こちらはネタバレありの日記になります。
まだ映画をご覧になっていない方は、今すぐにこのページを閉じるか、ネタバレなしの日記に行かれることをおススメします。
未鑑賞の方はネタバレなし日記へ
N
E
T
A
B
A
R
E

面白かったところや、興味深かったところを探すのが好きなので、そう感じたところなど。
あくまでも個人的解釈です。
【はげしくネタバレしますので、これからご覧になられる方は注意してください】
直面する壮絶な試練から見える
わずかな上映時間の中に凝縮された内容は、まるで突き刺さってくるように痛々しげで、救いようのない絶体絶命を直球でぶつけてきます。ダニー・ボイルの演出力とジェームズ・フランコの素晴らしい演技力で、アーロン・ラルストンという男に起こった壮絶な試練が描かれています。
127時間を駆け抜ける94分間、一時も目を離すことも出来なければ、気が休まる時間もありませんでした。次に何が起こるのかも予想出来ない演出力はさすがボイル監督。タイトルが出るのはアーロンが岩に手を挟まれた時と同時というのもにくい演出です。この瞬間から、彼の127時間が始まるのだという。
アーロンは今まで一人を好み、家族にも恋人にも、その心を開くことが出来ないでいました。冒頭のブルー・ジョン・キャニオンに向かう前の自宅シーンからは、彼には心配してくれる家族がいるが、その気持ちに応えられないというアーロンの姿がありありと映し出されています。妹の結婚式で披露する予定の曲もほったらかす始末。キャニオンに向かう車中、大音量で音楽を流し、「ごきげんな音楽と、真っ暗闇に独りきり。最高!」と言うシーンからも、彼が単独行動を好む冒険好きだということが伝わってきますね。しかし、彼は広大な大地の渓谷の中で岩に挟まれたとき、初めて本当の孤独を感じて恐怖しました。自分以外の誰かがいてくれることのありがたさ。自分を思ってくれる人がいることの幸せ。彼は今回の事故で今までの自分と初めて向き合い、大切なことに気がつきます。ついさっきまで女の子たちと一緒にいたというのに、今は誰もいない。誰にも行き先を言わずに来てしまったので、自分のいる場所を知る者はおらず、誰も助けにくることはない。本当のひとりぼっち。そんな孤独の中に放り込まれたアーロンは、今までの人生を振り返って、様々なことを考え、そして大切なことに気がついていきます。
体力の限界に近づき、意識も朦朧とし始める中、彼は自分を本気で愛してくれた元カノのラナを思い出します。今までで自分を一番欲してくれた相手。死を前にして、アーロンは彼女にもう一度会いたいと願い、それは幻覚の中でかたちとなって表れていました。スクービー・ドゥのバルーンの向こう側に、彼女が待っていてくれるんじゃないかという。誰かに愛される、また誰かを愛するという気持ちの素晴らしさとパワーが描かれていると思います。
彼が自らの腕を切断しようと決断したきっかけになったのは、カウチに座る両親と、その周りに集まる妹や友人たちが、まるで死者への最後の挨拶のように現れる(別の視点から見れば、くじけそうになる彼の元にちからを与えに来てくれたとも取れる)という幻覚を見たことも大きいと思いますが、自分はその後に流れる一曲の歌が決定打だと思いました。「どんなことでも出来る。自分を信じて諦めないで」と唄うその曲が彼らの姿とシンクロし、疲れきった体と精神に再び生きることへの活力と行動力を沸き上がらせたのではないでしょうか。アーロンが音楽好きなことは本作を見ればすぐに解ります。そんな音楽が彼にちからをくれた瞬間だと思いました。
個人的に好きだった描写は、手を挟まれる岩が宇宙から来たのではないか考える運命論的な解釈と、死を前にしてオナニーをしようとするところです。どちらも極限状態の精神が露になる印象的なものだと思いました。
渓谷に挟まった岩は、まるでアーロンがくるのを待っていたかのようにそこにありました。回想の中で、子供の時に何もない荒野の真ん中に巨石がポツンとあり、それを見てアーロンは「なんでこんな岩がこんな所にあるの?」と言いますが、それはもしかしたら宇宙からやってきた誰かの運命を変えるものだったのではと、錯乱した脳は考えたりします。渓谷に挟まった岩は何十年も、もしかしたら何百年もそこに挟まっていたのかもしれません。そして、ある土曜日のある晴れた日、アーロンは幾年も動かずにじっとしていた岩に触れ、その岩に手を挟まれることになりました。まるでアーロンの手を挟むためだけに、そこで長い間、待っていたかのように。もしかしたら宇宙が誕生したときにこうなることが決まっていたのか。この岩は自己を見つめなおし、彼の人生を変えるために運命的にそこにあったのではないかとさえ思えてきますね。なんとも宇宙の神秘を感じずにはいられない部分です。
