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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ハーモニカのジミヘン、ウーゴ・ディアス

2005-12-11 04:56:14 | 南アメリカ

 ウーゴ・ディアス(HUGO DIAZ ・1947-1998)、アルゼンチンのハーモニカ・プレイヤーである。基本的にはフォルクローレのフィールドの人だが、お国柄でタンゴの録音もかなりあり、そちらでも高い評価を得ている。
 人は言う、”ハーモニカのジミヘン”と。奔放ではちきれそうな情感のこもったプレイは、確かにその称号がふさわしいと言えるかもしれない。透徹した叙情と、沸き上がる激情との間を激しく行き来するイマジネイティヴな演奏は壮絶である。

 フォルクローレのナンバー中、切なく愛らしいメロディの佳曲といった感じだった「アルフォンシーナと海」「サンタクルスの港」などといった曲もウーゴの手にかかると激する感情の発露、猛り狂う熱情の嵐の様相を呈する。
 最高音域に駆け上がり、また一瞬にして最低音に舞い降りる。激し過ぎる演奏によってかかる負荷に、ハーモニカがひしゃげる様が目に見えるような気がする。タフさで言ったら、黒人たちのブルース・ハープとサシで十分に勝負が出来るだろう。そして勝ち目は充分ある。

 余談。ある音楽誌にウーゴが、”盲目のハーモニカ奏者”と紹介されていたが、これは間違い。幼い日に目を病み、失明しそうになった体験を持ってはいるが、そしてその治療のための入院生活が彼にハーモニカを手にするきっかけを与えさえしたのだが、彼が盲目となった事実はない。

 彼の残した録音を聞いていると、演奏の合間に時折、ウッ!アッ!なる唸り声が聞える。これは、酒豪の彼がいつも一杯機嫌か、あるいは二日酔いで苦しみながらの録音を行っていた故、とのこと。当然というべきか、この天才は酒が原因の早逝をした。
 まあ、これだけ前のめりの濃い情熱に駆られつつ生きていたら、それは不摂生による早死にでもしなければ収拾がつくまい、などと訳の分からない説明を試みてみたりする。






「ラフカディオ・ハーンの耳」・書評

2005-12-10 06:21:12 | 音楽論など

 「ラフカディオ・ハーンの耳」西成彦・著(同時代ライブラリー)

 「音」を主眼においてなされた、かの小泉八雲の研究本。視点が面白い。ハーンというのも不思議な人で、英国から米国、西インド諸島から日本へ、とダイナミックに移動して行きながら、その心の中では常に、彼の血の中に受け継がれた失われた民族、ケルトの幻想が息ずいているのですね。

 そんな彼の心情が魂の漂泊者同志の共感とでも言うべき形で、異郷の日本における、寄る辺ない民衆の音楽に共鳴を起こす様は、悲しいくらいの優しさを感じます。

 按摩の吹く素朴な笛の音の響きに、被差別民の演ずる大黒舞に、そして、「西洋の音符にむかしから書かれたこともないような全音・半音・四分の一音を自由に歌いこなす」との賞賛の言葉をもって、無名の瞽女の芸に。体温を感じるみたいに、音楽を感じ取っているんですねえ・・・





スワブリックは健在なり

2005-12-09 05:19:53 | ヨーロッパ

 イギリスのトラッドロックの開拓者であったユニークなバンド、フェアポート・コンベンション。その歴史の前半で強烈な存在感を発していたバイオリニストにしてヴォーカリスト、デイブ・スワブリックが、重い肺気腫で倒れ療養中であるとの知らせを受け取って、もうずいぶんになります。
 いわく、酸素吸入器を手放せず、ある人のライブにゲスト登場したが、やはり車椅子に酸素吸入器姿でオーディエンスを驚かせたとか、風邪を弾いたら一発でアウトなので冬季は一歩も家を出られないとか、なかなかに悲痛な闘病の様子を聞きました。

