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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

恐怖の向き合い方(2)-対人恐怖症の解決のために-

2021-08-22 20:08:23 | 心理
(前回からの続き)

対人恐怖に苦しむ人が、「自己否定」や「自責の念」を心に定着させてしまうに至る要因を、もう少し掘り下げて考えてみようと思う。
ある特定の対象、状況下でのみ感じるようなスポット的な恐怖症ではなく、常に寝ても覚めてどこにいても継続的に感じる恐怖感情が何故生じるのであろうか。
このような状態になるに至るには、その人の人生プロセス、それも幼少期から青年期にかけての体験、それも人間関係からくる体験が重要な影響を及ぼしている可能性が高い。
それもPTSDのようなある瞬間的な特定されるトラウマ体験のみから来ているというよりも、家族、学校、職場などに代表される集団的環境の中で、様々な心理的悪影響を及ぼす行為を持続的に受けることによって生じると思われる。
すなわち逃げ場の無い閉鎖的環境の中で、愛や安心感、一体感を求め、属する環境に依存せざるを得ない立場の者が、周囲の人々から継続的に精神的攻撃を受けるとともに、その攻撃が相手の問題によるものであるにもかかわず、攻撃を受けた自分が原因であると受け止めざるを得ないほどの大きな圧力が加えられるような体験を積み重ねることによって生じる。

心が未発達状態にある年代で、このような状況下に長い期間置かれると、「自己否定」、「自責」、「人間不信」といった心の構えが次第に定着される。
すなわち自分が悪くもなく、落ち度もないのに、人から責められるとそれは自分が悪いからだ、と受け止めてしまうのである。しかも本人にとっては自明の理のように。
そしてこのような「自己否定」の構えが、恐怖のみならずさまざまなマイナス感情を常に生じさせ、自己破壊に向かわせるのである。

「自己否定」の構えがまだ弱い段階では、気が弱い、引っ込み思案といったレベルで、ある程度その傾向を受け入れ、周囲の人間関係が良好で守られている環境であれば、その状態でなんとか生きていくことは可能だろうし、実際にそうしている人もたくさんいる。
しかし、「自己否定」の構えがもはや自分で受け入れられる限界を超えるほどの強い心理的な影響を継続的に受けたならば、その人は次の段階として「自己破壊」とともに「人から責められない理想の人間」に強迫的になろうとする衝動を持つに至る。
すなわち、気が弱い、頼りないといったありのままの自分を激しく憎み、罵倒するとともに、このままの自分では危険だからすぐにでも責められないような人間になろうと強迫的になるのである。
そしてこの心理的パターンが自動回路のように潜在意識に定着していき、それがどんどんエスカレートしていくと、次第に人の話が聞こえなくなり、話をすることもできなくなり、周囲を見ることも出来なくなるといったような心の崩壊をもたらし、最終的には自殺に行き着く。それも心の中でこのような状態になっていることの事実に自らが一度も気付くことなく。
私は自殺者の多くはこのパターンで亡くなっていると思っている。

では、もしこのような状態になっても、「生きる」ことを選択し決意したとしたら、どのように心を回復させ再生していけるのだろうか。

人間は、どん底に陥ったとき、すなわち生きるか死ぬかの選択を迫られた時、自分の心の本当の状態、現実の姿が見えてくるように出来ているのかもしれない。
それは神のような存在のものが最後の最後でチャンスを与えてくれているようにも思う。
この「自分の心の中でどんなことが起きているのか」にまずは気が付くことが一歩だと思う。

ただ自分の心の中で起きていることが見えてきたからと言って、すぐに恐怖を始めとする苦しみから開放できるわけではない。
程度にもよるが長い道のりが必要となる。
まず、この潜在意識に定着してしまった「自己否定」と「自分以外の者になろうとする強迫観念」の自動回路を外すことは一筋縄ではいかない極めて困難な作業であるからだ。
極めて困難なのは、意識下でのコントロールが効かないからである。
それは人間が何の意識もしなくても呼吸をしたり睡眠をしたりすることと変わらないものであるから。
それくらい潜在意識に刷り込まれてしまっている。

