goo blog サービス終了のお知らせ 

緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

潜在意識は諸刃の剣

2022-07-02 23:24:00 | 心理
今日から新たな講習会がスタート。
これからプライベートではかなり忙しくなる。
(もちろんマンドリン合奏は一生懸命です)

今日の講習で潜在意識の話が出たが、多くの方が知ってのとおり、人間の意識には顕在意識と潜在意識とがあり、潜在意識が97%の割合を占めていると言われている。
人が意識せずとも歩いたり、車を運転したりできるようになれるのは潜在意識が働いているからなのである。
潜在意識は、繰り返し指令すると忠実に実行する働きがある。
言い換えると、潜在意識とは、自動操縦ロボットとか自動回路のような働きをするものだと理解していいのだと思う。

そしてもう一つ重要なことは、潜在意識は現実と非現実、良いことと悪いことの区別が付かない、ということだ。
つまり、自分の心に毒になるようなことも忠実に、プログラミングされたとおりに実行するということだ。
心の中の自分が本当は望んでいないのに、顕在意識での自分が実行を強く望み、そうなるべく強制的な働きかけをしたならば、潜在意識はそれを忠実に達成をすべく最大限の機能を果たす。
実は、心の病や苦しみといったものは、このような経緯から生じるのではないかと思っている。

人は何かのきかっけで自分の存在価値や自尊心が激しく傷ついたとき、本当は望んでいないのに、存在価値を証明するかのような理想の自分になるべくムチを打ってすさまじい努力を重ねていく生き方を選択することがある。
このような生き方をしている人は意外に多いのではないかと思う。

潜在意識に本当の自分とは異なる、本当は自分が望んでいない理想の自分(強い自分、優秀で立派な人間、明るく面白い人間など)になろうと常に指令を出すと、潜在意識はそれを実現しようと最大限の努力し、やがて意識しなくても自動回路のようにそのような人間になるための強迫的行動パターンがプログラミングされ定着されていくに違いない。
しかし潜在意識は感情を持たない(善悪の区別を持たない)から、本当の自分が、形成された自己破壊的自動回路によって絶えず傷つき、ボロボロになっていることには全く無関心なのである。

この本当の自分が傷つき、心が破壊されていることに自ら気が付くまで、この自己破壊的自動回路は永遠に自動的に機能し続けるに違いない。
いや、気が付いてもこの自動回路を停止させるにはこの自動回路を起動させ続けてきた期間と同等か、それ以上の年月を要するであろう。実に恐ろしいことである。

私自身の体験からしても、心の中の本当の自分の気持ちに耳を傾け、選択を誤らないようにすることの大切さを、人生における最も重要なこととして肝に銘じておくよう切に願いたいと思っている。

コメント

過度の緊張にどう向き合ったらよいのか

2022-06-26 23:10:36 | 心理
今日は東京某町で社会人マンドリンクラブの合奏練習があった。
練習後は10人くらいと反省会に。
今日の反省会は結構楽しかった。
それはそれで嬉しいことでもあったのだが、演奏面でちょっとやっかいな問題に直面することになってしまった。
演奏曲の中でギターだけ一部の奏者が弾く箇所があるのであるが、その部分の演奏時に過度の緊張により思うように弾けなくなってしまったのだ。
多分演奏会が近づいてきていることも関係していると思われるのであるが、完全にメンタルの問題のように思われる。
普段の練習時には全く問題なく弾けている曲が、いざ人前で弾くときに次のような状態に陥り、不本意な演奏になってしまうというものなのだ。膨大な練習量を重ねているというのに。

・その曲、そのフレーズの演奏が近づくにつれてじわりと不安が増大する。
・心拍数の増大。
・手の震え。
・平常心の喪失

多くの方が、多かれ少なかれ上記のようなことは経験するのであろうが、極力本番では良かったと思えるような状態にまで持って行きたい。そうありたいと願うものだ。
ではどうするか?。

私はもう上記のような状態に意識的に抵抗するのではなく、出るにまかせる他はないのではないかと思う。しかしその上で、最低限止まらずに弾き切る。
このような緊張を意志の力で無くそうとコントロールすればするほど負のスパイラルにはまりこんでいくものである。