 その後、両肺の移植手術を受け経過も良好であるなど、微かながらも希望の持てる情報が切れ切れに伝わって来ていたんですが、現在の彼の姿を伝えるサイトを、ある人の紹介で見ることが出来たので・・・
 詳しくはこちらを。回復したスワブリックが話したりバイオリンやギターを弾いたりする様子を動画で見ることが出来ます。
 ↓
 http://www.folkicons.co.uk/swarbnew.htm

 う~~~む、ディブ・スワブリック!重い病を患っていたとは聞いていましたが。しかし、そうといわれなきゃ分からないくらいの見た目の変わりようですね、これは!いやいやでもでも、生きて居ればこそ、です。こうなったらニュー・アルバムも期待しちゃいましょう。なんか、新しいユニットも結成したそうだし。

 ところでこの情報と一緒に、スワブリックって、フェアポート・ファンの一部からあまり好かれていなかったなんて話も聞いたんですが、本当ですかね?
 私はともかく、彼の澄み切った歌声や不思議な味のあるオリジナル曲が好きでした。おっと、もちろん、そのバイオリン演奏もね。

 私は、”伝説のロック喫茶”ブラックホーク通いをしていたせいで、ほぼリアルタイムでフェアポートの70年代初期の傑作アルバム、「フルハウス」に接する事が出来たのでした。「トムプソンがいなくなって、大丈夫なのかな?」と心配しつつ「エンジェル・デライト」の発売を待ったりと、素晴らしい時間を過ごしました。
 その後、「ロージー」を聴いて失望し、それでも期待やら未練やらでアルバムは買い続け、でも「聴き所はスワブリックしかないなあ」ってのが当時の感想だったんで、皆のスワブリック嫌いの話、意外だったのであります。

 これって、フェアポートに何を期待するかで変わってくるんでしょうね。なんかスワブリックを支持しない人たちって、フェアポート初期のアメリカ西海岸っぽい感覚が好きで、フェアポートの音楽がトラッドロックに傾くのを面白くなく思っているそうですね?
 ところが私はむしろフェアポートに「トラッドロックのバンド」である事を期待していて、極初期のアメリカっぽい感じや、最近の「ブリティッシュフォークのバンド」振りにはまるで興味がないんで、この辺の違いなんでしょうね、スワブリックへの評価の違いは。

 まあともかく身体に気をつけて、まだまだ頑張って音楽活動を続けて欲しいですね、スワブリックには。

 (添付したのは、若き日のスワブリックのステージ写真。盛大にタバコを吸ってます。こんな風に片時もタバコを離さなかったがゆえに肺をやられちゃったんですね。愛煙家の皆さん、どうかお気をつけて)





粋なジャズ歌手、岸井明!

2005-12-08 02:48:04 | その他の日本の音楽


 戦前、岸井明というコメディアンがいました。今で言うならホンジャマカの石塚とかをおもわせるデブキャラ。
 全盛期のエノケンが映画「西遊記」を取ったときにブタの八戒を演じたと申し上げれば、大体、彼の生きた時代とそのポジションをお分かりいただけるでしょう。

 その彼の歌が、ちょっといいんですよね。まあ、あまり彼のプロフィ-ルの詳しいところは知らないんですが、おそらく当時のコメディアンのごたぶんにもれず、ボ-ドビルの舞台出身なのでしょう。
 笑わせるばかりでなく、歌って踊ってもお手のものであったろう。実際、ステ-ジ上の彼を見た記憶をお持ちの方の話でも、その巨体というか肥満体には考えられないほどの身のこなしでダンスを踊りまくったとの事です。

 そんな彼が戦前、SP盤に残した歌の数々をダビングしたテ-プを、近所のゲテモノ・ラ-メン屋の創立者である、昭和の初期にはモダンボ-イとして鳴らした(本人談)という老不良少年(?)から、亡くなる寸前に、まるで形見分けみたいに貰いました。

 聞いてみると、これが良い。当時の定番ともいえる「ジャズソング」を主に歌っているんですが、当時の歌手特有の、甲高く声を張り上げる歌唱法ではなく、ゆったりと力の抜けた余裕たっぷりで諧謔味漂うもの。間奏を口笛で吹いてしまったり、口でトランペットやトロンボ-ンの物真似をしてみたり(初期のミルス・ブラザ-スの影響か?)と、差し挟まれる小ワザも粋で憎いかぎり。