でもまずこのような状態に自分の心がなっていることに気が付くことができれば最悪の状態に比べれば楽になっていることに気付く。
そして、何でこのような状態になるに至ってしまったのか、自分のこれまでの人生プロセスを振り返ってみる必要がある。
振り返ると必ず、この「自己否定」、「自己破壊」に向かわざるを得なかった数々の体験や人間関係が見えてくるに違いない。
キーとなるのは、「責められたのは自分が悪いからだと受け止めていたけど、実は責めた相手の心の問題であったのではないか」と疑問を持つことだ。
「自分が悪いと思って自分を責めて、一生懸命そういう自分を直そうとしたけど、逆に益々、ボロボロになっていった」いう事実に気が付くことである。
「もしかして私は、自分に対して正しいと思っていたことの全く逆のことをしていたのではないか」という疑問を持つとともに、その疑問を解き明かしていく作業が必要だ。

時間はかかるけど、ここはあっせってもどうしようもなく、理解できるまでには相応の時間を要する。
この作業の過程で、自分に悪影響を与えた人物が明確になることもあるだろう。
その時は、その感情、多くの場合は怒りや憎しみ、悲しみだろうが、そういう感情をためらわず外に出して開放してあげることである。もういいというまで。
このプロセスにより、ボロボロになってしまった自分に対し、次第に愛おしい感情が芽ばえてくるに違いない。それまで一度も自分自身にできなかったことだ。

この過程で、怒り、憎しみ、悲しみといったマイナス感情はかなり開放、浄化され、同時にうつ状態からも開放されていく。
しかし、恐怖とそれとセットになっている「自分以外の者になろうとする強迫観念」はなかなか取れていかない。
何故か。
それは前回も述べたように「恐怖」という感情は他のマイナス感情に比べエネルギーが強すぎて、それが開放することを困難にしているからだ。
それと恐怖という感情は、攻撃から身を守るためのシグナルでもあるために、この感情を取り除くことに潜在意識の自分が必然的に拒否するからである。

(この続きは後日書きます。次回は、恐怖とそれと一体になった強迫観念をどうやった弱めていかれるかについての方法をテーマにする予定です)
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恐怖の向き合い方(1)

2021-08-21 21:37:56 | 心理
ネガティブ、マイナスの感情と言われるものには、恐怖、不安、怒り、憎しみ、不満、悲しみ、寂しさ、孤独感、あせりなどといった様々なものがある。
人間である以上、これらの感情を感じることは避けられない。
人間が生きていくために必要な感情であるからだ。

これらのマイナス感情は通常、感情を引き起こす体験が去っていけば、おのずと自然に解消するものである。
しかし何らかの原因、理由により、これらのマイナス感情が絶えず継続的に生じることがある。
このマイナス感情が意識的、無意識的にかかわらず継続的、持続的に発生している状態を、心の苦しみ、心の病、一昔前のいい方だと神経症、ノイローゼなどと言った。

このマイナス感情の中で、最も解消されにくく、扱いの難しい感情は、自分の体験上、「恐怖」であると言いたい。
恐怖が原因となっている心の病としては、対人恐怖症を始めとする様々な恐怖症と言われるものだ。
人と対面したり、特定の状況においてのみ発生するのであれば、それほどでもないだろうが、1日24時間、寝ても覚めても、どこにいても、どんな状況下であっても、絶えず恐怖を感じている状態というのが、最も救い難い恐怖症なのだ。
それも、まともに感じると「ギャー」と叫んで気絶してしまうほどの強さを持つ恐怖だ。
このような強い恐怖はまともに感じると心が崩壊する危険があるから、大抵は潜在意識に抑圧されている。
しかしいくら潜在意識に抑圧されていても、無意識的には24時間いつでも感じているために、抑うつ、エネルギーの枯渇、何とも言えないどうすることも出来ない苦しさ、といったものに苦しめられる。

