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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




『平家物語』は冒頭で、お釈迦様のような偉大な方でも、
やがて死を迎えなくてはならない。と語り、
盛んな者はいつか必ず衰え、おごれる者もその栄華はまるで春の夜の夢、
風の前に散る塵のように儚(はかな)いものである、と続けています。

そして中国、わが国の滅びてしまった奢れる人や猛き者の例を挙げています。
その中に「康和の義親」があります。義親(よしちか)は八幡太郎として知られる
源義家の嫡子、頼朝の曾祖父です。その義親が堀河天皇の
康和年中(1099―1104)に九州で乱行し、隠岐に流されたにもかかわらず
出雲で謀反を起こし、平正盛に攻め滅ぼされました。


源頼義とその子義家(1039~1106)の名を高めたのが、
11C後半の東国の戦乱、前九年合戦・後三年合戦です。
後三年合戦で義家が清原氏の内紛を平定したのは、
ちょうど白河上皇の院政が始まった時期でした。
朝廷はこの戦いを私戦と見なし、停戦命令を無視して戦った
義家に何の恩賞も与えず陸奥守を罷免しました。
しかし、
京都警護には、源氏の武力を欠かすことができず
大いに利用しましたが、次の官職を与えず、義家はいつまでも
前陸奥守のまま、10年間は閉塞状態でした。

義家が60歳になった頃、ようやく功績が認められて正四位下を賜り、
院の昇殿を許され、復活のきっかけをつかんだ矢先、
晩年の義家を苦境に陥れる事件が起こりました。

任国にいた義家の嫡子対馬守義親は、大宰府の命に従わず、
官物を奪い取るなどして、大宰権帥(ごんのそち)に訴えられました。
義家は義親を連れ戻そうと腹心の郎党藤原資通(すけみち)とともに
朝廷の官使を派遣しましたが、資通はかえって義親に味方し、
その官使を殺害し、翌年、義親は隠岐島へ配流されました。

そして一門の前途を案じながら、老雄
義家が68歳の生涯を終えた
翌年の嘉承2年(1107)義親は隠岐を脱出して、対岸の出雲に渡って
国府を襲い、出雲国の目代を殺害しました。義親の謀反です。
朝廷は出雲に近い、因幡国守平正盛を追討使に抜擢しました。

勇猛で名高い義親の追討は、武名を挙げる絶好の機会です。

同年12月19日、正盛は出立するにあたり、摂政藤原忠実に馬を賜り、
郎党を率いて義親の京都の邸宅に行き、鬨をつくること三度、
鏑矢を三本放ち、門の柱を切り落として颯爽と出雲に赴きました。

鎌倉時代の成立とされる『大山寺縁起』によると、
義親は蜘蛛戸(くもど)の岩屋に立て籠もったものの、船を連ねて
岩屋に向かった正盛にたちどころに討ち取られてしまいました。
「蜘蛛戸」は島根半島の先端、美保関の北に位置する雲津浦のことです。

京を出立して1ヶ月後、早くも義親とその家来を討ち取ったという
報告が朝廷に届けられると、
朝廷は正盛の入京を待たず、
正盛を因幡守から、但馬守に任命してその功績を讃えました。
『中右記(ちゅうゆうき)』は、正盛は功績も大きいし、帰京前の任官は
先例もあるが、貴族社会の最下層である「最下品(さいげぼん)」の者を
但馬のような「第一国」に任ずるとは許しがたい。と記しています。

天仁元年(1108)正月29日、義親の首を携えた正盛は、多くの郎党を引き連れ、
鳥羽殿で凱旋パレードを白河院にお披露目し、鳥羽作道から京に入ると、
その姿を一目見ようと、物見高い人々で沿道は溢れかえりました。

これ以降、正盛の地位は上昇し、源氏は一路、
衰退への途をたどることとなりました。

「平清盛」(図1平安時代後期とその周辺)より、一部引用しました。



鳥羽作道(とばのつくりみち・鳥羽造道)
平安京の入口である羅城門前より一直線に南下し、
鳥羽に通じる道を「鳥羽作道」とよびました。
平安京造営に必要な資材を運搬するために作られ、その末は桂川を経て
久我(こが)畷に接し、河陽関(現、大山崎)へ、また淀にも続いていました。

多くの外国使節が鳥羽作道を通って羅城門へ、そこから洛中に入り
朱雀大路を経て朝廷に至りました。
院政期、鳥羽離宮が造営されると、この道は鳥羽離宮と
洛中とを結ぶ重要な道路となり、
今も国道一号線の西、
千本通りにその真っすぐな道の一部が残されています。




羅城門跡の碑が建つ児童公園から、千本通(鳥羽作道)を南へ歩きます。



平正盛が凱旋した道です。



下向井龍彦氏は「白河院は独立独行の武家の棟梁義家一門を嫌い、
弱小在京武士である平正盛に目をつけ、院に忠実な武家の棟梁に
育てあげようとして正盛を華々しくデビューさせる機会をうかがっていた。
義親追討は院が正盛を新たな英雄としてデビューさせるために
仕組んだ政治ショーだったのである。」と述べておられます。
(『日本の歴史07 武士の成長と院政』)

 凱旋
パレードの興奮からさめると、京の人々は、かの八幡太郎の息子で、
「悪対馬守」と恐れられた義親が何の武功もない正盛に
あっけないほど簡単に討ち取られたことを不審に思いはじめました。
義親追討後十年もたった頃、義親を名のる人物が各地に現れ、
義親生存説が長く流布したほどです。

伊勢平氏は頼信・頼義・義家と全盛を誇る源氏の影に隠れ、
長い間低迷を続けていました。平氏が院政と結びついて飛躍し、
清盛に続く平氏全盛の歴史が始まるのは、清盛の祖父正盛からです。
正盛は隠岐守在任中の永長2年(1097)、伊賀国山田村・鞆田(ともだ)村の
所領を白河上皇の亡き最愛の娘提子(ていし)内親王の菩提所
六条院に寄進し、上皇の目にとまり恩寵を得ました。

六条院は、藤原顕季(あきすえ)が建立した白河上皇の御所
六条殿(六条北、高倉東、六条坊門南、万里小路西の一部)
でしたが、
のち媞子内親王はここを御所とし、内親王が亡くなった後、
上皇はかつて共に暮らした御所を寺院に改めたものです。
しかし身分の低い正盛が直接上皇に所領寄進を申し出ることはできません。
「正盛は祇園女御や院近臣の藤原顕季に仕えたことから、この二人が正盛を
院に結びつけ、平氏を世に出した人々である。」(『平家物語の虚構と真実(上)』)
この所領寄進の効果はまもなく現れ、正盛は若狭守となり、
さらに収入の多い因幡守に任じられました。

