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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

謎の鍵盤バイオリン

2006-01-06 04:18:29 | ヨーロッパ

 今回は気分を変えて楽器のお話ですが。ともかく添付しました写真をご覧ください。こりゃなんだっ!てな代物を弾いている男女。これが北欧トラッドで使われる鍵盤バイオリン、ニュッケルアルパ(Nyckelharpa)と呼ばれる楽器なのですね。
 弓を持って弾いている様子から分かるとおり、バイオリンの変種に分類するべきものなのでしょうが、まあ、異様な外見です。弦なんか20本近く張ってありますし、ネックの側にある何本もの細い棒状のものは何なのだ?

 この楽器、右手に弓を持って弦を擦り、音を出すのはバイオリンと変わらないのですが、普通に弓で弾いてメロディを奏でるための演奏弦は3本だけ。ほかに、鳴らしっぱなしでベース音を奏でるドローン弦が1本、そして、奏でられるメロディに共鳴し、勝手に振動して鳴るための共鳴弦が12本、時にはそれ以上もあるというんだから、ただ事でない楽器ですね。インド音楽なんかでは大量の共鳴弦を持つ楽器は普通だけど、ヨーロッパ方面では珍しいですね。そもそも共鳴音なんかはクラシックの世界では雑音としかとらえられず、嫌われますね。

 で、ネック側にあるのは、非常に素朴な形ですが鍵盤であるわけです。これを左手で抑え、音階を作り出す、と。左手の指で直接、弦を押さえる普通のバイオリンよりも容易に、かつ正確な音程を確保できる・・・とは言うものの、どう考えてもこれは効率悪過ぎでしょうねえ。(もっとも、早いパッセージなんかを弾くと、音の出方がフラットなんで、なんかシンセを鍵盤で弾いたみたいな感触の音が出て、ちょっと面白い効果あり、ですが)

 まあ、ヨーロッパ音楽の初期にはこのような楽器も使用されたのだが、次第に今日のような洗練された形のバイオリンが主流となり、このニュッケルアルパは忘れられていったんですね。今では、北欧はスエーデン・トラッドの世界の、それもほんの片隅で生き残っていただけでした。
 が、昨今のスエーデンの人々の自国の伝統文化再評価の風潮とも相まって、ニュッケルアルパ復興の気風さえ出て来ています。ニュッケルアルパのみ6人組、なんてとんでもない編成のバンドも先日、CDを出したし。

 この楽器、雑に言えばバイオリンをやや金属的にしたみたいな音を出すんですが、その独特の野趣がスエーデンのトラッドの涼やかなメロディと上手く溶け合い、なかなか良い感じでして、ちょっと弾いてみたいような気がしないでもない・・・とは言え、てこずりそうだなあ、まともに弾けるようになるまでは。まあ、こんな楽器に出会えるのも辺境トラッド聞きの醍醐味でしょうね。





バイオリン弾きたちの冬

2006-01-05 02:32:54 | ヨーロッパ

 ”String Tease” by JPP

 フィンランド語でフォークミュージシャンというか民俗音楽の演奏家を”ペリマンニット”と呼ぶそうな。そして、その語の言葉自体の意味としては”バイオリン弾き”を意味すると言う。それほどフィンランドの民俗音楽にとってバイオリンの演奏は大きな存在であるということか。

 フィンランドには、特有のバイオリン合奏の形態がある。リズム・セクションとして生ベースと、我々には小学校の教室の隅に置いてあったもの、として懐かしい足踏み式のオルガン、この2者があり、あとはすべてバイオリン弾きばかりが時には十数人も居並ぶ、といった”バンド”である。もちろん、それは民俗ダンスの伴奏に寄与するものなのであるが、その存在そのものが民俗的に意味を持っているようにも感じられる。

 そんなフィンランドの民俗バイオリン集団の中に飛び込んでいったある日本人の体験談を読んだ事があるのだが、その地域におけるありようは、まるでブラジルのサンバ・グループもかくやと思わせる・・・いやいや、もっとこちらに親しい例を挙げれば、日本の祭りにおける各町内神輿のグループをどことなく連想させるものがある。
 他のグループとの腕前の競い合い、グループ内の徒弟関係など、それは古くからのしきたりにが脈々と生き続けており、バイオリン弾きたちの日々の生のレポートからは、まるで古代の神々の息遣いまで伝わってくるような感触があった。