死を前にして、アーロンはビデオカメラを巻き戻し、事故の直前に出会ったクリスティとミーガンと共に、地底湖に行ったときの録画映像を見始めます。下着姿の胸元を見て、思わず自慰行為に走ろうとするアーロンは、寸前のところで思いとどまります。こんな状況の時にマスターベーションなんかと思った人もいるかもしれませんが、自分は実に男性的な、そして生物学的な生理反応のように感じました。死の対極にあるのは生ですよね。では生を感じることって何かと考えたとき、さまざまある中で一番強く感じるもののひとつは性行為ではないかと自分は思います。自分たちは生き物ですから、当然の如く子孫繁栄というプログラムが遺伝子レベルで組み込まれています。彼の行為は、自分にはまるで交尾後に頭から食べられて死んでしまうカマキリの雄のような印象を受けました。カマキリは死ぬことが解っていながら子孫を残そうと行動しますが、アーロンの場合は無意識に生きることを諦めるような気持ちでマスターベーションしようとしているように見えて、実に興味深かったです。男性は射精することで快楽を得、外に出すことで遺伝子をまき散らすという、ある種の達成感のようなものがあります。死を間近に、自分の遺伝子を残したいと本能的に反応した結果だと思いました。ある意味では、途中でやめたことが生死を分けたとも言えます。もし彼がオナニーしていたら、確実に生き残る体力も精神力もなくなっていたことでしょう。死へと向かうカマキリと同じになっていたのではないでしょうか。この性描写は作品に組み込まれていなくても損傷ないものではありますし、実際にアーロン・ラルストンさんが実在することから、配慮して描かないということも出来たでしょうが、このカットが入っていることで、「生」というものが深く描かれていたと思いました。
ボイル監督の導かれた先
観ていて思ったのは、アーロンが岩に導かれたように、ダニー・ボイル監督も本作に導かれた一人ではないかということでした。ボイル監督の作品群からは「極限状態に置かれた人間の精神」を強く感じます。「トレインスポッティング」ではドラッグ中毒者たちのトリッキーな精神。「ザ・ビーチ」では生と死の間でおかしくなっていく姿。「28日後…」ではゾンビまみれになった世界で崩壊する人間性。「スラムドッグ$ミリオネア」では、大金を前に緊迫した時間に巡る思考と精神力。どれも追い込まれた人物たちの心や内側が描かれている作品ばかりです。
「スラムドッグ~」では、主人公の過去を回想するというかたちが取られ、そこからクイズの答えを導き出すという展開をします。主人公の過去は、全てこのためにあったというような運命的なものが描かれていましたが、本作はまるでそれをボイル監督でやったという印象も強く受けました。今まで作ってきた彼の作品の色が、作品の随所に見え隠れします。とにかく音楽好きで冒険好き、ハイテンションな性格のアーロンは「トレインスポッティング」。大切な家族や恋人から逃げて、一人になって何かを得たいと思う姿は「ザ・ビーチ」の主人公。孤独感と疲れから精神的に追い詰められたアーロンが、ショーのインタビュアーと自身の二役を演じたりする様は「スラムドッグ~」を彷彿とさせます。腕を切り落とす描写は「28日後…」で培われた演出。「サンシャイン2057」という作品からの引用も入っており、岩が宇宙から来たのではないかと考える部分のほかに、朝陽を父親と見に行く回想や、渓谷に15分だけ朝陽が入り込むシーンも「サンシャイン~」の色が強く見えます。太陽の光は人間を含む全ての生物にとってエネルギーとなり、体にも心にも栄養をくれるものだということが描かれていたと思いました。靴も靴下も脱いで、つま先だけをやっと日光に晒すことが出来たアーロンは、その暖かさと気持ちよさに生きていることを実感したことでしょう。救助後に生きていることを確かめるように、思わず靴を脱ぐシーンはとても印象的でした。
「ザ・ビーチ」では、「俺の過去を知って何になる、そんなものは必要ない」という主人公でしたが、「スラムドッグ~」では一転、主人公の過去によって未来が切り開かれる展開になっていました。本作はその中間とでも言いましょうか、アーロンは過去を振り返らず、今を楽しんで生きている男でしたが、自分を見つめる機会を得て、過去を思い出して未来を得ようと行動していきました。様々なスタイルを好むボイル監督ですが、これは監督自体も日々、大切なことに気がつき、学び成長し続けているような気がして素晴らしいと思いました。もちろん、今まで積み上げられてきた映像センスや演出力は失われておらず、たいへんスタイリッシュな映像美で、躍動感と見事なテンポを生み出していました。三分割の映像で描き出されるOPなどは、いかにも「らしさ」が感じられ、研ぎ澄まされていく後半部分との対比を付けるために、音楽を大音量にし、走り抜けるように展開させる手法も見事でした。ビデオカメラ映像にバッテリーや時間などの表示を描写すると、映画だと途端に安っぽい感じがしてしまうものですが、そんなことを全く感じさせないのも脱帽ものです。
