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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

島倉千代子のR&B?

2006-02-10 03:22:36 | その他の日本の音楽

 他の方の日記の話題への便乗で申し訳ないのだが、島倉千代子の「愛のさざなみ」問題の思い出話など書いてみようと思う。
 そうか、あれは1968年の出来事だったのかと頷いてしまったのだ。その方が、ふと目を通された当時の芸能誌に載っていたその時点での最新の話題として、”島倉千代子の新曲・愛のさざなみ=アメリカ録音のR&Bである”話に論及されていたので。

 ”リアルタイマー”として求められてもいないのに証言してしまえば、それは68年の発売時点で、それなりに話題になっていた事だったと記憶している。
 島倉千代子、例のあの人だが、彼女がGS人気減衰期とされる68年に、なんだか唐突に”アメリカ・レコーディングのリズム&ブルースである”との触れ込みで、新曲、「愛のさざなみ」を発表しているのである。

 私が当時読んだ芸能誌の記事では、「本来、”洋楽志向”である筈のGSだが、たいした実力もないバンドも多い。そこに今回、ついに大物が本物志向のレコーディングを行った」みたいな論調で、「愛のさざなみ」は紹介されていた。まだそこらのガキだった私は、その頃、一緒にバンドを作ったり壊したりしていた友人と「なぜ、島倉千代子がR&Bにトライしなければならないんだ?」と首をかしげたものであった。

 その曲における島倉千代子の唄いっぷりは、今日、日本の全国民が知っているあの通りのもので、曲自体も、いかにも島倉千代子が歌いそうな典型的な歌謡曲であったのだし。
 が。そのバックトラックは。今の耳で聞けばどうだか分からないが、との前提でいえば、当時の”国産の音楽”とは、まるでレベルの違うものだった。と聞こえた。アメリカ直送の空気が感じられる、と私は思ったものだ。

 曲の現物に関してはレコードは買わず、ラジオで聞いただけだったのだが、同時期にラジオから流れていた日本の”洋楽志向の音”とは、確かにまったく手触りが異なっていた。もっと具体的に言えば、リズムギターのカッティング、提示されている音空間の広がりの感覚、などなど、なぜこんなに日本の音と違うのだろう?その点に関しては”本場”にはまったく敵わないと舌を巻いたのだった。とにかくその時点ではそう感じたのだった、私は。

 この辺は、過去に起こった事のすべてを俯瞰した上で音そのものの絶対評価を行える今の視点で、とは違い、同時点での”他の日本の音”と自然に並行に聞き比べる事が可能だったというか、そうするしかなかったリアルタイマーなりの”一次資料”としての証言として受け取っていただきたいが。それが68年頃、ロック少年をやっていた私からの、正直な、むき出しの感想である。

 そういえばそうだな、アメリカ録音が本当だったのかどうか、だとすれば”R&B”などに興味などもっていそうにないファン層に支えられて歌謡界に大御所として君臨していた島倉千代子が、なぜ、そのような試みを行ったのか、どのような裏話があるのか、その結果はどうだったのか、などなど、いまだに分からないままだ。

 まあ、相手が島倉千代子でもあるし、その試みがその後も続行されたならともかく、その一発きりだったりもしたから、私も濃厚な興味を持続させずに、そのまま忘れてしまっていたのだが。世間的にも、そんなものだったろう。

 それにしても島倉千代子、なんでアメリカ録音なんてしたのだろうな。しかもR&B専門のスタジオで。彼女のファンであるジーサンバーサンたちが、「ほう、メンフィスでレコーディングしたのか!こりゃ、良い塩梅だ」とか喜ぶとも思えず。
 まだまだアメリカは海のかなたの夢の国であり、わが国のレコードの売り上げのほとんどは”邦楽・演歌”であった、遠い遠い時代のことである。レコード・ジャケットを見ると、”ボビー・サマーズと彼のグループ”なる外人のバンドの写真が片隅に写っているが、このバンドの詳細を知りたいものだなあ。





