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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

対人恐怖からの回復に向けて

2023-08-10 23:27:18 | 心理
今日、3年前の心理関係の講習会で親しくなった仙台の友人と久しぶりにライン通話した。
話し終えて思ったのは、会話が出来て楽しかったな、と感じられたこと。
以前は、こういう1対1の会話が辛かった。
普段感じている以上の恐怖が迫ってくるので、早くこの場から逃れたいという衝動を感じながら話を続けなければならないという、会話を楽しむ以前の深刻な問題を抱えていた。
そして会話から開放されると、ほっと安堵感に浸り、独りでいる方がましだと思うのである。

大方の対人恐怖症者はこのような状態になっているのであろう。
ただ独りでいることに満足できずに、人に対し恐怖感を抱き、人と会話を楽しむことが出来ない、そういう自分を許せない、好きになれずに憎むのも対人恐怖症者の特徴でもある。

人と楽しく会話できたらどんなに幸せだろう、と渇望しながら、同時に人に恐怖心を感じることに嫌悪感を感じ、そういう自分許せない、という感情を強く抱く。

そして対人恐怖する自分を変えようとすさまじい努力をする。
実に苦しい生き方であるが、この生き方が正しいと信じ、その結果、不幸な人生で終わる人は案外多い。
人間としての喜びを露ほども感じることなく、死んでいくのである。
真面目だからゆえに、このような選択をしたに違いない。
真に助けられるべき人間はこのような人たちなのだ。

対人恐怖する自分って、いけないのだろうか。
人生のある時期に、人から恐ろしいことをされたから、「全ての人」に対し恐怖を恒常的に感じるようになり、心を閉ざすようになってしまったのだ。
自分に落ち度があったわけではない。何も悪いことをしたわけではない。

人に対する恐怖は自然な感情であることを自覚したい。それだけ恐ろしい体験をしたのだから。人間は恐ろしい存在だと認識せざるを得なかったのだから。攻撃されるのは自分の方が悪いからだと受け止めざるを得ない状況にあったのだから。おかしな感情だと思ってはいけない。

対人恐怖を解消していくには、対人恐怖を憎む方向から、受け入れ肯定していく方向にベクトルを変換させる意外に道は無い。
ただこれは口で言うほど簡単なことではない。
潜在意識に刷り込まれた信念をを変えることは並大抵のことではない。何十年もかかる。
その間、よその人のような人並の幸福な人生ですら送れないことにもじっと耐え忍ばなければならないだろう。
とにかく時間がかかる。急に道が開けるようなことはない。薄紙を1枚1枚ゆっくりと剥がしていくような気の遠くなるような作業でもある。

短期間で解決できると謳う心理療法には注意した方がいい。
もしそのような方法で解決したとしたならば、自分の心の問題はその程度のものであったというだけのことだ。
人間だけでなくとも動物だって、心を閉ざしてしまったものを回復させるには多大な時間と忍耐を要する。

対人恐怖などの心の苦しみは、人間関係から生れたものである以上、人間関係で回復していくものだと言える。
心優しい人との関わりを持てるようになれれば変わっていく。
しかし、それだけではなく、重要なのは、自分の心の状態を正しく認識できるか、自分の心が今、どうなっているのか感じることが出来れば潮目を変えることができると確信する。

自分の心の状態が分かれば幸福に方向に向かう作用が自然に働いていく。
心優しい人と冷たい人との判別もできるようになってくる。

回復してきたな、と感じられるとき、周りの目に見えるものの息吹、放つエネルギーが、今、その瞬間にリアルに感じられるようになってくる。
幼かった頃、目に見える全ての存在が放つものをそのままで感じられたように。
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演奏時のあがり・緊張についての考察

