goo blog サービス終了のお知らせ 

ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

書評・「45回転の夏」

2005-11-18 03:04:48 | その他の評論


 「45回転の夏」鶴岡雄二著 (インターネット図書館「青空文庫」所収)


 1960年代なかば、新規に開校された寄宿制の中学に、第一期生として入学してきた少年たちの青春の日々を、当時のロックのヒット曲漬けで描いている。
 そして定番の大人たちとのあれこれ、女の子たちとのあれこれ。ケンカと友情のあれこれ。
 まあ、お定まりといえばお定まりなのだが、なにしろ自分と同時期に、同じようにロックびたりの青春を過ごした連中の物語なので、良い気持ちで読み始めたのだ、最初のうちは。

 なんかヤバイな、と感じ始めたのは、主人公がローリングストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツのドラミングに関して批判めいた事を口走るあたりから。
 当時の中学生のレベルで、ストーンズのドラマーの、それもハイハットの開け閉め、なんて細かい部分にウンチク垂れる奴なんかいたかぁ?なんか嘘臭い設定ではないか。

 そして、そのあたりを契機に始まってしまうのだ。ロック、とりわけビートルズに関するウンチクウンチクウンチクのてんこ盛り。その、帰国子女の学生が多かったりする事なども自慢らしいが、なにやら非常にありがたいものらしい全寮制校の、一員であることの選良意識。あるいは”横浜方言を話す育ち”であったりする部分も、加えるべきかもしれない。とにかくそのあたりからあからさまになる著者の一流指向、つまりは権威指向には、なんとも不愉快な気分にならざるを得ない。

 以上が第1章、第2章。やがて物語りは終幕、第3章に至り、舞台は1960年代末から突然に90年代、中年期を迎えた主人公たちの同窓会の描写へと至るのだが、それにしても登場人物の言動、60年代末の中学時代も、90年代、オトナになってからも、何の変化もないのは異様である。
 昔の仲間は変わらないなあ、なんてレベルではなく、登場人物のというより書き手の内面の、描かれる”時の流れ”に対応することへの無自覚ゆえの”変わらなさ”なのだから、救いはない。
 ことのほか醜いのは第3章の冒頭、中年に至った主人公が若者相手に、過去においてロックが、ビートルズがなんであったのか説教を始める辺りだ。なーにを偉そうにと、同世代である私が嫌悪を覚えるのだから、若い世代においておや・・・

 「俺が若い頃にはようっ!」か。そんなものが、あんたがロックから受け取ったメッセージだったのか。
 むざむざとなすすべも無くブザマに年を重ねてしまった”ビートルズおやじ”たちの、そんな自分たちの現実にまったく無反省である事の醜悪さ。ただただネチネチと説教を垂れ、ウンチクを垂れ流し、おのれの権力志向を満たすすべをおぼえる、それがロックを愛しつつ年を重ねた後の収穫なのか。
 見方を変えれば、”ロック世代の敗北”の有様を見事に描ききった作品と評価する事も可能だろう。


 本作品は下のURLで読むことが出来ます。
  ↓
http://attic.neophilia.co.jp/aozora/htmlban/45RPMchap1.htm





東京がキンシャサだった頃

2005-11-17 03:09:39 | アフリカ

 あれはどれほど昔の出来事じゃろう、あの頃の東京はまるでキンシャサじゃった。え?知らんのか?キンシャサとは、赤道直下アフリカの、当時ザイールと言ったな、今はコンゴという国の首都じゃ。
 そこは、ブラック・アフリカ全土を制覇したと言われるコンゴ式ルンバの本家本流であって、その辺りが好きな連中には、音楽の都とも聖地とも言われておった。当時、ナイジェリアのサニー・アデの国際的成功が呼び水となってアフリカの音楽に注目が集まっていて、中でも感性の尖った連中は、コンゴ式ルンバに注目しておった。

 この音楽を日本では、誰が言い出したのじゃろう、リンガラ・ミュージックといつの間にやら呼ぶようになっておった。これは、コンゴ式ルンバがコンゴのど真ん中を横切るザイール河流域で使われる共通語、リンガラ語で歌われることが多かったのが由来のようじゃのう。
 ともかくあの頃は、東京の辻辻からリンガラ・ミュージックが聞えてきておって、それは気持ちの良いものじゃった。初めの頃は日本の音楽ファンも「アフリカのレコードはどこへ行けば売っているのだろう?」などと戸惑っていたのじゃが、そのうち輸入盤店の努力や、日本にもアフリカ音楽に力を入れるレコード会社が現れてのう。またたく間にリンガラ・ミュージックは日本を席巻したのじゃった。

 まずは「王道」のフランコ&TPOKジャズなどをオズオズと聞いていた日本のリンガラ・ファンが、当時キンシャサでいっちゃんナウかった「ルンバ・ロック」に注目するのに、たいした時間はかからなかった。
 基本的にはアフリカに里帰りしたアフロ=キューバン・ミュージックがアフリカ的洗練を経て成立したリンガラ・ミュージックじゃったが、そこに、時代柄、当然ながらロック世代の感覚を持ち込んだ連中が現れていたのじゃ。その連中がやっていたのが、ルンバ・ロック。そのカッコ良さといったらのう!