アパラチアに憧れて

2006-02-09 03:23:16 | 北アメリカ

 ジョン・セバスティアンの”Facs Of Appalachia”は、彼独特のなかなか深い”古アメリカ幻想”に酔わせてくれる曲である。(1974年作、アルバム”Tarzana Kid”所収)

 「ビルだらけの街に生まれ、地下鉄の響きを子守唄に育った」と、ニューヨークっ子である自身の出自から歌いだされ、やがてアメリカ東部に雄大に広がるアパラチア山脈と、そこに繰り広げられてきた古くからの人々の暮らしに寄せる憧憬の念が、素朴なアパラアチアン・ダルシマーの響きと、それに被さるリトル・フィートのロウエル・ジョージのスライド・ギターに寄り添われ歌い上げられて行く。

 半ズボンに履き慣れたスニーカーでニューヨークの下町を闊歩しながら、発見したばかりの宝箱、アパラチアの伝承音楽に心ときめかしたジョンの少年時代の思い出がいまだ生き生きと息ついているようだ。
 ふと空を見上げれば、そこは高層ビルに切り取られた四角い空だが、その灰色の空の彼方にアパラチアの山塊は確かに存在しているのであり、百年もの時を越え、峻険な山を息を切らして登って来た蒸気機関車が山奥の町に着き、町の家々からはバンジョーの響きが漏れ聞こえる、アメリカ人の心のふるさととも民謡の宝庫とも称せられるアパラチアの日々の幻想がたち現れる。

 そんな現実と幻想の距離感が快い。かって存在したもの。今でも存在しているのかも知れないもの。もう失われてしまったもの。そのような世界に思いをはせる際の血のざわめきが、この歌には歌い込まれている。

 アメリカ東部に縦断するアパラチア山脈の尾根伝いにおよそ3500キロ続く、アパラチア・トレイル。アメリカ開拓時代、ヨーロッパからやって来た移民たちは、まずアメリカ東部に到着してその暮らしを確保、次にアパラチア山脈を越えて、「西部の開拓」を行っていった。アパラチアはそのまま開拓時代の、いわば原点である古いアメリカの史跡が残る場所でもある。
 ヨーロッパ各地から移民たちが持ち来たったそれぞれの民謡は、山塊の暮らしの中にさまざまな形で痕跡を残す。あるいは混じりあい、あるいは孤高の位置を保持しつつ。ブルーグラス音楽もヒルビリー音楽も、ともかくアメリカの土の匂いのする白人音楽は、かっては皆、この山塊からやって来た。

 かねてよりの疑問をある人にぶつけてみた事がある。「確かにアパラチアの音楽は好きだが、突出して好きな音楽というわけではない。にもかかわらず、欲しい楽器を挙げて行くとアパラチアン・ダルシマー、オートハープと、アパラチアの楽器ばかりになってしまう。これはどういうわけだろう?」と。その人、答えていわく。「アパラチアの楽器はどれも、特に高度な音楽教育を受けたわけでもない移民たちが弾きこなせたレベルの、会得の容易な代物が多いから手を出し易いのではないか」と。なるほど。

 ある意味、そんな手軽な秘境(?)としての気安さもアパラチア音楽の魅力の一つと言えるのかも知れない。無茶な説だが、そういえば我々は、たとえばディズニーランドのような場所で、縁もゆかりもないアパラチアのふるさと幻想にしばし触れて楽しむ、なんて事も普通にやっているのだものなあ。





産業革命最初の夜に

2006-02-08 03:46:40 | ヨーロッパ

 毎度、マイナーな話題で恐縮ですが、今回も。1980年代に活躍した英国の前衛トラッド・バンドのお話など。このバンド、本業(?)の英国民謡と平行して1930年代のボードビル風の音楽をやってみたり仏教音楽に手を出してみたりの、なかなか不思議なバンドで、私なんかは大好きでしたがねえ。今頃、どうしていますか。
 まあ、そういうバンドってのは大体、あんまり長続きはしませんね。ここらで文章にしておかないと、私自身が彼らのことを忘れかねないんで、ちょっとここで誰にも通じないかもしれない昔話など。いや、誰にも通じないかもって、同好の方、おられましたら嬉しいんですが。