一方、義親の任国、対馬国は面積が狭く、収入の少ない国でした。
義家は後三年合戦に勝利したものの、朝廷は私戦として
論功行賞を認めなかったため、私財をなげうって従軍した兵に報いました。
その上、後三年合戦に紛れて、陸奥守として最も重要な職務である
朝廷に対する官物(納税)の納入を怠ったためその完済に追われ、
さらに摂関家領荘園の職まで奪われていました。
義親は父義家の血を受けて武勇に優れた武将でしたが、
父ほどの才覚はなく、思慮分別に欠けていたという。

「成功(じょうごう)の規模によって任じられる国の格が決まるので、
義親が小規模な成功しか行えなかったことには、河内源氏の経済的な
困窮が反映しているのではなかろうか。そうして辛うじて得た地位に
義親は満足できなかったのであろう。(『河内源氏』)

成功とは、朝廷の寺社の造営などの際、私財を出して土木工事を
請負う見返りとして官位や位階を得る制度のことです。
平正盛は朝廷に対する経済的奉仕を念入りに行いましたが、源氏は
経済的に窮乏し、平氏のような奉仕がどうしてもできなかったのです。
鳥羽離宮跡(鳥羽殿)を歩く    平正盛の墓(置染神社)  
 『アクセス』
「羅城門跡の碑」京都市南区唐橋羅城門町54
九条通から少し北に入った児童公園内に建っています。
 市バス「羅城門」下車 徒歩約2分 または
近鉄京都線 「東寺」駅下車 徒歩約15分
『参考資料』
高橋昌明「清盛以前」文理閣、2004年 元木泰雄「河内源氏」中公新書、2011年
 高橋昌明「平家の群像」岩波新書、2009年
下向井龍彦「日本の歴史07 武士の成長と院政」講談社、2001年
安田元久「人物叢書 源義家」吉川弘文館、平成元年
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(上)」塙新書、1994年
 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
元木泰雄編「日本の時代史7 院政の展開と内乱」吉川弘文館、2002年
 美川圭「院政」中公新書、2006年 上杉和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
京都市平安京創生館ガイドブック「平安京講和」京都市生涯学習振興財団、2007年
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛南)」俊々堂、昭和61年
京都市埋蔵文化財研究所「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年



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東寺から九条通りを西へ300メートルほど行くと、
右手に花園児童公園があり、園内の中央に
「羅城門遺址」の碑がたっています。









平安京は唐の長安をモデルにしています。
羅城(らじょう)門とは、羅城(大きな城の城壁)に設けられた門のことで、
長安には城壁があることから、南側にだけ城壁が設けられ、
平安京の正門として朱雀大路の南端、九条大路に面して建てられました。

門前には幅3メートルあまりの溝があり、門の前後に橋がかけられ、
南の橋は唐橋(唐風の橋)で、現在地名として残っています。

楼上には兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)が安置され、
東西には、官寺の東寺と西寺(廃寺)が置かれていました。

木像 像の高さ約189センチ 国宝
兜跋毘沙門天像は中国の唐代(9C)に造られたものとされ、像の風貌や
鎖を編んだマントのような衣をまとった武装姿は異国的なものを感じさせます。
当初は羅城門から王城の守護神として、南の洛外に向かって
睨みをきかせていましたが、羅城門が倒壊したため、
近くの東寺に移されたと推定されています。
なお、東寺宝物館は、年に2回、春と秋に開館されます。

羅城門は北に建つ朱雀門と同じ形、規模であったとみられています。
羅城門から北へ大内裏の正面、朱雀門に至る道が幅84メートルある朱雀大路で、
美しい柳の街路樹が植えられていました。

弘仁7年(816)8月、羅城門は大風により倒壊し、再建されましたが、
天元3年(980)7月の暴風雨でふたたび倒壊しました。
その後は再建されることはなく、荒れ放題となっていたようです。
 羅城門は外国からの使者を迎え入れる際、平安京の威容を見せるために
建設された都の表玄関でしたが、遣唐使が廃止され、やがて
渤海(ぼっかい)や新羅などからの外国使節の来日がとだえるにともない
羅城門の役割がなくなり、再建する必要がなかったと思われます。

藤原道長は法成寺(ほうじょうじ)造営に際して、方々の廃墟から
礎石を運ばせ、建築資材に転用したが、その中には羅城門の
礎石も含まれていたという。(『小右記』治安3年(1023)6月11日条)
このことからも、この門が不要になったことが窺えます。

天仁元年(1108)正月、源義親を討伐した平正盛が凱旋した時の羅城門は、
礎石がかろうじて残る程度でかなり荒廃が進んでいたと思われます。

羅城門は平安京の正門として、また我が国の古典文学や映画、
小説の上でも数々の伝説を秘めた門として知られていますが、
今は廃墟となりその名を記す標柱を残すだけです。


羅城門の模型は、平成6年の平安遷都1200年の記念事業の一環で、
約一億円をかけて製作され、10分の1サイズで復元したものです。
当初は京都駅前のぱるるプラザ(現、メルパルク)地階に展示され、
その後は非公開となり同所に保管されていましたが、
2016年11月21日に京都駅北口広場へ移設されました。



  夜はライトアップされています。

羅城門は、かなり高層であったため、風当たりが強い上に高さと幅に対して
奥行が狭いことから風に弱かったようです。右側のビルがメルパルクです。

「羅城門は平安京の正面表玄関として、九条大路に面して設けられた巨大な門です。
この門をくぐると、幅約80メートルを超える朱雀大路が一直線に
大内裏に向かって伸びていました。羅城門は、おおよそ幅50メートル、
高さ24メートル、奥行き21メートルと推定され、平安京のシンボルでしたが、
816年に大風で倒れました。その後、再建されたものの980年にまた暴風雨で倒れ、
再建されることなく姿を消してしまったのです。しかし、そのイメージは、
今昔物語や謡曲、芥川龍之介の小説「羅生門」や黒澤明監督の映画
「羅生門」に受け継がれました。1994年に開催された平安建都1200年記念展覧会
「甦(よみがえ)る平安京」では、京都府建築工業協同組合によって
縮尺十分の一で復元されたこの羅生門が展示され、平安京などの復元模型とともに
ひときわ衆目を集めました。宮大工をはじめとした多くの職人が、
堂宮(どうみや)建築(神社や仏閣の優美で堂々とした木造建築)本来の
技法にのっとって製作した羅生門模型は、実に千年余りの時を経て、
現代京都の表玄関で、
美しく荘厳なかつての姿そのままを再び私たちの前に現わしてくれています。」
(現地説明プレートより)
 『アクセス』
「羅城門跡」京都市南区唐橋羅城門町54
花園児童公園は九条通から少し北に入ります。
 市バス「羅城門」下車 徒歩約2分 または
近鉄京都線 「東寺」駅下車 徒歩約15分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社、1979年 竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社、1987年
「京都府の歴史散歩(中)」山川出版社、2003年 井上満郎「平安京の風景」文英堂、2006年
京都市埋蔵文化財研究所「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年
週刊古寺をゆく「東寺」小学館、2001年