恐怖だけであるならばまだいいのであるが、恐怖という感情は、他の様々なマイナス感情を派生させる。
例えば強い恐怖が絶えず心に生じていると、それがために言いたいことが言えない、したいことが出来ない、いつも苦しい、人と親しく出来ない、独りで居ることを余儀なくされる、人から責められるのではないか、責められないために責められない人間に1秒でも早くならなければならないと強迫観念にかられ実際そう行動する、自分は愛されない人間だ、自分は周りから嫌われている、といった、恐怖がトリガーとなった感情、恐怖から逃れるためにとった行動から派生する感情、すなわち、冒頭にあげた、怒り、不安、憎しみ、不満、悲しみ、寂しさ、孤独感、強迫感、あせり、自責などといったあらゆるマイナス感情が同時に連動して湧き起ってくるのである。
しかも多くの場合、これらの派生感情が絶えず連動して発生してきていることに当の本人は意識できずに、無意識下で起きていることに気付かない。
このような心の状態が長く継続的に続くと、うつ状態となる。
薬物療法で治らないうつ病の殆どはこのパターンによるものだと思われる。
それゆえに、心の苦しみのうち恐怖をメインに起因するものが最も辛いものであると言えるのである。

しかもやっかいなことがある。
それは恐怖を無意識に抑圧している場合、意識下に昇らせることが容易でないばかりでなく、恐怖を解消、浄化するのが他のマイナス感情に比べて非常に困難であることだ。
マイナス感情のうち、悲しみ、孤独感といった感情は、意識下にまで引き出すことは比較的容易だし、意識下で感情を感じ尽くすならば時間とともに自然に開放、浄化されていく。怒りも同様だろう。
しかし恐怖はそれを行うのはたやすくない。
恐怖が他のマイナス感情に比べ、肉体に現れる現象、例えば破壊的な肉体硬直、痛み、痙攣、めまい、貧血、パニック、フラッシュバックなどの苦痛をもたらすことにもよる。

そもそも恐怖が絶えず持続してしまうのは何故なのか。
ここで言う恐怖は対人関係から来るものに限定して考えたい。
対人的に感じる恐怖は、単独あるいは複数の人から精神的に攻撃されたり、責められたりすることで起きる。
しかし仮にその他人からの精神的攻撃、責めが、理不尽であり、自分には本質的には無関係でむしろその人自身の心の問題が原因であった場合、その事実を客観的に理解できずに、しかもその原因が言われた自分自身にあると受け止めたとしたならば、心にどのような影響が生じるだろうか。

それは「自分が悪いから、自分に落ち度があるから責められるんだ。だから人から責められないような人間に一生懸命ならなければならない」という、自分自身への規範、観念、メッセージを自ら潜在意識に刷り込み、自動回路のように心の奥深くに強固に根付かせてしまうのではないか。
その結果、この観念、メッセージが潜在意識に強固に張り巡らされ、その状態が続いている限り、恐怖の感情が絶えず起きて苦しみに満ちた人生を歩まざるを得なくなるのである。

(この続きは後日にします。続きはこの苦しい自動回路や恐怖をどうしたら解消していけるかについて書いていくことにします)

【追記202108222007】
脱字修正、一部加筆。
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人を許すために 「鏡の法則」

2021-05-27 22:14:59 | 心理
昨日は遅い時間に2時間余りに渡って講習会のディスカッションがあった。
そこで私はサポートの立場で初めて司会をやらせていただいた。
このディスカッションにはさまざまな人たちが10名ほど参加していたのだが、自分から意見を言うこともなく、指名されても殆ど自分の意見を言わない方が2名いた。
この時私はこう感じたのである。
「この人たちは何でこのような場を自分のために最大限活かそうとしないのだ。もったいないではないか。遠慮して、自分の考えを表明したら他人からいろいろ言われるのを心配しているんだろうけど、何をものおじするのだ。もっとしゃべらないか!」。

少し怒りが混じっていた。
この後で冷静に振り返ってみると、私はこのしゃべることの出来ない「おとなしいものおじする人たち」と本質的に同じなんだけど、「まだまだそれを受け入れることが出来ず、憎んでいるんだな」ということに気付いたのである。