 蒸気動力による十九世紀風疎外感発生装置
 (PYEWACKETT;The Man in the Moon Drinke Claret)

 太古、生身の女を愛せなかったキプロス島の王、ピュグマリオンは、女神に頼んで女をかたどった彫像に命を吹き込んでもらう。そして王は神の祝福の元、生命を得た人形であるところの女と結ばれ、子供までもうけたと言う。

 が、時はいつまでも太古のまどろみの中にとどまってはいない。ある日、発明された時計の中でゼンマイがきしみ、時は流れ出す。”産業の世紀”がやって来る。
 そして。かって”王妃”であったところのカラクリ人形は”産業ロボット”として生産ラインの中枢に組み込まれ、かってのキプロス王は、工場の仕事に疲れた中年の労働者の姿で場末のポルノショップの店先に佇み、ショウウィンドゥのグロテスクなダッチワイフに空しく見入る・・・

 種村季弘氏の著作に何度か紹介されている、ピュグマリオン王の伝説と、残酷物語に終わる”その後の考察”は、字義通りにプログレッシヴなトラッド・バンド、Pyewackettのアルバムにおける”時”が流れ出す以前の妖精郷の、村落共同体の思い出を伝えるトラッド曲と、その狭間に挿入された、奇妙に歪んだ形で奏でられるボードビル調の曲の取り合わせを想起させます。

 神話世界を追われた幾人もの、かっての”キプロス王”が空しく立ち尽くす毒々しいネオンサインの下。聞こえてくる”The Merry-go-round Broke Down”は、完奏寸前で崩れ去る・・・(欧米では、遊園地とは子供たちよりもむしろ大人の、しかも労働者階級のためのものだった、そんな話を映画”第三の男”を論じた文中に見つけた記憶がある)

 ”近代”は”商品価値”を求めてカラクリ人形という児戯からも”道具”としての機能を引き出し、郷の人々を”都市に流入する安価な労働力”として巻き込みながら、妖精郷をズタズタに切り刻み、産業革命へと、資本主義社会の成熟へと押し流した。
 そして成立した産業社会において”時”は”勤務時間”として計量化され売買され、”自然”は産業のための素材として克服されるべき、単なる”もの”と化した。信仰という”糧”を絶たれた”神話”は、田園において涸れ果てんとする。

 妖精郷を失い、機能する場のない民謡たる”トラッド”は、思い出の中で研ぎ澄まされ、聖像(イコン)と化し、見上げるものとてない都市の夜空に輝いている。

 私にはこのアルバム、人々が産業革命の最初の夜に結んだ不安な夢の結晶に聞こえるのです。




フランス式人種浄化法

2006-02-06 21:59:28 | ヨーロッパ

 ラテン音楽の雑誌”ラティーナ”を読んでいたら、ある記事の中に”カルト・ド・セジュール(滞在許可証)”なんてバンド名があり、おや、懐かしいなそういえばフランスにそんなバンドもあったなと思い出しはしたものの、その音は思い出せなかった。まあ、私にとってはそのくらいのバンドだったのだろう。

 記事のその部分で述べられていたのは1986年、フランスで総選挙の結果、社会党が破れ保革連立政権が生まれ、その内閣が”新国籍法”なるものを可決しようとした際のエピソードだった。
 ”3ヶ月以上の実刑を受けた移民出身者はフランス国籍であっても国外追放することが出来る”というのが、”新国籍法”の骨子だったそうである。

 それを人権無視の悪法であり、法案は通るべきではないと考えた当時の文化大臣ジャック・ラングと、シャンソン歌手シャルル・トレネは、アルジェリア出身者によるバンド、カルト・ド・セジュールがアラビックなアレンジで歌うトレネの国民歌謡「懐かしきフランス」のシングル盤を国会で議員たちに配ったそうな。そして。以下は記事の文章をそのまま引用させていただくが。

”カルト・ド・セジュールのヴォーカルがラシッド・ターである。顔はアラブ人でも、心はフランス人だということを音楽でアピールし、新国籍法を撤廃しようという魂胆であった”

 おい、ちょっと待て。一見、人権弾圧を打ち破らんとした人々の美しいオハナシかとも読める文章だが、そしてまさにこの記事の書き手(木立玲子氏)はそのような趣旨で文章を進めているのだが、なんかおかしくはないか?