脚本もボイル監督が担当したため、本作には実話でありながら、同時に彼の思想が色濃く反映していると思います。過去の作品とのリンク点が多いことはそれを証明しながら、まるで本作はボイル監督のために作られるのを待っていたように思えてくる運命的な不思議を感じたりしました。
命を繋ぐ水
特筆すべきは、本作を形成するにあたって水の演出が徹底されていたことです。これはアーロンが手を挟まれたとき、何を一番欲していたのかが実によくわかるものだったと思います。
アーロンはパックと水筒に残った水を大事に飲んでいました。食事をしたのは一度だけ。しかし、食べないことにはあまり苦痛を感じていないように見えます。とにかく喉が乾いてしょうがない。昼間は熱く、そのギャップで夜はものすごく寒い中、喉がカラカラで死にそうな感じがすごく伝わってきました。今回のことでアーロンが気づいたことのひとつには、水は命を繋ぐために、もっとも大切なものだということもあるのではないでしょうか。飲まないと死ぬ。おしっこを飲むシーンからも、それは強烈に伝わりましたね。
本作は冒頭から水の演出にちからが入っています。キャニオンに出掛ける準備をするアーロンは、水筒を流しに置いて蛇口をひねります。そして、水が水筒から溢れ出る。自分たちの周りには、飲める水が当然のようにあって、それこそ垂れ流しに出来るくらい当たり前にそこにあるという比喩がされていると思います。その後、地底湖にダイブする姿が描かれます。この星が水をたたえた美しい星であることと、水に身を任せる気持ちよさ、全ての生命が海(水)から生まれたものだということが描かれていると思いました。そして、そんな身近にあると感じている水は、アーロンの前から突然消えてしまいます。失ってみて初めてその大切さに気がつくという点では、水も家族も大切な人も自由も、そして命も共通していると思います。水に飢える彼を通して、そんな「当たり前にあるものの貴重さ」が伝わってきますね。
猛烈な喉の乾きを、今まで辿ってきた道筋をカメラが高速で戻っていって、繋いだ自転車を通り過ぎ、入口に止めた車のリアシートに転がるゲータレードまで意識がぶっ飛んでいくという演出で見せるのは、とても面白かったです。クリスティとミーガンに誘われたパーティでマウンテン・デューやビールを飲みたいと空想してしまう姿も切実な感じがしていいです。
身体機能の低下による幻覚では、極限状態ならではの描かれ方をします。ラナとの親密な時間を思い出していたアーロンは雷の音で目を覚ましますが、そこに大粒の雨が。飲み込もうと大きく口を開け、水筒を掲げるアーロン。しかし、大雨が渓谷に流れこみ、谷は水で溢れました。その水力で岩が動き、挟まっていた手が抜ける。そして自由になった彼は、雨の中で車を走らせ、スクービー・ドゥの向こう側のモーテルへ。その後にラナが出てくることでこれが幻想だと解りますが、彼が水分を渇望していることと、同時に挟まった手を外したいという願望が、まさに今、心の中に洪水のように溢れていることが解る描写でした。
手を切断したあと、彼は左手一本にも関わらず、崖をロープで降りていって泥水をたらふく飲むのも、「今飲まないと死んでしまう」という限界にきていたことを物語っていますし、彼を見つけてくれた家族に真っ先に水をお願いする姿も命と水の関係がよく解りました。また、その後にやってくる別の男性が、すぐさま水を渡す姿には、この人が水の大切さとアーロンが置かれている状況を瞬時に察知してくれたように見えて、なんだか嬉しかったです。水の繋がりと人の繋がりで、命が救われるということが顕著に見える部分でもありました。
最後には、アーロンはプールを気持ちよさそうに泳ぐ姿が描かれ、当たり前のようにあると思っているものが、そこにあってくれることの幸せが描かれています。そしてアーロンはプールの向こう側に、もう一つの大切なものを目の当たりにし、その「あって当たり前と感じてしまう大切なもの」を噛み締めることになりました。友も、家族も、恋人も、湧き出る水のように無償の愛や友情をくれます。でも、だからこそ、それはもっとも大切なものでもあるのです。
水を丁寧に描くことで、全てのものが解りやすく、はっきりとした強さをもったものになっていたと思いました。
誰かがいてくれることのありがたさ
アーロンは今までいつも一人でしたが、今回のことで誰かがいてくれることのありがたさを知ることになりました。それは、たとえその場に人がいなかったとしても、先人がいてくれることでもその素晴らしさは解るものです。