 フィンランドにおける、そんな民俗バイオリン集団のトップに長年の間、居座り続けているのが、JPP(JARVELAN PIKKUPELIMANNIT )である。この集団は、”地域の名士”の枠をとうに飛び出し、何枚もの高レベルのアルバムを世に問い、とうに国際的にも名を知られた存在となっている。

 演奏されるフィンランドのバイオリン音楽は、クラシックの弦楽曲を素朴にしたものというか、むしろ野生を丸齧り!といった印象の、生々しい代物である。多数のバイオリン合奏が生み出すワイルドなドライブ感は、一度聞いたら忘れられないものがある。弓が弦に当たる際の軋み音など響かせながら突き進むそのありようは、黒い煙を上げながら真っ白な雪原を突き進む蒸気機関車などを、ふと連想させる。そんな逞しさがある。
 いや、クラシックの演奏などと比べたり喩えたりするべきではなかった。フィンランドのバイオリン弾きたちの奏でる冬の祭りの音楽は、それ独自の、極めて特殊な一ジャンルの音楽というべきだろう。。

 



フィンランドの鳥瞰図

2006-01-04 03:01:24 | ヨーロッパ

 ”Lunastettava Neito”by Tallari

 寒いんで、ヤケクソでさらに北欧ネタを続けますが。

 なんか人種的に怪しいな、と言うか、なにごとか不思議な事が隠されていそうだなとは思っていたんですよ、北欧と言う地域には。
 たとえば、アイスランド出身のロック歌手にビヨークなんてコがいますが、彼女のルックスって、平均的なヨーロッパ人のそれじゃないでしょ?なんか不思議な顔ですよね。どこか”異民族”の匂いがする。

 もっとメジャーなところで言えば、スエーデンのポップグループ、アバって、話題にするのも恥ずかしいくらいに売れていた連中がいましたが、あそこの女性メンバーのうち金髪の方、名前はさすがに知りませんが、彼女なんかも良く見れば目と目の間が白人としてはやや狭く、しかも目尻はややつり上がっている感じで、何となく”アジアの血”など想像されなくもない。映画なんかで見る北欧人て言うのは金髪碧眼、丸っきりの”白人”なのだけれど、どうも実情はそうでもないのではないか。

 そんな疑問に回答を与えてくれたと言うか、その先に広がっている世界の奥深さを示してくれたのが、フィンランドのベテラン・トラッドバンド、”Tallari”が1990年に発表したアルバム、”Lunastettava Neito”だったのです。
 この作品は、フィンランドをめぐる人種と文化の錯綜した様相の鳥瞰図とでも言うべき多彩な音楽が収められたものとなっていました。

 そもそもがアジアはウラル山脈のふもとに住んでいた民族であるフィンランド人の祖先が太古、スカンジナヴィア半島に侵入して彼らの国を建てた。同じスカンジナヴィアの西半分ではゲルマン系の人々が北上し、ノルウエーやスエーデンを建てる。そのような経緯の元、展開された人種地図。またこのアルバムには、同じく”ヨーロッパ内におけるアジア・ルーツの民族”としてのハンガリー民族との音楽上の親和性を示す曲なども含まれ、ただベタに白人の国が広がっているだけと考えていた北欧が、実はなかなかに複雑な人種混交の地であることを私は知ったのでした。

 また、スカンジナヴィア半島にはサーミなる民族がいて、現在の北欧諸国の住人とはまったくルーツの異なる彼らがスカンジナヴィアの本来の住人であった事を知り、彼らサーミの伝統音楽”ヨイク”も、このアルバムで初めて出会う事となります。