2023-07-21 22:44:22 | 心理
先日出演した母校マンドリンクラブの55周年記念演奏会は意外にも何故か殆ど緊張やあがることなく演奏することができた。
2018年にマンドリンオーケストラを再開してから、あがったり緊張せずに、普段の練習のとおりに演奏できたことなど無かった。
だから演奏会が終わった後には、たいてい何とも言えない「無念さ」のような感情を感じていた。
あれほど練習に練習を重ねて本番を迎えたのに、何故、緊張して思うように弾けなかったのか、というくやしさの気持ちは正直、拭い去ることは出来なかった。

本番であがってしまう、過度に緊張してしまう原因は一体何であろうか。
考えつくものをあげてみた。

・過去に、とくに幼少期や少年時代に、人前で何かを披露したり発表した際に、失敗したことがきかっけに、周囲の人から笑われたり、落胆されたり、責められたりした体験をいくつか経験しており、その体験がトラウマ(心的外傷)となり、大人になっても同じような状況下で過去のトラウマ体験で経験した恐怖などのマイナス感情が再現される。

・人前での演奏やスピーチに高い価値を置いている。すなわちそれらの行為は自分にとって特別なものであり、高い価値を感じており、それがゆえに人から認められたい、成功して高く評価されたいという意識が強いがために、絶対に失敗してはならないというプレッシャーを自らかけることにより、恐怖感情が極度に高い緊張状態を作り出し、震え、発汗、呼吸困難、ど忘れ、意識が飛ぶなどの現象を引き起こす。

・観客など、自分が披露する対象の人間を「敵」、あるいは「裁判官」だと感じている。成功すれば認めてくれるが、失敗したら許されない、という認識を人間全般に対して抱いている。
周囲の人間を受容的な「味方」だと感じられない。

いずれにしても、上記のような心理状態で演奏やスピーチなどを行っても、観客を満足させることは不可能であろう。
演奏者や発表者の心の中は、これらの辛いマイナス感情との戦いに占められており、観客と喜びを分かち合うといった本来の有り方から大きく逸脱した状態になっており、いわば地獄のさ中に身を置いているようなものである。

私は今年の1月まで約半年間、あがり症解決のための講習を受けていたが、受講生の中には経営者や上級管理職、営業職など比較的、世間で言うところの高い地位や人間相手の職業に就いておられる方が少なからずいた。
彼らは講習の中では私よりもはるかにスピーチが上手であった(私が下手すぎるということともあるが。どもり+震え声+声が出にくい+人の声がよく聞こえない症です)。
しかし彼らはいざ人前でスピーチをする際に、意識ではコントロール不能な極度に高い緊張状態に入り込み、意図していた内容の殆どを話すことが出来なくなるのだという。

私は彼らを見ていて感じたのであるが、彼らは恐らく高い確率で幼少期などでトラウマ体験を経験しているのではないかということだった。これはあくまで直感であるが、そのような感じがしたのである。
あとは妙に、スピーチなどで成功することを求めているということであった。
裏を返せば、自分を人々から認めて欲しいという気持ちが人一倍強いのではないかということであった。
これは私にも充分当てはまることであった。
何故ならば、私も同様に、ギター演奏を人々から認めて欲しい、評価して欲しいという気持ちが強いからだったからだ。

これから、対人恐怖を初めとする恐怖症の解決方法の研究とともに、演奏時のあがり症や過度の緊張に対する解決方法に取り組んでいくことにした。
自分の現在の心境としては、必ず何らかの解決方法が見出せるのではないかという感触を江ている。不定期ではあるがそのプロセスを記事にしていこうと思う。
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心がボロボロになり深い奥底に沈んでいる自分を心底理解できた時、生きるのが楽になっていけるのではないか

2023-03-03 23:57:13 | 心理
今日、仕事帰りににこんなことを考えていた。

「心がボロボロになり深い奥底に沈んでいる自分を心底理解できた時、生きるのが楽になっていけるのではないか」


心が恒常的に苦しい人は、人生の過程において凄まじいトラウマを経験している。
その苦しみの受け止め方は人によりさまざまであろうが、大きく分けて、苦しみを抱え込む人と外に吐き出す人の2種類があるように思われる。
前者は鬱になり、最悪自殺する。後者は、犯罪者となったり、DV、パワハラ、いじめを繰り返すことにより何とか生きながらえる。
いずれにしても、心の苦しみの元は共通であろう。
過去に、過酷な、普通の人の理解を超えた凄まじいほどの心的障害を受けている。間違いなく。