窮地を脱したアーロンは崖の下に水たまりを見つけ、そこに行こうとします。その時、辺りを見回してみると、先に来た誰かが打ち込んでいったハーケンを発見。自分ではない誰かが、以前にそこに来てくれていたおかげで、彼は水を飲むことが出来たのです。このシーンを観て、自分は釈 迢空の葛の花という短歌を思い出したりしました。人は自分以外の誰かが居てくれることで、とても安心したり、力強くなったり、助けてもらったり、助けたり出来るものだということが伝わってきました。
遊びにきていた家族を発見し、助けを求めたアーロン。その家族の後ろにはまばゆいばかりの光。突き刺さるような光が輝いていました。彼にはその家族がまさに救いの光であり、命の源である太陽の光のように見えたのではないでしょうか。
自分たちは誰一人として独りきりで生きているのではありません。誰かが誰かを支えている。そうやって世界は、命は繋がれているのだと、本作は語っていたと思います。
ラストにはアーロン・ラルストンさんご本人と奥様、お子さんが登場します。今まで独りで生きていた彼が大切な人を見つけ、生涯の伴侶とし、新たな家族を手にした姿からは、彼が今回の試練で右手を失いながらも、それ以上の素晴らしいものを手にしたことが家族の暖かさと共に伝わってきて、最高のカットだと思いました。
最後に、アーロンさんご本人について。
実話ということを事前に知っていたので、それを踏まえて鑑賞しましたが、アーロンさんは個人的にものすごい強者だと思いました。映画は127時間の中の断片を集めただけに過ぎませんが、手を挟まれてからすぐに出来ることを考え、食料や飲み水の残量からあとどれくらい生きられるかを計算しはじめます。この計算力の高さは、アーロンさんがアウトドア慣れしていることと、ロック・クライマーであることが顕著に読み取れる部分だと思います。ロック・クライミングは次に掴む岩を緻密に計算することで、安全に早く確実に登ることが出来るスポーツです。また大自然の中では、天候や距離などを素早く把握しておく必要もあります。その計算力の高さは、作中で見せる冷静さからも窺えるものでした。ただ、アーロンさんはちょっと無茶してしまうところも強いと思いました。それはマウンテン・バイクでジョン・ブルー・キャニオンへと向かう時、ベストレコードを狙ってすっこけるところからも解る気がします。
右手が挟まれた時には、比較的早い段階で腕を切り落とそうとします。この決断力の速さはすごいと思いました。まだ体力的にもそれほど消耗しているわけでもなさそうでしたが、これしかないと決断してから行動に移すまでの時間がすごく早いです。中国製のナイフが粗悪品であったため実行することは出来ませんでしたが、簡単に腕を切り落とすことを決めるなんて、なかなか出来るものではないと思います。そして絶体絶命の危機に瀕したとき、再び腕を切る選択をし、まずは骨を折ることから始めます。その後の肉切断は、もし現場に遭遇したとしたら狂気の沙汰としか思えないような有様だったと感じましたが、神経を切り裂くとき、「気を失うな」と自分に言い聞かせるシーンは圧巻でした。今すぐに気絶してもおかしくない状況なのに、ものすごい精神力とタフネス。しかし、自分が一番の強者の証を感じたのは、自ら切り落とし岩の間に挟まったままの右手を、デジカメで撮影するところでした。そして彼は「ありがとう」と呟きます。こんなことを冷静に言える人なんて、なかなか居ないのではないでしょうか。
この「ありがとう」はなんに対して言ったのでしょう。今まで気がつくことの無かった大切なものを気がつかせてくれた岩に言ったのでしょうか。それとも、自分の命の身代わりになってくれた、自身の右手に言ったのでしょうか。鑑賞中、自分は前者だと思いましたが、いろんな意味が含まれていると思います。実に深い「ありがとう」でした。
ジェームズ・フランコの素晴らしい熱演で、アーロンさんの身に起こったことは追体験され、自分たちに素晴らしいメッセージを届けてくれたと思います。
家族が出来たアーロンさん。でも、未だにジョン・ブルー・キャニオンやクライミングには出かけているそうです。誰にも言わずに出掛けることはなくなり、メモを残すようにはなりましたが。これは人によっては「懲りない人だなぁ」と苦笑いしてしまうかもしれませんが、自分はすごく共感を覚えた部分でした。
彼は自分の腕を奪いながらも、自分に人生のターニングポイントを与えてくれた場所を愛しているのではないでしょうか。彼はジョン・ブルー・キャニオンを第二の故郷だと言っていました。彼にとっては嫌な思い出のある場所では決してなく、自分の人生に奇跡をくれた故郷以上の特別な場所になったのではないでしょうか。
そういったところも、自分はアーロンさんが強者だと思う理由のひとつです。
大切なことに気がつかせ、明日を最高に、楽しく、幸せに生きていこうという気持ちにさせてくれる作品。