 さらにもっともこのアルバムで感動的だったのが最後に収めらた”真紅の薔薇”なる曲。それまで”普通のトラッド曲”で馴染んで来た、いかにも白人的な澄んだ声ではなく、なにやら”アジア”を濃厚に感じさせる濁りを大量に含んだ女声ヴォーカルで熱唱されるこの曲は、ジプシーによってロシアからフィンランドに持ち込まれたものだそうで、雪と氷に閉ざされた北極廻りで放浪する流浪の民の面影が、このアルバムに濃厚な余韻を残すこととなりました。

 ともかく、北欧の音楽に深く関わろうと考えるすべての人に聴いて欲しい作品と思います。
 




北欧エレクトリック・トラッドの先駆け

2006-01-03 02:15:52 | ヨーロッパ

 という訳で、私が最も愛する北欧のロックバンドの話など。

 まだ北欧のトラッドやプログレなどを右も左も分からぬままオズオズと様子見しつつ漁り始めた70年代の終わり頃、ふとジャケ買いしたのが、スエーデンのロックバンド、KEBNEKAISEの2ndアルバム(73年度作品)だった。上に挙げたものがそれだが、雪に覆われた北の山深くの風景を描いたジャケの美しい絵に魅入られてしまったのである。

 レコード店のプログレ・コーナーで見つけたにも関わらず、作曲者のクレジットを見ると、すべての曲が”トラッド”となっているのもなかなか曲者と思え、期待させられた。針を落とすと、飛び出してきたのは、いかにも北欧らしい美しくも翳りを帯びたマイナー・キーのメロディだった。一発で気に入ったものだった。

 基本的に彼らはインスト・バンドで、ギターとバイオリンがソロを受け渡しつつメロディをつずって行くのだが、白熱のアドリブ合戦と言う印象ではない。あくまでも”変奏曲”としての節度を保ち続ける。ギターのテクの基本は明らかにハードロックのそれと見えたのだが、演奏は決して熱狂することなく、あくまでクール。リズムセクションも同じくで、ともかく端正な表情を崩さない。その音楽を聴いていると、北欧の雪に覆われた深い森を夜を徹して歩いて行く、そんな気分にもなった。

 後になってこのバンド、元々は普通のハードロックのバンドだったのだが、北欧のヒッピーのコミューンにおいて、”部族”の音楽として自国の古い民謡を演奏するようになった、などという事の次第を知った。つまり、ハードな演奏により場に熱狂を提供する事から、クスリをやっている連中の瞑想に奉仕するための内省的な演奏へと、仕事の質を変化させて行ったのだろう。そういわれてみるとKEBNEKAISEの演奏にはどことなく、ドラッグっぽい妖しさが漂っている。

 ハードロックからサイケデリックへ、バンドの志向を変化させ、しかも音楽的にはエレクトリック・トラッドへの移行という形をとる。なんともややこしい話で、いかにも混乱の70年代のエピソードとも言えよう。
 もちろん、バンドのサイケデリック化のために、なぜトラッド方向へ音楽志向の舵を切る事となったのか、その辺の事情はまったく分からず。まあ、本人たちに尋ねても、フェアポートの場合と同じく、「前から好きだったから」程度の、何の参考にもならない解答しか返って来ないような気はする。

 ちょっと気になるのは、ほぼ同じ時期に自国の民謡のエレクトリック化に挑んでいたフェアポート・コンベンションを初めとする英国のトラッドバンドの仕事が、KEBNEKAISEのメンバーの視野に入っていたかどうかなのだが、バンド同士の交流の記録もなく、相互の影響のし合いの気配も無いので、その可能性は薄そうである。

 ともかく彼らの音楽がすっかり気に入ってしまった私は、西新宿方面の魔窟に通いつめ、実はいまだに未聴である1st以外のすべてのアルバムを買い集めた。が。2ndの独特のトラッドロックをさらに精緻に進化させ、まるで氷の彫刻の中を行くような気分にさせてくれた3rdアルバム以外、私の期待を満たしてくれた作品には出会えなかった。
 それ以降のアルバムは、トラッド曲の延長線上にあるかと思われるオリジナル曲中心の、だがどうにも焦点のぼやけた感じの演奏ばかりが詰まっていたのである。なぜ、そのようなことになってしまったのかは知らないが、まあ、素晴らしい瞬間はそういつまでも続かない、それだけは残念ながら真実のようだ。

