、「俺を”土人”ではなく人間扱いしてくれ。あんたたちには絶対服従を誓うから」という黒人側の条件と「お前らが”我々黒人は白人より優れている”などと言い出したりしなければ、我々白人は、お前らを2流ながらも人間と認めるにヤブサカではないぞ」との、白人側の出した条件の合致である。

 ジャーナリストは黒人ミュージシャンを映画の中で終始賛美し続ける。まるで黒人を自分以上の存在と認めているかのようだが、この会話によって、白人のための確実な安全弁が用意される。「黒人はジャズという立派な音楽を持っているけれど、白人も、それに劣らない高度な音楽、”クラシック”を持っていて、なにしろ当の黒人ミュージシャンさえも、その素晴らしさを認めているほどなのである」そんな安全弁が、あの短い会話のうちに成立しているのだ。

 そして、ジャーナリストの黒人ミュージシャンへの賛美は、この密約成立後には、別の意味を主張し始める。すなわち、「その上白人は、その黒人の生み出した音楽の素晴らしさを見い出す”目利き”としての才能さえ有しているのだ。なんという偉大な事であろう」と。

 なんの事はない、白人ジャーナリストは黒人の偉大さを賛美するフリをしつつ、実は、自らの偉大さを讃えて、その場にひれ伏しているのだ。あくまでも形としては、他人の偉大さを讃えるかのような姿で。実に狡猾な話である。

 密約の成立後は、もう老ミュージシャンに利用価値はない。だから映画の中で次に用意されているのは、白人ジャーナリストが黒人ミュージシャン急死の知らせを受け取るシーンである。

 いかにも「芸術に理解のあるフランス人」を象徴するかのような豪華なコンサート会場で、老黒人ミュージシャンの追悼コンサートが行われる。
 演奏されるのは、彼が死の直前まで取り組んでいた、との設定の「一味違う、芸術的ジャズ作品」である。ステージには、ベースやチェロが複数並んだ、ジャズを演奏するためには相当に変則的な楽器編成のバンドが鎮座ましましている。「このくらいプログレッシヴな代物でないと、ワシら”偉大な芸術好き”には物足りないんだよね」と言わんばかりだ。

 そんな風に”感動的”に映画は幕を閉じる。どこをどうすりゃ感動できるんだ、こんな映画に、と思うのだが、あちこちで”良質な映画”との評価を得たようだ。おめでたい話である。

 ちなみに・・・この種の狡猾な密約の成立は、日本では、ビートたけしの番組に「いわゆる文化人」が出演する際に、頻繁に見る事が出来る。「文化人」は彼なりの発言はするのだが、たけしの立場は終始尊重し、絶対に逆らわない。常に、彼なりの隷属的な立場に居続ける。

 この卑屈な行為によって「文化人」たる彼が手にするのは「たけしとテレビに出ていた人」「たけしと近しい人」なる世間的な認知である。もしかして、うまく立ち回れば、どこかの番組にレギュラーで出演も叶うのかもしれない。
 一方、たけしが手にするのは、あの文化人と対等に、いやそれ以上の立場で会話しうる”超文化人としてのたけし”なる世間的認知である。

 実に愚劣な話と思う。早く世間の皆の目が覚める事を切に願う。



ハワイアン・スイート

2005-10-07 02:01:03 | 太平洋地域

 ハワイアン・スイート。とはいっても、このアルバム・タイトルのスペルは”Hawaiian Suite”なんだけどね、でも、”Sweet”でも良かったろうと思える、切ないメロディ満載の好盤であります。水色を背景に白い花をあしらったジャケから、ハワイの空気の流れ、水の感触、大自然の息使いなどなどが伝わってくるようだ。

 このアルバムの主人公であるハーブ・オオタは、ハワイ在住の日系人でありオータサンなる芸名も持つ、ウクレレのベテラン奏者。私もこの人のシンプルなリリシズムが好きで何枚かアルバムを集めてみたが、これがもっとも好もしい作品に思える。

 演奏されているのはハワイを舞台にした古い映画の挿入歌や自作曲など。完全にジャズ・マナーの演奏をするピアノ・トリオに、ハワイアン・スチールギターまがいの音色でプレイするのがお得意らしいギタリストを加えたバンドをバックに、ハーブ・オオタはそれらメロディの一つ一つを慈しむように奏でて行く。

