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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

心を傷つけることのできるのは自分以外にいない

2022-09-10 22:49:55 | 心理
先日の演奏会の前、8月31日、手帳にこんなメモが残されていた。

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演奏時にあがる根本原因を考える。
・失敗するのが怖いのではない(何故ならば、自分一人で弾く時は失敗が怖くないから)。
・失敗して、人から馬鹿にされたり、失望されたり、責められたすること、そのものが怖いのではない。
では、何が怖いのか。
⇒人から失望されたり、馬鹿にされたり、責められた時、「自分が悪いから」、「自分が下手だから」、「自分の努力が足りないから」と言われたと受け止め、自分を否定した結果、恥ずかしさ、自責、屈辱感などの感情が出てきて、その辛い感情を2度と味わいたくないから、同じような場面に直面すると怖くなるのである。

では、これを解消するためにはどうしたらよいだろうか。
⇒たとえ人から責められたり、馬鹿にされたり、失望されても、それはしょうがないと、自分が否定せず、肯定できるように自分の受け止め方を変えてみることで得られる。
 それを全員から責められたり、馬鹿にされたり、失望されると錯覚していることも原因だ。

結局、自己否定して傷つくのが怖いのである。

原初体験後、2回目以降は実際に、ミスして誰からも何とも言われなかったとしても、自分で自分を原初体験のように否定して傷つく。
そしてミスする前からミスをしてその苦痛を味わう恐怖を感じるのである。

「恐怖を引き起こさせているのは自分である」


他人から責められる、落胆される、馬鹿にされると決めつけているのも、責められたり、馬鹿にされて、自分は駄目な奴だ、自分は下手だ、自分は至らない人間だと自分を責め否定するのも自分だし、ミスしないように「ミスは絶対に許されない」とプレッシャーをかけるのも全て自分である。

「傷つく」ということは「自分で自分を責め、否定すること」と同じこと、他人によって傷つけられるのではない。

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今振り返ってみると、頭の中で、何とかしようともがいていたことがわかる。
頭でいくら考え抜き、原因らしきものが見えてきたとしても、心の反応というのは無情にも簡単に変わるものではない。
心の反応は、硬直、震え、動悸、発汗といった形で体に現れる。
この心の反応を変えることは容易なことではない。

でもまずは頭で考えることが先だ。
気付きを得るためには頭で考え抜くことが必要だと思う。
自己否定が当たり前の世界で生きてきた人間が、自己肯定できるようになれる、ということがどれだけ難しいことか、今では分かる。

自分の体験から、「自己肯定」できるようになれる一つの重要なキーポイントを考えてみたい。
それは、「心を傷つけることのできるのは自分以外にいない」ということだ。
よく、人から傷つけられた、ということをを耳にする。
しかし、傷つけているのは他人ではなく、「自分」なのである。
他人がどんなに自分を貶めたり、誹謗中傷するようなことを言ってきたとしても、それが確固たる正確さをもって自分に当てはまらないと認識できるならば、影響を受けずに切り捨てることが出来るのではないだろうか。
もし影響を受けるのであれば、他人の言ってきたことが自分に当てはまるという自己否定の構えが潜在意識に強固に張りめぐらされているということだ。

自分を嫌う、自分を憎む、自分に落ち度があると自責の念にかられる、この自己否定の構えが無意識に根付いていることに気が付くことが出来るのであれば、きっと先の見えない闇のトンネルから抜け出すことができるのではないかと思っている。

【追記2022091110:15】

心が傷つくことから出来るだけ回避することとして需要なキーポイントとしてもう一つ考えてみた。
それは、人を貶めたり、誹謗中傷する人間を客観的に冷静になって観察、理解することである。
このような言動を行う人間を冷静に見つめていると、耐え難い深刻な心の苦しみを恒常的に抱えていることが透けて見えてくる。
このような人たちも日常的に心が悲鳴をあげているのである。しかも本人はそのことに気が付いていない。
しかし本質的な解決が分からない、そこに注意を向けることが出来ないから、最も安易で、卑怯な手段で解決せざるをえなくなっていると考えられる。
ある意味裏を返せば、このような人たちは、人を貶めたり、誹謗中傷することで、「自分はこんなに心が苦してたまらないんです」と自らその状態を露呈しているともいえる。
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「思いやり」とは評価されるべき性質のものなのだろうか

2022-08-27 00:08:56 | 心理
1か月ほど前に読んだ新聞の読者投稿欄で、「思いやる力」は可視化され、評価されるべき能力だ、と言う方の投稿を読ませていただいた。
この投稿者は、「他人を思いやることで、いつか自分自身に返ってくる」と教わり、円滑な人間関係の形成のためには、相手を日常的に思いやり続ける必要がある、人を思いやる力は、才能や努力を伴う能力であると主張されている。