 ともあれ、、KEBNEKAISEの2ndと3rd、この2枚のアルバムは、いまだに私の内で輝きを失わずにいる。その独特の翳りを帯びたミステリアスなトラッド・ロックは、サイケの神のどのような魔法によるものやら、もう30年の歳月は流れ去ったが、いまだ新鮮な驚きを与え続けてくれるのである。





ダイナマイトが百五十トン

2006-01-02 05:58:54 | その他の日本の音楽


 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。

 時に、大晦日のテレビで小林旭が「ダイナマイトが150トン」なる曲を熱唱したのをご覧になりましたか?懐かしかったな。嬉しかったな。カッコ良かったな。

 私なんかの世代には「子供の頃の記憶に残るとんでもない曲」の一つなんだけど、これは演歌の作曲の大御所、船村徹先生が若き日、プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」に衝撃を受け、大いに対抗意識を燃やして作った曲だそうです。つまり、初期ロックンロールへの演歌世界からの回答があの曲である、と言うことになる。

 これはなかなか痛快なエピソードで好きなんですがね。ともかく、あくまでも民謡系の音素材をベースにした演歌という基本はまったく外さず、しかもロック的”爆発”はきちんと成し遂げている。見事なものではありませんか。ちなみに1958年度作品です。ヤバイな~。”日本のロック”、まるで進化してないかもな~。

”カラスの野郎 どいていな
 とんびの間抜けめ 気をつけろ
 癪なこの世の カンシャク玉だ
 ダイナマイトがヨ ダイナマイトが百五十トン
 畜生 恋なんて ぶっとばせ”

 ダイナマイトが百五十屯(作詞・関沢新一)





ラップランド想い年越し

2005-12-31 02:39:40 | ヨーロッパ


 ヨーロッパ北端はスカンジナヴィア半島に、太古、ゲルマン人たちが入るまでに住んでいた、いわゆる先住民族でありますところのサーミなる民族がおります。現在は北欧三国とロシアの4カ国に別れて主に北極圏あたりの”ラップランド”に住む、その人口三万余りの少数民族、という立場にあるのですが。

 そのサーミ民族の伝統文化継承運動において主導的立場におりますサーミの詩人であり歌手である、Nils-Aslak-Valkeapaaがもう10数年前に出したアルバム、”Beaivi,Ahcazan”は衝撃でした。サーミ民族の間に伝わる”ヨイク”なる音楽に今日的アレンジ(かなりプログレ色濃い)を施した作品なのですが、Nils の狼の遠吠えの如き迫力の野太い歌声によって執拗に繰り返されるプリミティヴなメロディと、太古の闇の底から聞こえ来るようなパーカッション群の響き、この呪術的音世界に、こちらの心の底に眠っていた原始の血の騒ぎを呼び起こされるようで、すっかり私はヨイク音楽のファンとなってしまったのでした。

 トリコになったのはいいのですが、このヨイクなる音楽、かなり不思議な音楽であるのも確かで、そもそも歌詞を持たないのが原則、なんて声楽もめずらしいではないか。ただただ極めてシンプルな、というか原始的なペンタトニックのメロディをヨーデルの如き要領で空中に呼ばわるのみ。
 いわゆるボーカリゼーションとでも呼ばれるジャンルに入るのでしょうが、芸術上の意図があって歌詞を省いたのではなく、もともと存在していないと言う、その理由が分からない。ものの本など紐解いても「謎の音楽である」に始まり「謎はますます深まる」なんて記述に出会ってしまったりで、要領を得ないこと、おびただしい。

 ・・・で、その後、先に述べましたように10数年の歳月が流れたのですが、いまだにたいした文献にも出会えず、いやまあ、あんまり真面目に資料漁りもしてこなかったこちらの怠惰ゆえってのが大きいのですが、ヨイクに関する知識はさっぱり深まらず、まあもうどうでもいいや聞いて気持ち良ければ、なんていい加減な地点に落ち着いてしまっている昨今の私なのでありました。

