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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

心が苦しいのは問題を解決しようとしているから

2022-06-13 00:14:18 | 心理
今日は東京某町で社会人マンドリンクラブの合奏練習。
今日はいつもより遅く始まり遅く終わったので、反省会の開始時間も遅くなり1時間ほどで退出させてもらった。
遅い時間となったが、帰りの電車の中で読んだ心理関係の本の中で、気になった文言があったので記事に取り上げて寝ることにした。

その内容とは、「人は苦しいから問題を解決しようとします。実は苦しいのは、問題を解決しようとしているからなのです。逆なのです」というものであった・
この文章を読んだ時、随分昔に読んだ心理療法の本の中で出会った、次の文言を思い出した。

「神経症とは、神経症を治そうとする病気である」

神経症とは古い言い方であるが、うつ、対人恐怖など、心の問題を総称した言い方だと思っていい。
意図するところは、このような状態を「問題」だと捉え、その「問題」を解決しないといけない、解決しないと大変なことになると思い込んで対処することこそ、「問題」なのだということなのだろう。

ひと言に「心の苦しみ」といっても様々なものがあり、1つに集約できるものではないが、この「心の苦しみ」のが生れた根元は何かということを考えたとき、例えば小さい時からおとなしく自己主張が出来ない、人見知りをする、気が弱く頼りない、消極的などの特性を、その人にとって重要な他者(親、兄弟、先生、友達、先輩、上司など)から激しく否定され、否定される恐怖から逃れるために、これらの特性を「問題」だと受け止め、その問題を克服すべく努力を行ったことで生れたものと思われる。

責めてきた重要な他者の言うことの方が正しく、責めるられる自分の「特性」の方が悪いのだから、責められないためにはこの「特性」を克服して無くさなければならないと自分に言い聞かせ、潜在意識下にその解決行動を回路のようにプログラミングしてしまう。
これが「恐怖」を始めとする心の苦しみが生じるメカニズムである。

もし重要な他者からこのような特性を責められるどころか、人間的魅力だとか、そのようなあなたが大好きなどと繰り返し言われ続けたとしたら、そのような人はその自分の特性を憎んだり、嫌ったり、抹殺しようとすると共に全く別の特性の人間になろうと凄まじい努力をすることはまずないであろう。
このようにして育った人は、どんな人と一緒にいても、自分の特性を無意識のもとに安心感を持って受け入れ、どんな環境下においても自分を見失うことなく自己実現していくことが出来るに違いない。

恐怖が絶えず起き、その恐怖から逃れるために自分にムチを打ち続けるのは、自分を責めて来た人間の方を肯定し、自己主張出来ない、頼りない、消極的などといった特性が悪いことだと、責めてきた人と同じようにいっしょになって自ら自分を憎み責め立て続けるからである。
このパターンが絶えず、24時間、心の中で起きているのである。
心の中がこんな状態になっていれば苦しいのは当たり前である。

この苦しみを解消していくためにはどうしたらよいだろう。
まず、心の苦しみを引き起こしている心の状態、潜在意識での自動回路のようなものに気付く必要がある。
心の苦しみが「恐怖」だとしたら、過去に起きた不幸な体験で、自分の「特性」のままでいることが危険だと感じ、その「特性」を克服しようと絶えず衝動に駆られていることに気が付く。
このことに気が付けば、自分が本来持っていた「特性」に長い間ひどいことをしてしまっていたと思うのではないか。
そのことを心底理解できるのであれば、自分を責めることに費やしてきたエネルギーを、逆に自分を癒し、肯定し、自己実現に向かわせるためにエネルギーに変換することが出来る。
そしてそれを潜在意識下で肯定的自動回路として根付かせていく必要がある。
自分を責め立て駆り立てるためにこれまでさんざん行ってきたのと同じくらいの作業が必要かもしれない。

この作業は他人が行うことは出来ない。
自分自身でしか出来ないことなのである。

冒頭の本の著者は最後に次のような事を書いている。
「恐れがある限り自我はがんばり、真の問題解決を遠ざけます。そして問題があなたにどんな恐れがあるのかを見せてくれているわけです。恐れを取ることだけが、真の問題解決です。何故ならば幸せとは恐れのない状態のことをいうのですから。問題が解決してしまったら、恐れだけが取り残されていまいます。
問題を解決しようとしないで下さいと言ったのはその為です。問題があると言う事恥じる心に気付いて下さい。」