 ”顔はアラブ人でも心はフランス人”だって?”顔は”もなにも、要するにそいつはアラブ人なのだろう?だったら彼が、どのような立場のものであろうと、「中身が立派なフランス人である」事は、そのような矛盾した存在になってしまった現実は、なにもめでたいことではないだろう。

 一個の人間として、その存在を尊重されるべきである、そんな主張なら納得は出来る。が、「見かけはどうあれ、中身はフランス人なのだから」とはなにごとだ。
 それがたとえ法案撤廃へ向けての作戦、方便だとしても、やはり納得は出来ない。アラブ人が当たり前にアラブ人である事が許されない、「心はフランス人」となってやっと人間扱いされる、そんなフランスの現実を追認する作業となってしまうではないか、結果的には。

  結局これは、毎度おなじみ、フランスお得意の”文化”を錦の御旗に押し立てた、別種の民族浄化作業であろう。片側からは”異人種ゆえに出て行け”とのプレッシャー(ムチ)あり、もう一方からは、”お前の心の中身ごとフランス人になってしまえ。それが出来れば出て行かずに済む”との”踏み絵”の実践(アメ。毒入り)あり。

 キイは、「一人の人間としての尊厳」では駄目で、「見た目にかかわらず心がフランス人だから」でなくてはフランス人の”良識”に訴えることは適わない、この部分だろう。

 この”美談”は、ついには「フランス人にあらざれば人にあらず」との、傲慢きわまるかの国の中華思想に行き着く。にもかかわらず。
 そのいきさつをフランス人でもないのに記事のライター、木立玲子氏は何の疑いもかけずに賞揚する。いったいこれは。

 おや、失礼。毎号、かの雑誌で詳細なヨーロッパ・レポートをものしておられる、”元ラジオフランス・プロデューサー”なる絢爛たる肩書きをお持ちの木立氏は、顔は日本人でも心はとうにフランス、心の滞在許可証(カルト・ド・セジュール)は、とうにお持ちでしたか。





地中海の昼寝

2006-02-05 00:33:56 | ヨーロッパ

 ”Passpartu by PFM”

 いつまで寒いんだよ馬鹿野郎めが。と、季節の挨拶などかましました。

 「君よ知るや南の国」などという名の読み物がありまして。まあ、読んだ事はないわけですが。
 古来、ヨーロッパも北のほうに位置する、たとえばドイツ辺りの人々は、雪に閉ざされた長い冬に倦んでは、陽光溢れる南の国に憧れました。南の国といえば、この場合はイタリアあたりになる。ゲーテはじめ、多くの文人たちが、かの土地を訪れては紀行文を残しております。その中には名紀行文学として名高いものも数多く存在しているわけで。まあ、読んだことはないのですが。

 日本の戦前の文人たちも、その真似をしてというのもなんですが、たとえば冬の休暇に伊豆あたりを訪れては、南国を訪れる欧州文人の気分だけでも味わおうと試みた、などと聞きます。ドイツからアルプス越えてイタリア、というのと東海道線で伊豆へ、では大分スケールが違うような気もしますが、経済格差というものを思えばしょうがないじゃないか。で、たとえばその小さな旅の副産物の一つが、かの川端康成の筆になります「伊豆の踊り子」であるそうな。まあ、読んだことはないわけですが。