 何より注目すべきは、ロックの感性とともに彼らは、リンガラ・ミュージックに彼ら部族の伝統音楽を、「あくまでも今日的でカッコ良いもの」という視点で取り入れて行ったことじゃ。それを象徴するのが民族楽器、たとえばロコレなるスリット・ドラムの使用じゃった。また、”そのシーズンの最新流行のリズム”として彼らがキンシャサの若者たちに提示したのは、彼らの出身部族の伝統リズムがヒントとなったものだったりもしたものじゃった。

 いやあ、今思い出しても血が逆流する思いがするわい。伝統と今日の交差とともに、ロックの感性を通してアフリカの”今”と我々の”今”が直結してリズムが脈打つ、そのオンタイム感覚が嬉しかった。おうおう、ワシも何を言っておるやら、分からなくなって来おったわい。
 その動きの中心にいたのがパパ・ウェンバなる男じゃった。不思議なカリスマ性を備えた男でのう。リンガラ・ミュージックがアフリカから飛び出し、ワールドミュージックの最前線に飛び出すにあたって、貴重な一枚看板と言えた。
 また、奴は音楽とともに独特のファッション哲学も持ち合わせておった。音楽だけでなく、キンシャサの若者たちのファッション・リーダーだったのじゃな。ともかく皆は、ウェンバの新譜が海を越えてやって来ると歓喜してそれを迎え、東京の町中の若者がお洒落なディドングリッフに身を固めて、キンシャサ風に髪を刈り上げてルンバのステップを踏んだものじゃった。

 ともかく尖った連中が多かったから、面白いエピソードも生まれたのう。現地キンシャサにも何度も足を運び、リンガラの日本普及に力を入れていた、×葉は×川にあった×ャッツ・×レイと言う店の・・・自分の名前を”ジゴ・スター”などとキンシャサ風に自称していたおったのう、その男が、日本のワールド・ミュージックのヌシとも言おうか、×村×うようなる、おっかない評論家に噛み付いた、などという事件もあった。あの男はその後、どうなったかのう。

 ワシも他人事ではなかった。実は当時、結婚しようとしていた女がおったのじゃが、その彼女を西×窪にあったレコード店、×ィア・ホァナの店主、I田氏に紹介したのじゃが、しばらく経ってから、同じくレコード店を営む友人から電話がかかってきた。「お前、新婚旅行にキンシャサに行くって本当か?」「いや、そんなことは考えてもいないよ。なぜ?」「だって、旅行社の”キンシャサ・音楽ツァー”の名簿の、I田がメンバー集めた場所に、お前とお前の婚約者の名前が入ってるぜ」「ええっ?」なんて事もあったなあ。
 その後、キンシャサで悪性の伝染病が発生し、キンシャサ入りそのものが不許可になってツァー自体が潰れたのじゃが、それがなければ行っておったかのう、キンシャサに新婚旅行に。いや、それでもかまわんのじゃが、知らぬうちにツァーのメンバーに入れられてはかなわん。
 まあ、人にそれほどの無茶をさせてしまう魔性がリンガラ・ミュージックにはあった、と考えてみてもいいじゃろう。

 あのような時代は、もう来ないのう。いやいや、まだまだ日本のリンガラ・ファンは絶滅してはいないのじゃろうが、あの当時のような、東京の町中で夜通しリンガラ・ミュージック特有のキラキラしたギターの音が絶え間なく聞えていた、そんな時代はもう来ないじゃろうな。あれは本当に奇跡のような日々だったのじゃ。


 現実をご記憶の方に・言うまでもないことですが、ファンの中にはそのような気分で暮らしている者もあった、と言う話であります。事実と違うとか正気のクレームは付けないように。

 (冒頭に添付したのは、オルター・ポップより発売中のパパ・ウェンバのベストアルバム、”ムワナ・モロカイ ~his first 20 years~”のジャケット写真)




香港ポップスの幻を追って

2005-11-16 04:53:03 | アジア

 香港のポップ・カルチャーの基盤を理解する鍵は、かって映画”ミスター・ブー”で一世を風靡したホイ・ブラザースの長兄、マイケル・ホイの”中華人民共和国の農民の扮装”の影に隠された三枚のカードにあると思います。

 あの、出っ歯の入れ歯をつけ、分厚いレンズの眼鏡をかけたマイケル・ホイが、いかにも愚鈍そうに農民を演じてみせると、映画館を埋めた香港市民はかなりの屈折を込めた爆笑で迎えるといいます。