アドラー心理学をもとにあがり症の対処方法を書いたある著作によると、あがり症を無くそうとする試みは神の摂理に対する無益な挑戦だと説明している。
「自然発生する感情と、それを拒絶する自分自身の葛藤こそがあがり症の正体です。必要だったことは自分との和解です。あがり症との闘いの日々に勝利はありません。和解こそが真の勝利です。」
また加えて次のようにも述べている。
「そうして自分自身と和解し、他者と繋がることができたとき、地に足が着いたような感覚を感じます。(中略)安全感を感じると人前での圧倒的なまでの恐怖感が和らぎます。」

上記の説明は、今まで自分が長い間取り組んできた、対人恐怖症の解決にも共通のものを感じる。
過度の緊張、すなわちあがり症の解決方法は対症療法的なものは膨大に見ることは出来るが、自分は上記の考え方が本質を突いているように感じる。私はこの方法を採用することにする。

これからもこの感情は継続するかもしれないが、出るにまかせて真正面から直面していくしかないだろう。
そのプロセスで何か得るものがあったら記事に取り上げていきたい。
コメント

講習会受講始まる

2022-06-24 23:47:28 | 心理
今日は2年前に受講した講習会で親しくなった2人の方とオンライン飲み会。
先ほどお開きに。
zoomのカメラが入らなかったり、パソコンを再起動するのに約10分、ラインを立ち上げるの約8分、友人のパソコン不調で入れなかったりで(寿命の来たパソコンなので)、結局予定開始時刻の1時間後に開始するはめになってしまったのだが、彼らは全然怒らないのですね。
これまで職場や大学時代の先輩などから、もたもたしていると激しく責められた経験から、遅れることに対する恐怖心が体にしみ込んでいるのだが、1時間遅れても全く怒られなかったというのは久しくなかったことだ。
朝の通勤電車でも駅のエスカレーターでも、ゆっくり歩いているとせかされることが結構ある。結構神経を使う。
せかすやつは嫌いだな。そういうヤツは1秒でも早く出世したいと思っているのだろう。

昔の自分、心が苦しくなる前の自分は約束の時間に何時間遅れても平気でいられるほど、ズボラな性格だった。
でも大学時代の後半から自分をせかすようになっから、苦しむようになってしまった。

人間の心の苦しみに向き合って30年以上。
自らの問題解決のために膨大な本を読み、あらゆる心理療法を経験し、1日の多くの時間をこの心の問題解決のために費やしてきた。
医療、すなわち内科、外科などと違って、心の問題を解決するための療法、ノウハウは確立されていない。
こういう療法を適用すれば、この問題は必ず治るといったものは残念ながら今の心理療法の世界には無いに等しい。
心理療法を仕事とする方は、恐らく自己不全感を抱き、治せないのにお金をいただいていることに罪悪感を感じている方もいるに違いない。

心の問題の解決って、物凄く難しいことなのです。
安易に公言出来ることではない。

しかし長年の自分の自らの体験から、こういうことをすれば快方に向かう、ということがおよそ分かってきた。
今その考え方を講習会やその道のプロと接することでさらに深めたいという気持ちが強まってきている。

来月から新たなステージでの講習を受講することに決めた。
そこでまたいろいろな人たちとの交流があるだろう。
一生の同志となれるような関係の仲間を作れることを期待している。

コメント

対人恐怖症の根本解決とは何か考えてみた

2022-06-21 21:01:17 | 心理
この世には、対人を始めとする様々な恐怖という感情を恒常的に感じるがゆえに、生きづらさを感じながら生きている人がたくさんいる。
このようなことを言う私も、30年以上にわたって恐怖感情に苦しんできた人物である。
しかし長い間の試行錯誤を重ねた後、ある方法(というか考え方)に気付いてから徐々にではあるが時が経過する度に恐怖感が軽減され、今ではかなり能動的な生活を送れることが出来るようになった。
その速度はたまねぎの薄皮をゆっくりと時間をかけて剥がしていくような速度ではあったが、遠回りのようで実は本質的な解決に向かうものだと今では確信している。

恐怖症と言っても千差万別で容易にパターン化出来るものではなく、人によって固有な症状であると言えるが、ここから先に述べることは下記のことを前提にしていることを初めに書いておこうと思う。