「恐れを取ることだけが、真の問題解決です。」 この意味することは、「恐れ」とは客観的に何の問題も無い自分の特性を恥じ、憎み、嫌い、その特性を問題と認識し克服しようと対処することで持続的に生じること、その「恐れ」を取るためには、「恐れ」を生むこのような心の中の心理パターンに気付き、「問題」(=自分の特性を悪いものだと認識すること)などと受け止め解決しなくても良いのだと思える心境に変化させていくことを示している。
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「ありがとう」という言葉を意識して使いたい

2022-06-11 00:56:33 | 心理
在宅勤務制度が導入されてから、同僚、上司、部下とのやりとりはteamsというツールでのチャットで行うことが増えてきた。
最近このteamsの機能で、返信の定型文として「ありがとうございます」、「ありがとうございました」などという文言が自動的に表示され、選択出来るようになったが、これって結構大事だと思う。
私は20歳以上離れた部下に対しても出来るだけ丁寧な言葉を使うようにしている。
部下によっては、この積み重ねで結構、誠実な対応をしてくれているのではないかと思うことがある。
別にそういう期待を意図してやっているわけではないけど。

昔、帰省の帰りの東北新幹線の中で、母親が小さな娘に対して「ありがとうって言ってごらん。すーっと気持ちいでしょ。」と話すのを聞いたのが忘れ得ぬ出来事として脳裏に焼き付いている。

「ありがとう」ということで人が好きになっていくものだと確信している。

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人前で話せないことは悪いことでも何でもない

2022-06-05 01:02:05 | 心理
今日は京葉線検見川浜駅近くの美浜文化センター小ホールで太田キシュ道子さんのピアノコンサートを聴きに行ってきた。
帰りが夜中の12時になってしまったので、感想レポートは後日にしたい。

とりあえず寝る前に額に夥しい汗をかくギター弾きではなく、久しぶりに新聞記事の感想を書いてみることにした。
最近の新聞の読者投稿欄で、18歳の女性の投稿「人前で話せないのは悪いこと?」という記事が目を惹いた。

「人前でしゃべらないのは、悪いことなのだろうか?」
「家族以外の人が怖くて、話しかけることも近づくことも出来ない」
「多様性、世の中には色々な人がいることを知ろう、などと言われる時代だ。それにもかかわらず、私のようなタイプは、社会でうまく受け入れてもらえていない気がしている」
「人前で自分の意見をはっきり言えない人は嫌いだ、確かにその考え方は間違ってはいないのかもしれないが、知人からこうもきっぱりと言われてとても悲しくなった」

この記事を読んでちょっと悲しくなったが、この方はとても勇気のある方だ。そして自分を飾らず、自分の気持ちをありのままに出している。
私も小さい頃から人前で話すことが出来なかった。
小学校2年生のとき、工作の発表ということで数人が教室の前に立って説明をすることがあったのだが、私の順番になっていざしゃべろうとしても言葉が出てこない、結局何も言えずに終わってしまったが、その時の担任の先生が、私の後発表した子供と比較して、「さっきのより(それは私のことだった)いいね」と言われて、それがトラウマになってしまった(その時の光景は今でも鮮明に覚えている)。
また。小学6年生のときに全くやりたくもないのに無理やり学級会の議長にさせられて、いざ初回の学級会で司会をするときになって、何を言ったらよいか分からず言葉が出てこなくなってしばらく無言でいたら、担任の先生がもの凄い剣幕で怒り出して、「何でこんな奴を議長にしたんだ」と言い放った。
その直後、私はショックで気分が悪くなり、目の前が真っ暗になって気を失って倒れてしまったのである。
その次の学級会も議長として教室の前に立ったとき、やはり前回と同様極度の緊張で言葉が出てこなかったのであるが、またもや担任の先生が癇癪を起して、物凄い剣幕で怒り出した。
そして私は、前回と同じように目の前が真っ暗になって貧血を起こして倒れ、気が付いたら気分が凄くわるくなって戻してしまった。
これはとても大きなトラウマになった。
これ以降、学校の先生というものが大嫌いになった。
そして人前でスピーチするようなことは高校卒業するまですることは無くなった。