まだ映画をご覧になっていない方は、今すぐにこのページを閉じるか、ネタバレなしの日記に行かれることをおススメします。
未鑑賞の方はネタバレなし日記へ
N
E
T
A
B
A
R
E
面白かったところや、興味深かったところを探すのが好きなので、そう感じたところなど。
あくまでも個人的解釈です。
【はげしくネタバレしますので、これからご覧になられる方は注意してください】
直面する壮絶な試練から見える
わずかな上映時間の中に凝縮された内容は、まるで突き刺さってくるように痛々しげで、救いようのない絶体絶命を直球でぶつけてきます。ダニー・ボイルの演出力とジェームズ・フランコの素晴らしい演技力で、アーロン・ラルストンという男に起こった壮絶な試練が描かれています。
127時間を駆け抜ける94分間、一時も目を離すことも出来なければ、気が休まる時間もありませんでした。次に何が起こるのかも予想出来ない演出力はさすがボイル監督。タイトルが出るのはアーロンが岩に手を挟まれた時と同時というのもにくい演出です。この瞬間から、彼の127時間が始まるのだという。
アーロンは今まで一人を好み、家族にも恋人にも、その心を開くことが出来ないでいました。冒頭のブルー・ジョン・キャニオンに向かう前の自宅シーンからは、彼には心配してくれる家族がいるが、その気持ちに応えられないというアーロンの姿がありありと映し出されています。妹の結婚式で披露する予定の曲もほったらかす始末。キャニオンに向かう車中、大音量で音楽を流し、「ごきげんな音楽と、真っ暗闇に独りきり。最高!」と言うシーンからも、彼が単独行動を好む冒険好きだということが伝わってきますね。しかし、彼は広大な大地の渓谷の中で岩に挟まれたとき、初めて本当の孤独を感じて恐怖しました。自分以外の誰かがいてくれることのありがたさ。自分を思ってくれる人がいることの幸せ。彼は今回の事故で今までの自分と初めて向き合い、大切なことに気がつきます。ついさっきまで女の子たちと一緒にいたというのに、今は誰もいない。誰にも行き先を言わずに来てしまったので、自分のいる場所を知る者はおらず、誰も助けにくることはない。本当のひとりぼっち。そんな孤独の中に放り込まれたアーロンは、今までの人生を振り返って、様々なことを考え、そして大切なことに気がついていきます。
体力の限界に近づき、意識も朦朧とし始める中、彼は自分を本気で愛してくれた元カノのラナを思い出します。今までで自分を一番欲してくれた相手。死を前にして、アーロンは彼女にもう一度会いたいと願い、それは幻覚の中でかたちとなって表れていました。スクービー・ドゥのバルーンの向こう側に、彼女が待っていてくれるんじゃないかという。誰かに愛される、また誰かを愛するという気持ちの素晴らしさとパワーが描かれていると思います。
彼が自らの腕を切断しようと決断したきっかけになったのは、カウチに座る両親と、その周りに集まる妹や友人たちが、まるで死者への最後の挨拶のように現れる(別の視点から見れば、くじけそうになる彼の元にちからを与えに来てくれたとも取れる)という幻覚を見たことも大きいと思いますが、自分はその後に流れる一曲の歌が決定打だと思いました。「どんなことでも出来る。自分を信じて諦めないで」と唄うその曲が彼らの姿とシンクロし、疲れきった体と精神に再び生きることへの活力と行動力を沸き上がらせたのではないでしょうか。アーロンが音楽好きなことは本作を見ればすぐに解ります。そんな音楽が彼にちからをくれた瞬間だと思いました。
個人的に好きだった描写は、手を挟まれる岩が宇宙から来たのではないか考える運命論的な解釈と、死を前にしてオナニーをしようとするところです。どちらも極限状態の精神が露になる印象的なものだと思いました。
渓谷に挟まった岩は、まるでアーロンがくるのを待っていたかのようにそこにありました。回想の中で、子供の時に何もない荒野の真ん中に巨石がポツンとあり、それを見てアーロンは「なんでこんな岩がこんな所にあるの?」と言いますが、それはもしかしたら宇宙からやってきた誰かの運命を変えるものだったのではと、錯乱した脳は考えたりします。渓谷に挟まった岩は何十年も、もしかしたら何百年もそこに挟まっていたのかもしれません。そして、ある土曜日のある晴れた日、アーロンは幾年も動かずにじっとしていた岩に触れ、その岩に手を挟まれることになりました。まるでアーロンの手を挟むためだけに、そこで長い間、待っていたかのように。もしかしたら宇宙が誕生したときにこうなることが決まっていたのか。この岩は自己を見つめなおし、彼の人生を変えるために運命的にそこにあったのではないかとさえ思えてきますね。なんとも宇宙の神秘を感じずにはいられない部分です。