 ここには”ああ、嫌だね、大陸の中国人はイナカモノで。俺たち都会人の繊細な感性には耐えられないものがあるね”という香港市民の嫌悪の情があります。これが1枚目のカード。

 2枚目のカードは、そのすぐ下で巧妙に伏せられています。そこには返還前の香港市民が目をそらせ続けていた”来るべき明日”への恐怖が記されています。それは「だが、そんな我々の日々も、やがて愚鈍なる”大陸”の中国人たちの大海に埋もれ、失われてしまうのだ」との文字。

 そして3枚目のカード。そこには「彼らも俺たちも、実は同じ中国人なのだ」と記されているのですが、香港市民は最後のこのカード、死んでも開けたくない、と思っています。

 そんな近親憎悪どころか同族嫌悪、それはすなわち中国人民が開闢以来背負い続けて来た歴史のクビキからの開放への渇望を意味してもいるかと思われるのですが、そのような屈託を根っことして、香港ポップスの歪んだ美しさが開花しています。

 そこでは、民族の伝統はあえて、いやむしろ積極的に切り落とされています。抽象化された、記号としての”中国の伝統”のみが、生き残る事を許されて。製作の理念は”世界の中の香港”であり、病んだ美の世界の構造は”世界のポップス”の最前線にまで達し、根のない虚構の中に無意味に咲き誇ります。とはいえそこはやはり人間の技、”中国の血”は、どこかに顔を出さずにはいないのですがね、それも製作者の意図しなかった方向で。

 そんな出口のない煉獄で、お金儲けだけを目当てに生み出される、矛盾だらけの流行音楽。その音のハザマから零れ落ちる人間の業の相貌に魅入られてしまい、私は一時、香港ポップスを聴きまくったのでありますが・・・

 その後・・・香港が北京政府に”回収”されたのち、なんだか焦点がぼやけた感じになってしまった香港ポップスは、私の興味の外に去って行きつつあります。が、それは香港市民が幸福を手に入れたことを意味するものでは、もちろんないでしょう。が、これに関して語るには、もう少し時間が必要のようです。






失われた水夫の夢のように

2005-11-15 05:10:23 | ヨーロッパ


 セイラ-(Sailor)というのは、70年代半ばから80年代にかけて活躍したイギリスのバンドで(バンドそのものは、まだ存在はしているようだが)なかなか楽しい個性の持ち主だったのだが、あまり(日本では)再評価などもなされる気運が認められず、残念だ。

 まず、「七つの海を股にかけ、世界中の港町でご乱行を繰り返す水兵たちの歌」というコンセプトがいい。
 デビュ-にあたっては、もう、嘘ばかりのプロフィ-ルが発表された。いわく、リ-ダ-のゲオルグ・カヤナス(この名も、本当なのやら?)は、最後のロシア皇太子の孫に当たる、とか、バンドはもともと、パリにあるかってヘミングウェイが愛した、ある酒場の専属バンドだった、とか。

 でも、そんな19世紀的というか、あえて時代遅れに設定したフェイクの略歴もコミの、「魔境としてのヨ-ロッパの夢」みたいな設定が、エレクトロニックな音作りの内にも、ほのかに感じられる、インチキ臭いながらも、一応、ワ-ルドミュ-ジック的な色合い(なにしろ、世界中の港町の飲み屋を荒し回るのだ)と相まって、極彩色のマンガ本を読むような、ちょっと愉快なドラマを演出していたのだ。

 尊敬するミュ-ジシャンに、ロック畑の人ではなく、シャンソン歌手のジルベ-ル・ベコ-を挙げたりするセンスの持ち主、ゲオルグの書くメロディは、あくまでもポップでメロディアスで、ちょっと時代遅れで、なによりおもちゃ箱のような楽しさにあふれていた。

 ステ-ジでは、完全に「マドロスさん」の扮装をしたゲオルグ(日焼けのメイクをし、シ-ルを張りつけただけの錨のイレズミの嘘臭さが嬉しい)が、ロックバンドではまず使われる事のない南米の民族楽器、チャランゴを手に、シャンソン系ロッカ-らしい、「いまどきはやらないが故に新しい」みたいな歌声を張り上げる。バンドが使うシンセサイザ-は、あえて、塗りの剥げかけたぼろぼろのアップライト・ピアノのボディに組み込まれていた。この凝りようが嬉しい。いいなあ、いいなあ。

 今でも時々、大酒飲んで千鳥足で一人家路をたどる、なんて深夜は、彼らの3rdに収められていた、老いた水夫の慨嘆を歌った、「オ-ルド・ニッケルディオン・サウンド」なんて曲のメロディを口ずさんだりする。
 おお、祈願!「セイラ-」の、大々的再評価の日が来たらん事を。 いや。自分の思い出の中だけにしまっておいた方がいいかなあ。