人は、自分で認めたくない嫌な自分を意識から排除して、それとは正反対の自分になろうと駆り立て、なり切ろうとすることがある。
「嫌な自分」とは、例えば、積極的になれない、引っ込み思案、内気、暗い、ケチ、意地悪、自己中心的、なまけものなど、一般的にはあまりよく思われない人間のイメージからくるものであろう。
過去にこういう自分を他人から激しく責められた。
そしてそのトラウマ体験をきっかけに、「このままの自分でいると責められ、恐ろしい目にあわされる。このままだとみんなから嫌われる。誰からも相手にしてくれない。」と思うようになる。
そして心が病んでいく分岐点は、「この自分はダメだ。この自分だから責められるんだ。だからこの自分でない、責められないもっと立派な人間にならなければならないんだ」と、現実の自分を激しく憎み、凄まじい努力でもって自分にムチを打ち、駆り立てる心理的回路を潜在意識に強固に刷り込んでしまうことである。

私はこれを23歳の頃にやった。
一旦この心理的回路が強固に根付いてしまうと、自分を憎む行動をすればするほど強化され、次第に鬱が進行し、このパターンに気が付かつくことなく、逆に正しいと思い込んで自分を追い込み続けると、最後は自殺まで行く。
普通に働いているサラリーマンがある日突然自殺することが多いのは、このためである。

そして運よくこのパターンの恐ろしさに気が付いて、再生へと舵を切っても回復まで非常に長い年月がかかる。それほど潜在意識に強固に根付いてしまった心理的回路を破壊することは難しいものなのだ。
自分の意識でのコントロールは効かない。コントロール不可能な状態が何十年も続く。
容易に想像は出来ないと思うけど。

程度の差はあるが、現実の自分を憎み、無意識に追いやってしまっている人は多い。
努力家、苦労した人、強く生きてきた人などの一部にもみられることが多い。
よく「自分に厳しい人は他人にも厳しい」ということを聞くが、そのような人が自分を憎んでいる人だ。

自分を憎んでしまった人の特徴は、「人をよく責める」というところにある。
冒頭に述べた、消極的、暗い、なまけもの、などの傾向を人に見出すと、激しく糾弾する。
私がまだ破壊的回路を心に持つに至っていなかった、大学時代の後半の頃、何かにつけて私のあらさがしをして激しく責め立ててくる先輩がいた。
「自信を失って、頼りなかった私」を許せなかったのであろう。

実はこのような人のマイナス面(このような二元的評価は間違っているとは今は思っているが)を見出して、ことさら責め立てる人は、その責めている相手と全く同じ人間なのだ。
責めている人も責められている人も同じマイナス面を現実に持っている。
両者の違いは、責められている人はマイナス面を受け入れているが、責める人はマイナス面を受け入れられず憎んでおり、しかもそのマイナス面を自分の意識から排除しているところにある。

このような心理パターンは俗に「鏡の法則」と言われている。
冒頭に、講習会のディスカッションで自分の意見を言わない人に不満を感じたのは、私の現実の姿がその人を通して見えていたからに他ならない。
しかし私はそのような傾向を受け入れることができずに嫌い、憎んでいたから、鏡に写った自分の姿を見て腹が立ったのである。

これでも以前の自分に比べ、自分を憎むことは相当克服してきたはずなのに、まだまだ残っていたことにおどろかされた。

よく「自分を良くも悪くもまるごと許せるようになると、人を責めなくなる」と言うことを聞く。
それは私の体験から考えても正しい。
しかし「自分を許す」ということは本当に難しいことなのだ。
それは他人を責めることよりも何千倍も何万倍も難しく感じる。
少なくても私にはそのように感じられる。

だけど自分を許せるようになると、間違いなく「人を許せる」ようになる。
自分は未だ途上にあるが、心の平安を取り戻せる時期はもうすぐそこだと感じている。

今朝、講習会の幹部や同期生からラインメッセージが入っていて、昨日の進行に対し暖かい言葉をかけてくれた。演奏会のことを話したら写真送ってくれって、送ったら本当に喜んでくれた。
この文章だけからでは分からないだろうけど、素晴らしい人はいるものだ。
でもずっと長い間、そのような人はもういないと思い込んで生きて来た。
人間的に素晴らしい人は、ビジネス界のような金儲けの世界にはいない。
案外そのようなところとは無縁のところにいる。
(音楽界にもいるか?)
利害利得ではなく、純粋な気持ちで人助けができるか、それが出来る人が本当に素晴らしい人だと言えるのではないか。