自分のこの投稿者と同じ年ごろに、当時ベストセラーとなった「気くばりのすすめ」という本を読んだりするなどして、人間関係を良くしようと悩んでいたときがあった。
そして、社会人になり上司や先輩社員に気くばりする、気を遣うというという行為を脅迫的に、自分にムチを打つかのようにすさまじい勢いで実行しようとした。
その結果、メンタルを病みうつ病となった。
そのころの自分は、気くばりの出来ない自分、思いやりのない自分を激しく憎み、「こんな自分ではいけない」、「この自分のままだと周りは受けれてくれない」という気持ちに支配され、これでもかと自分を責め続け、強迫的行為に苦しんでいた。

あれから約40年。自分を強迫的に責め続けるパターンからかなり解放された現在、「人を思いやる力は、才能や努力を伴う能力である」という考え方に疑問を持っている。
何故ならば、「人に対する思いやり」という感情は、人間が根源的に元々誰でも持っている本能であり、努力や才能で高めていくものではないからである。
思いやりは「人に対する優しさ」という表現に置き換えてもいいように思う。
20年くらい前に、心の苦しみを何とか解決しようとインターネット情報を漁っていたとき、心理学教材をネット販売している方が過去に会社経営に失敗し、離婚され、失意のどん底にいたとき、台所の片隅でうずくまって泣いていた自分を、まだ幼い娘が後ろから抱いて慰めてくれたという話を読んだことがあった。
その男性はその出来事をきっかけに逆転の人生を歩み、成功したのだという。

つまり人に対する純粋な優しさ、時に人の人生を大きく変えるほどの力を持った優しさというのは、努力とか才能で得られるものではなく、自分の中にすでに根源的に持っているものであり、その感情を自然に引き出せるかどうかこそが重要なのだ。
人間は生きる過程で、競争社会に組み込まれるなどしてこの純粋な感情を出す機会を失っていく。自己否定や競争的野心、物欲の支配などでこの純粋な感情は心の深淵に沈んでいく。
そしてこの根源的感情が一生、引き出されることなく人生を終える人も少なからずいるだろう。
「思いやり」、「優しさ」といったものは努力して得られる才能ではなく、人間が本来的に持っている根源的感情であることを認識しておきたい。
努力して得るものではなく、まして人から評価を期待するようなものではない。

「思いやり」とか「優しさ」というのは、与えた相手から見返りや評価を得なくも、与えるだけで満足する性質のものなのだ。
相手がそれを感じてくれなくても、理解してくれなかったとしても、相手が受け取ってくれるだけで満ち足りる行為なのである。何故ならば、それが人間の根源的、本能的感情であり、感情を表現するだけで喜びを感じるように人間は出来ているからである。

思いやりや優しを人に与えて、見返りや評価が得られず不快感、不満を感じたとしたら、その行為、感情の真の姿は相手のことよりも自分の自己中心的精神的利益にあったということであろう。
「人間が本来、DNA的に有している根源的感情」をいかに呼び覚まし、自然に表現できるようになれるかが、幸せに生きるために必要なことだと思っている。
競争的野心、物欲、自己否定、効率主義、二極性といったものからの解放と本当の意味での人間的成長が得られれば、このような悩み、疑問から遠ざかっていくものだと思っている。

【追記】
努力して思いやり行為を相手にしても、相手がそれを親切だと感じなかった場合、その思いやりの気持ちといものが、実は相手のことを考えてのものではなく、行為を行った人の自己中心的動機から来ていることが原因である可能性が高い。
思いやり行為の背後にある真の動機を相手は無意識で感じ取るものである。
あと、思いやりや気くばりの出来ない人間でも周りから好かれていることを目にすることがあるが、このような人はありままのそのままの姿が周りの人にプラスの感情を引き起こしているのだと思われます。
特別なことをしなくても、人は愛されるんだ、という確信を無意識的に持っている人は強い人だと言える。
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自己否定と自己肯定

2022-08-20 22:15:16 | 心理
自分の心の状態を深堀りしたり、講習等で最新の考え方を学んでいくうちに、心の苦しみ、悩みといったものを引き起こしている原因の殆どが「自己否定」にあるのではないかと思うようになった。
そもそも人間は生まれながらにして自己否定するように出来てはいないと思う。
恐らくDNA的には誰しもが自然に「自己肯定」するように人間は作られているものだと思う。

自己否定というのは後天的に、人との関わり合いの中で形成されるに至ったものといえる。
不幸、不運にも自ら自己否定せざるを得ない人間関係、環境に身を置かなければならなかった人たちが、やがて心の苦しみを恒常的に抱えるようになる。

