下は、この夏に書いた文章なんですが、今現在、パリに発し、フランス各地に飛び火する勢いを見せている移民たちの”暴動”のニュースに接するうち、この場でも皆さんに読んでいただきたくなり、ここに公開する次第です。
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もう10数年も前になりますか、あの”ウィー・アー・ザ・ワールド”ブームの際、発売された”飢えたアフリカ”救済を訴えるビデオに、「彼等劣ったアフリカ人でも、我々ヨーロッパ人の助けがあれば、うまく国を運営して行くことが出来るのだ。どうか彼等への援助に協力を!」なる呆れたコメントが差し挟まれていて、それが音楽雑のレヴューなどでも問題になったのは、忘れられない事件でした。”証拠物件”としてそのビデオを購入しておけば良かったと後悔していますが。
ヨーロッパの人間がアジア・アフリカの人々を見る視線、多くがこんな具合で、それらの地を植民地支配していた当時と何も変っていないと思い知らされます。
「何が正しく何が間違っているかは我々ヨーロッパ人が決める。お前ら”現地人”は小ざかしいことを考える必要はないし、そうする権利もない。お前たちはただ、我々の決定に従い、施される慈悲をありがたく受け取っておればいいのだ」そんな上から見下ろす視線が、アジア・アフリカ諸国と対峙する際のヨーロッパ人の意識内には露骨に屹立している。それは、微妙な存在ながらも”アジア人””有色人種”の一員たる自分には相当に不愉快でもあり、また空恐ろしくもある。
先日私はある掲示板で、イラクにおける取材中に現地の反政府武装勢力に捕虜となったフランス人女性記者が解放されたことを、まさに有頂天で語る、ある書き込みを見て、大いに違和感を感じたのでした。
その人物は書いていました。「彼女の素晴らしい笑顔がフランスのほとんどの週刊誌の表紙になっていた」「さながらスター誕生の態」と。あるいは、「今,フランスで最も愛されている人物は彼女」「私も私の家族も完全にこの女性に魅了されました。しばらくこの熱は続くでしょう」と。まるで英雄扱い。読んでいると、まるで彼女の解放によってイラクにおける戦火は終息したかのようにさえ思えてくる。
この人物は、何をこんなに彼女を持ち上げ、有頂天になっているのだろう?と私は不思議でならなかった。彼が彼女に対して行っている”神格化”はとても不自然で、グロテスクにさえ思えました。
それは、彼女が無事、解放されるに越したことはないけれども、肝心のイラクは今だ内戦同然の状況にある。その地における拘禁から、たった一人の人物が自由になったのを、そこまで手放しで喜べる感性とはなんだろう?もし我々がイラクに関してそのように手放しで喝采を叫ぶ事が出来るとしたら、それはかの地に完璧な自由と平和が訪れた、その暁だけではないのか。
結局、その書き込み人は、あるいはフランス人すべては、テロ相次ぐイラクの地を、そこで展開されている悲劇を、フランス人の自己満足を完遂させる舞台としかとらえていないのではないか?そのように思えてならなかったのですね。
そこに関わる彼女の振る舞いを過大に評価し称賛することにより、彼女が代表するフランスなる国が、いかに偉大なる存在であるかのイメージ作りが可能になると考えている節がある(解放された人質たる我等が国民は、かくの如き高潔なる人格の持ち主だった。すなわち、我が国の文化的勝利である、と・・・まあ勝利ったって自分たちで勝手に決めたルールに則って、の話なんですがね)
ちなみに、その書き込み人は日本人です。フランスとなにやら縁の深い人物であるらしいが、日本人です。ここで私は、かって南太平洋はニューカレドニアにおいてフランスが世界中の心ある人々からの反対を押し切り核実験を行った、その際の出来事を思い出します。
フランス大使館に押しかけた日本人の反核団体に対し警備の日本人警官が、フランス政府が行った”反論”の、まるで引き写しを語っていたのです。「核実験を行っている国はフランスだけではない。どうしてそちらにも抗議に行かないのだ」と。
警官よ。あなたは、フランス大使館を警護するうち、頭の中までフランス色に染まってしまったのか?はたしてフランスの日本大使館を警護するフランス人警官は、日本政府の政治姿勢を、あなたがフランスを贔屓する、それと同じ情熱を持って贔屓するだろうか?考えてみて欲しい。
まさに、かの書き込み人やあの警護の警官のするような考えを異人種の脳内に発生させ、蔓延させること、それこそがフランスが第三世界の人民相手に行ってきた植民地主義の真髄です。フランス人がするように考え、感じること、それを何の異議も差し挟まずに受け入れ、自らのものにすること。それをマスターすれば、我々はお前たちを”人間の一種”と認めてやる用意がある。もちろん、我々が一流であり、お前らは二流の人間として、そんな認知だがな、とフランス人はメッセージを送り、そしてそれに大喜びではまる人々も存在するというわけです。そしてもちろん、それに納得しない人々も。