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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

香港式冬日浪漫

2005-12-25 04:10:11 | アジア

 あの頃。と言ったって分からないでしょうが、あの香港が99年に及ぶ「借り物の時間」を終え、中国に、というか北京政府に”返還”されるその運命の時が数年後に迫っていた、そんな時期、私は心あるワールドミュージック・ファンに顰蹙買いながら、その香港のヴィヴィアン・チョウなる女性歌手のCDを集めていたのだった。
 ヴィヴィアン・チョウ。漢字で正式名を書けば”周彗敏”である。これを広東語で発音すればチュウ・ワイマンとなる。この発音で呼ばれるのを彼女はひどく嫌っている、などという噂を聴いたことがある。なぜですかなぜですか。知りませんが。この噂自体がどこまでほんとやら、みたいなものだけど。なんか好きだわ、この話。

 なぜ彼女のCDを集めるゆえに顰蹙など買うかと言えば、彼女が特に歌の上手い歌手でもないせいでしょうかねえ。実際、彼女は香港では当たり前の芸能人のありようである”歌う映画スター”だったのだが、まあそのルックスで女優としての評価の方が高かったのではないですかね、その唄の実力をあんまり褒める人はいなかった。
 そして私はといえば・・・まあ、こんなところでぶっちゃけ話もなんですが、私は彼女を”巨乳アイドル”として支持していたんですわ、いや、申し訳ない。でも実際、写真とか見るとねえ、なかなか・・・とはいえ、そんな次元の低いファンぶりも我ながら情けないような気もして、そのような”ジャケ買い事情”は公言しなかったんだ、当時は。
 まあでも、私のように”巨乳評価組”にしてみれば、彼女のようなキャラはむしろ歌なんか下手でいてくれたほうが、なんかリアルで按配がよろしい、みたいな気がしないでもなかったなあ。いやまあ、私のスケベ話など延々書いても意味ないですが。

 そんな彼女の、私が聞いた範囲ではの話ですが、いちばん好もしく感じられるアルバムがこの”冬日浪漫”であります。タイトル通り、冬の、それもクリスマスから正月へかけてあたりの感傷が歌われている。まあ、あんなにも南の香港における冬の日って、あんまり切実なものがイメージできないんだけど。
 でもそれなりに、曇りガラスの向こうをすべてのものを凍えつかせて渡って行く季節、時の流れ、そんなものの気配や、その中の人々の暮らし、喜怒哀楽などなどが、アクの強い広東語によるアメリカン・ポップスや日本のニュー・ミュージック(の、時代でした)のカバーなどを織り交ぜつつ、彼女のたどたどしい歌唱で描かれて行くのを聴くのは好ましいものでした。

 とうに中国に返還されてしまった香港。なんだかこちらとしても、たいした理由もなしに入れ込む気合のようなものを失ってしまって、結構好きだった香港ポップスを聴かなくなってしまったんだけど、ヴィヴィアン・チョウはどうしているんだろうなあ。あれから世界はダイナミックにその様相を変え、そんなローカルな芸能の話題などに振り向くこともせずに未踏の世界へ突き進んで行ってしまった。そんなこんなで成すすべもなく時は流れ、今年も暮れようとしている。そろそろ一年一度”冬日浪漫”を引っ張り出して聴いてみる時期だなあ。






「ホタル」・批判

2005-12-24 02:00:48 | その他の評論


 木曜日の夜、深夜のテレビで高倉健主演の「ホタル」って映画を見ていたわけですよ。これがまあ、いつ作られた映画か知りませんが、なんともはや・・・

 健さん、太平洋戦争当時に特攻兵だった、が、戦友は戦いに散ったが彼自身は出撃命令はついにくだらず生き残った、なんて設定ですわ。で、高倉健は当然、心の中でそれを引きずっていますな。けどそんなことはおくびにも出さず、寡黙に漁師の仕事に精を出している。昭和天皇崩御(そうか、あの頃、作られたのか)に絡めて、元特攻隊委員のコメントを取りたい新聞記者(これが「朝日新聞の記者」と再三強調されるのは、意味あるんでしょうね。ヨミウリでもサンケイでも東京スポーツでもない。アサヒシンブン)なんかがやって来ても、話すことは何もないとそっぽを向いている。まあ、そんなキャラ設定。

