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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

絶えず起きる怒りの感情の原因を考える

2022-02-26 22:42:16 | 心理
人間の本能的感情に「怒り」があるが、通常、怒りの感情が起きるのは、他人等から肉体的、精神的危害を加えられたとき、不当に搾取、あるいは損害を与えられたときなど、限定的な体験をきっかけに生じるものであり、怒りの感情を感じ放出すればたいていは時間の経過とともに収束していく。

しかしこのような限定的な体験によるものではなく、日常、絶え間なく怒りの感情が発生し、それによる不快感に苦しんでいる人がいる。
収束することの無い怒りの感情が日々蓄積されていくと、その堪えがたい不快感を解消するために人は様々な手段を採る。
例えば次のようなものだ。

①怒りの感情を意識から排除し、無意識に追いやる。
これはよくある解決方法だ。怒りを感じているにもかかわらず、怒りを感じていないように自分にウソをついてしまうということだ。
しかしこの解決方法の代償は大きい。早晩、抑うつ状態から鬱病などに進展し、怒りの感情が無意識の深いところまでしまわれてしまうと、怒りの感情を取り戻すこと自体が非常に困難な状態にまでなってしまう。自殺するのはこのタイプである。

②安全な標的に怒りの感情を吐き出し、一時的な解決を試みようとする。
これもよく見かける解決方法だ。代表的なのは、幼児、児童虐待、配偶者や交際者に対するDV(ドメスティックバイオレンス)、いじめ、ハラスメントなどだ。
この場合の特徴は怒りを向ける対象が、無抵抗な存在であること。反撃してくるような存在には決して向けない。自分が傷つくリスクがあるからだ。対象が無抵抗なので怒りの感情が一時的に放出されつくすまで実行される。
あとはなかなか見抜けない手段であるが、正義、正論でもって特定の人を過度に批判、中傷、誹謗するやり方である。
これも最も安全な標的(例えば自国の首相、不正やミスを犯した人、共通の不快感を感じる人など)に対し、また自分を最も安全な状況(匿名)下において実行されることが多い。新聞の読者投稿欄やネットの書き込みなどで散見される。
ターゲットが多くの人々の共通の敵だという認識があると、実行されやすい。
また商品に対するクレーマーや学校の先生に対するモンスター・ペアレントと言われる人もこの類だと思われる。

③ある偶然の出来事をきっかけに蓄積された怒りが爆発して長時間にわたり攻撃を行う。
例えば、電車内で体がぶつかったことに腹をたて、ぶつかった相手に長時間に渡って暴言を浴びせかけるような場合、車で追い越し等をされて逆切れされる場合などである。

④無差別の人を対象に怒りを放出する。
近年世間を騒がせたいくつかの凶悪な事件などに例をみることができる。
蓄積された怒りの感情がもはや制御できなくなり、また弱いものいじめで解消することに否定的な価値観を持つような人が、反社会的動機、被害妄想的な動機で無関係な人を攻撃する場合である。
凶悪までいかなくても、騒音などの嫌がらせもこの類に属する。

マイナス感情の中でもこの怒りはとくに強い感情であり、この感情を感じ続けることは大変な不快感とエネルギーを消費するものであるから、人間は本能的に回避または外に吐き出そうとする。
では何故この辛い怒りの感情は外に吐き出しても吐き出しても絶えず再生産されてくるのだろうか。
まずこの怒りの感情が起きる元の原因が何であったかを探る必要がある。
人間は本来、生まれながらにして自尊心を持ち感情を安定にさせて生きていけるようプログラミングされているものである。
しかし生育過程で、親など重要な人間からの虐待、学校でのいじめ、パワハラなど強い心的外傷を受け、なおかつその外傷を与えた人物に対し怒りの感情を向ける、あるいは怒りを意識することが出来なかった場合、その人の心の中でどのような変化が生じるであろうか。
向けるべき怒りを外傷を与えた人間ではなく、自分自身に向けてしまうのではないか。
外傷を与える人間は、自分のどうすることも出来ない怒りを一時的にでも解消させようと、怒りの矛先である人間が跳ね返すことなく、逆にその人が自分自身に怒りを向けたことでダメージを被ることを本能的に求めて遂行するからである。
だから弱い立場の人間や、真面目で心が純粋な人間は怒りを向けられたのは自分のせいだ、と受け止めてしまう。
つまり「相手が怒るのは自分のせいだ、自分が悪いからだ、自分に原因があるからだ」と受け止めてしまう。
そしてなんら問題、落ち度の無い自分を悪い人間と認識し、そのような自分を憎み、自分自分に対し怒りを向けてしまう。
そして人から二度と責められないように、自分を駆り立て、追い込む行動パターンを自ら課し、そのパターンを潜在意識に定着させていく。
このような人は幼い頃からの生育過程で、同様の体験の繰り返しでますますこのパターンを強化していったと考えられる。