「自己否定」というのは本来的には間違ったことなのである。
間違ったことなのに、その行為によって自らの心を破壊してしまうものなのに、何故、人は「自己否定」をやめられないのだろう。
心の苦しみから解放されるための最大のキーポイントは、無意識で自分でも知らず知らずに自己否定していることに気が付くこと、自己否定という行為が自分の心を蝕み、破壊していることに気が付くことである。
しかし多くの人は、このことに気が付くことなく、心の苦しみを抱えながら生涯を終えていく。
何故気づけないのか。
それは、自己否定の元になっている考え方が、道徳、規範、正義、正論といった「~すべき」とか「~しなければならない」といったものに裏付けられていることや、強い恐怖感情に動機づけられた「このままの自分ではいけない」、「このままの自分では人から責められる」、「今の自分のままでは周りの迷惑になる」といった受け止め方に強く支配されているためである。

今から30年くらい前までの心理療法は、ロジャース派の来談者中心療法や(いかがわしい?)催眠療法が主流だった。
今、催眠療法をメインに心理療法をやっているところは皆無に近い。
しかし90年代くらいまでは結構な数の催眠療法専門の看板を掲げているところがあった。
私も90年代半ばに藁をもすがる気持ちで広島まで行って催眠療法を受けたことがあるが、全く効果が得られず意気消沈して帰ってきた経験がある。
催眠というのは脳波がアルファ波の状態、すなわち顕在意識と潜在意識との壁が取り払われた、非常に集中力の高まった覚醒状態になっている状態であるが、この状態に誘導しても心の苦しみを本質的に解決するものではないからである。
私が広島で体験した催眠療法は原始的な方法(糸に吊るした五円玉を揺らしてその動きを見る)で催眠状態に誘導するものであったが、その後は何もしないというものであった。
おわかりのようにこの方法では催眠状態に入ることすら出来ない。何故ならば強い恐怖感情を恒常的に抱えている人が、外的な方法で催眠状態に入ることは不可能だからだ。

次に2007年頃に、特殊な方法(呼吸法と首の神経への刺激)により脳を覚醒状態にして、プラスの暗示を吹き込むという療法を受けたが、恒常的な恐怖状態の中、脳を覚醒状態(意識が無い状態)にすることへの恐怖から拒絶反応を起こし、これも失敗に終わった。
仮に上手く行って脳覚醒(深いトランス状態)にまでなったとしてプラスの暗示を脳に吹き込んでも、恐らく暗示は入っていかなかったと今では思っている。
あと多かったのが自律訓練法を用いた催眠暗示療法やイメージ療法。これも強い恐怖感情に支配されている状態では全く歯が立たなかった。

何故、催眠状態や脳の覚醒状態でプラスの暗示、すなわち自己肯定感を高めるメッセージが潜在意識に入っていかないのか。あるいはプラス思考、ポジティヴ感情が定着していかないのか。
それは、潜在意識に強固に根付いている「自己否定」の「回路」にメスが入らず、そのまま放置されているからではないか。
心に苦しみを抱えた人というのは、「自己否定」の回路が強固に潜在意識に根が張っていて、催眠とか脳覚醒といった小手先の方法ごときではその回路に変化を起こさせることは出来ず、プラスの思考や暗示をはねのけてしまうからである。
これが催眠や脳覚醒による暗示療法がうまくいかない原因と考えられる。

ではどうやったら解決に導かれるのか。
それは冒頭に述べたように、自分が無意識で「自己否定」していることに心から気づき、自己否定していたことが心の苦しみの原因になっていたことを身をもって悟ることしかない。
自分のやっていることが猛毒になっていることに心底気が付くことができたならば、自然にその行為をやめるのではないか。
自己否定をやめれば、あえて「自己肯定」をアファメーションや催眠や脳覚醒などで意識的、強制的に潜在意識に刷り込む必要はないであろう。
何故ならば、自己肯定というのは人間がもともと本能的に持っているものであるからである。
それは人間が絶滅せず存続していくために天から授かったものだからである。
それゆえに自己肯定とか願望達成とか引き寄せといったものを意識的に得ようとすることはかえって上手く行かない結果に終わるのである。
それは意識的な自己肯定というものが「今の自分のままではいけない」といった自己否定を動機とした行為であり、その行為をすればするほど「今の自分のままではいけない」という感情を強化してしまうからである。
解決の方向に向かうにはこのパラドックスにも気が付く必要がある。

【追記202208210113】

無意識的に自己否定していることに気付く方法を考えてみた。
例えば不祥事を起こした政治家(小物ではない首相などの大物政治家)、ミスをした部下、自分に自信のない人などを過度に、異常に、執拗に、日常的に絶えず責めていないか。
そのような人たちに対し妙に怒りや憎しみの感情を感じたとしたら、自己否定している可能性が高い。
その理由として、以下のようなことが考えられる。
①自己否定したことで恒常的に生じる怒りや不満、憎しみなどの感情を吐き出す手段として利用している。
②責める相手が、実は自分が憎み拒否した本当のありのままの自分と同じタイプの人物であり、そのような人間を見ると、自分自身に対してしているのと同じようにその人物を責めたくなる心理が働いていること。
③否定した自分(=駄目だと思っている自分)ではない、求める理想の人間像を外側で演じることで生じるストレスの解消手段として、本能的に最も安全だと認識したターゲットを選択していること。