 



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那須与一の墓が京都市の即成院(そくじょういん)にあります。
即成院は真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭の一つで、
即成就院(そくじょうじゅいん)とも伏見寺ともよばれています。
泉涌寺の塔頭は現在九ヶ寺あり、その大半は中世他所より移されたものが多く、
古文化財や伝説を持つものが数多くあります。

『雍州府誌』によれば、即成院は正暦二年(991)に恵心僧都が伏見桃山に開いた
光明院が始まりで、寛治元年(1087)、関白藤原頼通の子で伏見長者といわれた
橘俊綱が同所に邸を建て、光明院を持仏堂にしたものであるという。

その後、即成院は荒廃しましたが、後白河院追悼のため、建久六年(1195)
宣陽門院と高階栄子によって再興され、下野国那須庄が寺領として寄進されました。
このあたりの事情から那須与一の伝承が生まれたと推定されています。
高階栄子(丹後局)の夫・
平業房は後白河院の近臣で、清盛が院を鳥羽殿に
幽閉した際に免官となり、伊豆に流されやがて殺害されました。
未亡人となった彼女は院の寵愛を得て、皇女宣陽門院(せんようもんいん)を生み、
後白河院の晩年の治世に権勢を振るいます。

秀吉の伏見城築城に当たって伏見区深草に移され、さらに明治35年に
現在地に移され、昭和10年にもとの名の即成院となりました。
二転三転としたお堂とともに、
那須与一にまつわる伝説もそのまま現在の即成院に移っています。

即成院は泉涌寺の総門を入って左手にあり、
門の脇には「元光明山即成院」と刻まれた石碑がたっています。

 即成院の山門の上には、鳳凰が据えられています。 

寺伝によれば、与一は下野国から屋島に出陣する途中、突然病に罹りましたが、
当院に参籠し、本尊の阿弥陀如来に病気平癒の祈願をしたところ病は癒え、
屋島合戦で戦功をたてました。
京に戻り再び即成院に参籠した後、
まもなく出家し34歳で当院の阿弥陀さまの前で亡くなったとしています

本堂に安置されている国重要文化財の本尊阿弥陀如来像及び
同じく重文の二十五菩薩座像は明治初年に伏見から移転しました。

二十五菩薩練供養が毎年十月に行われ、多くの参拝者で賑わうようです。
本堂を極楽浄土に見たて、地蔵堂を現世になぞらえ、
その間に高さ2m余の橋を架け、菩薩の面をつけ、金襴の菩薩の衣装をまとった
25人の子供たちが来迎和讃にあわせて橋の上を練り歩きます。
平成二十八年十月十六日(日) 午後一時

地蔵堂



石碑には「那須與市之墓参道」に刻まれ、本堂裏手に那須与一の墓といわれる
巨大な宝塔が小さな堂内に安置されています。






願いが的へ
与一の石塔の傍には、願い事を書いた扇が奉納されています。
与一はこの寺の阿弥陀如来を信仰したことにより、屋島の戦いで武名を挙げたとされ、
これに因んで祈願をすればたちどころに成就するといわれています。

高さ3メートルにも及ぶ石造の宝塔は伏見寺の遺構とされ、
石材は軟質の松香石で、今は摩滅してわかりませんが、円形の軸部には
釈迦と多宝の二仏が並んで坐るさまをあらわしていたとされています。
『山州名跡誌』は、那須与一の石塔と記しています。
一方、『石山行程』は橘俊綱の塔としています。

那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)  
屋島古戦場を歩く与一扇の的(祈り岩・駒立岩)  
那須与一の郷(那須神社)  
一の谷へ出陣途中、亀岡で病になったという与一
那須与市堂  
『アクセス』
「即成院」京都市東山区泉涌寺山内町28
JR奈良線・京阪電車「東福寺」駅下車 徒歩約10分

 市バス「泉涌寺道」下車 徒歩約7分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社、1987年 「郷土資料事典(26)京都府」人文社、1997年

竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年 
「京都府の歴史散歩」(中)山川出版社、2003年 「京の石造美術めぐり」京都新聞社、1990年
上横手雅敬「鎌倉時代 その光と影」吉川弘文館、平成7年



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阿古屋は平家の侍大将悪七兵衛景清の思い人で、五条坂の遊女です。

阿古屋塚は六波羅蜜寺の本堂南に清盛塚と並んであります。



阿古屋塚は阿古屋の菩提を弔うため、鎌倉時代に建てられた石塔と伝えています。
花崗岩の石造宝塔で、その下の台座は古墳時代の石棺の石蓋を用いています。
この辺りは鳥辺野墓地への入口にあたり、死者と最後の別れをしたあの世の入口であったことから、
一説には、下火(あこ)が阿古屋(あこや)と結びついたものだろうともいわれています。
下火とは、火葬の時に導師が棺に火をつけることをいいます。

阿古屋は室町時代の幸若舞の『景清』・浄瑠璃『景清』などに登場します。
幸若舞『景清』の中では、阿古王(阿古屋)は、景清指名手配を記す立て札を見て、
景清を裏切ることで二人の子供が出世できると考え、景清を役人に密告する
悪女として描かれています。江戸時代になってこれを改作し、
近松門左衛門が『出世景清』を作ります。この作品をさらに巧みに改作して、
ほぼ同時代に長谷川千四(せんし)と文耕堂の合作で
浄瑠璃『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』を書きあげました。

これは悪七兵衛景清を主人公とした五段物の芝居ですが、
通しでの上演はほとんどなく、三段目にあたる「阿古屋の琴責め」で知られる
一幕だけが、歌舞伎・文楽ともに上演されています。

ここで「阿古屋の琴責め」のあらすじをご紹介させていただきます。
平家滅亡後、平家の残党、悪七兵衛景清は捕らえられ土牢に入れられますが、
牢を破って逃走し頼朝の命をつけ狙います。景清の行方を問いただすため、
鎌倉幕府の役人岩永左衛門は京の五条坂の遊女阿古屋を堀川御所に引き立て、
白状させようとしますが、阿古屋は頑として「知らぬ」と言い張り、
遊女の意地と心意気を見せます。同じく役人の畠山重忠はそれをとどめ、
一風変わった拷問を用意します。
それは
琴・三味線・胡弓の3種類の楽器を順に演奏するというものです。