24時間、絶えず、本来の実際の自分を憎み、嫌い、罵倒するとともに、人から攻撃されないような人間になるべく自分自身を駆り立てる衝動を感じ続けているとしたら、その人の心の中ではどのようなことが起きていると想像出来るだろう。
そのことで絶えず、怒りの感情が生産されていると思われないだろうか。
これが怒りを吐き出しても吐き出しても解消されない原因である。
この怒りを絶えず発生させるパターンが自分の意識外の潜在意識において発動していることに気付かない限り、冒頭に述べた虐待やDVは永遠に続くであろう。

ではこの状態から抜け出すにはどうしたら良いのだろうか。
それはまず自分が無意識に自分自身に対し行っていることに気付くしかない。
目の前にいるもう一人の自分、それは本来の実際の自分であるが、そのもう一人の自分を絶えず24時間、サンドバックのように殴ったり蹴ったりしているということに気が付くことである。
このような人は苦しくて苦しくて人から容易に理解出来ない程の状態にいるのに、自分自身がやっていることや自分の心の状態がどうなっているかに向き合おうとしていないことが多い。
そのため最も安易な解決方法である、何ら落ち度のない無関係の人を犠牲にして苦しみから逃れようとしているし、その現実に全く気付いていない。
虐待やDV、誹謗、中傷が麻薬のようになってしまってやめられないのである。

このような人を立ち直らせることは非常に難しいと言われている。
本人に気付きが得られないからである。
だからこのようなタイプの人(上記②~④のような人)とは極力関わらないようにした方が良い。
このようなタイプの人と関わると自責タイプの人は餌食にされて死ぬまで攻撃され続けるであろう。
しかし、このようなタイプの人でも自分の現実に向き合う覚悟が出て来たのであれば、再生の可能性は十分にある。
再生するためには、今までサンドバックの如く殴り蹴ってきた本来の自分を発見し、意識するしかない。
しかしそのことに気付くことが出来れば、良心が少しでも消えないで残っているのならば、今まで罵倒し続けてきた本来の自分に対する見方、接し方を変えることは出来るのではないか。
「心底、かわいそうなことをしてしまった。それも長い間、絶えず」と感じることが出来るのではないか。
これが出来るかどうか分岐点と言える。
しかしこのことに気付いても、長年、潜在意識に刷り込まれ定着したパターンを壊していくことは容易ではない。
意識で簡単に制御できるものではないからである。長い時間を覚悟しなければならない。

しかし分岐点を超えれば時間はかかるが後もどりすることはないであろう。
強い意志と忍耐力が必要ではあるが。
自分自らが傷つけてきた本来の自分と和解し、暖かい眼差しを向けることが出来るようになれれば、一歩一歩長い石段をゆっくりと昇っていくように解決に向かっていけると確信している。
そして、本来の自分を罵倒し続けた自分に対しても、最終的には自分自身で受け入れて許してあげることも回復の為には重要であることも言っておきたい。
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「このままの自分ではいけない」という心理の恐ろしさ

2022-02-07 00:39:55 | 心理
私は20代前半の頃から、「このままの自分ではいけない」という感じ方に支配され、駄目な自分を改善し立派になろうと凄まじい努力をした。
しかし努力すればするほど心理的に苦しさを増していき、ついには自己破壊の寸前まで行き着いた。
その後自己崩壊のどん底から這い上がり、人とコミュニケーションが何とか出来るようになるまで30年の歳月を要した。

今の自分は駄目だ。
今のこの自分だから人から責められるんだ。相手にされないんだ。馬鹿にされるのだ。
だから人から責められないような人間に一刻も早くならなければならないんだ。