 演奏はあくまでもジャズ・マナーで進行するが、白熱するアドリブ合戦などは起こらず、軽い変奏程度で、各楽器の間でソロは受け渡されてゆく。演奏のすべては、南国の甘美な感傷を大量に含んだ旋律をいかに効果的に演出するかに主眼がおかれている。

 軽くフェイクし、軽くスイングする。あくまでも軽い。それは薄さ、安易さを意味する軽味ではなく、ままにならない浮世に疲れた人の心にひと時の癒しを持って出迎える、控え目なもてなしとしての軽い手触りである。そのたまらない優しさがすべて。良い。

 ハーブ・オオタの、ポコポコとのどかなタッチで奏でられるウクレレの響きに、ひと時現出する楽園幻想に酔おう。


シェル・シルバースタイン

2005-10-06 02:49:15 | 北アメリカ

 シェル・シルバースタインといえば、今日の我が国では「僕を探しに」などの作品のヒットもあり、独特の作風の絵本作家として知られているのだが、彼が同時にユニークなコミックソングの作者でもあることは、残念ながらまるで話題になっていない。
 アメリカほら話の系譜に連なるバカバカしさと、彼の出自であるユダヤ民族独特の執拗さの混在した濃厚なユーモア感覚にあふれたその歌は、彼の国アメリカではかなりの普遍性を持って受け入れられていたのだが。まあ、言語の障壁を当然持ってしまうコミックソングが国境を越えて愛されるのは、そもそもが至難の業である。

 それでも1960年代のフォークブームの頃には、マニアックなフォーク歌手たちによってシェル作のコミックソングは、我が国でもそれなりに愛好されていたようだ。「大ヘビに飲まれて死んでゆく男の悲しい悲しい物語」などという、まあ、そのままの内容の御座興ソングは、フォークのコンサートにおける定番であったようだし、絞首台に登らされる前にこなさねばならない諸手続きに忙殺される、刑執行寸前の死刑囚の大忙しの様子を描いたブラックユーモア作、「あと26分だ」は当時、フォーククルセイダーズが取上げ、かの曲が演じられる際にメンバーの北山修が繰り広げた無意味な大熱演は、日本フォーク史に特記せらるるべきであろう。

 70年代のアメリカでは、シェルの子飼い(?)とも言うべきブラック・ユーモア色濃いカントリーロックバンド、”ドクター・フック”がシェルの作品を取上げてヒット曲を連発した。自分を振った恋人の母親と良い仲になってしまう”シルビアズ・マザー”などが代表作と言えようか。あるいは人魚と恋した男の運命を描いた「マーメイド」なる曲。
 人魚との恋が結ばれ、彼女と海の底で暮らす事になった男だが、その性生活には大いに不満があった。なにしろ、下半身魚である人魚が産んだ卵の上に精液をかけるだけなのである。そんなある日。彼女の妹と会った彼は歓声を挙げた。妹の人魚は、姉と逆に上半身が魚だが、下半身は人間の女だったのである。いや、シモネタと怒らないで欲しい。シェルってのは、こんな歌をホイホイ作る食えない男なのだ。

 私としては、好んでシェルの歌をレコーディングしていたカントリー歌手、ボビー・ベアの男っぽい語り口が好ましかった。
 ボビー・ベアでこの時勢、いやでも思い出さずにいられないのが、双子の赤字に苦しんでいた、当時のアメリカの”不景気”をテーマにしたアルバム、”ハードタイム・ハングリー”である。

 ろくに客にありつけずに苛立つタクシー運転手、日照りで不作の畑を眺め、「来年はどのような収穫が望めると期待するか」と問われ、「髪でも生やすさ」と応える農夫、などなど不況に苦しむ人々の様子がいかにもシェルらしい辛辣な視線で活写され、今現在、不況に苦しむ日本の国民としては、まるで他人事ではない。すべての曲の歌詞を現在の日本の現実に置き換えて歌ってみても、相当の訴求力を持つのではないかとさえ思われてくる。
 ひときわ胸に沁みる一曲が、借金で夜逃げした家族の家財道具が競売にふされる様子を描いた”二つで1ドルは悪くない”だ。一家が送った歴史、家族らの思い出の品々が二束三文で売り払われて行く。美しいワルツのメロディで歌われるその曲でシェルは、寄る辺ない無名の庶民の日々に寄せる深い共感を顕わにし、えげつないブラックユーモアばかりではない、懐の深い所を見せてくれた。