 演ずる高倉健にしてみても楽勝の役柄、見る側の健さんファンも見慣れたパターンで何も考えずに安心して見ていられるって感じの映画ですね。
 登場人物も物語りもことごとくその方向に見事に割り振られていまして、健さんファンに軽蔑されるために出てくるアホ役やら、いかにも絵に描いたような古典的な”けなげで可哀相な妻”などが要所要所に配されております。お定まりの役振り、定番のストーリー。観客の期待は何一つ裏切られることはない。新しいことは何もやらないようにしていますから。観客、新しい事物なんか見たいと思ってませんから。

 で、結局、すべては「健さん渋い、かっこいい!」に収束して行く仕組みになっている。なんかこれってさあ、「ウルトラマンの怪獣退治」とドラマツルギーにおいて何も変わることがないって気がするんだけど、あなた、どう思いますか?

 そしてなにやら物語の運びの次第で、高倉健は、かって特攻兵となって”大日本帝国”のために死ぬ羽目になった朝鮮人の特攻兵の遺族に会いに海峡を渡る。彼の遺言を彼の家族に伝えるためなのです、これが。気の重い任務ですが、もちろん、健さんの耐える男のかっこ良さを演出するのが狙いですな。
 そしてそこでも、「はじめは日本人が来たというので敵対的だった韓国の人たちも、健さん扮する元特攻兵の誠意ある態度に、次第に心を開いて行くのでありました」となる訳です。都合良過ぎやしないか、話が。

 人情話でごまかしつつ、結局正当化してるんですよ、大日本帝国が朝鮮半島の人たちを特攻隊に狩り出した事実を。「自分は朝鮮人民としての誇りを持って特攻に赴いたのだ」とか朝鮮人特攻兵に遺言として言わせる事によって。ひどい映画だよ、これ。人々の高倉健に寄せる安易な感傷に便乗して、特攻を賛美し、日本のかっての朝鮮半島領有も正当化するというあからさまなゴリ押し作戦であり、相当にたちが悪い。

 そして映画終了直後、テレビは近日公開の映画、「男たちの大和」の大宣伝に突入するのでありましたとさ。うん、そんなことだろうと思った。で、「大和」を見終わったバカな高校生の涙のインタビューなど挿入されて、一同めでたく舞い収める。と。
 昨今のワカモノたちは、涙にさえ持って行けば楽勝ですべて判断停止してくれるから楽でいいでしょうなあ、政治家の皆さんも・・・





我が沖縄事情

2005-12-23 03:01:24 | アジア

 沖縄の音楽が苦手と言うのは、ワールドミュージック・ファンとしては、相当に珍しい趣向なのかも知れない。けど、どうも私は苦手なのですねえ、かの地の音楽が。
 これには、「猫嫌いの人は、本当は猫そのものが嫌いなのではなく、猫好きの人間が嫌いなのだ」なる説があるけれど、それに近い事情があるのである。まあ、もったいぶるような話でもなし、ぶっちゃけで言ってしまうが、沖縄音楽を紹介する人や沖縄に入れ込む人の姿勢が疑問だったのだ、私の場合。

 沖縄の音楽を紹介する際に、そのシンパの人が決まって言うには。沖縄の音楽こそが優れたものである。沖縄の音楽家は例外なく偉大な芸術家である。沖縄では、すべての人が優れたミュージシャンである。日本人が忘れてしまった本当の歌が、沖縄だけに生き残っている。
 あなた、沖縄の音楽に接する際、その紹介者たちの上のような言質に出会い、うんざりしてしまった経験てありませんか?私にはある。”2ちゃんねる”風に言えば、その手放しの”マンセー”ぶりにウンザリしてしまったのである。

 なにしろ沖縄音楽普及に入れ込む人って、おとなしく話を聞いていればそのうち、「ともかく、沖縄のものだから優れているのだ。疑問を差し挟む奴は許さん」とか言い出す。いると思うよ、沖縄にも、音痴の奴も音楽そのものが嫌いな奴も。
 ここに、沖縄を語るのが大好きな、と言うより、それにすがって生きているみたいなサヨクの人なんか絡むとうっとうしさは果てしなく。沖縄人にあらずば人にあらず、みたいな話にさえなって行くんだからなあ。
 こういうのを贔屓の引き倒しって言うのでありましょう。そんなヒトビトのおかげで私は、すっかり沖縄音楽が嫌いになってしまった。