・「人」に対する恐怖であること(人から攻撃される、責められる、嫌なことを言われる、される等)。
・特定の場面、特定の人、性別、年齢等に対して恐怖感を感じるのではなく、いつも、絶えず、24時間寝ても覚めても感じていること。
・恐怖の強さのレベルが不安といったレベルではなく、まともに感じるとギャーと叫んで気絶してしまうほどの強さのレベルであること(従って日常生活ではまともに恐怖を感じないようにたいていは意識外にしまい込んでいる)。

では何故、このような堪えがたい辛い恐怖感情を恒常的に持つようになってしまったのか考えてみたい。
それは、今までの人生過程で、恐ろしい体験を長きに渡って数多くしてきたことの結果なのである。
しかも誰も本当の意味で理解してくれたり、助けてくれたりされることがなかったため、恐ろしい目に会うのは自分が悪いからだ、自分に責任があるからだと受け止めざるを得ず、それを頑なに信じて来た結果なのである(自己否定の構えの内面化と潜在意識への自動回路形成)。

対人恐怖症者は自分も他人も信じることが出来なくなっている。意識のうえでは人を信じたいと思っても、無意識ではそれに反してブレーキがかかるやっかいなものだ。
そして次第に他人と接することの辛さから、人を遠ざけるようになり、自分の殻に閉じこもり、孤独な人生を歩むようになる。

そうすると対人恐怖者は殆どの場合、このような状態があまりにも辛く受け入れ難いがために、自分のこの状態を憎むようになるのである。
「これさえなければ、私は他人と同じように幸せな人生を送ることができるのに!」と。
そしてこのあまりにも辛い現実の自分を抹殺し、今すぐにでも楽になって他の皆と同じように生まれ変わって幸福な人生を歩むことを強迫的に求めるようになるのである。
(ここが引っ込み思案とか内気とか言われる人と異なるところでもある)

現実の自分を抹殺して理想の人間像を強迫的に追い求めるということはどういうことであろうか。
それは現実の辛い自分を意識の外に追いやり、自分が思い描く理想の人間像になるべくすさまじい努力をするということである。
自分が思い描く理想の人間像とは具体的にどういう人間か。
例えば、他人に迷惑にならない人間、他人から責められない人間から始まって、人から一目置かれるような優秀で立派な人間、大勢の人から尊敬される人間などである。
しかしその選択の代償はあまりにも大きい。
このすさまじい努力をすればするほど現実の実際の自分との乖離が進行していき、気付いたときには回復不能か回復するのに数十年を要するまで心が崩壊するに至るのである。
乖離が進行すると当然のごとく心理状態がますます悪化していくのであるが、たいていはその悪化による辛さをさらに意識の外に追いやり、意識上は平然とした人間であることを自分にも他人にも演じようとする。
その繰り返しの惨たらしい、精神に著しい害を及ぼす作業も限界に達すると、次第に人の声が聞こえなくなる、しゃべることが出来なくなる、視界が自分の周りしか無くなるなどの症状が現れ、重度のうつとなり精神活動は停止するに至る。
この先に待ち構えているのは自殺である。
私は自殺者で多いのはこのパターンではないかと思っている。

対人恐怖症者は原初体験として恐らく幼い頃に、実際は何も悪くないのに、自分が悪いと受け止めるざるを得ない、しかも誰も味方になってくれないという体験をし、その体験をきっかけとして自分心の中に、絶えず自分を否定し、裁くもう一人の自分を作ってしまったと考えられる。
そして心の中の自己否定するもう一人の自分は年月を重ね、不幸な体験を重ねる毎に雪だるまのように徐々に強大化していき、気が付いた時には意志ではコントロール不能なほど手を付けられない巨大な敵にまでなってしまっているのである。
例えは良くないが、体のあちこちを骨折し、大やけどを負い、深手を負った人間に、もう一人の人間が「そんな状態では駄目だ」、「そんな状態のあなたが大嫌いだ」、「もっと強く活発になれ!」と責め立て、その人を猛烈な勢いで絶えず殴ったり、蹴ったりしている、そのようなことが同じ人間の心の中で起きているということなのである。普通の人にとっては信じがたいことではあるが。
このようなことは経験の無い方には想像の域を超えていると思うが、私の経験からすると重度の恐怖症の方の心の中では間違いなくこのようなことが恒常的に起きていると思っている。