 ともあれ、絵本作家への関心の十分の一でもいいから、シンガー・ソングライターとしてのシェル・シルバースタインにもご注目を、と申し上げておきたい。何年前になるんだっけ、シェルが亡くなったとき、新聞の死亡欄に「絵本作家の」としか記されなかったのが、いまだに納得できない私なのである。



旅するアフリカン・バンド

2005-10-05 03:37:13 | アフリカ

 楽器とメンバー全員をトラックの荷台に押し込み、気ままに国境を越えて行く”越境するリンガラ・バンド”の物語は、気楽な野次馬のロマンティックな妄想をなかなかにかき立てるものではあったが、さて、実情はいかがなものだったか。

 ヨーロッパでは”コンゴ・ルンバ”、我が国では”リンガラポップス”なる名で呼ばれる音楽がある。発祥はアフリカへ里帰りしたアフロ・キューバン系のラテン音楽だったのだが、その後、アフリカ伝統音楽の再流入や、ロック・ニュージックからの影響による演奏楽器の変化(ホーンセクション主体のラテン系楽団からエレキギター中心のバンド編成へ)などを経て、独自の洗練を行い、いまやブラックアフリカ全域で愛好されるに至った、アフリカ独自のポップミュージックである。
 その音楽の本家というべきがアフリカ大陸中央部に位置する大国コンゴ、かってザイールと名乗っていた場所である。とりわけその首都キンシャサは”音楽の都”と呼ばれ、リンガラ・ミュージックの聖地だ。おっと、”リンガラ”というのは、コンゴを横切って流れる大河の流域で話されている共通語の名称。歌唱にその言語が使われる割合が多いので、日本ではこの音楽をそう呼ぶようになっている。

 なにしろ黒人の住むアフリカ全域で愛好される音楽であるから、本家コンゴから周辺諸国へ出稼ぎに出るバンドも少なくはなく、今回取り上げるファースト・モジャ・ワンも、その一つ。ちなみに”モジャ”とは出稼ぎ先のケニアで使われる共通語のスワヒリ語で”一番”を意味するのだそうで、「最初の、一番の一のバンド”とは、なんともおめでたいネーミングといえよう。このバンド名にもすでに出稼ぎ先の言葉が流入しているが、この種のバンドの音楽はそれに象徴されるように様々な出稼ぎ先の文化が混入し、ある種のデフォルメが起こってしまっているのが、スリリングなのである。
 まず、本来はリンガラ語にコンゴの元宗主国ベルギーが持ち込んだ準共通語(?)のフランス語がときに混じる形で歌われていた歌詞に、現地の言葉やケニヤで広く使われている英語が混じる。と同時に、ケニヤの伝統音楽の要素流入も、「ともかくその場で受けねばならない」との、出稼ぎバンドの最重要課題に即して行われる。

 とか何とか知ったようなことを言っているが、そもそもが様々な音楽要素の混交して出来上がっているリンガラ・ポップスであり、また、現地ケニヤの文化に通暁しているわけでもなく、たいしたことは論じえない。のであるが、雑な印象として、概してまろやかな耳触りを持つリンガラポップスが鋭いエッジを持って迫ってきているとは感ずる。フットワークがより軽くなり、濃厚な密林の音楽然としていたリンガラポップスに、都会の喧騒が忍び寄っている。現地ポップスとの影響のし合いもあろうし、異郷に生きる厳しさが音楽を尖らせる事もあったろう。
 ファースト・モジャ・ワンの音楽は、そんなケニア・リンガラの、いわば2流のスリリングさを濃厚に伝えるものだった。ボーカルのモレーノのしわがれた低音の響きと、スカスカのバンドのサウンドがいやにファンキーで、なんとも好ましく思えた。もっとも、ケニヤ盤などというものがそもそも入手困難でもあり、モジャ・ワンの盤もなかなか手に入らず、もどかしい思いもせねばならなかったのだが。