 さらに沖縄崇拝話を遡れば。
 なぜ、「お前らはヤマトンチュー」とか罵倒された挙句、「本当の沖縄をお前らの胸にちゃんと沈めて欲しいのさ」などと大阪府出身のフォークシンガー、中川五郎に歌で説教されなければならないのだ、静岡県民の私や長野県民の碓井や北海道民の関谷が、という話もある。なんかおかしくないか、これって?いや、いきなり話が30年以上前の反戦フォーク怨念話に遡ってしまって恐縮だが、でもこの答えはいまだに受け取っていないんでね。一応書いておく。

 そんな次第で沖縄音楽に距離をおいてみる立場になってしまった私には、沖縄のミュージシャンって皆、あまりに沖縄に耽溺しすぎているように見える。”沖縄であること”で事足りてしまっているんだなあ。その先が何も見えてこないんだなあ。そんな気がしませんか?と言ってみたって共鳴してくれる人もいないのかも知れないが。
 そして、そんな私が唯一、好きだった沖縄のミュージシャンが、先ごろ亡くなった照屋林助氏だったのだ。林助氏は沖縄の伝統をしっかと踏まえつつ、しかもそれのみにとらわれることなく、自身の音楽によって自由に宇宙を飛び回っていた。しかも何も力まず、飄々として。
 あんな人が続々と出て来たら、私の沖縄アレルギーも治癒するんではないかと思う。そりゃ、簡単なことではないだろうけどね。




いまどきボサノバをジャズの一種とか言う奴をどうしたら良いか会議覚書

2005-12-21 03:35:44 | 南アメリカ

 ”Terra Brasilis”by Antonio Carlos Jobim

 某所の書き込みに、「ボサノバっていうのはブラジルなどラテン系の血がチョット混じったジャズなんですが」なんてあったんで、その雑な音楽理解に唖然。いまだ、そんな事言ってる奴がいるんですね。
 あれはブラジル国籍の独立した音楽であってジャズなんかじゃない。なんてことは特にボサノバについて知識を仕入れずとも、普通に音楽を聴く耳を持っていれば分かることでしょ?

 それが出来ないってのは、アメリカ中心のものの見方、世界理解で事足れりとして生きているバカで無神経な人間だから、と断定させてもらおう。他に考えようがないじゃないか。ああ、あんな物言いに出会うのが一番不愉快だな、ワールドミュージック・ファンとしては。
 晩年のアントニオ・カルロス・ジョビンが「ボサノバはジャズの一種なんかじゃない。リオの海岸に打ち寄せる波の間から生まれた、ブラジル独自の誇るべき音楽なんだ」と昂然と胸を張って言い放った、その心意気をなんと心得る!とかいったって、そういう手合いには通じはしないんでしょうな、うん。私が何に腹を立てているのかさえ理解出来ないに違いない。

 こういう御仁って、スタン・ゲッツなんかがやったやつを聞いて、それがボサノバのすべてだと信じ込んでるのか。いやいや、それだけ聴いたって、「ボサノバっていうのはブラジルなどラテン系の血がチョット混じったジャズ」なんて理解は出てこないでしょ。それが「アメリカ人ミュージシャンが一時借用した、異邦の音楽の舞台装置」である気配は感じ取れると思うよ、ほんのチョットの感受性さえあればね。
 にもかかわらず。あくまでも主体は「ジャズ」であり、「ラテンの血」なんぞは、どこやらから紛れ込んでくる外道でしかない。「その逆」である可能性などはハナから考慮に入れることがない。

 そんな風に「アメリカ=普遍=すべて」を髪の毛一筋も疑わないもののとらえ方がすなわち、アメリカ軍が自分たちの都合で世界中いたるところに劣化ウラン弾のタグイを撃ちまくり放題、それを異常とも考えない、そんな国際世論の潮流を根底から支えている。そう思うとハラワタ煮えくり返って来ますけどね。
 日暮れて道遠し、なんて言葉がよみがえってくるなあ。ナイジェリアのイスラム系音楽がどうの、ギリシャのポップスがどうの、なんて話をここでいくらしてみても、これじゃあ仕方がないですよ、ご同輩。いやまあ、それでも諦めずに歩いて行きますがね。