 そんな訳で取り出だしましたるこのCD、Nils が先のアルバムに続いて世に問いました作品、”Eanan,Eallima,Badni”であります。いやあ、これももう10数年、冬越えに使っているんだなあ・・・そうなのです、このヨイクって音楽、冬の夜空を見上げながら一杯やるなんて時には最適の音楽なのですねえ。

 このアルバムのオープニングは、オドロオドロのパーカッション群ではなく、ラップランドの凍てついた夜空を流れ渡る銀河の雄大な姿を想起させるシンセの音、そして朗々と響くNils の歌声・・・聴いていると、太古のサーミ人たちが手彫りの木船を操って大宇宙に向かって漕ぎ出して行く、そんな幻想が私の脳裏を横切ります。太古の人々が大自然と行っていた魂の対話が再現されているような。
 今年も私はこのアルバムと若干のアルコールをお供に浜に出て、地球がその公転の軌道を次の年用に入れ替える、そのひそかな音に耳を傾けようと思います。それでは・・・

 (PS.冒頭に掲げたのは、同じNilsの作品ではありますが、文中では触れられていない”ウインターゲーム”なるアルバムのジャケです。こちらの方がラップランドの風景が分かり易いかと思いまして)




ハナミズキの探求

2005-12-30 03:50:18 | 音楽論など


 ずっと気になって仕方がなかったのだ、女性歌手の歌う、一人称が”僕”である歌って、なんなのだろう?と。何のために性を逆転して歌を歌わねばならないのか?そのあたりになにごとか、この世の謎のすべてを解く鍵が潜んでいるような気がしてならなかった。一度、分析してみねばならんと考えていた。

 たとえばここに、女性歌手である一青窈が自ら作詞し唄う、「ハナミズキ」なる歌がある。

 >薄紅色の可愛い君のね 
 >果てない夢がちゃんと終わりますように
 >君と好きな人が百年続きますように

 この辺りが注目部分である。その前段に、「僕の我慢がいつか実を結び」なる文言が置かれている。ここでの語り手は”僕”である。一青窈は、女性でありながら、一人称単数を男性に設定して、この唄を作り、歌った。なぜ?
 その”僕”は、彼の想い人であるらしい”君”が、他所の男との”百年続”く恋愛を成就させることを、祈っている。お人よしにも、想う女が他の男と結ばれるのを。そういう歌である。一見。

 これは謎だらけの歌で、どう受け取ればよいのか、理解に苦しむ部分は多々ある。
 なぜ、歌い手と歌の中の語り手の性が逆転しているのか。なぜ、語り手の”僕”は。こんなにもお人よしなのか。その語り手に、男性としてのリアリティがかなり希薄なのはどうしてか。いや、男性としての、というより人間としてのリアリティが希薄である。まるで、視線だけの存在かと感ずる。
 また、”君”が想う”好きな人”も、一応いることになっているだけで、歌における存在感はますます薄い。具体的な人間像は、まったく浮かんでこない。なぜか。
 にもかかわらず、一人、”君”に関してのみは、ハナミズキの花に仮託し、歌の全段に渡って描写が行われている(”空を押上げて手を伸ばす””薄紅色の可愛い”等々)のも不思議だ。そもそも歌い手の一青窈は、一体、歌の中の何に感情移入をしつつ、唄を歌っているのか。

 以上の疑問に関し、私なりの考察を書く。

 この歌に出てくる”君”の正体は、一青窈自身なのではあろう。
 彼女は、彼女がする恋愛が、”ちゃんと終りますように”と、つまり、無事に成就し、しかもそれが百年続くのが理想であると祈る、そんな唄を歌おうとした。が、そのようなことを真正面から唄うのはあまりにベタであり、それを恥ずかしく感ずるのが現代を生きる者の羞恥心のありようである。