岩永はあきれかえり、阿古屋も重忠の真意が計りかねて当惑します。
重忠は彼女が景清の行方を心に秘めていることを知っていましたが、
これらの楽器は、心にやましさがあると音色に乱れがあるので、
阿古屋が弾く曲を聴いて、彼女の心のうちを推し量り、
嘘偽りを見極めようというのです。
重忠は弾かせた筝、三味線、胡弓の調べに一点の乱れのないことに深く感じ入り、
阿古屋の言葉に偽りはないと、「阿古屋の拷問ただ今かぎり、
景清の行方知らぬということ、ここに見届けたり。」と阿古屋を釈放しました。
岩永は異を唱えますが、重忠は仔細を言って聞かせます。

阿古屋は京の五条坂の傾城ですから、演じる役者はその気位の高さと心意気、そして
景清を思う気持ちを見せながら、三つの楽器を弾きこなす芸と技巧が要る難役です。
五代目坂東玉三郎が演じるまでは六代目歌右衛門の独壇場でした。
最大の見せ場は、阿古屋を演じる役者の筝・三味線・胡弓の生演奏ですから
演じたくても演じられないのです。

午後五時過ぎということもあって、境内には入れませんでしたが、
阿古屋塚は何とか撮影できました。
平成二十三年十一月吉日、坂東玉三郎が奉納し、風雨による劣化防止を目的に、
阿古屋塚と平清盛塚を屋根で覆うなど周辺が整備されました。




平成28年10月撮影。



畠山重忠は源頼朝が挙兵したとき、父重能が平家に仕えていたため、
平家軍に加わりましたが、のち、頼朝に従いました。その後の重忠は、
木曽義仲追討の戦い、平泉の藤原氏と戦った奥州合戦などに数々の軍功をあげています。
武勇・教養・人格を備え、『吾妻鏡』には、鎌倉武士の典型として
美談・佳話が数多く記されています。静御前が鶴岡八幡宮で舞を見せた時、
舞にあわせて銅拍子をうつなど、歌舞音曲の才にも恵まれていたことが知られ、
さらに、鎌倉永福寺(ようふくじ)庭池の大石を一人で持ち運んで据えつけ、
宇治川先陣争いや一の谷合戦でも大力振りが描かれています。
しかし、『平家物語』や古典芸能などで知られる華やかで
立派な姿とは裏腹に重忠の最後は悲劇的でした。
頼朝の死後、北条氏の策略によって有力御家人が次々と謀殺されていくなかで、
重忠も謀反の疑いをかけられ、武蔵国二俣川で非業の死を遂げました。
景清伝説地(平景清の墓)  
宇治川の先陣争い(2)宇治川先陣之碑  畠山重忠邸跡(鎌倉)  
『アクセス』
「六波羅蜜寺」
京都市東山区松原通大和大路東入ル下ル轆轤町
バス停「清水道」下車、約500m 約7分

『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と芸能)」吉川弘文館2009年  
加納進「六道の辻あたりの史跡と伝説を訪ねて」室町書房、1998年
 赤江漠「赤江漠の平成歌舞伎入門」学研新書、2007年 「最新歌舞伎大事典」柏書房、2012年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年 



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京都国立博物館の中庭に建つ馬町十三重塔は、
かつて渋谷越とよばれた街道沿いにあり、継信・忠信の墓と
いわれていました。石塔は昭和十五年(1940)に
所有者佐藤氏の依頼で川勝政太郎氏
立会いのもと解体され、現在の十三重塔の姿に復元されました。

南塔には、永仁三年(1295)二月、願主法西(ほうせい)の
銘がありましたが、願文はなく二基の
十三重石塔が造られた目的は明らかにされていません。
しかし継信・忠信は義経に従い戦死しているので、
鎌倉時代の永仁では年代があわないこと
や塔内に納められた多数の
金銅仏などから、
法西が願主となり多くの助成者とともに何らかの目的で
鳥辺野墓地近くに建立された供養塔のひとつであることが判明し、
この石塔は戦後すぐに馬町から撤去されました。
現在、その旧地を示す佐藤継信・忠信塚が渋谷通り沿いの
路地入口にたち、奥には佐藤継信・忠信の墓があります。

路地入口にたつ「佐藤継信忠信之塚」

背面に刻まれた文字は、かなり風化し読みとりにくいのですが、
昭和2年3月 佐藤政治郎建立 」と彫られています。

安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』には、
十三重塔を「継信忠信塔」とし、上部を欠損した塔の
挿絵が載せられ、周囲を石垣で固めた高さ2メートルほどの
塚の上に二基の石塔が並んでいる様子を描いています。

『都名所図会』には、「継信忠信塔 佐藤氏の兄弟は
忠肝義膽の人にして
漢乃紀信宋の天祥にもおとらざるの英臣也
美名後世にかゝやきて武士たらん人ハ慕ひ
貴むへき也 此石塔婆葉昔ハ十三重より星霜かさなりて
次第に崩れ落 今ハ土臺の廻りの圍あり」と書かれ、
佐藤兄弟の忠義ぶりは武士の鑑であると讃え、
この石塔はもとは十三重塔でしたが、月日を重ねるうちに
いつの間にか崩れ落ち、落ちた石が塚周辺の
石垣に使われていることを挿絵とともに伝えています。

佐藤継信・忠信兄弟の子孫と伝えられていた佐藤政養氏は、
二基の十三重の塔があったこの土地を購入し、明治6年、
十三重石塔の横に佐藤継信・忠信の墓碑を建て、同9年には
父佐藤文褒翁の功績を顕彰した顕彰碑を建立しました。
さらに明治10年に政養が亡くなると、翌年遺族により
この地に佐藤政養招魂碑(題額勝海舟)が建てられ、
昭和2年には、佐藤政治郎により、十三重石塔および
政養招魂碑の所在を示す佐藤継信・忠信塚が建てられました。

 佐藤文褒翁顕彰碑と佐藤政養招魂碑(左側 碑文は剥落しています。)



佐藤政養は文政4年(1821)に出羽国飽海郡升川村(現山形県遊佐町)に生まれ、
寛政元年(1854)、江戸へ出て勝海舟の門に入りました。
海舟の従者として長崎の幕府海軍伝習所に学び、のち海軍操練所では
教授方にとりたてられ、勝海軍塾では塾頭を務めました。
明治維新後は新政府に用いられ、国内初の新橋-横浜間の
鉄道敷設に尽力し、以来日本の鉄道建設を技術面で支えました。

政養招魂碑の周囲にある玉垣は、政養の塾で学んだ
塾生たちから寄進されたものです。

佐藤政養の出身地、山形県佐藤政養先生顕彰会(遊佐町役場内)は、
平成25年(2013)に関係碑の敷地を買い取り、周辺を整備しました。
(説明板の文面を要約させていただきました。)