 当時、というのは、もう20年も前になってしまうのだが、そんなモジャ・ワンが日本の写真雑誌に突然登場し、驚かされたことがある。”写楽”なる雑誌がどのような気まぐれでか行ったアフリカンポップス紹介のページで、モジャ・ワンが取り上げられていたのだった。日本のアイドルたちの水着写真に混じって、モジャ・ワンのメンバーがカメラ目線で微笑んでいるのには、喜ばしいというよりむしろ「こりゃ無茶だ」と感じた。アフリカ音楽が我が国で注目を集める日が来るとも思えなかったし、リンガラ音楽に興味を持つ者たちの中でも、モジャ・ワンなんてバンドは知られていなかったのだし。

 私がそんな具合にケニアにおけるリンガラミュージックの動きに注目し始めて程なく、ケニア政府は、自国の産業を守るための一連の政策を発表した。その中には、外国からの流入ミュージシャン規制法も含まれていた。詳細は忘れた、というより、あまり詳しい情報がそもそも入って来なかったのだが、ミュージシャンが演奏をしてギャラを受け取るにはしかるべき資格取得が必要で、その取得のための書類提出費用自体が、出稼ぎミュージシャンには払い切れないものだった、そんな形で規制は行われたようだ。 
 私にその情報を伝えてくれた、アフリカ音楽に力を入れていたレコード店店主は、「ひどいものですよ」と嘆息し、私も「このままではケニア・リンガラ滅亡かなあ」などと頷いたものだった。世の東西を問わず、浮き草稼業のバンドマン人生である。

 その後、ケニア・リンガラがどうのと言う以前に、アフリカンポップスの日本における極小ブームも終焉し、一部の人気ミュージシャン以外、レコードも情報もまるで入って来なくなってしまったのであるが。いや、在ケニアの出稼ぎバンドの運命を嘆じたレコード店主のあの店も、とうの昔に商売をやめてしまっている。諸行無常。

(写真はケニア・ナイロビ市街)



ワールドミュージック宣言

2005-10-04 05:05:02 | 音楽論など

 色川武大氏のエッセイに、アメリカ人と戦前の思い出の歌について語り合った際のエピソードが紹介されていた。

 「スターダスト」とか「我が心のジョージア」などの、「アメリカ人にとっての懐かしのメロディ」が話題になることを期待したらしい相手は、色川氏がラテンのヒット曲やヨーロッパ映画の主題歌ばかりを挙げるのが不満だったようだ。

 なにしろ、ランディ・ニューマンが「ポリティカル・サイエンス」で唄ったように、全世界があまねく「もう一つのアメリカ」となって当然と考えているアメリカ人、他民族の郷愁の有り様まで「アメリカ印」でなければ収まらないとは、きわめてありそうな話だ。

 お生憎さま、現実には、日本人にとっての「戦前の洋楽」は、タンゴだったんだ、シャンソンだったんだ、それが歴史上の事実だ。
 ざまあみやがれと、私は大いに喝采を叫んだものだった。

 ひるがえって、今日のわが国の「洋楽状況」を見るに、まことに口惜しいものがある。あなた、ご自分のオーディオから流れる「洋楽」が、皆アメリカ製、というか「英語の歌」である事に疑問を持たれたことがありませんか?世界中に、さまざまな国々が、さまざまな民族が存在していて、さまざまな言葉で、まことに多彩な音楽が奏でられているというのに。

 なぜ、いつの間に、どこのどいつの陰謀で、流行音楽の世界では「外国とは、すなわち英語を使っている国である」なんて常識が出来上がってしまったんだ?

 戦前の話をするまでもない、私が少年の頃、町に普通に流れていた「洋楽ヒット曲」だって、ラテンの曲やヨーロッパ映画の主題歌が、かなりの比重を占めていたし、ラジオの洋楽番組では、ローリング・ストーンズの最新ヒット曲と並んで、カンツオーネやシャンソンが、当たり前の顔をしてランク・インしていたではないか。

 私は、自分に対する「ワールドミュージックのファン」なる称号は、断固拒否する。本来、私が「普通の洋楽ファン」なのだ。日々、CDのジャケ裏に書かれたギリシャ文字やハングル文字の解読に苦戦し、あるいは南米のロックバンドの、あるいは東欧のアイドルポップスの新譜の出来具合に一喜一憂する、そんな私で、普通なのだ。