 また、おそらくは自身で書いているんではないかと思われる日本語歌詞も、独特のユ-モアとフンワリした抒情を漂わせて、実によい感じです。
 全体に非常に洒脱な精神のありようが伝わってくる歌の世界であり、彼が生きていた時代と場が孕んでいた文化の分厚さがうかがえます。

 この種の、つまり戦前のボ-ドビル界の歌手たちの歌声に再び光を当てようという動きが見られないのは残念ですね。何曲ものヒット曲を持つ二村定一でさえ、その歌声を簡単には聞けない状況にあるし、ましてや岸井明なんて、アナログ盤の時代まで逆上っても、作品の復刻は成されていないんじゃないだろうか。
 何とかそちらの方向に風が吹きはじめる日がこないものかと願っているのですがね。

♪ お月さま おいくつ 十三七つ
  あたしのあの子も 十三七つ
  お月さま あなたも 恋の病み上がり
  あたしもあの子に 恋の薄曇り
  切ないあたしの この胸をあの子に 伝えて頂戴
  お月さま 冴えない あたしの心
  明るく まんまるく なりたい心

  月光値千金by岸井明




魂の通う夜に

2005-12-07 04:08:59 | 北アメリカ

 アルバム・タイトル、「lantern burn」に関してネット情報を得ようと検索をかけてみたら、これは外国人向けの日本情報なのだろうか、英文による「日本の夜祭り」の紹介ページが表示されて苦笑い。だが、その夜闇に浮かぶ大文字焼きやら長崎の灯篭流しなどの記事を見ているうち、それならそれで良いや、みたいな気分にもなってきたのだった。

 カナダのトラッド・シーンでは名門と言って良い”ランキン・ファミリー”の一員であるリタ&マリー・ランキン姉妹が1997年に発表したアルバムである。彼らの看板と言って良いだろう、父祖の地、スコットランドより新大陸に移民たちが遠い昔、持ち込んだトラッド・ナンバーがメインである。そのうちに何曲かの今日風のフォーク・ナンバーが挟み込まれている。

 どの曲も、不思議な静謐に包まれた出来上がりである。それはまだ、夜が神秘な静けさの内にあった頃の記憶。家族も、そして町並みもすべてが寝静まった深夜、ふと一人目覚め、不意に襲って来たたまらない寂しさに胸ふさがれつつ、遠くを通り過ぎて行く夜汽車の汽笛を聞いていた、そんな記憶の底に繋がるような響きが、収められたどの唄にもある。

 ジャケ絵もまた、静けさに包まれている。冬の夜、ささやかな灯りの元、家族たちがストーブの周りに集まっている。にぎやかな座談の席ではない。皆はただ黙して、過ぎ去って行った何かに思いを馳せている。

 ここではすべての唄が、唄われる事でそのまま遠い昔に生きた人々との意識の交歓となる。
 トラッド曲に挟まれた、ハイウエイをテーマに置いた現代の放浪唄にも、アスファルトの道を吹き過ぎる砂埃のざらついた手触りはない。歌の中で、大陸横断に向けてまだ暗いうちからハイウエイに乗り出す大型トラックも、夜明けの陽の最初の一射しを受けたらそのまま霧散してしまいそうな危うさがある。

 ここは、選ばれたある種の者たちが、定められた音曲を奏でることでのみ到達可能な、過ぎ去って行った者と現世を生きる者とがひととき対話を交わせる幽冥郷なのである。





台湾山地民謡日語演唱

2005-12-05 02:48:23 | アジア

 ××さま

 え~どうも。先日いただいた特製CDのお礼というのもなんですが、カセット一本お送りいたしましたんで、お納めください。

 台湾で売られている、「山地民謡日語演唱」なるカセットです。ジャケからして、もう興味深い。台湾の山地民族といいますか、中国人が入ってくる以前からあの土地にいた先住民、戦前は”高砂族”と日本人が呼んでいた人々が民族衣装に身を固め、写っています。
 これだけ見ると、彼等先住民の民俗音楽でも収められているとしか思えないのですが、聞いてびっくり、飛び出してくるのは、やや怪しい発音ながらも全曲日本語による歌謡曲です。