話は変わるけど、23日の演奏会の録画が今日届いたので早速聴いてみた。
(2018年の大規模や所属する社会人団体の演奏会録画は購入しても見る気になれず結局見たことはなかったが、何故か今回は観てみる気になった)
離れたところからの録音だったので、細かいニュアンスが聞き取れなかったのはやむを得ないが、「素晴らしい!」の一言。
初めて録画でこの団体の演奏を見たが、今まで生演奏やYoutubeの録画であまた多く見てきた団体の演奏の中でもとびぬけていると感じた。
良かった!!。
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心が傷つくプロセスについて

2021-03-15 22:02:04 | 心理
今日は在宅勤務なので目覚ましを6時過ぎにセットしていたが、1時間前の5時過ぎに目が覚めてしまった(出社する時は4時40分に起きるけど)。
目が覚めるちょっと前に、かすかな記憶であるが呼吸が止まっているような息苦しさを感じた。
悪い夢を見ていたようだった。
過去のトラウマ体験が悪い夢となってフラッシュバックしてくることがときどきある。
案の定、目が覚めてから過去のいやな出来事の記憶が走馬灯のように次々と蘇ってきた。

人は肉体の故障や病には多くの場合、気を付ける。
もし怪我をしたり病気になったら手当をしたり休んだりする。
しかし心が傷ついたとき、注意を払わない人が多い。
傷ついていることにすら気付かないことがある。
何故か。それは心の傷というものが客観的に目に見えるものでないからだ。
肉体の傷は手当をすれば治る場合が殆どであるが、心の傷はなかなかそう簡単に癒えるものではない。
手当がされなかったとしても時間が解決してくれる、というものでもない。
深い心の傷は何十年にも渡って人を苦しめ、支配するものもある。

そもそも心が傷つくということはどういうことなのだろう。

・人間としての尊厳を悪意のある言動により踏みにじられる。
・幼い頃の不完全さ、未熟さを許されることなく、虐待される。
・愛を注いだ人から裏切られる、拒否される。

他にもたくさんあるだろう。
「心が傷つく」ということは多くの場合、「他人から傷つけられること」、ということを意味するように思う。いじめや虐待といったものが典型だ。
では人の心を傷つける人間とはどうのような人なのだろうか。

人を傷つける人というのは、人生のプロセスにおいて愛を十分に注がれずに傷ついた体験を持つがゆえに、これ以上傷つくことから自分を守ろうとしている人であり、かつ、傷ついた心を癒すために他人を利用して解決しようとしている人なのではないか。

もし人から傷つけられたと感じたとき、その人を客観的に見て、このようなタイプの人であることを見抜くことができるならば、大きなダメージを回避することができる。
心の病んだ、5歳の幼児から、「お前はダメで情けない役立たずだ」、「お前は人間のクズだ」、「バーカ、くそたれ」などど言われても相手にしないのと同じだ。
現実は病んだ5歳児から理不尽なことを言われているのに過ぎないのに、相手の現実が客観的に見えていないから、相手の言うことが正しくて、そのようなことを言われる自分の方が間違っている、悪いのだ、と受け止めてしまうことが多くある。
見抜けないのは、このようなタイプの人が、正義や正論を隠れ蓑にして責めてくるたちの悪さがあるからである。

あと重要なことがある。
心が傷つくということは、悪意のある他人のせいだ、と認識してしまっていることが殆どであるが、実はそうではない、ということだ。
心が傷つくのは、自らの深層意識に根付いている「否定的価値観」であり、他人の悪意ある言動を契機としてその否定的価値観が意識上に上がってくることによって引き起こされる、ということだ。
では「否定的価値観」とは、具体的にはどういうものなのか。
「否定的価値観」とは、「自分はダメで情けない役立たずだ」、「自分は人間のクズのようなダメな人間だ」、「自分はみんなと仲良く出来ないバカなヤツだ」、といったような、「自分ことを根拠もなく否定的にとらえ、自分を責め、罵倒する」見方のことである。