 他人事はいいのですが。冬もこのくらいの時期になると、もうそるそろ冬の寒さに耐えること自体にも倦んできます。なんていうと、雪国の人々には叱られてしまうかも知れませんがね、雪の一つも降らないような土地に住みながら、そんなぼやきは。
 とはいえ寒さを嫌悪する気持ちに変わりはないのでありまして、そんな時に私はイタリアの音を聞きます。
 別にヨーロッパの文人墨客を真似する気もないのですが、いつまでも続く寒気に対抗するといって、いきなり部屋でカリブ海のラテン音楽全開と行きましても、それは飛躍がありすぎるというものであって、窓辺に寄せる弱々しい冬の日差しに来るべき春の陽を想うよすがとしては、イタリアあたりの陽光がちょうど良く感じられるからであります。

 そこで、そぞろCDラックから出して来たくなっているのが、イタリア・プログレッシヴロック界の大物バンド、PFMの78年作、”Passpartu”です。
 これは、かのバンドが国際的成功を手中にして”世界のPFM”としての活躍を行った後、若干の人気の落ち着き(微妙な表現となっております)がバンドを訪れた際に残した、ある種”小休止”的なアルバム。 

 ここには、あのクラシック音楽からの影響大な壮大な構築美はありません。どちらかといえばフュージョン風といっていいような緩めな音つくり。テクニックは相変わらず凄いけれど、緊迫感はなく、軽く流した作りとなっている。奏でられるメロディも、地中海音楽の芳香をほのかに放つ、人肌のぬくもりを感じさせるものばかりで、いつまでも居座る冬の寒さに倦んだ者の耳に、実に快いものとなっております。
 バンドにとっては、”世界”を相手に一勝負した後の休暇みたいなニュアンスもあったのではないでしょうかね、このアルバムには。各曲の歌詞も久しぶりに全曲イタリア語に戻っております。

 ここで皮肉な立場にあるのが、ボーカルのベルナルド・ランゼッティです。そもそもがPFMが国際舞台に進出するにあたって、アメリカ育ちゆえ英語を自由に扱えるとの理由で他のバンドからスカウトされPFMのメンバーとなった彼でありまして、が、もうバンドが英語で歌う必要はないとなれば。それでもがんばって苦手な(?)イタリア語でよい味の歌をここでも聞かせているランゼッティですが、さすがにこのアルバムを最後に、バンドを去っています。

 そしてこの後PFMは、イタリア国内を主戦場とするドメスティックなバンドへと、その姿勢を変換させて行くのであります。


 


”ケチャ”の胡散臭さ

2006-02-03 20:22:16 | アジア

 さて、前回の続きでバリ島話です。

 そういえば、かの島の音楽(+舞踏か?)としてもうひとつ有名なのがケチャという奴です。なんか大勢の人々が集まって車座になって座り、斜め上に手を差し出し、口々にケチャケチャと発する言葉が重層的なリズムをなして、やがて参加者たちの中にはトランス状態に陥る者さえ出てくる、なんて集団芸能?ですね。

 これが私はどうも苦手でしてねえ。それなりの迫力は感ずるものの、音楽的に何が面白いのかさっぱり分からないし、その手を差し上げる姿も、どこかわざとらしく感じられる。全体の、妙なテンションの高さにもなじめず。なんか違和感ばかりが伝わってきて、アジアの芸能としては、なんか違うんではないかと首を傾げたくなってしまっていた。

 その後、ケチャの真相(?)を知るにいたって、「ああ、やっぱり」と。
 ケチャは、もともとは土地の神様に捧げる素朴な舞踊だったのを、かってバリ島に滞在していた、あるドイツ人の入れ知恵(?)によって、古代インドの叙事詩「ラーマヤーナ」のストーリーを取り入れた音楽劇仕立てとして複雑化していった、なんて裏面史があるそうな。
 そのドイツ人あたりがつまり、私が前回書いた、”ヨーロッパ人の要請に応じて変化して行ったバリの芸能”の歴史において重要な役割を演じた西欧側の登場人物の一人、ということになるんでしょうね。

