今日はいつになく1日が長く感じられた。
午前中は車で40分ほどの総合病院で人間ドックを受診。
ドックが終わってからスーパーに立ち寄り、ちょっといい弁当や総菜などを買い込み、家で昼ごはんを食べてからずっとギターを弾いていた。
今回の人間ドックは楽だった。
いつも10月下旬に受診するのであるが、今年は申し込みが遅かったせいもあり11月下旬となったのであるが、金曜日のわりには空いていた。
そのため待ち時間が殆ど無く、9時開始で10時半には終わってしまった。
そして今回驚いたのは胃の内視鏡検査があっけないほど楽だったこと。
いつもはカメラを飲んでいる間はものすごく苦しいのであるが、今回は咳、1つしなくて済んだ。
カメラを飲む前に今まではあごを上げて喉にゼリーのようなものを5分くらい放置し麻酔をかけるのであるが、これが殆ど効かないんですね。
今回はのどに直接、シュシュッとスプレーのようなものをかけられた。これが意外に効いた。また今回、あの痛い注射も無かった。
あとカメラのチューブもより柔らかくなったように感じた。
数年前からチューブの太さが細くなったような気がしていたが、硬さはあまりかわっていないように感じていた。
内視鏡検査を受け始めたのが今から15年くらい前だったが、その当時から10年間くらいは胃カメラのあの黒いチューブというやつは太くて硬かった。
だからその太くて硬いチューブがそっと口の中に入り、まず喉に接触し、次に食道に差し込まれるところに来るとその瞬間、ものすごい吐き気に襲われるのである。
丁度、喉と食道の確度が直角でL字型になっているので、チューブもおり曲がりながらでないと入っていかないのであるが、チューブが太くて硬いとなかなかスムーズに入っていかないから吐き気や咳に襲われるのである。
もし胃の中に食べ物が入っていたら、間違いなく猛烈な勢いでゲロを吐くのは避けられないであろう。
内視鏡検査を受けるようになって15年ほどで毎年欠かさず受診しているが、胃の検査はこれに勝るものはない。
胃カメラを胃の中に入れている最中にライブで食道、胃、十二指腸などを鮮明な映像で見せてくれて医師が説明してくれるから、もし悪いところがあれば、リアルでわかるのである。
私は毎日胃酸の逆襲を受けるので、胃が胃酸により荒れているといつも指摘されるがそれ以外は全く問題ないと言われる。
胃カメラを飲むのは苦しいけど、受け終えて何事も無ければ安心だし、この死ぬほどの吐き気と猛烈な咳が過ぎ去った後の何とも言えない開放感、達成感に浸れるのも長年続いている理由なのかもしれない。
今年のようなあっけなく終わるような内視鏡検査だと苦しみが去ったあとの開放感や気持ちよさに浸ることは出来ないが、もし興味のある方は一度試してみてはいかがだろうか。おすすめだ。
さて話題は変わるが、最近、対人恐怖の解決方法に大きな気付きがあったのでメモしておくことにした。
以前、対人恐怖や社交不安障害、あがり症などの方々を集めたワークショップを受けたことがあるのだが、そこで参加している人たちって、全てではないにしても外見は対人恐怖やあがり症には全然見えなかったのである。
最初はそれが妙に異様な感じがした。
でも結構高額な料金を払ってまでも参加するということはその悩みは深刻だということは分かった。
勤務中に隠れて、恐怖や不安を回避するために飲酒をする人も何人かいた。薬を飲んでいる方もいた。
でも今思えば、この人たちは必死になって自分の対人恐怖やあがり症、社会不安障害は悪いものだと認識して、治そう、治そうと、そのような自分と激しく戦っていたんですね。
自分もその一人だったけど。
ほんとうの対人恐怖って人に心を開けない。厚い壁を築いている。だから辛くて人と一緒にいられないのだ。だから孤独に生きざるをえなくなる。友達や結婚とも無縁の人生を送る。
これは普通の人にはなかなか分かってもらえない。理解を求めて訊くだけ損だと何度思ったことか。
恐怖感情を絶えず感じるのも辛いし、色々な面で上手く生きられないから、そのような状態を憎むのも当たり前なのである。
この気持ち、物凄くよく分かる。
しかし、言いたいのはこの、今の自分の状態を憎み、それと反対の人間像になることを期待し、望むことをやっている限り、絶対に解決に向かわないということだ。まさにパラドックスの心理である。
対人恐怖であることが悪いことなのか、ということを時間をかけて考えてみることだと思う。