しかし大学生になって新たな悩みが出来た。それは飲み会、コンパでの会話だった。
飲み会で楽しい話が出来ないのである。会話が出来なかった。
頭の中に言いたいことがたくさんあるのだが、言葉が出てこない。そして対面する人が怖かった。
そのことで物凄く悩んだ。
今でも飲み会は緊張する。

この女性が言うように、昨今はマイノリティーなど多様性を許容することを求め、理解されつつあるが、人前でなかなか話せない人に対しては、冷ややかなようだ。何故か。
それは、人前で話せないことは努力不足、能力不足と見る傾向があるからだ。
人前で話すことに何の抵抗もなく育ってきた人は、「人前で話せない」ということが理解できないのである。
何で話そうとしないのだ、自己主張しないと駄目ではないか、とこのような人は言う。
人前で話すときの恐怖がどういうものか、実感として分からないからなのである。
それは無理もないことだ。

「人前で自分の意見をはっきり言えない人は嫌いだ」。これほど人間の多様性を無視した、理解力の乏しく、価値観が狭く偏重した言い方はない。
だいたい、人前で自分の意見をはっきり言える人が、聴くに値することを言っているとは限らない。
ものごとの上っ面を単に幅広くしゃべっているに過ぎないことが多々ある。
まずそのことに気付く必要がある。現実をよく見ることである。現実が分かれば恐れることはない。

また、人前で話せないこと=悪いこと、人前で話せない人間=価値のない駄目な人間、という価値観が全く誤っていることを知ることだ。
誰がこんな価値観を正しいと広めたのであろうか。
人前で話せない人間が、そういう自分を駄目だと感じて、そういう自分を憎み、嫌って、そういう自分を抹殺して人前で堂々と話せる自分になろうと凄まじい努力したとしたら、間違いなく、100%、心が病んでいきます。
そして努力すればするほど、実際の自分と乖離していき、心に深刻なダメージが蓄積されていき、最悪は自殺まで行きます。

「人前で話せることが素晴らしい」なんで思う必要なんで全くない。
人間の価値はそんなもので決まるものではない。
人前で話せなくても、自分は元来、生来、素晴らしいものを持っている、と認識できないだろうか。
自分の持っている価値に気付くことができれば、人前で話せないことは何でも無くなる。
どうでもいいという心境になれる。
そんなことに価値を置くのが馬鹿らしいと思える。何か、笑いたくなってくるのではないか。

話すことが苦手でも、人付きあいが出来なくても、自分の能力を発揮できる職業はたくさんある。
大事なことは、世間一般の価値観をうのみにしないことであり、自分を信じることだ。
画一的な価値観を主張する人間だって、自分を見失っている人はたくさんいるのだから。

話すことが苦手であれば、文字にして自己主張することもできる。

人前で話せないことは何ら、全く問題ありません、と断言できる。



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人間の不完全さを受け入れることの難しさと受け入れたことによる安堵感

2022-05-21 00:10:15 | 心理
今日、講習会で親しくなった友人とライン電話で話していて、次のようなことを再確認した。
人間の不完全さを受け入れられないと、人に対し厳しくなるし自分のメンタルも辛くなるということ。

スーパーなどで、小さな子供に対し「何度、同じことを言ったら分かるの。何度も同じことを言わせないで!」と物凄い形相で叱りつける母親。
レジで並んでいて店員の仕事の遅さに我慢できずに怒りだす老人。

このような人たちは、親や先生、先輩、上司などから自分の不完全さを激しく責められてきた人たちなのだ。
しかも、責められた自分が悪い、こんな自分ではいけないと、自分自身をこれでもかと責め続け、自分を駆り立てててきた人たちなのだ。

このような心理状態で人生を送るのはとても辛い。
でもこのような状態で生きている人はたくさんいる。私もそうだった。

どうしたらこのような苦しみを抱えた人たちを救うことが出来るのだろうか。
人間はともかくも不完全な存在だ。失敗もするしミスもする。失態もたくさんある。
これって悪いことなのか。
不完全であることって、かえって魅力に感じられないだろうか。
そういう見方が出来ないだろうか。心から。