 頻出するラテンのアレンジから想像するに、昭和30年代くらいの録音でしょうか?楽曲としては、日本の昔の歌謡曲の影響も大ながら、彼等山地民族の伝統歌謡の骨格を強力に持っているものがほとんどです。一方、中国音楽の影響は、全くと言っていいほど感じられません。
 歌詞には台湾の地名や山地民族の生活のありようが織り込まれて興味深く、また、「桜の国に渡った人よ」なんて一言も出てきて、濃厚に戦前の、”日本の植民地としての台湾”が感じられます。

 しかし、何でこんな音楽が存在しているのか。日本語で歌われているとはいえ、ジャケには日本語の説明など一言もなく、日本人観光客とかを対象の商品とは考えられません。また、私の手に入れたカセットは新品のピカピカのものであり、戦前の遺物などではなく、今でも”現役”で流通している商品であると考えられます。

 どうもこれ。微妙な問題なんで言葉を選びたいんですが、日本統治時代の台湾にある意味で、あくまでもある意味でノスタルジー(と言ってしまうのは無神経すぎるが)を感じている台湾の人々、それも山地の先住民限定で売り出されている商品なのではあるまいか?

 彼等先住民が、現在の台湾でどのようなポジションに置かれているのか、不勉強でよく分からないのですが、いずれにせよ少数民族、なんらかの屈託を心に抱いて生きているとしても、不思議ではありません。
 そういえば日本の植民地時代、征服者たる日本人の前では、それまでの抑圧者である中国人と、彼等少数民族は”植民地の現地人”として平等になれ、また、各部族で言語が細かく分かれていた山地民族が初めて持った共通語が、植民地時代に強制的に覚えさせられた日本語である、なんて話も聞いています。(だからと言って、日本の台湾への植民地支配を正当化するつもりは、毛頭ありませんが)どうもこの音楽、そのあたりの微妙な歴史のトワイライトゾーンから生まれ出た”歪んだ真珠”と想像され、このあたりの文化のありよう、気になって仕方のないところです。

 台湾の山地民族の音楽は以前、ずいぶん興味を持って集めたものです。この頃はいつもの気まぐれ、飽きっぽい性格が出て、ご無沙汰となってしまっているんですが。

 集めた音源のほとんどが、きらびやかな民族衣装で着飾った歌手がポーズを決めた、泥臭いジャケのカセットです。サウンドの方も、エコーがギンギンのエレクトーン(!)を中心にした、なんだか温泉地のホテルのクラブで専属バンドが演奏しています、みたいなチープなものが多い。非常に狭い文化圏において流通している音楽と想像されます。また、表記を見るとこれらの音楽、”山地情歌”なるジャンル名で呼ばれていることが分かります。

 ジャケには、”パイワル族”等、部族名が記され、どうやらこれは、そのカセットにおける使用言語を示すものでもあるらしい。顧客は、それを頼りに自分の所属部族の言語による音楽を手に入れる仕組みになっているかと思われます。
 もっとも、その一方、”原住民大会舞金曲”などと副題がつけられていたり、ジャケが、彼等のきらびやかな民族衣装をメインに押し出したものばかりであるあたりを考慮に入れると、”部外者”に物珍しさで訴えて購入させる形で成立しているキワモノ観光物件の側面もあるかとも思われ、この先は、今以上の資料が手に入るまで、判断を控えます。