 よその土地の芸能に口出ししようというほどの”芸術好き”のドイツ人だったら、もしかしたらワーグナーあたりの壮大な音楽劇をバリの民俗芸能に重ね合わせる事など夢見たのかも知れない。
 そんな具合に余計なアドバイス(?)を行う西洋人がいて、それを”ユーザーのニーズ”と認識して積極的に取り入れて行くバリの人々がいる。そんな事が普遍的に行われて行くうちにバリ島独自の、アジアの地にありながら、西欧風価値観を無批判に信じ込んでいる人ほど受け入れやすいなんて妙な芸能の形が確立されていったってわけですね。

 つまりバリのケチャに流れているのはむしろ、”ベルリン交響楽団を振る指揮者カラヤン”みたいな高圧的な”芸術家”の佇まいである。そのような志向の音楽、そりゃあ苦手です。


 

くわせもの、ラウンジ・ナイト

2006-02-02 03:22:31 | アジア

 前々回書いた、バリ風ガムランによる日本の歌謡曲アルバムの話題の続きです。
 まあ、あのアルバムがなんなのか、いまだ正体はつかめないのですが、何しろ日本人観光客も大量に訪れている人気観光地のバリ島のことですからね、たとえばかの地の日本人相手のレストラン、あるいは土産物屋なんかで、日本人観光客が来たときに流しておけば受けるんではないか、なんて純粋にビジネス上の必要上から生み出された商品って可能性もありますな。

 ただ、ジャケのつくりが妙に学究的雰囲気を出しているのと、演奏があまりに堂々たる本格派ガクラン音楽なんで、むしろ主役たる日本のメロディが、その中に埋もれてしまっている感もあり、このへんに注目して聞いていると、なにやらやっぱりインドネシアの人たち自身の、なんらかの音楽的欲求を満たす目的で作られた”内向きの商品”という気もしてくる。
 いずれにせよバリ島という島の文化がなかなかの曲者であること、かの地の文化史に焦点をあてた書などを紐解いてみると、よーく分かる仕組みになっております。

 なんか、あの島の文化が西欧文明の知らないところで独自の発展を遂げた、みたいに信じ込んでいる人がいるみたいだけど、というか、いまだ、そちらの勢力のほうが多いんだろうけど、とんでもない話でね。まあ、詳しい話は私のアバウトな解説なんか読むより、いろいろ検索などして適切な書物にあたって欲しいと思いますが。

 とご注意申し上げた上で、ここではすべてすっ飛ばしていきなり結論に至ってしまいますが、雑に言ってしまえば、はるか東洋の島、バリ島にやってきた西洋人の”東洋の神秘”を求める思い込みと、”その期待にこたえて神秘の島の住人を演じ切れれば金になるのか”と気がついたバリの人々。この両者の都合やら思惑やらが作り上げた、でっちあげの”豊かなるバリ文化”であったりする部分、相当にあるようなんですよ。
 神秘なる東洋の文化の、しかも期待を裏切らない面白いやつに出会いたい西洋の観光客と、その事情を知ったバリの人々が、自分たちの伝統文化をベースに、あくまでも”商売”として、西洋人に受けそうな装いを凝らして作り上げていったのがバリの文化だったりするわけです。音楽ばかりじゃなく、絵画なんかもね。そんなものの集積。

 西洋人の金持ちの旦那方が芸術っぽい傾向をお望みならば、その芸術なるものの何たるかを調べ、学び、で、それらしいものを作り上げてみせる。ヤバい商売ですなあ。したたかでしたねえ、バリ島の人々。でもなんかちょっとゾクゾクするのはなぜだろう。いやなに、面白そうじゃないか、その作業。職人の心意気って奴ですか。

 まあともかく。そのような道筋を踏んで出来上がっていったなんて事も知らす、これまでにもネタ切れ気味のクラシックの作曲家のセンセイなんかがバリ島を訪れ、「おお、ここにこのようなすばらしい芸術が!」とか喜んで来たって経緯もあるのだから、ちょっと嬉しくなってきますね。
 現地の、おそらくは譜面も読めない人たちが「白人の旦那の好きなお芸術印~♪」とか言いながら作り上げる”芸術音楽・ガムラン”と、それをもっともらしい顔で鑑賞して感銘を受けてしまう、ヨーロッパから来た白人の旦那がた。