佐藤兄弟の兄継信は屋島合戦で、義経の楯となって戦死し、
八坂本系『平家物語』、『義経記』には、弟忠信は吉野山中に
逃げこんだ義経一行が吉野山の衆徒に背かれた時、
自害しようとする義経の身代わりとなって奥州から連れてきた
手勢数人とともに、二、三百人の僧兵相手に奮戦しました。
のちに京都の馴染みの女に裏切られて鎌倉方に密告され
北条義時勢に襲われたことやその壮絶な最期を紹介しています。
この兄弟の義経に対する忠節は、のちに謡曲『忠信』、
歌舞伎『義経千本桜』となり世に広く知れ渡りました。


現在の馬町交差点は渋谷越の通る小松谷の入口にあり、
東国への交通路として軍事上も重要視されていました。
清盛の嫡男重盛の邸は、この交差点辺から
小松谷(現正林寺辺)にかけてあったとされています。
渋谷越(現渋谷通)は苦集滅道(くずめじ)ともよばれ、
後に政治の実権を武家から天皇に取り戻そうとする後醍醐天皇の
命を受けた軍勢に鎌倉幕府の六波羅探題府が攻められて壊滅、
北条政権崩壊の引き金となった時、
六波羅探題府を出た北条仲時以下
400人の軍勢が鎌倉目ざして敗走した道筋がこの街道でした。
北条勢は街道沿いに聳え立つ巨大な石塔を
目に
ながら落ちて行ったはずです。
近江の米原近くで一行は蜂起した野伏に囲まれ自害しました。
馬町十三重石塔(佐藤継信 忠信)  
屋島古戦場を歩く(佐藤継信の墓)  
『アクセス』
「佐藤継信・忠信の墓」 京都市東山区渋谷通東大路東入北側常盤町

 市バス馬町下車2分 馬町商店街の「京都とうがらしかむら」横の路地を入ります。
『参考資料』
森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(洛東の巻)学生社、2007年 
五味文彦編「中世を考える 都市の中世」吉川弘文館、平成4年
高橋昌明編「別冊太陽 王朝への挑戦平清盛」平凡社、2011年
竹村俊則「京の墓碑めぐり」京都新聞社、昭和60年
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年
徳永真一郎「物語と史蹟をたずねて 太平記物語」成美堂出版、昭和53年

 





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京都国立博物館の南門を入った中庭には、
高さ6メートルほどの「十三重石塔」が二基あります。
もとは東山区馬町に南北並んであり、「馬町十三重塔」とよばれ、
源義経の郎党佐藤継信・忠信の墓と伝えられていました。

継信・忠信兄弟は藤原秀衡の家臣でしたが、
義経が挙兵した兄頼朝のもとに駆けつける時、

秀衡の命で義経に従い、平家追討の戦いで数々の戦功をあげました。
兄の継信は屋島合戦で義経の身代わりとなり戦死し、
弟忠信は頼朝に追われる身となった
義経と苦楽を共にします。
義経の片腕となって忠義を尽くした佐藤兄弟は後世まで語り継がれ、

謡曲や歌舞伎などにも登場し、武士の鑑として人気を博しました。

「馬町十三重石塔 二基  北塔(向かって右)無銘 
南塔(向かって左)永仁三年(1195)銘 高さ約六メートル 鎌倉時代
この石塔二基は現在地から北東に五百メートルほどの馬町
(東山区渋谷通東大路東入ル)の路地奥にあった。
塚の上に南北に並んで立ち、源義経の家人、佐藤継信・忠信兄弟の
墓と伝えられていた。江戸時代の『都名所図会』に見るように、
北塔は五層、南塔は三層戸なり、地震で落ちたと思われる
上層の石は、塚の土留めとして残されていたという。
昭和十五年(1940)に解体修理が行われ、現在の十三重塔の姿に復元された。
その際、小さな仏像や塔などの納入品が、両塔の初重塔身の石に設けられた
孔の中から発見されている。両塔はともに花崗岩製、南塔(向かって左)の
基礎正面に、永仁三年(1295)二月、願主法西(ほうせい)の刻銘があるが、
北塔に銘文はなく、二基の十三重石塔が造られた経緯は明らかにされていない。」

『都名所図会』、『花洛名勝図会』にも、継信・忠信塔の図が描かれ、
この塔は洛東の名所として広く知られていました。

『都名所図会』に描かれている継信忠信の塔。

画像は国際日本文化センターデーターベース「花洛名所図会継信忠信塔」よりお借りしました。

京都から東国へ向かう道は、粟田口から山科へ抜ける旧東海道とともに、
六波羅の南端から、小松谷を通り山科に出る渋谷街道も
東国への近道としてしばしば利用されました。
馬町は渋谷通を東大路から東へ入ったところをいい、
渋谷街道の入口にあたり、六波羅探題のおかれた鎌倉時代には
馬借たちの馬屋が多いなどの理由で生まれた名とされています。
また、建久4年(1193)に淡路国から源頼朝に献上される9頭の馬がしばらく
ここにつながれてことから馬町とよばれたともいわれています。

昭和15年に所有者の佐藤氏の依頼でこの石塔が解体復元された時、
内部から鎌倉時代の小さな仏像や金銅製五輪塔などの納入物が多数発見され、
南塔には「永仁三年(1295)二月廿日立之、願主法西(ほうせい)」と
刻まれていました。法西がどういう人物であるのか明らかでないため、
この塔を建てた理由も分かりませんが、京都国立博物館は、
「鳥辺野に総供養塔として建立されたという説もある。」とされています。
鳥辺野墓地は、西大谷から清水寺に至る山腹に設けられた
広大な墓地のことで、『都名所図会』に「鳥辺野は北は清水坂、
南は小松谷を限る。むかしより諸宗の墓所なり。」とあるように、
西大谷をはじめ日蓮宗の諸寺の墓石が並んでいます。

高橋慎一朗氏はこの塔が建てられた目的のひとつには、
「渋谷越の脇、六波羅からの出口にあたる場所に建立されていることから、
東国への道中の安全を願う供養塔であったとも思われる。」と
述べておられます。(『都市の中世(六波羅と洛中)』)

この石塔は戦後すぐに撤去され、他所に移されていましたが、
昭和46年京都国立博物館に寄託されました。

平成知新館西側から見下ろした正門。
平成27年4月、狩野派の特別展を見るためこの博物館に入ったところ、
本館前の庭にあるはずの二基の塔がなく、
館内を探すと平成知新館レストラン西側に解体された南塔が展示され、
説明板に
北塔は現在補修中と書かれていました。

平成知新館西側から本館を望む。


馬町の佐藤継信 忠信墓   屋島古戦場を歩く(佐藤継信の墓)  
『アクセス』
「京都国立博物館」 京都市東山区茶屋町527  市バス博物館・三十三間堂前、東山七条下車すぐ
「平成知新館」三十三間堂の向かいの南門を入ると平成知新館へ向かってアプローチが伸びています。
『参考資料』
五味文彦編「中世を考える 都市の中世」吉川弘文館、平成4年 「京の石造美術めぐり」京都新聞社、1990年
竹村俊則「京の伝説の旅」駿々堂、昭和47年 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年
 井上満郎「平安京再現」河出書房新書、1990年 「京都地名語源辞典」東京堂出版、2013年