 ちょっと個人的に笑えてしまうのは、これらを聞いていると、どうやら昭和30年代の日本の怪獣映画などに出て来た”南洋の原住民の音楽”というもの、その元ネタはおそらく、この台湾山地民族の音楽なのだろうなと想像されるところです。いまや映画音楽の大家の先生方、元ネタはこれですよね?
 そうそう、ザ・ピーナッツの唄う”モスラの歌”ならご存知でしょう?あのようなメロディーラインとリズムが頻出するのが、台湾の山地先住民族の音楽なんですよ。こういえば、ここで話題にしている音楽がどのようなものか想像していただくのが、いくぶんか容易になりますよね。あのような音楽の間に、突然、怪しげな発音の日本語による小林旭の”昔の名前で出ています”なんて曲が飛び出してくるのが、”山地情歌”って奴なんです。

 彼等、台湾の先住民族のルーツは北ボルネオとも聞きます。海流に乗って北上し、中国人たちが上陸する前の台湾に流れ着き、独自の文化を形成した。かって日本のプロ野球界で”郭”なる姓の台湾出身の選手が複数活躍していましたが、彼等は皆、山地民族の血を引く者であるようです。

 また第2次世界大戦中、密林での行動に慣れた山地民族は、日本軍にジャングル戦の際に重宝された、との記録もあります。先天的にか後天的な原因があるのか知りませんが、身体能力において優れたものを持つ民族と考えていいのではないでしょうか。それがゆえに山地民族の人々が「高砂義勇軍」などと称され、日本軍に徴兵されて太平洋戦争で散っていった事実は、我々も深く胸に刻む必要がありましょう。

 世界のあちこちに、こんな具合に小数民族の音楽が存在しています。多くの場合、その位置する世界の片隅で、ひっそりと息を潜めるみたいな形で。それぞれの音楽にそれぞれ刻まれた複雑な歴史の貌、その詳細を知るごとに、粛然たる思いを禁じえなくなる事、少なくはないのであります。

 お送りした音源、お楽しみいただけると良いのですが。それでは。


(冒頭に掲げた写真は、日本統治時代の台湾で起こった山地民族による日本政府への抵抗運動に関する研究書)





ジョージアの雨の夜

2005-12-03 04:28:48 | 北アメリカ

 先に、「アルゼンチン人にとっての”南”」について書いた際、どうもアメリカ人は自らのウェットな感傷の内宇宙に閉じこもるよすがとして、「ジョージア」という地名を持っているようだ、などと述べてみたのだが。「わが心のジョージア」やら、「夜汽車よジョージアへ」といった歌があり、オーティスの唄、「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」の中で夢破れた主人公は港に座り込み、あとにしてきた故郷、ジョージアに思いをはせている。

 そもそもジョージアとはどのような場所なのか、何かそのような感傷を寄せるに至る寄り代(?)とも言うべき何ものかが何があるのだろうかと、ふと気になって検索をかけてみたら、「グルジア共和国」なんて項目がゾロゾロ出てきたので、これには意表を突かれた。そうか、かってソ連の一部を形成していたあの西アジアの国と、スペルが同じだったんだ。偶然の一致か、何か縁があるのか、グルジア移民が最初に入植した土地であるとか?と探ってみたのだがよく分からず。

 さらに調べてみても、州都アトランタにコカ・コーラの本社が鎮座まします、などといった索漠たる資料しか挙がってこない。
 という訳で。とあらたまるほどの必然性もないのだが、1970年のR&B歌手ブルック・ベントンのヒット曲、「ジョージアの雨の夜」などという唄でも思い返してみる。しみじみとした哀感の伝わる、良いバラードである。

 歌の主人公は何かが原因で、夢破れ尾羽打ち枯らして都落ち、ジョージアの町をさ迷う。とうにとっぷり暮れた街で、折から降り注ぐ雨の中でネオンサインも滲み、一夜の宿りも取れずに貨物列車にもぐりこみ彼は、時代錯誤のホーボーを気取っている。歌の中で終始雨が降り続いているのは、そのまま主人公の心象風景なのだろう。貨物列車の中でギターを取り出し無聊を慰める彼のポケットには恋人の写真があり、それを思うと心が安らぐ、とあるのだが、彼女はおそらくもう、彼のものではないのではあるまいか。