 さあ、私にウイルマ・ゴイクのヒット曲、「花咲く丘に涙して」を返せ。フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」を、マージョリー・ノエルの「そよ風に乗って」を、もう一度聞かせろ。赤軍合唱団やタヒチアンダンスやフランス本国で食い詰めたシャンソン歌手の来日ライブ公演を返せ。それらをテレビで普通に見ることの出来た、子供時代の思い出を返せ。この想いが届くならば私は、ポール・モーリアとだって共闘しよう。



大阪ソウルバラード

2005-10-03 02:05:53 | その他の日本の音楽

 買うてもうた。何がて、CDを。それも「大阪ソウルバラード」やがな。ジャケはグリコの広告やで。「泣いてもええのやで」と川籐の推薦の言葉が貼ってあるわ。一つは研究のため、もう一つは寝酒のアテにええやろ、思てな。買うたんや。

 かって、「その泥臭い風土に親和性があるため、ブルースは大阪で愛好されている。かの地はブルース・ミュージックの都である」なんて定説?が存在していた。関西の現実と言うものの分かっていない側には、それはなんとなく納得できるような話に思え、皆、そのように信じていたのだが、当の大阪出身のミュージシャンに「それは、そうだったら良いな、という願望の込められた神話に過ぎない」と否定され、なるほどそうだったのかと、やっぱり実情の分からない身、そちらもそのように納得してしまったのだが、結局、実態はどうなのだろうか?

 などと、全国区=東京の文化、とは別の文化圏が存在している現実に関して、いろいろ幻想を抱きがちな非関西人たる我々なのだが、さて、大阪ソウルバラードは、どうなのだろうか?「悲しい色やね」やら「大阪で生まれた女」などなどのヒット曲のありようを思うと、そのようなジャンルが存在しているような気もしてくるし、これもまた幻想に過ぎないのかな、とも思える。その辺をはっきりさせたくて聞いてみた「大阪ソウルバラード」である。盤そのものは、阪神タイガース快進撃に便乗企画の一発なのだろうけれども。

 今挙げた2曲をはじめとして、いかにもまったりと生暖かく響く”泣いてもいいのやで”といわんばかりの15曲が収められていて、なるほど大阪はソウルバラードの都なのかと納得してしまいそうになるのだが。

 その”ソウル味”の実体に関してなのだが、ここで聞けるそれにおいては、アメリカの黒人音楽の要素は、実はむしろ、その発展段階において付加されたものではないか?という気もする。そのメロディラインやコード進行などを検証するに、ひょっとして60年代の”カレッジフォーク”に源流を持つのではないか?とも想像される部分が感じられるのだ。まあこれは、ざっと聞いてみて、ふと頭に浮かんだ感想に過ぎないのだが。

 歌詞部分においての顕著な特徴は、多くが”男が歌う女心の歌”である事。昭和40年代あたりの演歌の世界ではある種”定番”だった歌詞世界である。
 また、そこでは”勝者”は完璧に退けられ、生きて行くのにぶきっちょな男や女への、後ろ向きの賛歌が滔々と奏でられている。男たちは常にルーズな浮気者であり、女たちは、そんな男に裏切られ、振り回されつつも、「やっぱ好きやねん」と、懲りる様子を見せない。

 そんなネットリとした自己憐憫の大海が淀むうちに、”ご当地”たる大阪の地名は、当然の如く連呼される。
 このあたりもやはり、演歌と言う音楽が、はるか昔から、その懐に収めてきた表現である。

 どうも構成要素を一つ一つ検証してゆくとこれらの歌、時代に翻弄され、あれこれ姿を変えながら生き残ってきた、”昔ながらのベタな歌謡曲”のど真ん中の嫡子なのではあるまいか?と思えてくる。そのように断言していいのではないか?

 とは言え、それがなぜ大阪という地を生き残りの場に選んだのか?とか、そもそもこれらが言われるほどに”大阪特有の音楽”であるのか、大阪の人たちの心象を本当に象徴する音楽なのか?などなど、まだまだ考察の余地はあるのだが。