ハエ男ヘンリー

2005-12-20 05:26:25 | ヨーロッパ

 ”Henry the Human Fly”by RICHARD THOMPSON

 う~ん、ついに聴いてしまったけどあんまり乗れなかったです、リチャード・トンプソンの新しいアルバム、”Front Parlour Ballads”は。
 あっと、この”乗れなかった”と言うのは主に私の側の事情によるものなんでね、あなたがリチャード・トンプソンの熱心なファンで、これまでのアルバムも興味深く聴けていたのなら、多分心配はない、きっと今回のアルバムも楽しんで聴くことが可能でしょう。すでに「傑作!」の声をあちこちで聞いていますしね。

 なんと申しましょうか、私は”Henry the Human Fly後遺症”とでも言ったら良いような状態にあるんです、70年代このかた。リチャードの新譜が出るたびにあのアルバムに迫るような作品になっていはしないかと胸ときめかせ、そして期待を裏切られて、まあ勝手な期待なんですが、ガックリ来る、そんな事を繰り返してきた。

 70年代初頭、ユニークな”トラッド・ロック”の地平を切り開いたばかりのバンド”フェアポートコンベンション”から、「さらに自分なりのトラッドを極めたい」とか、そんな理由で脱退し、その最初の成果としてリチャードが世に問うたのが、アルバム、”Henry the Human Fly”でした。

 このタイトル、「ハエ男ヘンリー」って、なんなんでしょうね?アニメのヒーローかなにかなんだろうか?これには、自らに寄せられているであろう頭でっかちな期待を一発はぐらかそうとした、そんなニュアンスがあるんじゃないかと想像してるんですが。
 いずれにせよ、地味な学級肌のミュージシャン、というトンプソンのイメージを大幅に裏切る馬鹿げたハエ男の扮装に身を固めたジャケ写真には一本取られた気分になったものでした。そしてその内容といったら。

 一人のミュージシャンが、その才能のもっとも輝ける瞬間に時代の最先端と切り結んだ、とでもいうんでしょうか、まさしくこのアルバム制作時のトンプソンはそんな状態にあった。収められている12曲は、ことごとく大傑作でした。ロックの好きな英国の青年だった彼が、自国のトラッドとの出会いによって手に入れた表現の沃野を縦横に駆け抜けてみせた一場の大活劇の記録とでも言いましょうか。アルバムの隅から隅まで”素晴らしい瞬間”が脈打ち、流れていた。

 リチャードはその後、70年代半ばより、妻であるリンダとのデュオ・チームにより、彼の作品を歌いついで行く事となります。が。私はこの成り行き、あんまり面白くなかった。リンダの歌手としての素養がどうのと言う以前に、リチャードの唄は男声、それもリチャード自身によって歌われるのがベストと私には感じられたので。が、リチャードはリンダとのコンビでステージに立ち続け、アルバムもリチャード&リンダ名義で出し続けました。
 その音楽的キャリアのもっとも素晴らしい時期をそのような形で浪費してしまった、などと言ったら、リチャード&リンダのファンも多いことであるし、あまり賛成票は得られないでしょうが、「リチャードの作品はリチャードの唄で聞きたい」と願う私のような者には、そのように嘆くよりなかったのでした。

 そして・・・その、私にとって見れば困りもののコンビを10年近く続けた後
、リチャードはリンダとの結婚生活にピリオドを打ち、再びソロで音楽をやって行く事となるのですが、もちろんその音楽は時代とともに変化してきている訳で、ソロに戻ったからと言って彼の音楽が即、”ハエ男ヘンリー”の続編となる筈もなかった。

 ともかく私にとっての素晴らしかった瞬間は、アルバム”ハエ男ヘンリー”一枚で終ってしまった、それは確かなのでした。で、そんな私がリチャードの新アルバム発表のたびごとに再度のハエ男の飛来を期待し続けているのは、そりゃまあ、こうして事の次第を文章にしてみると、いかにもないものねだりって感じなのですが、でもねえ・・・
 どうせ別れるんだったら、初めからリンダとのコンビではなく、ソロでやっていてくれたらなあ、とか、せめて今からでもいいから、コンビ時代の曲を彼の歌声で吹き込み直してくれないものか・・・などなど、ハエ男信者のボヤきは終らないのでした。
 それにしても”ハエ男ヘンリー”って、なんだったんだろうなあ、結局?