 



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◆右獄(西獄)

西大路通と丸太町通との円町交差点の西北側(中京区西ノ京西円町)には、
発掘調査によってかつて右獄があったことが明らかとなりました。
右獄は平安時代に都におかれた二つの獄舎のうちの一つで、右京一条二坊十二町にありました。
さらに1999年度調査で、JR円町駅の北側で幅15~16mのお土居の基底部が発掘され、

西側の佐井通との段差がみられ、この通りに堀があったことをうかがわせます。
ここは秀吉が造ったお土居の西のラインで、ここだけ突き出ていた理由が
獄舎の存続にあることが分かりました。



かつて右獄があった西円町は、銀行とパチンコ店、その北側に駐車場がある一角です。

『扶桑略記』によれば、康平6年(1063)、前九年合戦で源頼義・義家父子と戦って
敗れた阿部貞任ら三人の首を西の獄門に晒したとあり、
天仁元年(1108)、白河院の命を受けた平正盛(清盛の祖父)に追討された
源義親(義家の子)の首もこの獄門の樗に掛けられました。

平治の乱を描く『平治物語』を絵画化した『平治物語絵詞』(信西の巻)には、
信西(藤原通憲)のさらし首と右獄の有様が描かれています。
この絵巻が制作された当時は、左右の獄が現存していたので、
そこに描かれている獄舎の光景は、実景に近いとされています。

保元の乱で辣腕を振るった策士信西は、その3年後の平治の乱で早くも抹殺されました。
平治元年(1159)12月、信西の首は長刀に結ばれ、
高く掲げられて都大路を進み、獄門際の樗(おうち)の木に掛けられました。

「獄門に首をかける。」とは、首を獄門の木に懸けることですが、
絵師は獄門の樗の木に首が晒された光景を見たことがなかったと思われ、
これを文字通りに解釈し、首を門の破風に懸けています。
それを僧や稚児、烏帽子、山伏、頭巾姿のさまざまな人々が見物しています。
獄門の周囲には築垣がめぐらされ、門は板葺の簡素なもので、
傍らには樗と思われる冬枯れの巨木が描かれています。

この画像からは分りにくいのですが、
牢屋の横板の隙間から囚人たちの目がいっせいに外を見ています。

右獄の遺跡は埋められましたが、獄舎にまつわる円町という地名が今に残っています。
円町の「円」という文字を象形文字から考えると次のようになります。
「円」の旧字体は「圓」、圓を分解すると、鼎(かなえ)→員(人員)+です。
員を□で囲み、多人数を囲いの中に入れておくので圓という文字になります。
人を□で囲めば、囚という文字になり、囚獄(ひとや)は、人屋(ひとや)とも牢屋ともいいます。
牢屋のあったこの辺を、京都の人々は直接的に「ひとや町」とは呼ばず「円町」と名づけました。

◆左獄(東獄)
平安京の右京にある右獄に対して、左獄は、左京一条二坊十四町
近衛大路南、西洞院大路西、油小路東、勘解由(かげゆ)小路北、
近衛大路は現在の出水通、勘解由小路は下立売通りにあたります。


つまり現在の丁子風呂町南側、勘兵衛町、西大路町北側、近衛町東側の一画にあり、、
敷地の東北隅には、両獄を統括する刑部省の囚獄司が置かれました。
『坊目誌』は、丁子風呂町にはかつて獄舎があり、
中世までは「獄門町」と呼ばれたと伝えています。
この獄門にかけられたのは源義朝・鎌田正清主従や悪源太義平(義朝の子)、源義仲、
そして一の谷合戦で戦死した平通盛・忠度・知章・経俊・師盛・経正・業盛らの首は、
六条河原で義経から検非違使が受け取って、左の獄門の樗に懸けられました。
さらに壇ノ浦で生け捕られた平宗盛父子の首もこの獄門に晒されました。

延元3年(1338)越前国藤島で戦死した
新田義貞の首もやはりこの獄門にさらされています。

『拾遺都名所図会』によると、「西陣七の社に西隣にある獄門寺は、一名西福寺といい、
昔、この寺は近衛南の左獄の傍にあり、寺僧が斬罪者に引導を授けたという。
後世、荒廃しこの地に移された。」とあり、その後、明治維新の際に廃寺となりました。

京都府庁の西側、勘兵衛町にたつ京都府庁西別館。

京都府庁西別館の北側の丁子風呂町には、近畿農政局が建っています。

ナジック学生情報センター

『アクセス』
「西円町」市バス「円町」駅 又はJR「円町」駅下車すぐ

「京都府庁西別館」 市バス「堀川下立売通」下車徒歩約5分
京都駅から「地下鉄丸太町」駅で下車 徒歩約10分。
市バス93系統・202系統・204系統に乗車、府庁前で下車 徒歩約7分。
『参考資料』
角田文衛「平安京散策」京都新聞社、1991年 「京都市の地名」平凡社、1987年
 新京都坊目誌「我が町の歴史と町名の由来」京都町名の歴史調査会 
「平治物語絵詞」(コンパクト版・日本の絵巻12)中央公論社、1994年
「京都地名語源辞典」東京堂出版、2013年 「新定源平盛衰記」(第5巻)新人物往来社、1991年
国際日本文化研究センターHPデーターベース 
「拾遺都名所図会(巻之一)平安城(20頁)獄門寺(西福寺)」

 

 

 

 


 



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京都市下京区東中筋七条上ルに「文覚町」があります。
町名の由来は、高雄の文覚上人が神護寺再興のための寄付を後白河法皇に強訴し、
捕われ百日間入れられた牢屋がこの地にあったと伝えています。
さらに近隣の「高雄町」、「紅葉町」などもこれに由来する町名です。

また、この辺りは平安時代中期、宇多上皇の御所、亭子(ていじ)院があった所です。
(現植松町・紅葉町・高雄町・文覚町の全域と鍛冶屋町・福本町・
玉本町・米屋町のそれぞれ半分にあたる。)
上皇は文人や歌人をこの御所に集め、度々詩会や歌合せを催しています。
上皇の死後、亭子院は寺院となりました。