カチョのタンゴはもう聞けない

2005-10-02 02:56:49 | 南アメリカ

 今、日本で。いや、他の国でも同じことなのかもしれないが、タンゴに注目、といえばそれはアストル・ピアソラに対する興味である。という事になっているようだ。ある外資系の大型CDショップで「タンゴ」と記された棚を見つけ、覗いてみたら、その棚のすべてをピアソラのCDが埋めていた、という物凄い体験を私はした事がある。
 まあ、現代タンゴの革命児、ピアソラもいいんでしょうけどね、とは嫌味な書き方だが、いやどうも私はかの巨匠の音楽、あんまり好きではないのだ。あまりにも”崇高なる芸術”過ぎるんで。私としてはタンゴを、しがない裏町の庶民の楽しみであり、散歩でもする際にふとそのメロディを口ずさんでしまう、そんなタグイの音楽として愛したいのであって。あなた、ピアソラの「AA印の悲しみ」を鼻歌で歌いながら散歩が出来ますか?・・・まあ、いるかもしれませんけどね、そりゃ、世の中にはそんな人も。

 そんな訳で、なんともうっとうしい存在とピアソラの音楽を捉えていたのだが、そんな私に、「なるほど、確かにピアソラは良い曲を書くんだな」と一時、納得させてしまったミュージシャンがいる。それも、ギター一本で。それがカチョ・ティラオだった。

 彼が1996年に出したアルバム、「タイムレスタンゴ」はギター一本でタンゴの歴史的名曲群に挑んだ作品だが、円熟した技巧のうちに、なんとも豊かな音楽世界が提示されており、まだタンゴに興味を持って聞き始めたばかりだった私は、その音楽の豊穣さと奥行きの深さに陶然となったものだった。純然たるギター・ソロなのだから、言ってみればモノクロームの世界なのだが、なんとカラフルなモノクロームであることか。
 そして、それに収められていたピアソラ作品、「ブエノスアイレスの夏」の見事な出来といったら。なるほどなあ、皆はピアソラのこんな部分に惚れていたのだなと初めて実感できた。

 で、私は当然、「こんな凄いアルバムをものにする奴だから」と、ティラオのCDを集め始めたのだが、これがなんともはやであって。どうもこの、節操がないというのかね、このティラオって人は。手に入れてみればそれらのアルバムは、なんとも凡たる仕上がりの通俗クラシック曲集であったり、ブラジル音楽をやってみたりフェルクローレに手を出したり。あの「タイムレスタンゴ」の素晴らしい切れ味はどこへやら?の、なんだか焦点の定まらない緩い出来上がりの盤ばかりなのだった。
 いや、どれも凄いテクニックでそこそこ聞かせはするんですがね、器用貧乏とでも言うのかなあ、あちこちの音楽に安易に手を出して垂れ流し状態にしてしまうんですな。まあ、彼の作品のすべてを聞いたなんてとてもいえない私であって、即断するのはいけないことと思うが、でも即断してしまえば、「タイムレスタンゴ」の成功は例外であったのかもしれない。

 などとぼやいているある日、届けられたカチョ・ティラオの3枚組みのアルバム。といっても過去に出たアナログ作品のCD化を一組にしたもののようだ。曲目を見て行くと、ピアソラ作品有り、ボサノバ名曲メドレー有り、映画音楽有り、お馴染み「コンドルは飛んで行く」有りと、相変わらずのハラホロヒレハレ状態。
 しょうがないなあと苦笑しつつジャケの解説を斜め読みしたのだが、そこに書かれてあったカチョ・ティラオの近況に私は唖然とする事となる。なんとカチョ・ティラオは先日、脳卒中を患い半身不随となり、もう一生ギターを弾けない体となっていたのだ。
 そりゃ、あんまりだなあ。彼はまだ確か50代である筈だし、まだまだ人生、やらねばならぬ事も多かったろうに。

 なんともなあ・・・”器用貧乏”とファンたる私を嘆かせた練達のギタリストが、器用も何も弦一本はじくあたわざる状態になってしまうとはね。
 と嘆息してもどうにもなるものでもなく。ともかく聞いてみたそのCDだった。収められた映画主題歌、「泣かないでアルゼンティーナ」は、なんともさりげない優しさに満ちた演奏で、二倍泣けるのだった。うーむ・・・



カイオワに秋降りて

2005-10-01 02:18:45 | 北アメリカ

 秋のことを”Fall”と呼ぶのは、英語としてはどの程度正式なものなんでしょう?少なくとも学校の英語の時間には、そうは習わなかったと思うけど。でも、このストンと落ちる、みたいな語感は、秋という季節の手触りを良くとらえていると思う。ザワザワガサガサと荒れ狂っていた夏の空気が、しっとりと落ち着いた感触に代わって地表に降りてくる。そんな感じ。空なんか高く、青くなってねえ、なんだかどこかへ旅に出かけたくなるような気分が起こって来たりする。