 徒手空拳のアジアの庶民が、彼らの国を奪い簒奪を行った植民地主義者たちに、知らぬところで一発見舞った”一休さんのトンチ話風痛快鼻あかし物語”系の復讐劇と評価するのは。でも、これもまた、私というよそ者の、勝手な都合による意味付けなんだろうなあ。


 


書評・「江戸の音」

2006-02-01 05:20:52 | その他の評論


「江戸の音」田中優子・著(河出文庫)

 自然音とはくっきりと輪郭線を引き、カッコつきで屹立する芸術としての西洋音楽。それとはまるで逆の位相で、まるで自然の中に溶け込むように流れて行くアジアの音楽。その流れのうちに江戸期の日本音楽を捉え、論ずる姿勢が、初めて読んだとき、凄く新鮮に感じられたのを覚えている。

 日本人は古来、三味線を爪弾きながら小唄を歌うことによって、実は絶望を表現してきたのだ、とあるのが印象的だった。生きてあることの絶望を自棄になるでもなく、ただ「そんなものなのだ」と提示する、そんな音楽。始めもなければ終わりもなく、ただ流れ続けるアジア的な時間の流れ・・そのようなものの存在に気付かせてくれた書でした。

 


男涙のガムラン演歌

2006-01-31 03:30:45 | アジア

 ”Degung Bali Instrumentalia plays Japan Evergreen Hits”

 えーと・・・
 そもそも、ここで取り上げられているドゥグンなる音楽はインドネシアはスンダ地方特有の音楽なのであって、それがこのアルバムではバリ島のガムラン音楽のスタイルで演奏されている。
 これだけでもうかなりとんでもないことらしいのだが、なにしろガムラン音楽の芸術っぽい雰囲気が苦手でインドネシア音楽はポップスばかり聴いている当方、その方面の知識はまるっきり持ち合わせないからどの程度とんでもないことなのか見当もつかない。

 が、別の方向に存在している、このアルバムのとんでもなさは、簡単に気がつくことが可能だ。何しろ演奏されている曲目が凄い。北国の春。昴。つぐない。北空港。北酒場。別れても好きな人。長良川演歌。男と女のラブゲーム。なんだよこりゃ。ウチの裏のスナックの、ある夜の風景じゃないんだから。
 これらの曲が、ガムラン音楽の神妙なる響きによって次々に奏でられて行くのだから、これはただ事ではない。至極まじめな顔をして冗談を言われているような、しかもその冗談がいつまでも”落ち”にたどり着かずに延々と終わらない、そんな笑っていいようないけないような、奇妙にむずがゆい世界が歴然と存在してしまっているのである。

 しかも、ここがなかなか微妙なところなのだが、これらの日本のベタな歌謡曲のうち、ガムラン音楽の楽器では演奏が不能な音階のものがあるのであり、その辺を各楽器の間で何とかやりくりしつつメロディを繰り出して行くあたり、なんだかガムラン音楽の響きの中を聞き慣れた日本のメロディが、まるで見えない蛇が空中を這い回るがごとくうねって流れて行くみたいな幻想が浮かぶ瞬間もあり、いやまあしかし、何でこんな妙な音楽をやる気になったのかね?