ピアノ・オリエンタル

2005-11-14 05:40:40 | イスラム世界

 北アフリカはアルジェリア、オランの町出身、なんて始めると、あのイスラム圏には珍しい不良の音楽、ライ・ミュージックの歌手でも登場させるかと思いきや、すいません、ピアノ弾きの話です。ジャケ解説には”Traditional Rai & Arabu-Andalusian Nouba”とか、なにやら匂うフレーズが記されています。

 今回、話題にいたしますアルジェリアのピアニスト、El Medioniは、本当に少年と言っていい年齢の頃からナイトクラブのタグイに出入りしてバンドマン稼業を始めていた早熟なミュージシャンだったようです。当時、演奏していたのはもっぱらアメリカやフランスの流行音楽だったようですが。

 その少年期、それはちょうど第2次世界大戦のさなかでもあった訳ですが、戦前戦後の数年間、アルジェリアに進駐していたアメリカ軍兵士の存在は、Medioni少年の西欧志向のピアノスタイル構築に、さらに磨きをかける事にもなったのでしょう。インタビューでも彼は、故国の音楽と同じくらい、いや、ある意味それ以上の愛情を込めてジャズやブギウギ、そしてラテン音楽への思いを語っています。

 その後、アメリカ軍が戦後処理を終えて去り、また、フランスの植民地支配から脱するべく盛り上るアルジェリアの民族意識の中でMedioni少年も、故国の民族音楽の世界に足を踏み入れて行くのでありますが。でもやっぱり、不思議なミュージシャンとならざるを得なかったみたいですね、彼は。
 このCDは、そんな不思議な経歴を持ったベテラン・ピアニストが1982年に吹き込んだ、自身の音楽の集大成的アルバムのようです。

 このCDに収められたほとんどの曲は、ある種のアジア器楽音楽演奏の作法通りにまず、その曲において使用される音階をバラバラとカデンツァ状態で提示する作業から始まります。そこにほどなく、アラブの民族楽器がリズム・アンサンブルを奏で始める。そしてピアニストはそのリズムに乗り、伝統に根ざすアラブ音楽を演奏するのですが、どこか変であるのは事実です。

 やっぱりピアノという平均率に調律された四角四面の楽器には民俗音楽の楽器がするようには微妙な表現は出来ません。なんかどこか、アラブ音楽のパロディを聞かされているようなへんてこな感触がしてしまうのですね。、「ドの次にはレが来る。その間には一個の半音があるだけ。しかも無駄と判断される倍音のタグイは一切排す」なんて思想から作り上げられた楽器には演奏できない音楽というものはあるんだなあと、あらためて感じいった次第です。

 それ以前に、ドテンと彼の音楽のど真ん中に横たわっている”西洋の流行音楽の乗り”というものが、いかんともしがたいもので。
 なにしろアラブ音楽と同時にラテンやブギを心から愛してしまっているピアニスト氏ですからね。CDを聞き続けて行くとそのうち、アタマのカデンツァ部分は確かにアラブ音楽風だったんだけど、リズムが入った途端に何の遠慮もなしに自作のマンボ曲なんかがノリノリで始まってしまう、なんて曲が混ざり始める。というか、後半はそんな曲ばっかりだぞ。

 といってもそれは決して不快なものではなく、むしろ逆、音楽への無垢な愛情に溢れた愛嬌に満ちた混乱という感じで、非常に楽しい思いをさせてくれるのですが。現地の人たちにはこの音楽、どのような受け方をしていたのかなあ?非常に気になります。というか、演奏されている現場にいたかった。

 それにしても徹底して明るい表情のポジティヴな演奏。「この音楽を理解するうえでのポイントは?」とか、無い頭であれこれ考えているけど、いつか繰り出される力強いリズムに身体ごと乗せられてしまっている自分がいる。まいりましたね、これは。

 劇的に変転して行く歴史の舞台に翻弄される名もなき庶民。そして起こった文明の衝突から生み出された音楽。このような演奏に出会うと、こっちはなんかそんな風に構えて頭でっかちになってしまいますがね、演奏者ご当人は、「なーに、どちらも同じ音楽ですよ、楽しく行きましょう」なんてえんで涼しい顔して混沌を楽しみつつ音楽していたんじゃないかなあ。
 「根っからのミュージシャン」という種族のしなやかな感性の逞しさをこそ、聞き取るべき作品かも知れません、これは。




東トルキスタン共和国独立記念日

2005-11-13 03:51:55 | イスラム世界

 昨12日は東トルキスタン・イスラム共和国の独立記念日でした。などと言ってもピンと来る人もあまりおられないだろうし、実質、東トルキスタンなる国家が機能している訳でもない。が、東トルキスタンはかって中央アジアにあって確固とした独立国であった歴史を持っています。中国に侵略され、自治を圧殺され国を奪われるまでは。