 でも、年々、そんな良い具合の季節って短くなって行っているように感じられて、これはなかなか悲しい。地球温暖化とかその辺と関係があるんでしょうかね、猛暑の夏が去ったかと思うと、それが酷寒の季節に直結し、つい昨日までTシャツ一枚で汗をかきかき歩いていた道を、翌日は吹き過ぎる寒風に奥歯を噛み締め歩く、オーバーに言ってしまえばそのくらいの事になりつつあるような気がしませんか?夏と冬、厳しい季節ばかりが幅を利かせ、春や秋といった優しい季節がその間で、どんどん短くなってしまっているような気が。いや、気がするだけじゃなく、気象上の数値に現れているんじゃないかなあ。

 ともあれ秋。そんな貴重な(?)秋になるとふと取り出してみたくなるのが、アメリカインディアンのフルート奏者、いや、アメリカ大陸先住民の伝統楽器である木製の笛奏者と呼ばねば正しい言い方ではないのかなあ、ヴァスケス(Andrew Vasquez)が1996年に発表したアルバムである。いや、こういう呼び方しか出来ないの。このアルバム、どこを探してもヴァスケスと奏者の名があるだけでタイトルというものがないんだもの。あとは、先住民の伝統衣装に身を包んだヴァスケスの写真があるだけのジャケ。ヴァスケスは”カイオワ・インディアン”の血を引く伝統音楽家だそうな。

 ヴァスケスが操るのは、一尺、という単位で表現するのが妙にしっくりと来る、単なる木の棒に数個の穴を穿っただけのシンプルな楽器。なにやら乾いた悲しみを表現するのにいかにも長けた感じの短音階が鳴り渡る。何も伴奏は無し。聴いていると、彼が自身の息で振るわせる木の管だけを相手に行う瞑想に付き合っている感じだ。あっと。先に断っておくが、アメリカ大陸先住民の音楽には何の知識もない私であります。

 青く澄んだ空の高みに、かってこの世に生きた何人も何人もの人々の胸に抱いていた孤独が吹き溜まっていて、それがヴァスケスの笛の音に反応し、ふと息を吹き返して我々の生きる地上に彼らが残した想いを語り、そして消えて行く。そんなひととき。

 秋よ深まれ。もっと深まれ。


エジプトの懐で

2005-09-30 03:57:45 | イスラム世界

 「なんだって世界の共通語が英語なんだよ」「だって、最も使われている言葉だから」「けっ、残念でした、もっとも多くの地域でもっとも多くの人々に使われているのはイスラムの言葉でした」なんて会話を聞いた事があるのだが、イスラムのポップス世界もまた広大にして多様だ。フルストリングスの響きも華麗にして妖艶な湾岸諸国の格調高いポップスもあれば、なかなかにテンション高いトルコの歌謡やアルジェリアのライの斜に構えた魅力もあり、サハラ砂漠の砂が吹き寄せるようにハードな手触りが印象的なモロッコのポップスあり。
 そんな中でエジプトのポップスには、他人の家の電気釜の中身をふと覗き込んでしまったような、ある種気恥ずかしくも生暖かいドメスティックな響きを持つものが妙に目立つような気がするのは、私がそんな面ばかりに注目しているせいか?かの国の男性歌手ナンバーワン、”ライオン”とあだ名されるハキムあたりの歌声にもワイルドな中に、そんな独特の暖かさが潜んでいると私には感じられてならない。

 何の資料もなく、ジャケ写真から想像するに現地の中堅歌手といった年回りなのだろうと想像するくらいしかないハミド・アル・シャリが1997年に出したアルバム、”AINY”も、私が思う”エジプトの生暖かさ”が横溢した作品である。
 民俗パーカッションが鳴り響き、イスラム風のこぶしが大いに廻る伝統色の濃い作品もあれば、ストリングスをバックの欧米風のバラードも有りといった具合で、内容は相当に統一感のないものになっている。厳しい審美眼の持ち主からは、これだけで民俗ポップス失格の烙印を押されてしまうだろう。