 唄の世界の湿度は120パーセントといった風情である。そのなかで主人公はこの土地に降り注いでいるこの雨が、全世界を覆っていると夢想する。この自己憐憫のドロドロ具合は、我がニッポンの古い演歌とさえサシで勝負できそうな、生暖かさを所有している。
 歌の作者は、自身も歌手であるトニー・ジョー・ホワイト。アメリカ南部を体現する、と言っても過言ではないような、ベタな南の感性で一杯の表現者である。作る曲も歌声も、ギターの音色もドロッと甘く、南部特有の人懐こい体温をすべてが感じさせる。

 同じく南部にこだわり歌い続けた、彼の大先輩であるカントリー・ミュージックのバッハ(尊称はこれでいいんだっけか?)と言われる大歌手、ジミー・ロジャース(1897~1933)などの作品の数々を振り返れば、独特ののったりまったりとした南部訛りとともに、この生暖かい湿度世界は豊穣に広がっており、いや、アメリカ南部の大衆音楽世界は濃度の違いこそあれ皆、この高湿度高甘味度のうちにあると言っていいだろう。

 ”ビロード”と形容されたブルック・ベントンの歌声で描かれる、雨降るジョージアの一夜の出来事に付き合ううち、あの南北戦争の敗北により失われた、古き南部諸州による”ありえたかも知れなかったもう一つのアメリカ”の奇怪な幻想が夜の中を歩き回るのを見た、と思えたのは、私の思い過ごしか?ともかくジョージアの雨の夜は、雨に閉ざされた全世界を幻視させるのである。





北へ帰る

2005-12-02 02:52:54 | その他の日本の音楽

 アルゼンチンの人々が”南”に寄せる魂の回帰場所幻想(?)に匹敵するようなところが我々日本人にあるかと考えると、これは良く分からない。ただ、北の地のどこかにある幽冥郷に自らの傷ついた魂を横たえたい、みたいな願望、共同幻想は存在しているような気がする。

 たとえばコミックソング歌手の嘉門達夫は落語家の弟子時代、師匠に破門された際に「どうしても北の曇り空の下、荒波打ち寄せる日本海の際に傷心の自分を置かねばならない」と特に根拠もなく思い込んで北への旅に出てしまったというが、日本人の多くには、なんとなく理解できる話ではないだろうか。傷心を抱いて南に下る、みたいな衝動は、なかなか想像し難い。

 これはどこに根を持つファンタジーなのだろうか。「それなら北の地に住む日本人は失恋の時はどこを彷徨えば良いのか?シベリアにでも行けばいいのか?」なんてまぜっかえしも来そうだが、宮沢賢治は亡くなった妹の魂との邂逅を幻想してカラフトの地を彷徨った、なんて故事もあるのである。

 話の歴史的裏付けを仮説として夢想すれば、大和朝廷が南より発し、東の諸氏族を制圧しながら版図を広げていった過程にあって、滅ぼされた土侯の悲しい運命の物語に自分の不幸を重ね合わせて、涙ツボとでも言うべきものにはまり込むことを日本の寄る辺なき庶民は好んだのではないか、などと思いつきで言ってみるが、まあ、たいした根拠はない。

 小林旭の歌唱で名高い「北帰行」などという曲は、まさに日本人の北の涙ツボ嗜好を象徴するような一曲である。北風に打たれつつ、北の涙ツボ幻想に酔いしれるには格好の素材といえよう。

 この曲、歌詞をよく読んでみるとかなり意味の取り難い部分がある。「北へ帰る旅人一人 涙流れて止まず」なんてくだりを読む限りでは、「北へ帰る」のだから、主人公はたとえば東北地方とか北海道あたりから大志を抱いて東京などへやってきて、が、夢破れて故郷へ帰る、そんな唄なのかと了解しかけるのであるが、その後に「さらば祖国 いとしき人よ」と歌われてしまう。傷心を抱いてこれから故郷に帰る者が「祖国」に別れを告げるのでは、なにやら意味不明ではないか。彼は一体、どこからどこへ行こうとしているのか。