擬似非赤色音楽団絶賛!

2005-12-18 03:07:56 | ヨーロッパ
”La Bonne Aventure” by L'ATTiRAIL

 中学生の頃、奇妙な誤解の上に成立させた共産主義社会幻想に酔っていた時期があった。事の始まりは外国の日本語放送とロシア=東欧圏のSFである。

 当時、まだ深夜のラジオの世界では若者向けのDJの流行は始まっていず、私と友人たちとの間の小流行が外国からの日本語放送を聴くことだった。デビュー当時のタモリが良く物真似していた北京放送やモスクワ放送、韓国やベトナムの放送・・・どうせ聴くなら独特の告発調が特徴の共産圏のものが、いかにも異世界からやって来たメッセージっぽくて面白く思えた。
 同時期、SF小説の熱心な読者でもあり、そちらでもロシアのストルガッキー兄弟やポーランドのスタニスワフ・レムなど、共産圏ものの独特なタッチに惹かれるものがあった。

 そのような破片の数々を組み合わせて、私の頭の中には現実とはかけ離れた奇怪なユートピアとしての共産主義社会の幻が出来上がっていた。それが現実とはおそらく無関係なものだろうとは自分でもうすうす気がつきつつ、が、その妄想の面白さに夢中になり、友人たちと「同志××」などと呼び合い、「インターナショナル」を口ずさみ、アメリカ帝国主義がどうのこうのと話し合った。ハンガリー人かポーランド人と文通が出来ないものか、などとボンヤリ夢見ていた。
 それを見た教師からは「政治に興味を持つのはまだ早い」などと突っ込みが入ったものだったが、我々は何を叱られているのかさえ理解できなかった。我々は政治などに興味はなく、異次元世界の構築を楽しんでいたのだから。

 そのような子供時代の記憶がある私だが、まさかこの歳になってから、当時の私と似たような共産社会幻想を振り回して一つの音楽世界を作り上げてしまった奴などに出会おうとは思わなかった。今回出会った、フランス人グザヴィエ・ドメリアックなる男と、彼が率いる音楽集団、ラティライユである。
 ドメリアックが育ったパリ郊外は元々共産主義色が強い土地柄で、私のそれより幻想はより根がありそうだが、妄想は妄想である。

 彼らは彼らの幻想した東欧の共産主義社会の日々を、自分たちの妄想のためにより都合の良いように変形させたバルカン半島の音楽によって描き出した。変拍子を多用したバルカン・ブラス音楽の破片やら誤解されたジプシー音楽、歪んだスラブのメロディ。
 そいつはいかにもありそうな、が、実はどこにも存在しない音楽の幻である。いずれ、たちの悪い冗談なのであるが、失墜した社会主義の幻という虚構に倒立像の如く映し出される今日の社会は、時にギラリとその歪んだ真実の相貌を明らかにする。

 オッケー、気に入ったぜ、同志ドメリアック!お前らの冗談に俺も一口、乗らせてもらおう。擬似非赤色音楽工作旅団・ラティライユを圧倒的支持!





アテネの恋歌

2005-12-17 02:10:46 | ヨーロッパ

 あっと、そうですかPさん、「その男ゾルバ」の映画音楽で有名なのはミキス・テオドラキスでしたか。
 どうもねえ、ミキス・テオドラキスとマノス・ハジダキスの区別がなかなか付かないです。どっちがどっちやら。後者は、ザ・ピーナッツが唄っていた「アテネの恋歌」の作者なんだけど、どちらもギリシャの大作曲家で、なんか似たような名前じゃない?ギリシャ人の名前って、全部語尾が”ス”で終るの?全部ってことはないだろうなあ。