何故、このように自分を責めてしまうのだろう。
普通の人ではなかなか理解できない心理である。

自分を駄目だと感じるようになった原点がきっと今までの人生のどこかにあるはずだ。
人は元々自分のことを駄目だと思うようには出来ていない。
しかし他者との深い関係性の中で、小さい時から他者から「お前は駄目なやつだ」、「お前のやること話すこと全てがつまらない、迷惑だ」などと言われ続けたとしたら、その人はその誤った自己評価、価値観を自らの潜在意識に刷り込み、定着させてしまうであろう。
そして刷り込まれた自己評価や価値観を動機とした行動が自動回路、自動操縦のように働くようになっていく。
この過程には過去の恐ろしいトラウマ体験による強い恐怖を動機としている場合が多く、その場合は再生、回復は極めて困難となる。

潜在意識で「私は駄目な人間だ」と思っていると、先述したようにその思いが実際に行動に現れ、そのとおりに実現される。
例えば人付き合いが出来なくなる、人前で話すことが出来なくなる、などである。
本当は人と楽しく話したい、交流したいと意識では願っていても、それが出来ない。
どんなに頑張っても出来ない。ジレンマに苦しむ。
そしてこのような体験の積み重ねでその人は益々潜在意識の「私は駄目な人間だ」という思いを益々強化していく。
そしてその「私は駄目な人間だ」という感じ方が限界点を超えると、今度はその上手くいかない自分を激しく憎み出し、自己を抹殺するようになる。強迫的に全く別の、理想の人間を思い描き、そのような自分になろうと必死の努力をするようになる。

しかしその試みは100%失敗に終る。
それどころか心に深刻なダメージを自ら与えることで、再起不能、あるいは最悪自殺にまで追い込まれることになる。

人は現状の自分を意識的であろうが無意識的であろうが、「このままでは駄目だ」、「今の自分のままでは人から相手にされない、愛されない」と感じている以上、どんなに成功や、幸せを求め、その実現に努力を重ねても実現されることはない。
表面的に一時、成功や幸福をつかむことはあるだろうが、決して満ち足りることはないだろう。
常に強迫的観念に苛まれている。

ではこの苦しみから抜け出すにはどうしたら良いのか。
まず自分の心の中でどのようなことが起きているか、感じることである。
何が自分を不幸な方向に突き動かしているのか。
多くの場合、解決されていない恐怖や屈辱感などの感情に突き動かされている。
それらのマイナス感情は過去のトラウマ体験が元になっている。

恐怖や屈辱感などの感情が持続的に起きているのは何故か。
人は他人から精神的攻撃を受けた時、瞬間的に恐怖や怒りを感じる。
しかしその感情が絶えず潜在意識下で起きるには何か理由がある。
他人から攻撃されたとき、「攻撃してきた人間に問題や欠陥がある」と認識できた場合、どうだろう。
「自分は攻撃される理由、問題点、重大な落ち度は無い。冷静に客観的に見て相手の攻撃の背景にその人自身の心理的問題がある」と受け止められたのであれば、相手に対する恐怖や怒りは引いていくのではないだろうか。
しかし逆に、「人から攻撃されるのは自分が悪いからだ、自分に落ち度があるからだ、努力が足りないからだ」というような自己否定の受け止め方、すなわち、「今のこのような自分でいる限り、私は他人から責められるのは間違いない。だから責められないような人間にならなければならないんだ」とうように受け止めてしまったならば、今の自分でいる限り他人全てから攻撃されるという恐怖を持続的に感じるようになるのはないか。
そして実際の自分を憎み、責めるために自分自身に対する屈辱感が絶えずつきまとう。
これが恐怖や屈辱感、劣等感などのマイナス感情が常に起こっている原因である。

もし誰かから何か忠告されたり、助言されたりしたとき、「責められた」という感じが起きたとしたら、それはその他人の言動を契機として潜在意識から意識下に上ってきた「私は人から責められても仕方のない悪い、駄目な人間だ」という自分自身に対する評価、受け止め方により、自分で自分自身を傷つけた結果に他ならない。
相手が全く自分を責める意図など無かったとしても、傷ついて不快な感情に苦しめられるのはこのメカニズムが潜在意識下で起きているためである。
このようなメカニズムが潜在意識に回路のように定着していると、他人の忠告や助言をそのままに受けとることが出来ずに、人とトラブルを起こしたり、傷ついて怒りや憎しみを心にため込んだり、成長の機会を逃してしまうことになる。