 この唄は、実は戦前、日本を離れ満州国の大学に通っていた、まあ雑に言ってしまえば資産家のドラ息子とでも言うべきポジションにある人物によって作られた曲とのこと。そのような人物が素行の悪さから放校などになり、異国の凍土を彷徨ううち、興の向くまま作った唄であるのなら、それは多少の混乱もあろうなあと、何となく納得しかけたりもするが。あ、放校になりなんぞというくだりは皆、私の勝手な想像なので、論文を書く際の参考などにはしないようにしてください。

 ところでこの曲、その矛盾部分をまったく障害なく聞いた人々もいるのである。戦後の、あの北朝鮮への”帰国運動”に乗せられ、楽土の夢を見て北の共和国の土を踏んだ”在日”の人々が、現地の厳しい現実を見せつけられ、深い絶望を抱いて日本より持参した「北帰行」のレコードを聴き涙を流した、なる体験談を読んだ事がある。なるほど、そこでは歌詞の矛盾部分は見事に解消されているかも知れない。むしろそれは、放り込まれた現実の歪みの酷薄さにピタリとはまり込む鮮やかささえ存在したのではあるまいか。

 などと、満州国から小林旭経由で北朝鮮まで辿ってくるとこの曲、東アジア現代史の裏のテーマ曲と考えてもよさそうに思えてくるのだった。





「SUR(南)」

2005-12-01 02:44:01 | 南アメリカ

 ”さらば私の草原よ”に続いて、さらに”アルゼンチンの南”に関して。ここに1枚のCDがあり、タイトルに”タンゴの中庭(PATIO DE TANGO)”とある。ウーゴ・ソレールなる歌い手のもの。初老の歌手はすっかり白くなった髪でギターを抱えて、ジャケ写真の中で粋にポーズをとっている。

 ウーゴは、かって中堅どころの楽団で歌っていた経験はあるもののレコーディングはこれが始めてらしく、どうやらほとんど無名の歌手と言ってよさそうだ。そして、彼の年齢と、ナツメロ中心の選曲、ギター二本と生ベースギターの”ギタロン”による生音トリオのみがバックを務める地味な内容から考えても、このアルバムが大ヒットなどすることも考え難く、これが彼の最初で最後のアルバムとなっても、それほど不思議ではない。というか、盤自体のハード面も、どこか自主制作っぽさが滲む質素なものとなっている。
 などと不吉な言い方になってしまったが、アルバム自体の出来は良い。タンゴの定番とでも言うべき、歌もの好きにはこたえられない選曲を、ウーゴは的確にコントロールされた美声で誠実に歌い上げていて、好感の持てる作りとなっている。

 このアルバムの最後に収められているのがスール、”南”という曲である。アルゼンチンの人々の”南”に寄せる想いが結実したような、しみじみとした佳曲である。歌詞の直接のテーマは失われてしまった”南側の通り”における人々と暮らしであるが、セピア色に変色して記憶の底に浮かぶ古き”南側の通り”の向こうに幻視されるのは、遠く広がる平原の気配である。

 サビの導入部、どう細工しても万感込めて歌わざるをえないようなメロディの作りになっている(妙な表現だが、ほかに言い表しようもない)部分を、いかに効果的に”スール・・・”と、歌い上げるかが歌手の腕の見せ所だろうか。彼のような歌手が、長年の冷や飯食らい(?)の末にひっそりと出した一枚のアルバムのクロージングには、実にふさわしい選曲と思える。
 この曲あたり、アルゼンチンの人々が”南”の地に寄せる、不思議に深過ぎる思いの最濃厚曲と位置付けてもよさそうだ。実にいろいろな人によってレコーディングもされている。