死を前にして、アーロンはビデオカメラを巻き戻し、事故の直前に出会ったクリスティとミーガンと共に、地底湖に行ったときの録画映像を見始めます。下着姿の胸元を見て、思わず自慰行為に走ろうとするアーロンは、寸前のところで思いとどまります。こんな状況の時にマスターベーションなんかと思った人もいるかもしれませんが、自分は実に男性的な、そして生物学的な生理反応のように感じました。死の対極にあるのは生ですよね。では生を感じることって何かと考えたとき、さまざまある中で一番強く感じるもののひとつは性行為ではないかと自分は思います。自分たちは生き物ですから、当然の如く子孫繁栄というプログラムが遺伝子レベルで組み込まれています。彼の行為は、自分にはまるで交尾後に頭から食べられて死んでしまうカマキリの雄のような印象を受けました。カマキリは死ぬことが解っていながら子孫を残そうと行動しますが、アーロンの場合は無意識に生きることを諦めるような気持ちでマスターベーションしようとしているように見えて、実に興味深かったです。男性は射精することで快楽を得、外に出すことで遺伝子をまき散らすという、ある種の達成感のようなものがあります。死を間近に、自分の遺伝子を残したいと本能的に反応した結果だと思いました。ある意味では、途中でやめたことが生死を分けたとも言えます。もし彼がオナニーしていたら、確実に生き残る体力も精神力もなくなっていたことでしょう。死へと向かうカマキリと同じになっていたのではないでしょうか。この性描写は作品に組み込まれていなくても損傷ないものではありますし、実際にアーロン・ラルストンさんが実在することから、配慮して描かないということも出来たでしょうが、このカットが入っていることで、「生」というものが深く描かれていたと思いました。
ボイル監督の導かれた先
観ていて思ったのは、アーロンが岩に導かれたように、ダニー・ボイル監督も本作に導かれた一人ではないかということでした。ボイル監督の作品群からは「極限状態に置かれた人間の精神」を強く感じます。「トレインスポッティング」ではドラッグ中毒者たちのトリッキーな精神。「ザ・ビーチ」では生と死の間でおかしくなっていく姿。「28日後…」ではゾンビまみれになった世界で崩壊する人間性。「スラムドッグ$ミリオネア」では、大金を前に緊迫した時間に巡る思考と精神力。どれも追い込まれた人物たちの心や内側が描かれている作品ばかりです。
「スラムドッグ~」では、主人公の過去を回想するというかたちが取られ、そこからクイズの答えを導き出すという展開をします。主人公の過去は、全てこのためにあったというような運命的なものが描かれていましたが、本作はまるでそれをボイル監督でやったという印象も強く受けました。今まで作ってきた彼の作品の色が、作品の随所に見え隠れします。とにかく音楽好きで冒険好き、ハイテンションな性格のアーロンは「トレインスポッティング」。大切な家族や恋人から逃げて、一人になって何かを得たいと思う姿は「ザ・ビーチ」の主人公。孤独感と疲れから精神的に追い詰められたアーロンが、ショーのインタビュアーと自身の二役を演じたりする様は「スラムドッグ~」を彷彿とさせます。腕を切り落とす描写は「28日後…」で培われた演出。「サンシャイン2057」という作品からの引用も入っており、岩が宇宙から来たのではないかと考える部分のほかに、朝陽を父親と見に行く回想や、渓谷に15分だけ朝陽が入り込むシーンも「サンシャイン~」の色が強く見えます。太陽の光は人間を含む全ての生物にとってエネルギーとなり、体にも心にも栄養をくれるものだということが描かれていたと思いました。靴も靴下も脱いで、つま先だけをやっと日光に晒すことが出来たアーロンは、その暖かさと気持ちよさに生きていることを実感したことでしょう。救助後に生きていることを確かめるように、思わず靴を脱ぐシーンはとても印象的でした。
「ザ・ビーチ」では、「俺の過去を知って何になる、そんなものは必要ない」という主人公でしたが、「スラムドッグ~」では一転、主人公の過去によって未来が切り開かれる展開になっていました。本作はその中間とでも言いましょうか、アーロンは過去を振り返らず、今を楽しんで生きている男でしたが、自分を見つめる機会を得て、過去を思い出して未来を得ようと行動していきました。様々なスタイルを好むボイル監督ですが、これは監督自体も日々、大切なことに気がつき、学び成長し続けているような気がして素晴らしいと思いました。もちろん、今まで積み上げられてきた映像センスや演出力は失われておらず、たいへんスタイリッシュな映像美で、躍動感と見事なテンポを生み出していました。三分割の映像で描き出されるOPなどは、いかにも「らしさ」が感じられ、研ぎ澄まされていく後半部分との対比を付けるために、音楽を大音量にし、走り抜けるように展開させる手法も見事でした。ビデオカメラ映像にバッテリーや時間などの表示を描写すると、映画だと途端に安っぽい感じがしてしまうものですが、そんなことを全く感じさせないのも脱帽ものです。