 あ、「アテネの恋歌」ですか?ザ・ピーナッツの「ふりむかないで」ってご記憶でしょう?「ふりむかなっはははいいで~おっねっがっいっだっはははかあら~いぇいぇいぇいぇい♪ 今ね スカート直してるのよ あなたの 好きなタータンチェック~♪」って唄。いや、ここまで歌うことはないけど。で、あれのB面が「アテネの恋歌」だったんですよ。
 かってシャボン玉ホリデーなんかでギリシャの遺跡風のセットをバックに歌ったりしていたけど、いかにもギリシャ風味の漂う可愛らしいラブソングでした。歌詞だっていまだに覚えてるんだ、「はかなく消えて行く 恋とも知らないで 頬を寄せて聴いた アテネの恋歌よ 果てしなく広い空 流れ行く雲よ 私の変わらぬ 想いあの人に伝えてね」って。いや、いちいち唄うなっていうものですが。

 でもねえ、今、可愛らしいラブソングとかうっかり言ってしまったけれど、この唄のナナ・ムスクーリが唄った盤をオトナになってから手に入れたらジャケの解説に、「この唄はギリシャに成立した軍事政権に追われ、外国に亡命したハジダキスが望郷の念にかられて作ったアテネ賛歌である」とか書いてあって、ありゃりゃ、とか思ったのでした。

 ギリシャのポップスは若干集めたけど、あーだーこーだ言えるほどのウンチクも持ちえていないのは、ジャケのギリシャ文字が読めないせいもあるのかなあ。というか、情報の集めようもないものなあ。

 でも一つだけはっきりしているのは、ギリシャの音楽って、”洋楽”を聴く趣味がまるでない人でも一聴して「あ、これはギリシャの音楽だな」と分かるのではあるまいかと思わせる独特のクセのある所ですね。あと、どんなにたわいないアイドル・ポップスでも、アルバムのはじめの1~2曲はそれらしいんだけど、それ以降はゴリゴリのギリシャ情緒横溢のギリシャ歌謡になってしまう。この辺の、なんというか強硬さね。
 きっとギリシャの人たちってのは、とてつもなく頑固な性格なんだろうなと思うんだけど、どうですか。

 全然関係ないけど、ギリシャ文字ってこのまま打てるんですよね。たとえば「おめが」と打って変換すると、Ωと出たりする。これは何の必要があって変換できるようになっているのかなあ。アラビア文字とかタイ文字とかでも出来るんだろうか?
 ギリシャ文字と言うと小泉今日子がレコードジャケットで自分の名をkΨokoと表記してしまった故事を思い出します。ギリシャ文字の”Ψ”を”Y”と同じようなものと雑に判断してしまった訳ですが、この文字は発音は”PS”とかになるんで、これだとコイズミクプソコとか読むことになってしまう。これは味わい深い話でありました。





終わりなき歳末

2005-12-15 20:04:41 | いわゆる日記

 毎年、年の瀬には、この季節は苦手だなんのとぼやき通す次第だが、考えてみればクリスマス騒ぎやら、今年もなにごとも成しえずにただ馬齢を重ねるのか、と言った無念の想いなどがこちらを苦しめているのであって、年末自体は、むしろ好きな季節といえるだろう。寒風の中、人も自然も一様に”終末”に向けて否応なく日々運ばれて行く感触は悪くない。むしろ問題は年の瀬が終ると”新年”が来てしまう、その一点にあるのではないか。

 せっかく一年かけてすべてのものが暦の終わりで眠りにつく年の瀬へやって来たのではないか。それをなぜまた、頭からすべてをまき戻し、妙に日なた臭くてキラキラしい”新年”などを迎えねばならないのか。たとえ12月が終ろうとも、そのままさらなる年の瀬に向けて進んで行って、何が悪いと言うのだ。

 大晦日。紅白歌合戦も終わり、テレビでは”行く年来る年”の放映が始まっている。あちこちの寺では僧侶たちが除夜の鐘を叩きはじめる。人々は晴れ着を着て初詣に向かう。やがてパーティ会場では新年へ向けてのカウント・ダウンが始まり。が。新年は来ないのである。時計の針が”12”を回ると同時にめくられたカレンダー。が、12月31日の次には、その年の13月1日の日付けがあった。
 
 肩透かしを食わされた初詣客たちは、それでもせっかく神社へ来たのだからと賽銭を投げ手を合わせるが、皆、なにかピンと来ない表情である。それはそうだ。大晦日が終ったのに、新年が来なかったのだから。
 翌朝、各家庭では、それでも作ってしまったものだからとおせち料理を広げるが、なんとも間の抜けた思いがある。子供たちはお年玉をもらい損ねる。なにしろ、新年はやってこなかったのだから。昨日は確かに12月31日だったのに、今日は正月ではない。単なる13月の最初の日。祝日でさえ、ない。