 東トルキスタン共和国は、あのシルクロードでお馴染み、現在、中国の「新疆ウィグル自治区」として知られる場所に存在しました。そして現在も、地下に潜った闘士たちによって独立運動が行われています。中国によって奪われた独立と自由と人権を取り戻すために。
 その事実を日本のマスコミは、あのチベット関連報道程度の報知さえ行ってきていませんが。当然ですね、中国政府の顔色を覗うのをもっぱらとする外交を繰り広げる日本政府の御用マスコミですから。

 こちらのサイト(http://uygur.fc2web.com/uygur12.html)で東トルキスタン・イスラム共和国に関する情報の詳しいところが得られますので、ぜひ覗いていただきたく思います。そこでレポートされている、新疆ウィグル自治区のど真ん中で行われた中国の核実験と、それに伴う中国政府の東トルキスタンの民に対する暴挙には、被爆国民たる我が日本人もそれなりの関心と意見を持って当然であろうかと思います。

 かってNHKテレビでシルクロード探訪番組が放映されたときのことを思い出せば、確かにそこで述べられていたのです。”新疆ウィグル自治区”が中国の核実験場として使われているがために、シルクロードの枢要たるその地に立ち入るのは困難であったのだが、今回、中国政府の許可が特別に得られたがために取材が可能となったのであると。その言葉を、「ああなるほど」と当たり前の話を聴くように聞き流してしまった自分が情けなく思えます。その核実験の実態を知った後の今は。

 砂漠の中に点在するオアシス。イスラムの伝統衣装に身を包み、ブドウ棚の下で茶を啜りながら談笑するウィグルの人々の平和な日常。それはもう、シルクロード関連報道の中では見慣れた光景となっています。
 そんな光景が、圧政下に置かれた人々の現実を隠蔽するための欺瞞ではなく、本当に現実のものとなる日の一日も近いことを祈りつつ。そして、そのために自分にも出来る事はないだろうかと自らに問いつつ、ここに東トルキスタン・イスラム共和国の独立記念日をお祝い申し上げます。


<<東トルキスタン独立記念日>>

現在「中国の」新彊ウィグル自治区と呼ばれる場所はトルコ系のウィグル系、カザフ系、キルギス族、タタール族などが居住し、
1933年に「東トルキスタン・イスラム共和国」、
1944年に「東トルキスタン共和国」としてれっきとした独立国家だった。
http://uygur.fc2web.com/uygur12.html
(詳しくは上のサイトに↑)
中国に侵略され多くの住民が殺戮されたが、地下に潜った独立運動は盛ん。
11月12日は彼らの独立記念日である。
日本で東トルキスタン共和国の独立を支援する人達が結集する。

とき    11月13日(日曜日) 午後二時→五時
ところ   かやの木会館(台東区蔵前3-22-9)
      http://www.j-theravada.net/tizu-kayanok6.html
会費    2000円
問い合わせ 殿岡事務所(03)3664-1666 FAX(3664)2003

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」より



美輪先生、欧羅巴を歌う

2005-11-12 04:09:56 | アジア

 えー。この間、美輪明宏先生の”ヨーロッパヒットを歌う”ってアルバムを、怖いもの見たさで買っちゃいました。先生が青春時代に若き血を滾らせたのであろう、昔のシャンソンとかタンゴなんかが、新録音で収められています。美輪先生の青春記ともいえそうなアルバムです。

 まあ、私もアナクロ趣味と申しましょうか、内外の古い流行歌は好きなんで、その辺が昔の日本語詞(これが重要。メロディと一緒に詞も時の流れに古びていてくれないと聴き心地が良くない。話はずれますが、加藤登紀子なんて人は、古い曲に自分で作った新しい詞をつけて唄うという、デリカシーのない事を平気でやりますな)で唄われるのを聴いてもみたかったのです。

 アタマに収められたファンタジックなワルツ、”港町のレストラン”のパステルカラーの幻想にまず酔わせられる。おう、結構普通に聞けるではないか。なんつったら叱られるか。

 続きまして、牢獄に捕らわれている恋人を想う唄やら、老娼婦の嘆きといったシャンソン方面では定番のテーマが歌われて行きます。もう、何度もステージで歌われているんでしょうな、揺るぎなき歌の世界。もっとも、シャンソンに比べてタンゴの方は、当時の流行歌だったのだろうな、以上のものではない感じ。先生の個性とは、やや違うのではないか。でも、青春の思い出の唄ですから。もう、思う存分、唄っていただきましょう。変に今日風のアレンジが施されていず、昔のままやってくれてるのが嬉しい。

 それにしても濃いです。濃厚な脂粉の匂いが伝わってくるような。しかし、男の唄とも女の唄とも感じられない。これはもう、先生の想念の内から生み出された”美輪明宏”という独立した小宇宙ですな。実は、変に取り付かれたようになって、この数日、毎晩、聞いてしまっています。