脚本もボイル監督が担当したため、本作には実話でありながら、同時に彼の思想が色濃く反映していると思います。過去の作品とのリンク点が多いことはそれを証明しながら、まるで本作はボイル監督のために作られるのを待っていたように思えてくる運命的な不思議を感じたりしました。
命を繋ぐ水
特筆すべきは、本作を形成するにあたって水の演出が徹底されていたことです。これはアーロンが手を挟まれたとき、何を一番欲していたのかが実によくわかるものだったと思います。
アーロンはパックと水筒に残った水を大事に飲んでいました。食事をしたのは一度だけ。しかし、食べないことにはあまり苦痛を感じていないように見えます。とにかく喉が乾いてしょうがない。昼間は熱く、そのギャップで夜はものすごく寒い中、喉がカラカラで死にそうな感じがすごく伝わってきました。今回のことでアーロンが気づいたことのひとつには、水は命を繋ぐために、もっとも大切なものだということもあるのではないでしょうか。飲まないと死ぬ。おしっこを飲むシーンからも、それは強烈に伝わりましたね。
本作は冒頭から水の演出にちからが入っています。キャニオンに出掛ける準備をするアーロンは、水筒を流しに置いて蛇口をひねります。そして、水が水筒から溢れ出る。自分たちの周りには、飲める水が当然のようにあって、それこそ垂れ流しに出来るくらい当たり前にそこにあるという比喩がされていると思います。その後、地底湖にダイブする姿が描かれます。この星が水をたたえた美しい星であることと、水に身を任せる気持ちよさ、全ての生命が海(水)から生まれたものだということが描かれていると思いました。そして、そんな身近にあると感じている水は、アーロンの前から突然消えてしまいます。失ってみて初めてその大切さに気がつくという点では、水も家族も大切な人も自由も、そして命も共通していると思います。水に飢える彼を通して、そんな「当たり前にあるものの貴重さ」が伝わってきますね。
猛烈な喉の乾きを、今まで辿ってきた道筋をカメラが高速で戻っていって、繋いだ自転車を通り過ぎ、入口に止めた車のリアシートに転がるゲータレードまで意識がぶっ飛んでいくという演出で見せるのは、とても面白かったです。クリスティとミーガンに誘われたパーティでマウンテン・デューやビールを飲みたいと空想してしまう姿も切実な感じがしていいです。
身体機能の低下による幻覚では、極限状態ならではの描かれ方をします。ラナとの親密な時間を思い出していたアーロンは雷の音で目を覚ましますが、そこに大粒の雨が。飲み込もうと大きく口を開け、水筒を掲げるアーロン。しかし、大雨が渓谷に流れこみ、谷は水で溢れました。その水力で岩が動き、挟まっていた手が抜ける。そして自由になった彼は、雨の中で車を走らせ、スクービー・ドゥの向こう側のモーテルへ。その後にラナが出てくることでこれが幻想だと解りますが、彼が水分を渇望していることと、同時に挟まった手を外したいという願望が、まさに今、心の中に洪水のように溢れていることが解る描写でした。
手を切断したあと、彼は左手一本にも関わらず、崖をロープで降りていって泥水をたらふく飲むのも、「今飲まないと死んでしまう」という限界にきていたことを物語っていますし、彼を見つけてくれた家族に真っ先に水をお願いする姿も命と水の関係がよく解りました。また、その後にやってくる別の男性が、すぐさま水を渡す姿には、この人が水の大切さとアーロンが置かれている状況を瞬時に察知してくれたように見えて、なんだか嬉しかったです。水の繋がりと人の繋がりで、命が救われるということが顕著に見える部分でもありました。
最後には、アーロンはプールを気持ちよさそうに泳ぐ姿が描かれ、当たり前のようにあると思っているものが、そこにあってくれることの幸せが描かれています。そしてアーロンはプールの向こう側に、もう一つの大切なものを目の当たりにし、その「あって当たり前と感じてしまう大切なもの」を噛み締めることになりました。友も、家族も、恋人も、湧き出る水のように無償の愛や友情をくれます。でも、だからこそ、それはもっとも大切なものでもあるのです。
水を丁寧に描くことで、全てのものが解りやすく、はっきりとした強さをもったものになっていたと思いました。
誰かがいてくれることのありがたさ
アーロンは今までいつも一人でしたが、今回のことで誰かがいてくれることのありがたさを知ることになりました。それは、たとえその場に人がいなかったとしても、先人がいてくれることでもその素晴らしさは解るものです。