不完全な自分で全然問題無い。不完全な自分を激しく責め立てるなんで、ひど過ぎないか。
自分を自ら責めて泣いている。恐怖で委縮している。
そこに気付けないないだろうか。

自分を責める人は、責める自分と同じ人を見ると責めたくなる。何故ならば、その自分を嫌っているから。

こうあるべきだという価値観、規律、道徳にがんじがらめに縛られると辛い。
無意識レベルで、過去の生育歴からこのような縛りに支配されていることに気が付いて欲しい。

「不完全が悪い」と誰が決めたのか。
不完全を受け入れられれば、人に対する見方がニュートラルになれる。
不完全であっても腹が立たなくなる。

そのような心境になれることは難しいことであるが、永遠の課題でもある。
でも心を幸せに出来るのは、これしかないと思っている。
自分のこれまでの人生を振り返ってみてそう思うのである。



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今日の新聞を読んで思う

2022-04-29 23:25:10 | 心理
今日の朝刊の読者投稿欄にいい投稿が載っていた。
60歳近いのに、いまだに人間関係につまずくという悩みを正直に語られていた。

「たったひと言、嫌なことを言われただけで、全否定された気分にまで陥り、落ち込む。同時に言われた原因は自分にあり、人を傷つけたと罪悪感にさいなまれる。」「今日もまた憂鬱な気分に支配され、自分が成長できていないからだ、自分の方だけ言われっぱなしの悩みっぱなしとはどういうことなのかと悶々としている。」

この方はとても誠実で勇気のある方だ。
このようなことを実名をさらしてまで正直にありのままに吐露するような人は殆どいない。
首相のあらさがしをして正論を盾に責め立て得意になっている人、自分の立派さを誇示しようとする人とは全く異なる。

この投稿を読んだとき、かつての自分を思い出した(今の自分も若干残っているが)。
自分と全く同じではないか。

「今のままの自分でいけないことなどありません。」「今のままで自分で十分素晴らしいです」

能力が優れている人が素晴らしい、立派で地位の高い人の方が価値が高い、こんな価値観に支配されていると自己否定の構えから抜け出せない。

「自分には落ち度がある」、「自分は皆の迷惑になっている」、このような感じ方が潜在意識に強く根を張っている。
このような感じ方に支配されているから、根拠の無い嫌味や中傷、攻撃をそのまま受け入れてしまう。
そして自分で自分を傷つけることで、鬱屈な感情に苦しめられることになる。

嫌みや中傷というのは、何の根拠もないものなのだ。忠告や指摘とは根本的に違う。言ってくる側の人間の問題なのである。
そのようなことを言ってくる人物というのは、例外なく100%、心に深刻な苦しみを抱えていると思っていい。
心にドブ川のように汚い感情を堆積させていて、そのはけ口を自責の念の強い人、自己否定の構えの人をターゲットに求めているのに過ぎない。

常に不快な感情が湧き起こってくる心の問題を自ら直視、解決しようとせず、堆積した悪感情を人を利用して安易に解消しようとする、卑怯で弱い人間なのだ。
彼らの中には自分のやっていることの真意を露ほども気付いていない人もいるようだが、嫌味を言ったり中傷することで、自分に深刻な精神的な苦しみを抱えていることを自ら露呈しているのである。
{自分はこんなに心が苦しいんです」と証明しているようなものなのである。
「頭隠して尻隠さず」とはこのことであろう。

このような人間を恐れる必要などないのである。
嫌味を言ってくる人が、このような人間だと客観的に分かるようになれば、ダメージを受けなくなる。
ただ、自己否定の構えを持ち続ける限り、何処に行ってもこのような人物を引き寄せることになるであろう。

「自分が自分を傷つけること以外ありえない」ということが分かれば、このような人からの影響から抜け出すことができる。
そして、相手の言う事が、単なる忠告や指摘か、悪意のある中傷、嫌みかが識別できるようになってくる。

「今の傷つき、ボロボロになった自分に、暖かい光を送って欲しい」。
「今の自分の全てを受け入れて欲しい」
「今の自分で何の問題もない」。「本来のありままの自分以外の自分になる必要はありません」


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