 15月。やって来た春に、人々は冬の上着を脱ぎ捨て、明るく声を掛け合う。
 「やあ、どうも今年も押し詰まりまして」
 「押し詰まりましたなあ。もう4ヶ月も年末が続いておりますわ」
 19月。入道雲は空高く立ち上がり、今日も街は炎熱地獄の年の瀬である。明日からの夏休みを控え教師たちは、年末だからと言って浮かれて海などに遊びに行き、非行化の原因を作るなと生徒たちに説教するが、効き目はない。
 22月。紅葉の鮮やかな山道を踏みしめながら行楽の人々は言い交わす。
 「いやあ、見事な紅葉で。押し詰まりましたなあ」
 「いやもうすっかり今年も押し詰まりまして」
 24月。もう1年も年の瀬を続けた人々は、ついに”今年”二度目の紅白歌合戦を見終え、そして時計の針が一日の終わりを示すのを確認する。人々がそっとめくるカレンダー。24月31日が終わりを告げ。その次にあった日付けは。25月1日。新年はまたも訪れる事はなかったのである。
 「なんとまあ」
 「ああ、これはまたもう一年、今年を続けねばなりませんなあ」
 「ともあれ、押し詰まりまして」
 「いやもう、気ぜわしいですなあ、年の瀬は」
 「まったく」


 (音楽ネタでなくて、どうもすみません。飽きっぽい性格なんで、長いこと同じ事をやっていると、つい踏み外したくなりまして・・・)




カンテレの不思議

2005-12-15 03:08:20 | ヨーロッパ

 北欧はフィンランドにカンテレという楽器がございます。超小型にしたグランド・ピアノの足を抜き蓋を取ったものをご想像ください。それを卓上に置き、中に両手を入れて指で直接弦を弾く、そんな演奏法であります。分類としてはチター系の楽器と言うのでしょうか。コンサート型の30数本もの弦を持つものから、5本ほどの弦しかない竪琴様の原始的なものまで、さまざまな形状のものがあるようです。

 世の中に弦を弾いて音を出す楽器数あれど、私はこの楽器の発音原理ほど不思議に思えるものはございません。普通に単音を弾いた際の鈴を鳴らすようなチリンと可憐な音色は、なるほど極北に生まれ極寒に耐えつつ生きる人々に育まれた楽器はこのような音色を持つものかと妙に納得するものもあるのですが、驚くべきはそのサスティーンであります。

 弦楽器と言うものすべて、弦が弾かれて直後から、その音量は当然ながら減衰して行くものですが、このカンテレのロングトーンはスルスルと伸びていつまでも衰えない。和音など奏でられますと、まるでオルガンで和音を弾いているように聞えることさえある。これはどのような原理によるものなのでしょう?添付しました楽器の写真を見ていただけばお分かりの如く、サスティーンを保持する特別の機能が付いている様子もありません。不思議です。

 ともかく、この楽器で奏でられる北欧の民謡など聴いておりますと、まるで北国の青空をバックに、軒先に降りたツララが伸びたり縮んだりしながら音曲を奏でている様など脳裏に浮かびまして心楽しく、そうか、ジョバンニやカンパネルラが空を旅した際にも、きっとこんな音が銀河の果ての寂しい駅では静かに鳴っていたんだろうなあとか、あてのない空想もとめどないのであります。



わんわんワルツ

2005-12-13 04:22:18 | 北アメリカ

 パティ・ペイジ。手元にあるCDの帯には「カントリー・ワルツの女王」なる惹き句がある。60年代アメリカの人気ポピュラー歌手で、などというより「テネシーワルツ」のヒット曲があり、といった方が話は早いか?微かにハスキーかかった美声で、決して肩を張らず、素直にメロディを歌い上げて行く清潔な唱法で、当時の平均的アメリカ社会の日常のどこででも、普通に愛好されていたのだろうなと想像される。
 音楽的には、先に挙げた惹き句がすべてを物語っている。映画の主題歌やジャズ・ナンバーも歌うが、どうやら真骨頂はうっすらとカントリーかかった三拍子の曲である。これは、「テネシーワルツ」のヒットゆえ、柳の下のドジョウを追った結果とも想像されるが。