 だから彼女は、自分の想いを”君”なる”風景”に、まず仮託した。次に、それを見守る者としての”僕”を置いた。性の転換は、一青窈に対する”僕”の第三者としての立場の形成の意味があるのではあるまいか。
 そして一青窈は”彼”に、まるで三角測量を行うように”君”と”君の好きな人”を見守らせ、そして唄わせた。”君と君の好きな人が百年続きますように”と。
 これでもう、「百年続く確かな愛の成就」なんて願いを、すれっからしの同時代人に突っ込まれ笑われる危険はない。歌の表面を”他人が勝手に言っていること”にしてしまったのだから。

 男性として、人間として、語り手の”僕”にリアリティがないのも無理はない。そもそも”僕”なんて人間は存在せず、そこにあるのは一青窈がその場に置いた、ただの鏡に過ぎないから。その鏡に、彼女は自ら語らせた。「僕の苦労がいつか実を結び」と。鏡自身も、”君”の幸せを祈っているのだ。彼女への無償の愛を自身の喜びとしているのだ。そのような設定を与えたのだ。だから鏡は、一青窈が「見たくない」と感じるもの一切を映し出す危険がない。また、”君の好きな人”の存在感のなさは、この歌が一青窈の恋愛論であり、具体的事象に関わるものでないことを現している。

 かくの如きさまざまな仕掛けを施した結果、ようやくにして彼女は自らの恋愛への憧憬をおおっぴらに歌い上げることを可能にしたのである。自意識が鋭く尖ってゆく一方の現代、歌一つ作るのも、なかなかややこしい。あっと、今挙げたすべてを一青窈が意識的に行ったとは、わたしは思っていない。むしろ、表現者としての彼女の嗅覚のようなものが無意識にそのような表現を選んだ、と解釈すべきだろう。




2005年CD年間ベスト10

2005-12-28 04:41:12 | 年間ベストCD10選


1) CONGOTRONICS by Konono No1 (Congo)
2) CEASEFIRE by Emmanuel Jal & Abdel Gadir Salim (Sudan)
3) LA BONNE AVENTURE by L'attirail (France)
4) CUADROS TANGUEROS by Pablo Agri Sexteto (Argentina)
5) KEMBALI MENEINTAIMU by Mayang (Indonesia)
6) SON DE MADERA by Los Orquestas Del Dia (Mexico)
7) SMOKIN' CLASSICS by Smoky Greenwell (USA)
8) SILVER NOTES by Christy Sheridan (Ireland)
9) ZELVOULA by Gramoun Lele (Reunion)
10) RUBY WITH TATOU BAND by Ruby (Egypt)

 まあ、定番の企画ではありますが、我が”ワールドミュージック年間ベスト10”など並べてみました。

 とりあえず2005年のベストとしておきますが、もしかしたら何年も前の作品が混じっているやも知れません。まあ、その辺は「俺が聴いたのは今年なんだからしょうがないじゃないか」と居直っておきます。というか、そもそも資料不足で制作年代の分からないものもありまして。10位の奴なんかレコード会社名らしきもの以外、ジャケに書いてあるのはすべてアラビア文字なんだから、どうにもなりゃしません。