文覚の俗名は遠藤盛遠。上西門院(後白河院の姉)に仕える武士でしたが、
19歳で出家し厳しい修行を積み都に戻ってきました。
神護寺は京都の北西、紅葉の名所高雄にある寺院です。
平安時代に創建され、空海がここを本拠に真言密教の興隆に努めましたが、
その後は荒廃していました。空海を崇拝する文覚は神護寺再興を決意し、
寄付を募るため後白河院の御所、法住寺殿を訪ねましたが、あいにく御所では、
管弦の宴の真っ最中。文覚は制止を振り切って中庭に入り込み、
大音声をあげて勧進帳を読み上げ、取り押さえられ獄に入れられました。
町名の由来とは食い違いますが、『源平盛衰記』には、
この時、文覚は右の獄に入れられたと書かれています。
右獄は都に置かれた二つの獄舎のうちの一つで、現在の西円町にありました。

その後、文覚は赦免され、暫くは引きこもっていましたが、再び多少強引な勧進をしながら、
後白河院の悪口を触れ回り、そのため院の怒りを買って伊豆に流罪となりました。
そこには平治の乱で敗れ、流人の身となった頼朝がいました。
文覚は頼朝の許を足しげく訪ね、平家打倒を勧め頼朝挙兵に重要な役割を
果たした
人物として『平家物語』は、この辺のことを虚実とりまぜて詳しく描いています。

七条西洞院から西洞院通を北へ進み、一筋目の北小路通を西に入ります。

駐車場隣の民家に高雄町の仁丹町名表示板が架かっています。(北小路通り北側)

北小路通を西へ行くと、堀川通に面して西本願寺があります
近世には、辺は西本願寺の寺内町となり、
寺内九町組のうち学林町に所属していました。

北小路通と東中筋通との交差点、
民家に架かる
ライオンズクラブによる文覚町の町名表示板。

「文覚町」は南北を通る東中筋通を挟む両側町で、
町の北側を北小路通が東西に通っています。


北小路通と東中筋通との交差点を七条通に向かうと
文覚町の名があちこちに見えます。




中筋通りを西に入った民家の二階に見える仁丹町名表示板。

北小路通と中筋通との交差点を北に進むと紅葉町の名が見えます。

「紅葉町」は、東中筋通を挟む両側町で、町の北側は正面通りに面しています。

東中筋通は秀吉の京都改造によって誕生した道路で、
天使突抜通りともよばれています。




紅葉町の北端、正面通に面して植松公園があります。
『アクセス』
「文覚町」JR京都駅より徒歩約13分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 「京都市の地名由来辞典」東京堂出版 「奈良・京都地名事典」新人物往来社 
角田文衛「平安京散策」京都新聞社、1991年 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年 
「新定源平盛衰記」(第2巻)新人物往来社、1993年

 

 







 

 



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JR京都駅八条口中央案内所には、平成2年6月に架けられた銘板があります。
銘板には、「京都駅 昔 むかし 八條院および八條第」と題され、
京都駅敷地の由緒を「財団法人古代学協会古代学研究所」によって
起草された説明文が刻まれています。
八条院とは、
鳥羽天皇の皇女八条院暲子内親王の女院号とともにその御所の名です。
また、八條第とよばれる平頼盛の邸宅が八條院の西、室町小路と
町尻小路の間、ほぼ現在の新町通
にありました。
頼盛は清盛の異母弟で、母は池禅尼です。清盛との間には、
早くから忠盛の後継をめぐる対抗関係があり、さらに平治の乱後、
母が頼朝の命を救ったため、平家一門の中で微妙な立場に立たされました。





銘板は案内所内部の壁に架かっています。(10時から16時)

京都駅の敷地の東半分は、八条院暲子内親王の御所跡です。
(北は梅小路、南は八條大路、東は東洞院大路、西は烏丸小路、121メートル四方)

八条院の母は、美福門院(皇后・藤原得子)、近衛天皇は同母弟、
崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたります。
二条天皇(後白河天皇の皇子)の准母として院号が下され八条院と称しました。
もともと八条院御所は、美福門院の祖父藤原顕季(あきすえ)の邸宅で、
女院は母からこの御所を相続しました。顕季は白河天皇の乳母子で、
洛中にいくつも邸宅を所有し、並ぶ者がないほどの権勢家でした。

鳥羽院に溺愛された八条院は、近衛天皇の没後、女帝に推されましたが実現せず、
後白河天皇が第一皇子二条天皇の
中継として即位しました。
八条院には、藤原定家の姉の健寿や歌人の八条院高倉(信西の孫)などが仕え、
源頼政は大内守護を務めながら、八条院のもとに出仕していました。
以仁王の令旨を東国に伝えた源行家は、八条院の蔵人に任じられ使者となっています。

八条院の女房中の筆頭である三位局は、以仁王との間に誕生した
姫宮と若宮(後の安井門跡道尊)とともに八条院で暮らしていました。
女院はその子たちを養子に迎え、以仁王を猶子としました。
この時代、養子は家の継承を託する実子と同じ扱いで、一方、猶子には相続権はなく、
その人一代に限って家族の待遇を与えます。

以仁王は八条院の後ろ盾を得て、平家に叛旗を翻したと考えられますが、
女院が深く追求されることはありませんでした。それは女院が両親から
譲り受けた莫大な荘園を所有しており、その経済力は政治力ともなり、
清盛も一目おくほどの大きな権力を持っていたからです。
以仁王の乱が失敗し、若宮は仁和寺の守覚法親王に預けられ、出家させられましたが、
姫宮は八条院の後継者として大切に育てられました。一旦、八条院領の
大部分はこの姫宮に譲与されましたが、彼女は八条院に先立って亡くなり、
女院没後、その所領は皇族を中心に相伝され、
後鳥羽天皇の皇女春華門院が遺領の大部分を相続しました。
後にこの御所の跡地は後宇多上皇が伝領し、
正和2年(1313)上皇から東寺に寄進されました。

かつて以仁王の子を生んだ三位局は、八条院御所に出入りしていた
摂関家の九条兼実との間に左大臣藤原良輔(よしすけ)をもうけています。
八条院の西隣には、母の三位局から藤原良輔が譲り受けた室町第、その西には
平頼盛の八条第があり、八条院と関係の深い貴族の邸宅が並んでいました。

八条院御所には、女院の姪の式子内親王が身を寄せていたこともありましたが、
女院と以仁王の姫宮を呪詛した疑いをかけられ、御所から退き出家しました。
新古今時代の代表的女流歌人として知られる式子内親王は、後白河天皇の皇女で、
11歳から21歳までの10年間を賀茂斎院として過ごし、病により斎院を退いた後、
藤原俊成に歌を学んだ女性で、以仁王と仁和寺の守覚法親王の同母の姉にあたります。
源義仲に法住寺殿を焼かれた時、後白河法皇もこの御所に同居しています。