過去に誰かがばかにしたのか。対人恐怖で顔が引きつり、言葉がどもり、目がパチパチしているのを見て誰かが面白がって嘲笑したのか。つまらないやつだと見下されたのか。面白くない、役に立たないやつだと見捨てられたのか。
これは全てそのような言動をした、その他人の一面的な見方に過ぎないのである。しかしそのような見方が正しいと判断したのは他でもない自分なのである。
今から15年くらい前に、今よりもずっと対人恐怖が強かったころに、年下の同僚から私のどもりを面白がって真似をされたことがあったが、その時の自分はそのどもりを恥じた。でも幸いにもそのどもりを治そうとしなかった。
その時代はある程度心理学の知識で、自分を否定することは良くないと頭では分かっていたからだ。
そして、今、私が仮にどもって、誰かからそれを面白がって真似をされたとしても全く何とも思わない。
感じるとしたら、そのようなことを言う人は貧しいやつだなということだけだ。
今なら、どもっても目をパチパチさせてもどうでもいいという心境だ。
仮に誰かがそういう状態になっているのを見ても何とも思わない。いや、もしそういう状態なのに、その人が一生懸命に行動しているとしたら賞賛に値するとさえ思えるだろう。
対人恐怖になったのは、それ相応の体験があったのである。人間全てを凄く怖いと感じなければならなかったほどの辛い体験があったということなのだ。
そこに焦点を当てるということである。そこに全ての注意やエネルギーを注ぐということである。
猫や犬などの動物だって、虐待されれば近づいてこない。容易なことでは決して心を許さない。対人恐怖症者はそれと同じである。猫や犬でも心を開けるようになるのに長い年月がかかるのに、人間はもっと長い年月がかかるのである。
短期間で人に心を開けるようなものではない。人に心を閉ざしていることを見せたくない人は、自分にも他人にもうそをつき、仮面をかぶって真の自分とは異なる人間像で適応している人もいる。ワークショップに参加している方でそのような方がいた。
「対人恐怖を治すのでなく、対人恐怖にならざるを得なかった過去の生き様を振り返り、その不幸だった自分を本心から理解してあげる」ことが解決への唯一の道だと思っている。
「対人恐怖を治そうとすればすれほど、対人恐怖が強化される」。
これがパラドックスの心理である。
午前中は車で40分ほどの総合病院で人間ドックを受診。
ドックが終わってからスーパーに立ち寄り、ちょっといい弁当や総菜などを買い込み、家で昼ごはんを食べてからずっとギターを弾いていた。
今回の人間ドックは楽だった。
いつも10月下旬に受診するのであるが、今年は申し込みが遅かったせいもあり11月下旬となったのであるが、金曜日のわりには空いていた。
そのため待ち時間が殆ど無く、9時開始で10時半には終わってしまった。
そして今回驚いたのは胃の内視鏡検査があっけないほど楽だったこと。
いつもはカメラを飲んでいる間はものすごく苦しいのであるが、今回は咳、1つしなくて済んだ。
カメラを飲む前に今まではあごを上げて喉にゼリーのようなものを5分くらい放置し麻酔をかけるのであるが、これが殆ど効かないんですね。
今回はのどに直接、シュシュッとスプレーのようなものをかけられた。これが意外に効いた。また今回、あの痛い注射も無かった。
あとカメラのチューブもより柔らかくなったように感じた。
数年前からチューブの太さが細くなったような気がしていたが、硬さはあまりかわっていないように感じていた。
内視鏡検査を受け始めたのが今から15年くらい前だったが、その当時から10年間くらいは胃カメラのあの黒いチューブというやつは太くて硬かった。
だからその太くて硬いチューブがそっと口の中に入り、まず喉に接触し、次に食道に差し込まれるところに来るとその瞬間、ものすごい吐き気に襲われるのである。
丁度、喉と食道の確度が直角でL字型になっているので、チューブもおり曲がりながらでないと入っていかないのであるが、チューブが太くて硬いとなかなかスムーズに入っていかないから吐き気や咳に襲われるのである。
もし胃の中に食べ物が入っていたら、間違いなく猛烈な勢いでゲロを吐くのは避けられないであろう。
内視鏡検査を受けるようになって15年ほどで毎年欠かさず受診しているが、胃の検査はこれに勝るものはない。
胃カメラを胃の中に入れている最中にライブで食道、胃、十二指腸などを鮮明な映像で見せてくれて医師が説明してくれるから、もし悪いところがあれば、リアルでわかるのである。