「自分を傷つけることが出来るのは自分以外に無い」、このことに気が付いていないと、恒常的に心の中で起きている自己否定の回路からくる苦しみから抜け出すことはできない。

何をモノサシにして自分を駄目だなどと結論づけてしまうのだろう。
「貧乏よりお金持ちの方が優れている」、「地位が高い人間ほど尊敬に値する」などと言った、二極的価値観に支配されていると、いつまでたっても自分を肯定することは出来ない。
「自分は駄目だ」、「自分は至らない、努力の足りない人間だ」と言った見方には何の根拠もないのである。
逆に努力できなくたっていいのである。
人間、いつもいつも努力できるわけではない。
自分がどう生きるかということは、他人が口を挟むことではないのである。他人が裁くことでは無い。
(誤解のないように言っておくが、他人の迷惑を考えず何でもやっていいということではない)

自分の心を穏やかにできるかは、どれだけ自分の本質を受け入れ、許容できるかにかかっているように思える。
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何故恐怖や不安から逃れられないのか

2021-12-12 00:12:16 | 心理
30数年前の20代半ばの頃に聴きまくっていたチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を現在また聴き直す作業をしている。
この1週間で20枚ほどのCDを聴いた。
指揮者により曲の解釈や演奏から伝わってくるものは様々であるが、心の深いところまで感情が動かされる演奏はなかなか無いことが分かる。
「悲愴」のような曲は表面的な解釈や演奏表現では、いくら完璧とも言える出来だとしても、聴き手に伝わるものは乏しい。

「悲愴」の第4楽章の途中で、過去を回想する部分がある。
恐らく作曲者自身であろうが、過去の一時期、それは希望に満ち、輝いていた、若い頃の自分、出会った人と共にした感動や、喜びを分かち合ったであろう青春時代の断片を思い出す。
この部分を聴くと、ものすごく感情が吐き出される。
この部分は自殺など不幸な死を遂げる人が、死の直前の一時に蘇ってくる感情だ。
シューベルトのピアノソナタ第21番の2楽章でも同じような展開がある。
シューベルトの場合は、第2楽章の終結部で全てを受け入れた悟りの心境が伝わってくる。

「悲愴」の鑑賞はまだまだしばらく続きそうだ。
でもこういうクラシックの名曲を何度も繰り返し聴いていると、感情の感受性が高まってくるのを実感する
最近、真珠湾攻撃から80年の特集が新聞やテレビで報道されているが、その内容を見たり聴いたりすると当時の人たちの今では全く想像もつかない苦しみが伝わってくるような気がして、意識していないのに瞬時に強い感情が起こってくることがある。

話がだいぶそれたが、「悲愴」鑑賞に明け暮れた結果、このところギターは殆ど弾いておらず、1週間後に開催されるマンドリン合奏の練習も手が付いていない。
まあ、あせることはないけど。

今日記事にしようと思ったのは、心理関係。
最近、心の問題解決で想いつたことを手帳にメモしたものがあったので、その内容を整理して書いておこうと思った。

恐怖や不安に絶えず悩まされている人は多いと思う。
電車に乗っている時や会食時、人前で話したり演奏したり、人ごみにいる時など、特定の場面のみに感じるのではなく、絶えず、いつも恐怖や不安を感じ苦しむという状態である。
何故、絶えず恐怖や不安を感じるのか。その原因を考えたい。

まず、人生の幼少期から青年期の間、すなわち自分に対する解釈や評価が出来るようになってから、心がまだ柔軟な時期に、親、兄弟、学校の先生や友達など、重要な人から何か強いトラウマとなるような衝撃を受けたとき、人間の本能として心理的な恐怖や不安を感じる。
しかしその他者からの心理的攻撃が「自分が原因でなされたもの」、すなわち、自分が悪いから、自分が至らないから、自分の方に問題があるからだと受け止めた場合、その人の心はそれ以後、どう変化していくであろうか。
まず、「今のこの自分でいる限り、自分は周囲の人から責められたり、馬鹿にされたりする」というう想念を持つようになるではないか。
そしてその想念と恐怖、不安感情はセットになって密接、強固に結びついていく。
その自己に対するネガティブな想念はその後人生の過程で、対人関係での体験で繰り返されその度に潜在意識に刷り込まれ、強固に根付いていく。
やっかいなのは、その想念と恐怖、不安感情は絶えず結びついている、ということだ。
恐怖を感じるから、それを回避しようと強迫的、反射的に今現在の自分ではダメだという受け止め方を動機として、責められない自分を強制的に演じようと涙ぐましい努力を重ねていく。
そしてその度に、ネガティブな想念+恐怖・不安感情を強めていくのである。