 いくつかの作品については、すでにこのブログでコメント済みですが・・・1位は、以前から噂のみ伝わって来ていたけどやっと音そのものに出会え、即、喝采!アフリカの路上より世界の最先端に突き刺さった一発は痛快の一言でした。
 2位も同じくアフリカ勢。スーダンのラップですが、民俗調のバックトラックともども、アフリカの大河の流れを想起させる雄大なスイング感(?)で持って行かれました。
 3位は「架空の共産圏サウンド」なる擬似非ワールドミュージックのアイディアが、まず傑作!あとは余計な意味付けなど企まずに、虚構の世界の馬鹿げた冒険を楽しもう。
 4位。弦楽6重奏によるタンゴの幻想世界。こんな風雅な音世界もまた、この世界にはありうるのだな、という・・・歌ものタンゴの古典、「想いの届く日」のインスト版の美しさに、しばし陶然でありました。
 5位。インドネシア・ポップス界に孤高の位置を占める中堅女性歌手による都会派ポップスなのだけれど、作品の中ほどに収められたジャワ旋律の古典がすべてを「それでは収まらない何か」へと強力な求心力を持って押し上げている。崇高なる仕上がり。にもかかわらず、ポップス。
 6位。これは私にはまったく未知だったメキシコのローカル・ポップスなのだけれど、ヨーロッパより流入したラテンの要素とアフリカより連れて来られた黒人音楽の激突の瞬間のヒリヒリした感触がいまだ鮮烈に息ずいているようで、その生々しさにドギマギ。
 7位。多言は無用。メチャクチャかっこ良いブルース・ハーモニカです。ブルースへの愛情、再燃でした。
 8位。マンドリンとバンジョーによって、美しいアイリッシュ・トラッドのメロディを慈しむように奏でる。ただそれだけ。いや、それ以外、何が必要と言うのだ。桃源郷の音楽です。
 9位。インド洋の果て、マダガスカル島に寄り添うように浮かぶ小国、レユニオンの、その成り立ち、大いに興味深いローカル・ポップス。旅先でふと立ち寄った田舎の祭りみたいな素朴な手触りがいとおしいです。
 10位。詳細を知らないのですが、なんでもエジプトのアイドル歌手とのことです。アラブ・ポップスの伝統的要素とテクノやドラムン・ベース音との混交。そしてその狭間に響く、クネクネと官能的なルビー嬢の歌声。ひたすら妖しい世界です。


 以上、訳の分からない盤ばかり並べまして恐縮ですが、皆さんがこれらの音に何かの気まぐれからでも接するきっかけになってくれたらと祈りつつ。
 (冒頭に掲げたのは第10位のルビー嬢のアルバムのジャケ写真です)





スーダンのラップを聴いて考えたこと

2005-12-27 02:52:03 | アフリカ

 ”CEASEFIRE” by Emmanuel Jal & Abdel Gadir Salim

 エジプトの南とでも国の位置関係を紹介すればいいのか、スーダンの撥ね返り系ラッパー、エマヌエル・ジャルが、かの国の伝統音楽系ベテラン・ミュージシャン、アブドゥル・カディル・サリムの作り上げた民族色濃厚なサウンドに乗ってラップした一枚。

 どれほどの裾野があるやら、レベルはどうやら?スーダンのラップ界の事情は分からないが、まあ、こういうものは最初の一枚は結構面白くなります。これまでの経験から言うとね。大きく外したものはそもそもこちらが聞けるような場に出てこないだけかもしれませんがね、もちろん。しかしラップというもの、どうも出ウケの一発芸みたいなところはありますまいか?まあ、よく知らない世界をあれこれ論ずるのはやめておくが。

 この一枚も期待にたがわず面白い出来になりました。そもそもスーダンという国が、国内にアラブ・アフリカとブラック・アフリカを抱え込んだ、なかなか興味深い国である訳で、カディル・サリムの、かの国のなんだか底なし沼みたいに得体の知れず奥深い(こちらに知識がないだけなのだが)民族色を豊かに表現したサウンドに乗って、どちらかと言えば無気力系のけだるいジャルのラップがノタノタと繰り出されてゆく様、まるでこのような音楽がスーダンには古くから存在しているのでは?と、ごく素直に信じ込まされてしまう自然な出来上がりとなっている。
 雄大なアフリカの大地やら、そこを流れるナイルの源流あたりで牛を追って生きる人々の息使いなどが悠然たるタイム感覚で描き出されて来る感じなのだ。

 こいつはなかなか傑作ではあるまいかフムフム、などと聞いていた私なのだが、さて、このような音楽が我が国において存在しうる可能性は?となると、ほとんどゼロに近いだろう。日本の伝統的な音の今日的展開って奴。

 その種の試みは、何となく成功しやすく思われるのであろう沖縄辺りを中心に数多く成されてきているわけだが、「1と1を足したのだから2になる筈なのである」みたいな無理やり納得系(?)の結果しか出ていないように思える。少なくとも私は、こいつはカッコ良いや!とシンプルに乗せられた音楽って出会ったためしがないぞ。ミュージシャンだって、この方面の成功にすっきり喜べた経験って、実はないんじゃないですかね?