 かって、発祥当時の”都市の悪場所で供されていた影ある音楽としてのタンゴ”の危険な香りを、その男っぽい荒くれた歌声で今日に伝えていた大歌手、ロベルト・ゴジェネチェのヴァージョンなどは、大都会の影に生きるヤクザ者の面影がそのまま風吹き過ぎる草原に生きた昔日の牧童の暮らしに重なり合うように聞え、叙情的な曲調はそのままに、なぜか聞く者の血を騒がせる展開となっている。ホルヘ・ルイス・ボルヘス描くところの牧童をテーマにした掌編幻想小説なども想起せずにはいられない。
 アルゼンチンのジャズピアニスト、アドリアン・イアイエスのバンドによるジャズ・マナーの演奏ではさらに幻想味は増し、喧騒の現代都市ブエノスアイレスの夜に草原の風が吹き渡るような時空の混乱さえも楽しむことが可能だ。

 こんなクセモノの歌を、ナツメロとして心の一番柔らかいところに抱いているアルゼンチンの人々、やっぱり只者でない気がしてしかたがないのである。





さらば、私の草原よ

2005-11-30 04:43:51 | 南アメリカ

 アメリカには、たとえば「我が心のジョージア」なる曲があり、「夜汽車よジョージアへ」なる曲もある。一方、オーティス・レディング歌うところの”ドッグ・オブ・ザ・ベイ”の中で夢破れた男はサンフランシスコの海風に吹かれながら座り込み、あとにしてきた故郷のジョージアを思っている。
 どうやらアメリカ人のある層にとってジョージアなる土地(あるいは地名、あるいは概念)は、独特の感傷を喚起するなにごとかを秘めている魔法の場所のようだ。

 アルゼンチン・タンゴにとってそのような場所はと言えば、これは大分大雑把な銘柄指定となるが、一言、”南”と言うことになるようだ。右も左も今だ見当も付かぬままに行き当たりバッタリでタンゴを聞いている身でも、アルゼンチン人が、心の故郷のタグイを求め、それに向かう郷愁に酔いたい気分のとき、”南”をテーマにする曲が、まるで日本人が深夜のカラオケで不覚にも歌ってしまうド演歌、の如くに浮かび上がって来るのには、とうに気付いている。
 あるいは”ブエノスアイレスっ子は”と地域限定するべきなのかも知れぬ。つまり、都会人の定番の感傷が南、すなわち、アルゼンチン南部に広漠と広がる草原と、そこに展開される、おそらくはとうに喪われてしまった古き圭き牧童たちのロマンスに向かう構造になっていると。

 極めつけ、そんな草原との別れの感傷を歌った”Adios pampa mia(さらば私の草原よ)”なる大ヒット曲もある。手元にあるCDでトロイロ楽団の演奏など聞いてみると、歯切れのよいバンドネオンの響きに導かれ、広漠たる草原に別れの感傷を秘めて涼やかな風が吹き渡る有様が目の前に浮かぶようだが、この歌の主人公がなぜ、彼の愛する草原を捨てねばならぬのか、何の説明もなされていない。
 ただ彼は、生まれ育った愛する草原との別れを、まるでそれが生れ落ちたときからの運命であったかのように深い諦念のうちに甘受し、惜別の感傷に深々と身をゆだねている。その感傷こそが、アルゼンチン人たちにとっての地霊との交歓の最重要なツールかとも見えてきたりする。

 が、考えてみれば大多数のアルゼンチン人たちは、その南の大地からの生え抜きとしてその地に住んでいるわけではなく、そのほとんどがヨーロッパよりの移民の子孫なのである。本来、草原に父祖の霊を感ずる資格を有するのは、かの地においてとうに絶滅同然の状態にある南米先住民たち、インディオたちではあるまいか?
 どうもここに、なんらかの欺瞞が紛れ込んでしまっているように思える。特に誰かの故意の陰謀や悪意が介在したでもなく、重ねられた歴史の流れの混沌のうちの行き違いから行き当たりばったりで形成されてしまったのだろう、見当はずれな感傷のシステム。それは、アルゼンチンという不思議な歴史を歩んだ国そのものが醸し出す独特の哀感に、不思議に響き合う何ものかがあるとも感ずる。

 そして、その欺瞞を解き得た時、アルゼンチンタンゴに関するすべての謎が解けるのではないかなどと勝手な妄想を抱く私なのであるが。まあ、これはあてのない話ではある。