このような自己破壊的なパターンが潜在意識に強固に定着してしまうと、あたかも自動回路のように働いてしまい、もはや意思の力、意識の領域ではコントロール不能となる。
これが、何が原因か分からないけど絶えず恐怖や不安に悩まされる苦しみの正体である。

ではこのコントロール不能とも思える自己破壊的にパターンから抜け出すにはどうしたらよいのか。
それには、まず自分の心の状態がこのような状態になっていることに気付くことが必要となる。
しかし大抵は気付けない。多くの人がこの状態に気付けず、不幸なまま人生を終えていく。
気付くためには、最初は頭の世界でもいいから、自分の過去を振り返り、恐怖体験を探すことである。そしてその体験をした時に、自分が自分に行った解釈、受け止め方、評価をどのように行ったのかを見つめ直すことである。
そしてその体験をきっかけに、人生過程の長きにわたってそのネガティブな受け止め方を無意識の世界で行ってきたから絶えず恐怖や不安感情に苦しめられているんだ、ということが頭の世界だけでなく、実感として分かってくるようになる。
しかし実感として分かってきたからと言って、すぐにこの自己破壊的パターンから抜け出て恐怖、不安から解消されるものではない。
何十年もこのパターンを繰り返し行ってきた場合は、潜在意識の自動回路が強固になっているので、短時間でこれを破壊することは不可能である。
多くの人は、大概、恐怖や不安を感じている自分を嫌っている。こんな苦しい自分は嫌だ。一刻も早く楽になって幸せになりたいと思っている。
しかしその思いこそが回復を遅らせるのである。
怖がっている自分に、どんなに「怖がるな。そんな自分ではダメだ。」、「安心していいんだ。もっとリラックスしていいんだ。」と言い聞かせても解消されることは皆無である。
逆に反発されて状態は悪化する。
何故状態が悪化するかというと、心の中の自分は怖くてしょうがないのに、「怖がるな」、「もう安心していいんだ」と言ったところで、納得するわけがないからである。
それだけ怖い体験を積み重ねてきた心の中の自分が、そう簡単に「はい、そうです」と言うわけがないのである。

解消の方向に持っていくためには、心の中の怖がっている自分が納得する形で働きかける必要がある。
まず何より、過去に恐ろしい体験をしたことを本当の意味で理解し、無条件に受け入れて肯定してあげる必要がある。
自分に対しネガティブな受け止め方をせざるを得なかったことも。
そして、その自分に対するネガティブな受け止め方を無意識に行っていることに気付かせ、その受け止め方が恐怖や不安を絶えず引き起こしていることを心の中の自分に理解してもらわなければならない。
この作業を辛抱強く、繰り返しやっていくしか解決の道はない。
強固に形成された自己破壊的メッセージとそれと結びついた恐怖感情を一瞬で解消する魔法的解決方法など、どこにもないのである。
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自分の本質を受け入れ好きになれると生きるのが楽になれるのではないか

2021-12-01 00:00:00 | 心理
今日から4泊5日のローカル線の旅に出ている。
今 、広島県の三次という町にいる。
椅子やバスルームにおびただしいとまてはいかないが、髪の毛が残っているビジネスホテルに宿泊。



三次駅前で買った日本酒、「美和桜」を飲みながらくつろいでいる。
毎日、バイブルのように読んでいる心理学の本を読みながら、思索にふけっているところだ。
この本のなかにこんな一節があった。
「人が理想を思い描くのは今が理想的でないと感じている時であり、そのあなたの無意識下に秘められた、今を否定する「このままではダメだ」という思いが、このままではいけない困った現実を呼び寄せることとなってきます。それがあなたがこれまで体験し続けてきたあなたの現実です。」