自己否定すると、怒り、憎しみ、不満、恐怖、強迫観念など耐え難いマイナス感情が連動して発生するので、その不快なマイナス感情の処理をどのように行っているかに注視する必要がある。
大抵は無意識的に正当化されて行われている。
マイナス感情を吐き出すことの出来ない人は鬱になる。
うつ病も自己否定をし続けた結果引き起こされたものだと思っている。
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孤独のもたらす心的影響度

2022-07-23 23:57:34 | 心理
今日の夜は講習2本。
明日はマンドリン合奏練習のために5:50起きだ。
そして夜9時から講習だ。
でも楽しい。
睡眠不足になってしまうが、一筆書いて寝ることにしよう。

今日、ある心理カウンセラーの本を読んでいたら、次の文章で心がグサッと刺されたような感覚を覚えた。

「人は、「ワタシはだれにも受け入れられていない」と孤独感を覚えると、最後は自ら命を絶ってしまうこともあります。」

この文章を読んで、私の20代の頃の人生がフラッシュバックした。
「家族ですら受け入れられていない、もはや誰も信じられない、自分はこの世の中でたった独り、生き地獄のような砂漠をさまよっている。しかもこの自分自身でさえ、信じることが出来ない。」
この状態ってものすごく苦しいのだ。あまりにも悲しすぎる。

誰も、自分自身でさえも信じることの出来なくなった人間は、孤独のうちにのたうちまわり、極限まで行くと、自殺するか、犯罪者となって世の中を震撼させるような事件を起こすかどちらかであろう。

このような人たちも元々は生きることに喜びを見出そうとしていたのだ。
幸せになることをどんなに渇望しただろうか。

私はこのような人たちを不幸のどん底に陥らせる、非常に悪質な存在が悲しいけど現実にあることを否定できないと感じている。

「愛されなかったときどう生きていったら良いのか」。私の永遠のテーマだ。
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深く心を閉ざした人が心を開けるようになるために

2022-07-18 20:59:54 | 心理
人間の感情というものは、人を精神的に廃人にしてしまうほどの破壊力を持っていると思うことがある。
人から破壊的な心理的攻撃を受けて、人間に対して2度と心を開くことが出来ずに一生を終えた人は少なからずいるのではないか。
その中には自殺した方もいるだろう。

破壊的な心理的攻撃を何度も受けて、回復不可能なほどの心理的ダメージを受けてしまったにもかかわらず、生きていくという選択を決断したならば、生き地獄のようないばらの人生を歩んでいくことを覚悟しなければならないであろう。

私の経験から言えば、回復していくための分岐点は、まず、人を信じられない自分、心を閉ざした自分、人に対し世の中に対し絶えず24時間恐怖する自分に対し、「そういう今の自分でいいんだ」、「このようになってしまった自分は悪くないんだ」、「よくここまで耐えて生きてきたね。それは並大抵のことでないんだ。普通の人は絶えられないことなんだ」と、今の自分の状態をそのままに、あるがままに受け入れて認めてあげることができるようになることである。

しかしこれって簡単なようでものすごく難しいことなのだ。
何故ならば、このような人たちは、自分を否定する、自分を責める、自分を嫌う、といったことを太陽が東からのぼって西に沈むがごとく、無意識レベルで自明の如くやっているからなのだ。
しかしこの自動回路の動きを止めるのは容易ではないが、不可能ではない。時間はかかるが意識的にやっていくうちに薄皮を1枚1枚はがしていくようにいい方向に向かっていくと確信している。

あと必要なのは、純粋に心の優しい人たちの出会いを持つこと。
これも結構難しい。
今の時代、昔と違ってこのような人たちがたくさんいるわけではないことは事実だ。
だけどあきらめずに探していけば必ずいる。

心を閉ざさせたのが人間であれば、凍った心を溶かせることが出来るのも人間だ。
私は数多くの薬物療法や心理療法を受けてきたが、専門家でも閉ざした心を開かせることが出来ない人が殆ど全てであったというのが現実だ。
心を開かせるのは、相手の心に深く踏み込むことのできる、根源的な純粋な人間的な優しさを持った人のみが可能であるといっても過言ではないと思っている。
そのような人は専門家の中にいるかもしれないし、ホームレスの中にもいるかもしれない。
しかしそのような人の気持ちを感じ取れるまでになっていないと優しさを受け取ることが難しいということもある。

ああ、もどかしいけど本当に、気の遠くなるような道のりだと感じてしまう。


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