私は毎日胃酸の逆襲を受けるので、胃が胃酸により荒れているといつも指摘されるがそれ以外は全く問題ないと言われる。
胃カメラを飲むのは苦しいけど、受け終えて何事も無ければ安心だし、この死ぬほどの吐き気と猛烈な咳が過ぎ去った後の何とも言えない開放感、達成感に浸れるのも長年続いている理由なのかもしれない。
今年のようなあっけなく終わるような内視鏡検査だと苦しみが去ったあとの開放感や気持ちよさに浸ることは出来ないが、もし興味のある方は一度試してみてはいかがだろうか。おすすめだ。
さて話題は変わるが、最近、対人恐怖の解決方法に大きな気付きがあったのでメモしておくことにした。
以前、対人恐怖や社交不安障害、あがり症などの方々を集めたワークショップを受けたことがあるのだが、そこで参加している人たちって、全てではないにしても外見は対人恐怖やあがり症には全然見えなかったのである。
最初はそれが妙に異様な感じがした。
でも結構高額な料金を払ってまでも参加するということはその悩みは深刻だということは分かった。
勤務中に隠れて、恐怖や不安を回避するために飲酒をする人も何人かいた。薬を飲んでいる方もいた。
でも今思えば、この人たちは必死になって自分の対人恐怖やあがり症、社会不安障害は悪いものだと認識して、治そう、治そうと、そのような自分と激しく戦っていたんですね。
自分もその一人だったけど。
ほんとうの対人恐怖って人に心を開けない。厚い壁を築いている。だから辛くて人と一緒にいられないのだ。だから孤独に生きざるをえなくなる。友達や結婚とも無縁の人生を送る。
これは普通の人にはなかなか分かってもらえない。理解を求めて訊くだけ損だと何度思ったことか。
恐怖感情を絶えず感じるのも辛いし、色々な面で上手く生きられないから、そのような状態を憎むのも当たり前なのである。
この気持ち、物凄くよく分かる。
しかし、言いたいのはこの、今の自分の状態を憎み、それと反対の人間像になることを期待し、望むことをやっている限り、絶対に解決に向かわないということだ。まさにパラドックスの心理である。
対人恐怖であることが悪いことなのか、ということを時間をかけて考えてみることだと思う。
過去に誰かがばかにしたのか。対人恐怖で顔が引きつり、言葉がどもり、目がパチパチしているのを見て誰かが面白がって嘲笑したのか。つまらないやつだと見下されたのか。面白くない、役に立たないやつだと見捨てられたのか。
これは全てそのような言動をした、その他人の一面的な見方に過ぎないのである。しかしそのような見方が正しいと判断したのは他でもない自分なのである。
今から15年くらい前に、今よりもずっと対人恐怖が強かったころに、年下の同僚から私のどもりを面白がって真似をされたことがあったが、その時の自分はそのどもりを恥じた。でも幸いにもそのどもりを治そうとしなかった。
その時代はある程度心理学の知識で、自分を否定することは良くないと頭では分かっていたからだ。
そして、今、私が仮にどもって、誰かからそれを面白がって真似をされたとしても全く何とも思わない。
感じるとしたら、そのようなことを言う人は貧しいやつだなということだけだ。
今なら、どもっても目をパチパチさせてもどうでもいいという心境だ。
仮に誰かがそういう状態になっているのを見ても何とも思わない。いや、もしそういう状態なのに、その人が一生懸命に行動しているとしたら賞賛に値するとさえ思えるだろう。
対人恐怖になったのは、それ相応の体験があったのである。人間全てを凄く怖いと感じなければならなかったほどの辛い体験があったということなのだ。
そこに焦点を当てるということである。そこに全ての注意やエネルギーを注ぐということである。
猫や犬などの動物だって、虐待されれば近づいてこない。容易なことでは決して心を許さない。対人恐怖症者はそれと同じである。猫や犬でも心を開けるようになるのに長い年月がかかるのに、人間はもっと長い年月がかかるのである。
短期間で人に心を開けるようなものではない。人に心を閉ざしていることを見せたくない人は、自分にも他人にもうそをつき、仮面をかぶって真の自分とは異なる人間像で適応している人もいる。ワークショップに参加している方でそのような方がいた。
「対人恐怖を治すのでなく、対人恐怖にならざるを得なかった過去の生き様を振り返り、その不幸だった自分を本心から理解してあげる」ことが解決への唯一の道だと思っている。
「対人恐怖を治そうとすればすれほど、対人恐怖が強化される」。
これがパラドックスの心理である。