人間の本質というのは実に様々だと思う。
表舞台で輝くことに生き甲斐を感じる人、裏方に徹することに幸せを感じる人、人のめんどうを見るのが好きな人、素朴な質素な生き方が好きな人、人に話をするのが好きな人、人の話を聞くのが好きな人など、いろいろな本質がある。
自分の本質って、一体何だ?。これが分かることは非常に大切なことだ。
重要なことは、様々な人間の本質に良い、悪いということは無い、ということだ。
どんな本質であろうと、その揺るぎの無い本質を受け入れ好きになって生きている人に魅力や安心感を感じるのではないだろうか。
こういう人は特段意識していないだろうが、どんな本質の現れであっても、そ
れを否定せず、その本質以外のものになろうとせず、ありのままに生きている人が、最も生きている実感を感じる 。
またそのような人は、他人をありのままに受け入れる心の余裕のある人でもある。

また先の本にこのようなことが書かれていた。
「今自分が何を表現しているのかに気付いて下さい。自己弁護をしている自分に気付くことです。人を批判している自分に気付くことです。自分を責め、落ち込んでいる自分に気付くことです。人に良く思われるようとしている自分に気付いて下さい。欲求不満の中でストレスを発散していませんか。そんなつまらないことに今というこの大切な瞬間を浪費しないで下さい。」

内面の深いところから無意識的に涌き出てくる揺るぎの無い本質に従って生きている人は強い。
自分の本質を否定して、理想の人間になろうと無益な努力をしている人は案外多いのではないか。
しかしそのもくろみは必ずや大きな代償を払って失敗に終わるであろう。
今、ここで、この瞬間を自分の本質で生きる生き方が出来れば、どんなに幸せになれるだろうか。

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何度も見る同じ夢

2021-11-09 21:05:06 | 心理
不思議に同じような夢を何度も見ることがある。
シチュエーションは微妙に異なるが、ストーリーはほぼ同じだ。
1つは高校を卒業して大学に入った後なのに、何故かもう一度大学受験勉強をしていて、しかも英語や理科の勉強を何か月もしていなくてあせって、受験近くになってどうしようと切迫感に苛まれるというもの。入った大学が嫌で入り直す、というものではない。
2つ目は、同じく高校を卒業したのに何故か同じ高校にまた通わなくてはならない状況になっていて、朝起きたら寝坊して授業に間に合いそうにない。急いでバスの時間を調べたりするがダメそうだ。
そして学校に電話しなければならないと思うのだが授業の途中で教室に入るシーンを思うと、もうイイヤ、と思って電話しないでそのまま休んでしまうというもの。
3つ目は就職したのにもかかわらず、また就職活動をしなければならないとあせっているというもの。
転職ではない。就職しているのに、また元に戻ってしなおさなければならない、だけどなかなかはかどらないという不思議な心理状態におかれたものだ。

今日見た夢が2つ目のもの。
何故こうも同じような夢を何度も見るのか。
何か心に潜在的に沈殿している過去のトラウマがこういう夢を見させているのかもしれない。
思い当たるのは高校時代、半登校拒否状態で、あと1日休むと卒業できないというところまで追い込まれていたことがあった。
このときのプレッシャーが癒されずにそのまま潜在意識に残り続け、夢となって現れたか?。

過去に何度もトラウマ(心的外傷)を体験した人は夢でフラッシュバックを体験すると言われている。
肉体の傷は外科的処置で治すことが出来るが、心の傷は明確に目に見えるものではなく、本人自身もその傷に気付くことなく放置されることが多い。
夢や体の不調は、心の傷が癒えておらず心の中で放置されていることを本人に知らせるサイン(警告)なのであろう。

現状を顧みると、こういう見えない心の傷に確実に対処できる療法やノウハウが確立されているとは言い難い。
他人の心の傷を理解することは、暗闇の中で特定の何かを手探りで探すようなものであり、探り当てることの出来る人が極めて少ないからなのであろう。

見た夢の中にまれに、目覚めた瞬間に「これを映画化したらすごいだろうな」と感じるものに出会ったことがある。
夢は意外にリアルで、ストーリー性があって、普段の自分が想像もしないような内容のものもある。
SFやファンタジーのような内容だったら何度でもみたいと思うのだけど、そう簡単にはいかないところは仕方ないか。
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