 美輪先生で忘れられないのは、あれは私が高校三年だったなあ、とにかく入った高校がまるでなじめず、成績も下がるばかり、友人も出来ず、こうなったら家出して当時流行のグループサウンズに入ってしまおうという、まあ、実に浅はかな脱出計画もはかばかしく行かす、非行化にも挫折し、どうにも行き場がない気分で暮らしていたときだった。

 ふと入った書店で、当時はまだ丸山姓を名乗っていたんだっけか、先生の自伝、「紫の履歴書」を眼にしたんでした。で、これも怖いもの見たさというかフリークス趣味、なんつったらそれこそ叱られますが、変な気を起こして(?)それを購入してしまったんですなあ。で、読んでみたら。
 なんと申しましょうか、不思議な感触の”救い”を得たんです。「なにもかも嫌になったから死んでしまおうか」なんて、あの年頃にはありがちな短絡で思いつめつつ暮らしていたんだけど、「まあ、もうちょっと、生きていてみようか」くらいの気分転換は出来た。

 その救いって何なのかなあ?と、その時点では分からずにいたんだけど、2~3年後に読んだ伊丹十三のエッセイに、その回答が書いてありました。正確な文章は現物が手元にないんで引用できないんだけど、伊丹はこんな主旨のことを書いていた。

 「荒々しい西欧人種の中で、アジア人種の繊細な心の襞を理解してくれるのは、ゲイの人々以外にないだろう」と。

 ああ、そういう事なのかと納得したのでした。ドツボに落っこちていた高校の頃の私、美輪先生の自伝を読んで、「この人ならきっと俺の気持ちを分かってくれる」などと感じたのでしょうな。いや、実際の美輪先生に、その当時の私の悩みなんか話したら、「何を甘ったれた事を言っているのだ」と叱られたんだろうけど、そして、そんな風に悩みを聞いてもらう機会など、そもそもあり得なかったのだけれど、いや、それは別にいいのです。この世のどこかにそんな人がいる、と思えれば、それで十分なのであって。

 そういえばこの頃、美輪先生は人生相談の番組やらを、やたらやっておられますなあ。あの種の”需要”が、ますます世に満ちてるって訳でしょうなあ。




アラベスクの帝王、イブラヒム・タトルセス

2005-11-11 03:33:02 | イスラム世界

 Selam Olsun by Ibrahim Tatlises

 西アジアを象徴するような民俗弦楽器、サズがビンビンと鳴り渡り、アナトリア気分を盛り上げる。そして民族打楽器群とシンセ・ベースの組み合わせによる、煽りたてるような複合リズムに乗り、ストリングス・アンサンブルと混声コーラスを従えたタトルセスの暴力的とも言いたい男気溢れるボーカルが、アラブ世界独特の官能的なメロディをパワフルに歌い上げる。
 トルコを代表する歌謡曲とでも言おうかアラベスクなる音楽の、まあ帝王といえるだろう人物が、このイブラヒム・タトルセスである。その力強い歌世界と野性味溢れる民謡調サウンドは、実にトルコ風味溢れて痛快なのだ。

 1999年作のこのアルバム、Selam Olsun なども完成度高く、愛聴している。
 このアルバムの白眉というべきは、ラストに収められたライブレコーディングによる民謡曲である。他の収録曲がかなり官能的な出来上がりであるのに対し、この曲のみがかなりストイックな雰囲気であり、時を越えて伝わってきた父祖のメッセージを呼ばわる、みたいな別次元のテンションの高さがある。これには、何となく聴く側も”居ずまいを正す”みたいな気分になってしまう。
 この曲はジャンルとしては”ウズンハワ”と呼ばれるものらしい。”トルコの長歌”との表現も聞いたが、そういわれても分かったような分からないような。
 聞いていると「馬子唄」みたいな感触を得る事がある。トルコ民族の詳しい出自は不勉強にして知らないのだが、中央アジアの大草原を騎馬を駆って走り回っていた、彼らの祖先の血の騒ぎに触れるような新鮮な驚きがある。この辺の曲ばかり集めてぜひアルバムを一枚と、関係者がこれを読んでいる筈もないがリクエストしておこう。

 ところで、毎度弱ってしまうのがこの人のビジュアル面である。というか要するにCDのジャケ写真である。往年のフセイン大統領などを思い出してもらえばお分かりいただき易いと思うが、濃い口ヒゲやらいかにもアラブ的な男臭さのアピールが、なにやらうっとうしいのだ。キャラが濃過ぎるのである。
 何とかなりませんか、これ?と言ってみても現地ではこれが相当な格好よさなんだろうしなあ。というか、そもそもあちらの常識では、男は男の歌のCDなんか買って聞いたりしないものか?いやいや、女の人も相当な濃さですよ、あちらでは。我等日本人が虚弱に過ぎますか、やっぱり。