だけどその過酷な体験、ボロボロとなった心の状態に気が付いていない。
気が付いていないどころか、そのボロボロの自分を嫌い、憎み、裁き、否定し、これでもかと絶えず責めたてている。
普通の世界では考えられないことが、心の内面で起きている。

これを自ら無意識状態で行っていることに気が付くことがまずは必要だと思う。
自分の体験から、必ず救われると確信する。
このボロボロとなった、心の奥底でもがき苦しんでいる真の自分を引き上げることができるのは、自分自身しかいない。
自分の過去の生き様を振り返って、そのありのままの本当の自分に触れることが出来るのならば。


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心の苦しみを救える最後の砦は自分自身だ

2023-02-24 00:46:50 | 心理
心の苦しみは何故起きるのか。
この問いに対する答えはさまざまであろうが、最も重要に思うのは、「自分で自分を否定する」ことが原因だということだ。

恐らく人間は他の生物と同じように本能的には自分を否定することなく、自分のあるがままに生きていけるようDNAがプログラミングされているのであろう。
もしそうでないとしたら、人類ははるか以前に滅んでいたに違いない。
しかしそのような本来の機能に反し、自分を否定する方向に向かわせる強い作用が人に起きることがある。

一見、能動的、行動的、積極的に見えるが、何か強迫的、作為性を感じるような人や行為を見ることがある。
このような人や行動は、心の深いところから自然に湧き出される純粋動悸によるものではない。
では何を動機としてこのような行動が具現化されているのか。
恐らく、「現実のこのありのままの自分では受け入れられない、拒否される」、「それゆえに拒否されずに受け入れ、認めてもらうためにあるべき人間にならなければならない、ふるまいをしなければならない」という動機で動いている。
その動機は背後に恐怖感情を伴う強迫的なものである。
このような行動パターンを長い間とり続けていると、次第に自分を見失い、生きる意味を感じられなくなってくる。
そして強迫性が強くなっていけば、うつや持続的恐怖症に苦しむようになってくる。
やっかいなことにこのような行動パターンを正しいと信じ、定着させようと凄まじい努力を重ねると、潜在意識にその行動パターンが自動回路のように刷り込まれ定着し、気付いたときには回復不能と感じられるまでに強化されていく。

潜在意識は判断することが出来ないということを聞いたことがある、良し悪しの判別などに関係なく、自動操縦ロボットのように指示されたことを忠実に実行し、行動パターンとして定着させる働きをしている。
だからメンタルに悪影響を及ぼし、最悪自殺にまで行きつくようなことであっても忠実に実行する。潜在意識の負の側面である。恐ろしいことだ。

日常的に絶えず心が苦しいと感じている人は、自らこのような自己否定の行動パターンを潜在意識に刷り込み、定着させた可能性があることを考える必要がある。
自分自身の純粋動機に従わず、他人からの拒否という恐れを動機とした自己否定の行動を行っていると、無意識の領域で、怒り、憎しみ、悲しみ、恐怖、不安、自己無価値感といった様々なマイナス感情が発生してくる。
これが恒常的な心の苦しみの正体である。
この不快なマイナス感情を心にため込んだままにしておくと、早晩、うつ病になる。
そして解消されずにこれまでに蓄積された膨大なマイナス感情の苦しみに圧倒され、もがき苦しむ。それは生き地獄のようなものであろう。
このような種類のマイナス感情は本質的解決がされない限り、決して解消されることはない。いじめやパワハラ等で一時的に外に吐き出しても、すぐに再生産され蓄積されていく。