ではこの深刻な状態から抜け出し、穏やかな心で生きられるようになるにはどうしたら良いのか。
この対人恐怖を始めとする恐怖症に対する療法として現在まで様々な方法が試されてきた。
薬物療法、カウンセリング、来談者中心療法、催眠療法、認知行動療法、交流分析、ヒプノセラピー、インナーチャイルドの癒し、TFT、脳覚醒による暗示療法、自律訓練法、イメージ療法、暴露療法、ヒーリング、エネルギー療法、レイキ、気孔、家族療法、グループセラピーなで、私は長い間に渡ってここに挙げた、暴露療法以外の全て療法を受けてきた経験がある。
しかし残念ながらこれらの療法で自分の苦しみが軽減することは無かった。
なぜならばこれらの療法には次に述べるもっとも大切な視点が欠けていたか、重要視されていなかったからだ。

もっとも重要なことは、幼い頃の本来のありのままの自分を責めるという原初体験からスタートして、これまで長い年月に渡って深く傷つき、人を信じられなくなり、孤独になった自分をこれでもかと執拗に責め立て、理想の人間になるべく駆り立てる強大な敵を自ら心の中に内在化させてしまっていることに気付くことなのだ。
心の中でこのようなことが起こっていることに自らが気が付かなければ、どんな心理療法を受けようが、優しい人と出会おうが、ベクトルを改善の方向に向かわせることは不可能なのである。
しかしこの「気付く」ということがどれほど難しいことか。

もしこのことに気が付いたならば、深手を負った自分に対し、長きに渡ってとでんもないことをしてしまったと心底反省するのではないか。金輪際もうやめようと思うのではないか。ここが大きなポイントであり転換点だ。
仮に、深手を負った他人に対しこのようなことをやったとしたら、その人に良心がある限り、酷いことをしてしまったと感じるのではないか。
人は目に見えるものはすぐに感知できるが、目に見えない心の中のことには盲目なものである。
しかしまずこれに気が付かなければ永遠に、死ぬまで苦しみ続けることになるであろう。
あらゆる心理療法を受けてもよくならないという人は、心理療法を受ける動機が、この苦しい状態をすぐにでも「無くそうとする」ことにあるからである。
「これさえなければ自分は幸せになれる」、「この憎き症状をとって欲しい、取るノウハウを教えて欲しい」と求めるからなのである。
この「これ」を憎み否定しているからどんなに頑張って心理療法を受けても治らないのである。
各種の心理療法そのものがこの苦しみを直接治すことは出来ない。

しかし深手を負った自分を責め否定することに気が付いたからといっても、残念ながらその瞬間から解決するわけではない。
自己否定してきた年月が長ければ長いほど、自己否定した結果生じた恐怖の度合いが大きければ大きいほど、恐怖に動機付けられた理想の人間になるべく自ら形成した潜在意識の自動回路が強固であればあるほど、長い時間を要する。10年、20年、30年、それ以上かかるかもしれない。
わすかな時間で解決したとしたら、その問題はその程度でしかなかったと思っていい。
潜在意識に強固に刷り込まれたこのパターンを破壊し、逆に、深手を負った自分をまるごと受け入れ、癒し、肯定し、自分の気持ち通りに生きていけるようサポートしていけるようになるにはとてつもない時間がかかる。

時間がかかるから苦しみは軽減しても残る。だからまた自分を責めたくなる。だけどよくなるためにはこれしかないと踏みとどまる。この繰り返しである。

あと対人恐怖のために、上手く自己表現できなかったり、人付き合いが出来なかったり、能力が発揮できなかったりすることがあるが、決してそのことで自分を責めないことである。
むしろこんなハンディをかかえながら誰からも理解してもらえずともよくここまで生きてきた、それは並大抵のことではないと、言ってあげてもいいくらいなのである。
この自分で何が悪い、という強い意志への選択が必要だ。それはもう失うものがなくなった「捨て身」の心境でもある。
このような生き方を自ら選択してしまったとは言っても、それはそうならざるを得ない、自分自身ではコントロール不可能な理由があったのある。そのことで自分を責めるのは酷というものだ。
もし他人からそのことで、いわれのない事を言われたり、理不尽な扱いを受けたりすることがあるかもしれないが、そのようなことをしてくる人はその程度の人間なのである。
回復してくればこのような感じ方も徐々に出来るようになるし、相手の言うことは自分とは無関係のことだと完全に切り捨てることもできるようになる。
コメント