 だが、すべての作品を覆う、なんともいえないモッタリマッタリとした、どちらかといえばドンくさい感性が逆にアルバム全体に気のおけない親しみを与えている。いや、これだってあんまり誉め言葉ではないが。いや、そんな情けない良さがなぜか楽しい作品なのである、このアルバムは。
 そのやや中性的な歌声も、音だけなら若い男性アイドルにありがちなと取れなくもないが、ジャケ写真の小太りの中年男ぶりを記憶に残しつつ聞いていると、”男のオバサン”的な滑稽さをむしろ振りまいていると感じさせてしまったりする。そこがまた楽しい。

 ともかく盤のあちこちに、エジプトの庶民の日々の飾らない生活の匂いが立ち上がっているようで、自分の選ぶ年間ベストアルバム10選に入れるとか、エジプト・ポップスを代表するアルバムとして人に薦めるとかは絶対にすることはないが、妙に憎めず手放す気にはなれない、そんな作品だ。
 それにしても同じアラブ世界でもエジプトのものばかりに、こんな生暖かさが見受けられるのはなぜなんだろうな。これが不思議なのだが。




イタリアの夢織り人

2005-09-29 02:35:03 | ヨーロッパ

 アンジェロ・ブランデュアルディは、1950年、イタリアはミラノ郊外の町で生まれたシンガー・ソングライター。70年代のデビュー以来、数多くのアルバムをリリースしている。”イタリアのドノバン”との異名をとるが、いやいや、この説明が一番楽で簡単に彼の紹介が出来るなあ。

 ヨーロッパ、およびその周辺の伝承音楽などをモチーフに、独特の牧歌的な幻想味の強い音楽世界を編み上げてゆくその手法は、確かにドノバンを連想させる。が、どちらかといえば少年時代の夢想の破片から、浮き世離れた夢の世界を作り上げるドノバンと比べると、ブランデュアルディの音楽には、同じ現実離れ系とはいえ、音楽理論的には根拠のある(?)夢想譚とも言い得る部分がないでもない。ライブアルバムでは、自身の演奏するバイオリンでアラブの民族楽器カーヌーンと競演してみたり、イタリアの民俗歌舞団をゲストに招いたりと、根の深いところを見せるブランデュアルディである。

 音楽的には、やはり70年代のものが素晴らしい。その、独特の夢幻的音楽世界が大きく花開いている。その一つの到達点である、76年発表の傑作アルバム、ALLA FIERA DELL'EST が、日本盤発売が予定され、レコード番号が決まり、雑誌広告までが打たれたのに、なぜか発売が見送られてしまったのが残念でならない。そしてそのまま、いまだに彼の音楽の我が国における本格的紹介がなされていないのも、悲しい話である。

 その後、80年代に至り、まあこれは私にはそう感じられた、程度のものであるが、彼の音楽にやや行き詰まりを感じさせるものが出て来た。それゆえ私は一時期彼の音楽から離れていた。
 だが、90年代に入り、ヨーロッパの伝統音楽を大きく取り入れたFuturo antico三部作を発表した辺りからまた彼の音楽は面白くなってきていて、2000年発表のL'INFINITAMENTE PICCOLO などは、すっかり復調の感がある。(これは”アッシジの聖フランチェスコ”として知られる古いイタリアの宗教家をテーマにしたもので、そういえばかってドノバンも、この人物の生涯が映画化された際、主題歌、「ブラザー・サン、シスター・ムーン」を作り、歌っていたものであり、この辺の符合も面白いところだ)
 どうやら、まだまだブランデュアルディの幻想世界を堪能させてもらえそうで、楽しみなことではある。

 ちょっと残念なこと。70年代のジャケ写真に見られる彼のルックスは、こう言っては失礼なのだが、容貌魁偉というか、ある種不気味なものがある。痩せこけた顔の真ん中に神経質そうに大きく見開かれた目が光り、クシャクシャの長髪が天を突いている。なんだかボッシュの絵にでも出てきそうなキャラだったのだ。が、最近の彼は中年に至り、顔立ちにも落ち着きが出て、なんだかハンサムと言ってもいいような顔立ちに変化してきてしまったのである。
 私は、青白き奇怪なルックスの青年が骨ばった手でギターをまさぐり歌い出すと、そこに奇跡のように心安らぐ美しい音楽が生まれ出る、そのギャップが好きだったのだが、これはちょっと残念だ。なんて、ご本人には読ませられない、ひどい話を書いてるな。