 たとえば「日本人たる自分に目覚めた」ベテラン・ロッカー氏が自分のステージに、フンドシ一丁で鉢巻締めた和太鼓叩きのオニーサンを引っ張り出して、彼のたたき出す祭りのリズムとロックのサウンドとの強引な混合とか行ってしまう。で、「ああ良かった良かった、いやあ、日本人の俺の血が求めていたのは、こんなサウンドだったんだよ、いやあコンサート大成功、みんなありがとう」とか何とか言って握手して廻るんだけど、彼の心の底に一掻き、「これ、なん違くないか?ほんとに俺のやりたい事か?」みたいな違和感って、残る筈なんだ、そうならなかったら表現者としての感受性ゼロと言わざるを得ないだろう。

 いやそもそも「日本人なんだから日本的なものをやろう」なんて発想自体がすでに不自然であるのであって。その時点で負け戦は決定済みなのであって。ではどうすればいいのかって?分かりませんよ、そんなこと。解答は、あと30年くらい待ってくれるか。






マシューの航海地図

2005-12-26 04:09:28 | ヨーロッパ

 マシュ-・フィッシャ-などと言ってもピンとくる人もあまりいないかと思うが、プロコルハルムの「青い影」のオルガンを弾いてる人と言えば、少しはマシな反応が返ってくるだろう。
 彼は、69年度のアルバム、「ソルティドッグ」を最後にプロコルハルムを脱退後、私の知るかぎりでは、の話だが4枚のアルバムをリリ-スしている。

1)Journey's End (73)
2)I'll Be There (74)
3)Matthew Fisher (80)
4)Strange Days (81) 

 20年間に4枚だから、まあ、寡作と言えよう。と言うか、そもそも彼の作品、あまり話題になった事もないし、売れたとも思えないから、このペ-スでしか出せなかったと考えるべきなのかも知れない。音の方も、そこはかとなく「B級」の雰囲気が漂い、歴史の闇に忘れ去られて行く宿命のミュ-ジシャン、なんて言葉も浮かんでくるのだが・・・

 そんな彼の音楽、私は結構ひいきにしているのだ。一言で言えば、プロコルハルムからR&Bっぽさを抜いたような音楽をやっているのだが、彼の書く、いかにもヨ-ロッパ的な、独特の陰りを帯びたメロディは、なかなかおいしい。もともと歌手ではないので、歌声の頼り無さは仕方がないのだが、それさえも、メロディの底に流れる哀感とクロスすると、むしろ効果的に感ぜられたりする。そして、あの特徴ある響きのハモンド・オルガン。いやあ、いいよなあ・・・

 レコ-ドリリ-スの年度を見ると、バンド脱退の勢いでアルバム2枚をリリ-スしたものの、あまり売れず、80年代に再度勝負に出たものの、やっぱり売れなかった、そんな筋書きが浮かんできて、そして多分、それで間違っていないと思う。4枚とも、発売年度は違えど、音楽性はなにも変わらず。どれも同じようなサウンドだ。時の流れには、多分、1stリリ-スの時点ですでに乗り遅れている。自分の殻に閉じこもった音楽しかやって来なかったのだから、売れないのは、まあ、自業自得というか、当然引き受けねばならない運命だったろう。

 私が昔買ったアナログ盤の「ソルティドッグ」の解説を、なぜかあのユ-ミンが書いていて、そこで彼女はマシュ-・フィッシャ-を、「私にもっとも大きな影響を与えたミュ-ジシャン」と紹介している。言われてみれば、その教会っぽい(?)コ-ド進行やウェットなメロディ・ラインなど、彼とユ-ミンの音楽性、似ている部分が多いといって言えなくもない気もしてくる。特に、マツト-ヤではなく、荒井由美の頃。これ、ひょっとしたらマシュ-・フィッシャ-にとって、「青い影のオルガン」以降、最大のメジャ-な話題なのかも?

 ・・・といった、情けない側面も含めて、私は、マシュ-・フィッシャ-を偏愛するものである。(何やってるんだろうなあ、彼は今?)