他人から悪意あることを言われて心にダメージを受けるのは、自分の深層意識にこのような「否定的価値観」が強固にこびりついているのではないかと考えてみる必要がある。

もしこの「否定的価値観」が自分の心に無かったとしたら、どうであろうか。
もし人から悪意のある、例えば人間の尊厳を踏みにじられるようなことを言われても、言われた瞬間は不快な感情、例えば怒りや悲しみが湧いてくることがあっても、傷つくということはないのではないか。
自分の心が「否定的価値観」に支配されておらず、「肯定的価値観」で占められているのであれば、傷つきようがないのである。

他人から心が傷つけられるという体験をする以上は、自分の心の深層にこのような「否定的価値観」が奥深くはびこっていることを考えてみた方がよいと思う。
もちろん「否定的価値観」が全く無いなどという人はほとんどいないだろう。
ただ「否定的価値観」が心の中でパンクするほど充満し、かつそのことに本人が気付いていない場合はかなり危険な状態になっているとみていい。

人に対し本当の意味で愛情を与えることの出来る人というのは、この「否定的価値観」を克服した人、すなわち傷つかなくなった人であると私は思う。

今度、「否定的価値観」を克服し、傷つかないようになっていくためにどうしていったらよいかというテーマで考えたことを記事にしようと思う。
これは私自身の課題でもあるのだ。
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大切な存在を失うことの悲しみ

2021-03-12 23:09:22 | 心理
この10年間で最も感動した新聞記事を紹介したい。
2011年4月24日付け朝刊に掲載された「15歳未満初の脳死移植」に関する記事であった。



 『事故で脳死状態となった10代前半の少年の両親は8日、主治医から「臓器提供」の選択肢があると聞いた。少年は事故前、移植を話題にしたことはなかった。両親や少年のきょうだいら家族12人が集まった。
両親にはこのまま火葬したくないという思いが強くあった。祖父は「あの子は世の中の役に立つ大きな仕事がしたいと言っていた」と発言。最終的に、みんなで臓器提供を決めた。
 ただ角膜だけは母親が「瞳はあの子のチャームポイントだから」と残すことを希望し提供しなかった。
 両親は時間が許す限り、集中治療室(ICU)の個室にいた少年に付き添った。2回の脳死判定の際も、そばにいた。
 (中略)
 家族は、最初に摘出される心臓の手術が終る直前に、手術室前の廊下のいすに座った。大阪大学付属病院の医師が手術室から出てきた。頭を下げ、「しっかりと預からせて頂きました」と言った。
 心臓が入ったクーラーボックスを見て、家族はお互いに確認するように顔を見合わせた。「(手術の)成功を祈っています」と書かれた金色と銀色の2羽の折り鶴がついていた。少年の臓器を受け取る患者5人の手術が順調にいくように、と願う家族が全員で折り、メッセージを書き入れた上で、コーディネーターに託したものだった。
  ICUの個室で、すべての臓器の摘出が終った少年を迎えた。少年のベッドの高さを一番下まで下げ、少年を囲むように床の上に座った。少年の体に触れてお別れをした。
 「あいつは最後にすごいことをやってくれた。えれえやつだ」。祖父はそう言いながら、部屋にいた主治医や看護師ら医療従事者全員と握手をして回った。家族も主治医たちもみんな泣いていた。主治医は深く、長く、お辞儀をした。』

両親のコメント
『最後まで息子ががんばって残した身体は、きっと「生きたい」と思っている。その身体をこのまま燃やしてしまうなんて絶対にできないという気持ちが私たちには強くありました。
 息子の死はただひたすら悲しいことです。でも、息子の死は無駄じゃない。立派な仕事をしたんだよって誇りに思える。今も息子が生きているって感じられる。息子が「僕、がんばったから、みんなもがんばって」って、私たち家族が息子の死を乗り越えて前を向いて生きていく後押しをしてくれている、と感じています。そんな気持ちになれるのは臓器提供を経験したおかげだと思っています。』

この新聞記事が私にとっては最も心に残るものであった。
記事は切り抜き、その後何度も読み返した。
最も大切な存在を失うことは、この世で最も悲しいことだと思う。
子どもを幼くして失った家族、とくに母親は生きる屍のようになってしまうという。
しかし亡くなった大切な人との体験の記憶は永遠に残り、その体験は残された人の心を支えていくものと信じている。
喪失による深い悲しみを乗り越えるために、究極の決断をした家族の思いの強さが心に突き刺ささる。
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