”違法滞在者”ハッサンとの思い出

2005-11-10 03:32:48 | イスラム世界


 昨日の、ヤリニスタンに関連して。かなり私的なエピソードで恐縮なのだが。

 あれはまだ、バブルのまっただなかの頃だった。スーパーの惣菜売り場で途方に暮れているアラブ系と思われる青年を見つけたところから話は始まる。
 何を困っているのかと尋ねる私に、彼は「ボクはイスラムだからブタを食べられない。なのに、ここにある肉類はどうやらブタ絡みのものばかりだ」と答えたのだった。なるほどなあ、イスラム教徒には豚肉に関する禁食の厳しい戒律があるんだったなあと私は頷き、それからその場の気まぐれのおせっかいとして彼に、この惣菜はどうだ、こっちのこれは鶏肉だし、などとあれこれ奨めてやったのである。
 が、彼は、いやそれは調理の油に豚が使われているようだ、いやそれも怪しい、などなど、あれこれ理屈を並べた。面倒くさくなってしまった私は天を仰ぎ、「あーもー面倒くさいなあ。お前らの食べるものなんて、ほんとにあるのかよ、この世に」とか嘆いて見せたのだった。私のそんなオーバーな動作がおかしかったらしく、彼は腹を抱えて笑いだしたのだった。やいこら。お前の困窮を何とか救ってやろうと俺が無い知恵をしぼっているのに。

 そんな事がきっかけで、まあとりあえずハッサンという名にしておくが、私は彼と親しくなったのだった。もしかしたら問題があるかも知れないのでこの辺はぼかして書くが、ハッサンは西アジアのある国からの「学生」という名目の出稼ぎ人で、私の街を含むエリアに仕事を展開している、ある工務店で働いているという。そういわれてみると、道路工事の現場などでたまに彼の姿を見た記憶はあった。
 そんな次第で、街で出会うと挨拶を交わし、浅い世間話を交わす程度の友人関係にハッサンと私はなったのだった。

 ある日。まあ私としては当然の話の運びであるが、ハッサンの故国の流行り歌について尋ねてみた。最初は、なぜそんなことに興味があるのか?そんな話をしてみても仕方がないよ、みたいな感じだったハッサンだった。仕方ないので、「そうだろうなあ、お前の国にはつまらない音楽しかないんだろう?俺たち日本みたいにかっこいいポップスは、そりゃ、ないよなあ」と、あえて挑発的な言い方をしてみたのだ。
 すると、急に彼は愛国者となって俺の国にも素晴らしいポップスはあるし、実は俺は、その見事な歌い手でさえあるのである、などと言い出したのだった。そして、だったらその歌を今、歌って見せろよとの私の言葉に、実に素直に反応して彼は、その自国の流行り唄を歌ってみせさえした。

 それは、私のワールドミュージッカー根性(?)を満足させるほど、彼の国の民族色を豊かに反映させたものとは言えず、今や世界中でありがちとなっているアメリカのポップスのあまり出来の良くない真似事みたいな代物だったのだが、その”出来の良くない”B級的部分に、独自の面白い味があると感じられなくもなかった。それにハッサンは、意外にも、良い声の持ち主だった。自慢するだけのことはあったのだ。
 そこで私はひらめいたのである。おい、これは面白い成り行きと言えるかも知れない。いっそのこと昔のバンド仲間を集めて、あのヤリニスタンみたいにハッサンをメインに押し立てた、彼の国のポップスを演奏するバンドなど作ってみるのもアイディアではないか。
 話を持ちかけてみるとハッサンも結構乗り気だったので、私はさっそくバンド仲間に召集をかけた。彼らも私のアイディアに興味を持ち、ともかく音合わせをしてみようと、話はトントンと進んだ。

 私はハッサンのレパートリーの中から、手なずけるのに容易そうな曲調のものを選び出し、コードを取り、楽譜まがいのものを作った。バンドのメンバーと引き合わせるとハッサンは上機嫌で、「おいおい、この日本でポップスターになろうとは思わなかったな」などとおどけていたものだ。
 そして最初の練習の日。ハッサンは練習場である、私の仕事場付属のガレージにやってこなかった。ずいぶん待ってはみたのだが。
 バンドのドラマーのGがポツンと言った。「あいつ、初めからそんな気はなかったけど、日本で初めて出来た友達を失いたくなかったから調子を合わせていただけじゃないのか?そんな気がしてたんだ、俺は」そうか?そうだったのか?