窮地を脱したアーロンは崖の下に水たまりを見つけ、そこに行こうとします。その時、辺りを見回してみると、先に来た誰かが打ち込んでいったハーケンを発見。自分ではない誰かが、以前にそこに来てくれていたおかげで、彼は水を飲むことが出来たのです。このシーンを観て、自分は釈 迢空の葛の花という短歌を思い出したりしました。人は自分以外の誰かが居てくれることで、とても安心したり、力強くなったり、助けてもらったり、助けたり出来るものだということが伝わってきました。
遊びにきていた家族を発見し、助けを求めたアーロン。その家族の後ろにはまばゆいばかりの光。突き刺さるような光が輝いていました。彼にはその家族がまさに救いの光であり、命の源である太陽の光のように見えたのではないでしょうか。
自分たちは誰一人として独りきりで生きているのではありません。誰かが誰かを支えている。そうやって世界は、命は繋がれているのだと、本作は語っていたと思います。
ラストにはアーロン・ラルストンさんご本人と奥様、お子さんが登場します。今まで独りで生きていた彼が大切な人を見つけ、生涯の伴侶とし、新たな家族を手にした姿からは、彼が今回の試練で右手を失いながらも、それ以上の素晴らしいものを手にしたことが家族の暖かさと共に伝わってきて、最高のカットだと思いました。
最後に、アーロンさんご本人について。
実話ということを事前に知っていたので、それを踏まえて鑑賞しましたが、アーロンさんは個人的にものすごい強者だと思いました。映画は127時間の中の断片を集めただけに過ぎませんが、手を挟まれてからすぐに出来ることを考え、食料や飲み水の残量からあとどれくらい生きられるかを計算しはじめます。この計算力の高さは、アーロンさんがアウトドア慣れしていることと、ロック・クライマーであることが顕著に読み取れる部分だと思います。ロック・クライミングは次に掴む岩を緻密に計算することで、安全に早く確実に登ることが出来るスポーツです。また大自然の中では、天候や距離などを素早く把握しておく必要もあります。その計算力の高さは、作中で見せる冷静さからも窺えるものでした。ただ、アーロンさんはちょっと無茶してしまうところも強いと思いました。それはマウンテン・バイクでジョン・ブルー・キャニオンへと向かう時、ベストレコードを狙ってすっこけるところからも解る気がします。
右手が挟まれた時には、比較的早い段階で腕を切り落とそうとします。この決断力の速さはすごいと思いました。まだ体力的にもそれほど消耗しているわけでもなさそうでしたが、これしかないと決断してから行動に移すまでの時間がすごく早いです。中国製のナイフが粗悪品であったため実行することは出来ませんでしたが、簡単に腕を切り落とすことを決めるなんて、なかなか出来るものではないと思います。そして絶体絶命の危機に瀕したとき、再び腕を切る選択をし、まずは骨を折ることから始めます。その後の肉切断は、もし現場に遭遇したとしたら狂気の沙汰としか思えないような有様だったと感じましたが、神経を切り裂くとき、「気を失うな」と自分に言い聞かせるシーンは圧巻でした。今すぐに気絶してもおかしくない状況なのに、ものすごい精神力とタフネス。しかし、自分が一番の強者の証を感じたのは、自ら切り落とし岩の間に挟まったままの右手を、デジカメで撮影するところでした。そして彼は「ありがとう」と呟きます。こんなことを冷静に言える人なんて、なかなか居ないのではないでしょうか。
この「ありがとう」はなんに対して言ったのでしょう。今まで気がつくことの無かった大切なものを気がつかせてくれた岩に言ったのでしょうか。それとも、自分の命の身代わりになってくれた、自身の右手に言ったのでしょうか。鑑賞中、自分は前者だと思いましたが、いろんな意味が含まれていると思います。実に深い「ありがとう」でした。
ジェームズ・フランコの素晴らしい熱演で、アーロンさんの身に起こったことは追体験され、自分たちに素晴らしいメッセージを届けてくれたと思います。
家族が出来たアーロンさん。でも、未だにジョン・ブルー・キャニオンやクライミングには出かけているそうです。誰にも言わずに出掛けることはなくなり、メモを残すようにはなりましたが。これは人によっては「懲りない人だなぁ」と苦笑いしてしまうかもしれませんが、自分はすごく共感を覚えた部分でした。
彼は自分の腕を奪いながらも、自分に人生のターニングポイントを与えてくれた場所を愛しているのではないでしょうか。彼はジョン・ブルー・キャニオンを第二の故郷だと言っていました。彼にとっては嫌な思い出のある場所では決してなく、自分の人生に奇跡をくれた故郷以上の特別な場所になったのではないでしょうか。
そういったところも、自分はアーロンさんが強者だと思う理由のひとつです。
大切なことに気がつかせ、明日を最高に、楽しく、幸せに生きていこうという気持ちにさせてくれる作品。