イライラする原因と解決方法を考えてみた

2022-06-18 22:15:18 | 心理
今日の朝刊の別冊で「イライラすることについて」をテーマにした特集の記事があった。
その記事によると、イライラする人は全体の51%で、具体的には「コロナ禍なのに地下鉄の中で大声で話している」、「乗り物でイヤホンから音楽が漏れている」、「職場であいさつしても返事が返ってこなくて、その人の人間性まで疑ってしまう」、「車でウィンカーを出さない、トンネルでライトを付けない、携帯電話を操作しながら運転している」、「信号が青になったのにすぐに発進しない」といったことにイライラするのだと言う。

確かに私も以前は、混んでいる電車のホームで歩きスマホをしていて歩く速度が遅い、電車のドアが閉まったのになかなか発車しないといった出来事、エスカレータを小走りに降りていく人、仕事の遅い人、努力しない人などに、イライラしたり腹が立ったりしたものだ。
総じて、あまり周りの人の事を考えずに、自分のいいようにマイペースで行動しているような人に対して怒りの感情を感じていたようなのである。
今はというと、だいぶこのような不快感情は感じなくなったと言っていい。

ではここに上げたような事例のような振舞いに対し、何故怒りの感情が湧いてくるのか、ということだ。
そのことに気付くことができれば、少なくても半分くらいは気持ちが楽になれるのはないだろうか。
私が経験から思うのは、このような行為に対してイライラするのは、「このようなことをするのはいけないことだ、悪いことだ、絶対に許せない、といった認識が心の深いところで価値観として根付いてしまっている」からではないかと思う。
つまり、親や先生や上司、先輩、その他様々な人から、「このようなことをすることは他人に迷惑になることであり、してはいけないことだ」と価値観を叩き込まれた経験があるのではないかと思うのである。
あるいは、かつてまだ未熟だった頃に、このような振舞いをしたことで激しく責められて痛い思いをし、それ以来このようなことをすることは罪の意識をもって「悪いことだ」と信じ、忌み嫌うようになった経験があるのではないかと思うのである。

このような価値観を正しいものとして自分に内面化すると、冒頭に挙げたような行為や人を強く憎み、排斥しようとするようになる。そしてこのような行為をしないよう、潜在意識に自動回路のように規制プログラムを強固に根付かせていくことになる。

よく人の落ち度やミス、失言、だらしなさをこれでもかと激しく正義や道徳的価値観をもって責めたてる人がいるが、このような人が上記に述べたような価値観を潜在意識に強固に植え付けている人なのである。

ここでよく考えなければならないのは、冒頭に挙げたような、あいさつをしない、とか歩きスマホをするといったことが、果たして人間にとって許されざるものなのか、ということだ。
これらの振舞いはひょっとすると、誰しも、生まれながらに持っている性質なのではないか、ということだ。
自己中心的振舞い、だらしなさ、いい加減、怠け、ズボラ、ずるさ、といったものは人間の本能的な本質だと思えないだろうか。

これらの本質を「悪いもの」と厳しく律して、自分の本質から抹殺しようとするから、他人の振舞いすなわち、その自ら憎み嫌っている本質を鏡のごとく見せられて、腹が立ってきて責めずにいられなくなるのである。
これってとても苦しくないだろうか。
だって、いい加減な性質は人間である以上、本質的に誰もがどんなに克服しようとしても出来るものではないからである。

であれば、例えば人があいさつしなかったのはけしからん、こいつはなっていない、許せないといった価値観(人の振舞いや出来事に対し、常に「良い」、「悪い」のジャッチをすること)を手放してみてはどうだろうか。

自分だって嫌いな奴にはあいさつしたくない、忙しいときにはあいさつする余裕がない、人見知りであいさつ出来ないといったこともありうるのだから。

イライラの解決法として、深呼吸するとか、カラオケに行って発散するとか、その場しのぎの解決法がよく言われているけど、もちろん本質的な解決法には程遠い。
人間の本質として決して拭い去ることの出来ないものとして自分にもあるのだから、それを悪いものとして憎み排除するのではなく、受け入れ認めたうえで、状況に応じてその本質をセーブしたり気を付けたりする、という対処方法が良いように思う。

今まで忌み嫌っていた振舞いが許せるようになってくると、そのような人がむしろ自分と同じ性質の人間、仲間的な認識が生れてきて、楽になっていくように感じるのである。
コメント