 Gの推測が当たっていたのかどうかはともかく、その日から私は町でハッサンを見かけなくなった。彼はその日を境に、まったく忽然と姿を消してしまったのだった。彼の連絡場所などは初めから聞いていなかった。あの当時、携帯などは彼の立場で持てるものだったかどうか、覚えていないが・・・とりあえず、彼が勤める工務店の仕事場に行けば簡単に連絡の取れるハッサンであったのだ。
 その、彼の職場に問い合わせる気もなかった。「オタクのハッサンがバンドの練習に出てこないんですけど」なんて間が抜けた質問が出来るもんか。嘘の口実を考えるのも、何か空しい気がした。
 ともかくハッサンは行ってしまった。事の真相がGの推測通りだったとしたら、ハッサンはひととき、異郷の地で得た妙な友人が言い出した妙なイベントに乗って見せて面白がったものの、本格的にそんな酔狂に付き合う気にはなれず(金になるならともかく、だったろうか)練習をすっぽかしてしまった。そして、それに気がとがめて、別の職場でも見つけて町を去って行ったとなるのだろうか。そう思うと、彼を愚劣な騒ぎに巻き込んでしまった能天気な自分が気恥ずかしくなるが、実際のところはもちろんハッサンしか知らないことである。

 それからもう20年近くの歳月が流れた。その後、バブルははじけ、日本の国情もずいぶん変わった。ハッサンの国からの労働者を道路工事の現場で見かけるのも稀になった。別方向の”現場”での悪い噂はよく聞くようになりはしたが。そしてハッサンは。どこでどうしているんだろうなあ。




ガストアルバイター・ロック!?

2005-11-09 03:12:23 | ヨーロッパ

 先に正体不明のまま消えていった中華パンクバンド、ドラゴンズの話などしてみたが、消えて行ったワールドミュージック関係で気になるバンドといえば、80年代、ドイツから出てきたヤリニスタンというバンドもとりあえず名を挙げておきたい連中だ。
 これも、盤自体を売り払ってしまっているし、何の資料も見つけけられなかったので、具体的な話がなかなか出来ないのだが。(そもそもこのバンド名、どのようなスペルだったっけ?あれこれ文字を入れ替えて検索しても、何も引っかかってこない)

 ともかく在ドイツのトルコ人青年を中心に、ドイツ人メンバーが集まって結成された、これはおそらく作りでもなんでもない自然発生的バンドだった。
 当時、ドイツに外貨稼ぎのトルコ人労働者が大量に流れ込み、さまざまな問題が起きているとの報道を、ときおり耳にしてはいた。ガストアルバイター制度なる独特の外国人労働者受け入れシステムのあるドイツで、トルコからの労働移民はドイツ国内における最大の異民族集団を形成する結果となり、たとえば不景気による就職難などの問題が起これば、失業者の怒りの鉾先は在ドイツのトルコ人へと向かう事となる。

 そんな状況の中で、資格上の疵を突かれて、安全対策もまともになされていない原発関連施設で健康被害の高いリスクを負いつつ、安い賃金で働かされているドイツ在住のトルコ人労働者の問題などを取上げたテレビのドキュメンタリー番組なども放映された直後だったので、私はレコード店で見つけたヤリニスタンの(多分)デビュー盤をソッコーで購入したのだった。

 おそらく普段は、いわゆるニューウェーヴ系の音を出しているのであろうドイツのロック青年三人が、彼も上記の出稼ぎ労働者だったのだろうか、一人のトルコ人青年をメインに押し立てる形でバンドは出来上がっていると見えた。バンドのレパートリーの多くはトルコ人青年の作だったし、また、彼の故国を代表する抵抗詩人、ナジム・ヒクメットの詩に曲をつけて歌うなどという作業も行われていた。

 具体的な音は、情けないが思い出せない。まあ、あまり私好みの音でなかったという事なのだろうが。期待したようなトルコの民族色も、あまり反映されていなかったはずだ。
 おそらく私は、「激動するヨーロッパの政治状況の最先端から生まれ出たバンドであり、その音なのだ。それを聞かずにどうする」なるタテマエとして何度か聞いたが馴染めず、諦めて売り飛ばしたと想定される。
 実際、もっとも曲として魅力的に感じられたのは、トルコともドイツとも関係なさそうにも関わらず、なぜかアルバムに収められていたアイルランドのトラッド曲だったのだから仕方がない。ただ、アルバムに漂う時代へ切迫感は確かに伝わってきたし、トルコ人メンバーの、ヒクメットを引っ張り出してくる時代遅れの文学青年ぶりも、今思い出してみると好ましく感じてはいた。

 このバンドも、その後の消息が知れないが、どうなったろうなあ。存在として鋭いところを突いていたのは確かだったし、なにごとかがきっかけで一化けしたら、面白い仕事を残せたんではないだろうか。もしかして私の知らないところでキッチリ納得の行くアルバムなど残していた、なんてことはないものだろうかなあ。

(冒頭に添付したのは、なにしろヤリニスタン関係の画像がまったく見つからなかったのでヤケを起こしまして、単なるトルコのチョコレートの写真であります)