このような状態になっている人は少なからずいると思う。
うつになるタイプは、大抵はこのような心の深刻な状態になっていることに気が付かずに、普通の人のようにふるまい働いている人だ。
しかし張り詰めた糸が切れるように、ある日突然、生命エネルギーが途絶える。これが今まで普通に生きているかのように見えていた人が突然自殺するパターンである。

このような人はついに真の意味で、その人の本当の姿、内面の深い苦しみを誰にも理解されることなく世を去った人たちなのである。当の本人でさえも理解していないと言っていい。
何故ならば、もし自分自身がこの苦しみを理解できたならば、自殺せずに生きることを選択できたからなのだ。

このような人たちが普通の人たちと同じように楽に幸せに人生を送れるようになれるかの分岐点が、「自己否定の強迫的行為」を自ら行っていることに気が付くということである。
もしそのことを腹の底から真に理解できたのであれば、そのあまりにも壮絶な、これまで自分自身に対して行ってきた行為に対し驚愕するのではないだろうか。
何故ならばその行為とは自分自身の精神や心といった人間が生きるうえで最も大切なものを自ら破壊する行為だからである。

その恐ろしさに気が付けば、自己否定をやめられる。
ただそう簡単にはいかない。潜在意識に刷り込まれ、自動回路として定着したパターンを変えることは容易でないからである。
さらにこの自動回路の背後に強い恐怖が潜んでいる場合は非常に長い時間がかかる。何十年もかかるかもしれない。
ここでいう恐怖とは自らの意思でのコントロールが効かないレベルの恐怖である。
目の前にボールが飛んできて反射的に顔を反らすような恐怖のことである。

しかしそれでも言いたいのは、自分自身に対し絶えず、「自分には否定すべき何物も存在しない」と固く信じることである。
心が病むのは他人ではなく自分が原因なのである。
他人の理不尽な心理的攻撃を自分の責任、至らなさに結び付けて受け止めたからである。
そのような自分も含めて丸ごと自分を受け入れ、許し、肯定できるようになってきて初めて、人の気持ちというもの触れることが出来るようになっていく。
それまでは恐らく人の気持ちを遮断していたと思う。
そして少しずつ少しずつ、薄紙が剥がすように自分の心と絶えず向き合い、自己否定の回路を崩していき、人との心のふれあいを取り戻していくことが本質的解決に向かっていくと信じている。
このような苦しみに対し表面的な心理療法が何故歯が立たないのか、その理由がここにあると考えている。
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不朽の名作「男たちの旅路」の抜粋投稿を見て驚いた

2022-12-17 00:26:04 | 心理
今日は2年前の講習会で親しくなった友人と約1か月振りに2時間ほどライン電話で近況を話した。
明日は今受講している講習の人たちとの飲み会がある。
自分の気持ちを振り返ってみると、こういう関係の人たちと、何か深く意見を交わしたい、ということを渇望しているのだと思う。

ライン電話のあと、ふと作曲家、野呂武男の音楽が投稿されていないかとYoutubeを検索していたら、意外にも1976年頃に放映された「男たちの旅路」のワンシーンが関連動画で出てきた。
「車輪の一歩」という障碍者の悩みをテーマにした番組の抜粋であった(小学校6年生の時に見た)。

この動画で鶴田浩二が演じる吉岡司令補が若い障碍者に言っていることが、私が普段、バイブルのように読んでいる心理学の本に書かれていることと全く同じことだったので驚いた。
私はどうしたら幸せに生きられるか、というものが確かにあると思っている。
この「男たちの旅路」という番組は、それを教えてくれる不朽の名作だと思う。

昔はこのような優れた番組が少なからずあった。
吉岡司令補のような人たちもたくさんいた。
この時代の作品を今、見る価値は非常に高いと思う。

今の時代、自分の住んでいる住所を教えることもはばかられるようになったが、そんな希薄な人との関わりで生きている実感を得られるといえるのか。

こういう作品を見ると、「深く生きる」、そんな生き方が出来たらな、とそういう気持ちになってくる。

男たちの旅路 車輪の一歩
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