 いつぞや、用事で出かける母を車で送って行く際、ふとカーステレオでこのCDをかけたのだが、「これは若い頃に好きだった歌手だ」などと母は言い出し、以来、母を車に乗せるたびに、パティ・ペイジをかけねば収まらなくなってしまった。
 何度も母の付き合いで聞き返したおかげで、「アメリカのポップスの古典だ、一応聞いておこうか」といった意識だけでCDを手に入れた、さほど熱心な聞き手でもなかった私にも見えてきたものがある。たとえば、この曲に関して。

 確か、私が幼い頃にも我が国で、”わんわんワルツ”なる邦題でよく聞かれていた記憶がある”The Doggie in The Window”なる曲。伴奏の中に犬の吼え声を組み込んだ、もしかしたら当時としては斬新なアイディアだったかもしれない一曲だ。邦題が与える印象とおり、いかにも健全な、”ファミリーソング”などというとっくの昔に死語となり、もうそんな言葉があったのかどうかさえ定かではなくなってしまったジャンル分けがいかにもふさわしい曲である。

 子供の頃には分からなかった歌詞内容が、車のハンドルを握る今の私には、それなりに理解できた。
 歌の主人公は、近く旅に出ねばならない若妻である。ペットショップのウィンドウにいる子犬の値段を店員に尋ねている。彼女は用事があってカリフォルニアに旅に出ねばならない。やや長い旅になりそうで、だから彼女は、家に一人残されるダンナサンのために子犬を飼おうとペットショップにやってきたのである。
 「もし犬がいたら、しばらくの間一人ぼっちになってしまう可哀相な彼の相手を、その犬がしてくれるでしょうし、ワンちゃんもこれで素敵な家が持てるでしょう?さあ、その犬をくださいな」彼女はそう店員に話しかけている。それですべてと言っていい曲である。

 「出かけたらすぐには帰ってこられない遠方」の代名詞としてカリフォルニアの名が使われているのも興味深い。かの地が遠方ということは、主人公はアメリカ東部の住人という設定と理解していいのだろうか?当時のアメリカ人は”東部住人”をもって標準と成す、みたいな意識が存在していたのだろうか?
 まあ、それは余談として。ここで描かれている「一人ぼっちでダンナを家に置いて行くのがかわいそうに思える若き妻」に、当時のアメリカの夢がさりげない形で集約されている、その仕組みが見えてきて、なんか切なくなってしまったのである。

 おそらく彼女は、ちょっとオシャレなファッションに身を包み、幸せそうな微笑を浮かべて、店員に話しかけていたのだろう。
 そんな輝きに溢れた彼女の姿に象徴される豊かな明日、それが万人にもたらされると信じられた時代が、かってあった。そんな世界の影に、不当に人権を阻害され続けていた人々も存在していたのが実はアメリカの現実だったし、すでに東西冷戦と核戦争の恐怖も存在していたのだが。皆は夢を見るのに夢中で、不安な影などに目を向ける事はなかった。

 やがて時が過ぎて・・かって犬に妻が留守の間の無聊を慰めてもらっていた夫は徴兵カードを受け取りベトナムの戦場で泥沼にのたうち、逆に取り残されたかっての若妻は寂しさゆえドラッグ中毒の地獄に堕ちる、そんなタグイの運命が二人を待っていた、そうならなかったと言い切れはすまい。というか、そんな運命は確実に無辜のアメリカ市民を、そして世界中の人々を待っていた。時の流れは残酷で、そして甘美な詩のあとには必ず愛想のない散文の世界がやってくるのだ。

 そして今日、パティ・ペイジのいかにも趣味の良いポップスは、そんな淡い夢に彩られていた時代への、まるで挽歌として、カーステレオから流れている。車の外を流れ去る風景とその歌は、まるで無関係に、ただ存在している。
 私にとっては、幼年時代にかすかに聞いた記憶のある歌。母にとっては、それこそ歌の中の若妻と同年代だった頃の愛聴歌。助手席に乗った母と、特に感想を述べ合うでもなく聞くパティ・ペイジは、なんだか奇妙に哀しい響きがある。