 そもそも、誰に聞かせるために、というか、ぶっちゃけ、誰に買わせるつもりでこんなアルバムを作ったのだろう?ジャケには、ピンク色にかすむ五重塔をバックに日本舞踊を踊るゲイシャ・ガールの絵が、なぜか椰子の木こみで描かれているが、冗談音楽の気配はない。むしろ、添付された広告を見る限り、バリ島のガムラン音楽がスンダ地方のドゥグンのスタイルでインドネシアの伝承メロディを演奏するシリーズの番外編としてこのアルバムは出されているようであり、冗談どころか、かなり学級的な代物である可能性さえある。

 だがなぜ日本のメロディを取り上げる気になったのだろう?私のような物好き以外、このアルバムに接する事になる日本人はいないだろうし、そんな人種はおそらく、アルバムの製作者には想定外のはずだ。ともかく、ある程度の売り上げが見込めるゆえに市場に出ている商品なのだから、これは。誰か喜んで買うものがいなければならないのだが。
 以上、何度も考えてみたんだけれど、わかりません。誰が、どんな楽しみ方をしているんだ、このアルバムを?
 わかる人がいたら教えてくれ、と降参状態で文章を終えるが、いや、こんなへんてこなものにも出会える楽しみがあるからワールドミュージック探求はやめられないんだよと、負け惜しみを言っておこうか。
 
 



70年代に忘れ物

2006-01-30 05:40:22 | 60~70年代音楽

 ある通販レコード店の商品リストに、ちょっとしたミニコミが付録で付いているのですが、90年代のある時期、その場を借りて音楽評論まがいを連載させてもらっていました。
 その中から、95年6月発行分に掲載された私の文章を、まずはお読みください。

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 <ここに1冊の小冊子がありまして、表紙には「スモールタウン・トーク12&13号」とある。昔、あの「伝説のロック喫茶」ブラックホークで出していたものですね。

 ページを繰ると、当時の客たちが投票で選出した1978年のレコード・ベスト20が発表されてます。
 一位には「投票の50パーセントを集め」て、ザ・バンドの「ラスト・ワルツ」が鎮座ましましており・・・他に、Van MorrisonのWaveleghやSteeley Spanのlive atlast、R&L Thompsonのfirst light、それからNeil Youngのcomes a time、あたりがランクインしている、まあそんな時代だったわけですね。

 巻末の水上義憲氏の総括文に目をやりますと、「事実、『今年のレコードには面白いものがない』『なにかボルテージの高いレコードはないかな?』といった、現状に不満だらけの言葉ばかりを耳にした。そして、四月の”ラストワルツ”発売を期にもはや”諦め”の言葉となって」とか、「トラッドにはめぼしいものが見当たらなかったが」「この1~2年でその流れはすっかり途絶え」「ザ・バンドが解散したからと言って、聴かれなくなるほどの音楽じゃありません」等々、悲痛と言うか、深い喪失を感じさせる文章となっております。そういえば私も、78年当時は”いかに最近はレコードを買っていないか”を友人と自慢しあう”というヤケクソ状態にあったな。

 などと言っておりますうちに月日は流れまして・・・今日、我々は通販レコード店よりのリストなど眺めつつ、「あれが欲しいこれが欲しい、いやそれでは完全に予算オーバーだ」などとやっている訳ですが、それでは当時、水上氏が文章のうちに滲ませていた”喪失”はどこへ行ってしまったのか?克服されたのか?皆が忘れた振りをしているだけで、”それ”は失われたままなのか?それとも我々が78年以前(?)に”あった”と信じていたのものは、若気の至りの虚妄だったのか?いまどき、こんな事で頭を抱えるのは、私くらいのものですかね?>

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 ・・・以上です。「二年ほど前に書いたものの、こんな問いかけは無意味かなあ?と疑問を感じ、そのまま眠らせておいた文章だが、やはり皆に読んでもらいたくて公表する事にした」なる”ただし書き”があります。

 いまや、それなりの評価も定まったかと思える、いわゆる”70年代ロック”だけれど、我々がリアルタイムで体験したそれの、夢と挫折の実体はどのようなものだったのか、もう一度、検証し直してみませんか?そう同世代の人たちに問いかけるつもりで書いてみた文章でした。実際、なんだったのだろう、70年代前半のあの高揚と、後半の、あの失落感は?

 この文章の発表当時、”後聞き”で70年代ロックに魅せられたという、若い世代からの若干の反応はありましたが、期待した同世代の人々からの反応は皆無でした。
 だけど。と言うか、だからこそ、私はずっとこだわり続けようと思っています。