平頼盛の妻は八条院の乳姉妹であり、俊寛僧都の姉妹でした。
頼盛は戦死した以仁王の若宮を連行する役目を担い、一門の中での役割を果たしました。
しかし、平家都落ちの際には、一門を見限り都に留まる道を選び、
女院の御所、仁和寺近くの常盤殿に保護されています。
このように八条院は面倒見がよく、縁者や近親者の世話をしたことでも知られます。
『参考資料』
角田文衛「平安京散策」京都新聞社、1991年 「京都市の地名」平凡社 

五味文彦「藤原定家の時代」岩波新書、1991
 永井晋「源頼政と木曽義仲」中央公論新社、2015
 梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館、2004



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白河天皇はわずか8歳の堀河天皇に譲位し、幼帝を後見するために
上皇となって院政を開始しました。藤原氏をおさえて摂政関白の権限を奪い、
武士出身の近臣を登用し、北面の武士を置くなどして専制的な政治を行います。
堀河天皇崩御後は、孫の鳥羽天皇、さらにその子の崇徳天皇と
三代にわたって政務にあたり、43年間も院政を行いました。

鴨川東岸の白河には、六勝寺の西に白河南殿、次いで南殿の真北に白河北殿が造営され、
院政期の政治の中心となりました。ちなみに白河上皇のおくり名はこれによるものです。
白河には、逢坂関を越え東国へ向かう関路(かんろ)とよばれる要路が通り、
人も物資もここを通過して盛んに動いていました。
政治的また軍事的・経済的にも、重要な意味をもつ地域でした。


疎水端の遊歩道にたつ「得長寿院跡」を示す石碑。

◆得長寿院 (岡崎徳成町)

得長寿院は鳥羽上皇の御願寺として、長承元年(1132)に完成し落慶供養が行われました。
規模は南北2町(約250m)、東西は1町とみられ、今に残る東山七条の
蓮華王院(三十三間堂)とほとんど変わらない規模と景観をもっていました。

現在の川端警察署付近にあったと推定されていますが、有力な遺構は検出されていません。
平忠盛(清盛の父)が建物を造営し、その内部には六丈の観音像を中央に、
その左右に等身大の聖観音像各五百体が安置されていました。忠盛はその功績により
殿上人となり、平家一門栄達の魁となったことは『平家物語』でよく知られています。
得長寿院は元歴2年(1185)7月の大地震で倒壊し、以後は再建されないまま
廃寺となりました。
鴨長明は『方丈記』に、都を襲ったこの地震を天変地異の一つとして
「寺の堂も塔も崩れ、あるいは倒れたりして被害を受けなかった所はない。」と記しています。
むろん法勝寺をはじめとする六勝寺も崩壊しました。
長寛2年(1165)に清盛は、得長寿院をモデルにして法住寺殿(後白河御所)の西に
蓮華王院を建立し、後白河上皇に寄進しているので、京都には約20年間に渡り、
二つの三十三間堂が並存していたことになります。

熊野橋西詰にたつ「白河南殿跡」の石碑と説明板。
◆白河南殿(聖護院蓮華蔵院町・石原町・吉水町・秋築町)

白河南殿は嘉保2年(1095)頃、大僧正覚円の僧坊を白河上皇の御所に
改められたもので、白河御所・南殿・南本御所とも呼ばれました。
広大な苑池をはさんで東部に御所、その中に阿弥陀堂がありました。
次いで平正盛(清盛の祖父)は、池の西部に蓮華蔵院を建立し、
九体の丈六阿弥陀仏を安置しています。その後も池の東北部に新しい九体阿弥陀堂や
三重塔が建立され、水石風雅な御所であったことから白河泉殿とも呼ばれました。
鎌倉時代に度々災禍にあい、南北朝時代には衰亡したとされています。

推定場所は得長寿院の西、二条大路北の二町四方(約250m四方)の規模と考えられ、
夷川ダムの発掘調査で阿弥陀堂跡と見られる遺構や
疎水の南では、建物跡が見つかっています。
また昭和50年、水道管布設工事中に熊野橋西詰において築地状の遺構が検出され、
これより西側が白河南殿であることが、ほぼ明らかとなりました。


疎水に架かる熊野橋西詰

ファルコバイオシステムズの前には、白河南殿の雨落溝に
使用されていた石が展示されています。

ファルコバイオシステムズ(左京区川端六筋東夷川上ル秋築町240)は、
「白河南殿跡石碑」の西にあります。

昭和55年8月本建物を建設する際に発掘調査を実施し、南殿の主要伽藍の一部と
考えられる建物跡を初めて検出しました。ここにある石材は建物の雨落溝に
使用されていた石材の一部を移築したもので、自然の河原石を巧みに使用しており
当時の建築技術を知る上からも大変貴重な資料であります。
昭和56年11月 京都市  ファルコバイオシステムズ(現地説明板)

「白河北殿跡」の石碑が京都大学熊野寮敷地の北西角の茂みの中にあります。
◆白河北殿(熊野神社より西、鴨川畔の川端通に至る丸太町通を挟んだ南北一帯)
白河北殿は元永元年(1118)に白河南殿の北側に白河上皇によって
造営された院御所で、その規模は二町四方と推定されています。
天養元年(1144)に焼失しましたがすぐに再興され、この再興に功があった
平忠盛は正四位下に叙せられました。白河上皇崩御後は鳥羽上皇によって
維持され、その後は上西門院統子(崇徳天皇の同母妹)の御所となりました。
保元の乱の際、崇徳院が鳥羽の田中殿からこの御所へ移り立てこもったため、
後白河天皇方の平清盛・源義朝らに攻められ全焼しました。
この軍功により清盛は播磨守に補任されています。

石碑には「此附近 白河北殿址」と刻まれています。

石碑の西面には「昭和十四年三月建之 京都市教育会」と刻まれています。
『参考資料』
(財)京都市埋蔵文化財研究所梶川敏夫「白河・六勝寺」京都市考古資料館講座の資料
2012225日)
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂  井上満朗「平安京再現」河出書房新書
 「京都市の地名」平凡社 美川圭「院政 もうひとつの天皇制」中公新書 簗瀬一雄訳注「方丈記」角川ソフィア文庫





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六勝寺は京都会館を中心に東西1、2キロ、南北1キロ以上もある広大な地に造営され、
付近一帯は平安時代の最後をしめくくる院政期を象徴する場所でした。
これらの多くの建物は、受領たちの経済的奉仕によって造営され、
その見返りとして位階授与などの恩賞や同じ任国の国司の重任など、
成功(じょうごう)とよばれるさまざまな利点がありました。隆盛を誇った六勝寺も
鎌倉時代には衰退し、15C後半の応仁の乱で廃絶してしまいました。
今その当時の姿を地上に見ることができるものとしては、
法勝寺金堂基壇の石垣のみとなっています。
今回は、尊勝寺、最勝寺、成勝寺、延勝寺をご紹介します。


◆尊勝寺(岡崎最勝寺町・西天王町)
推定2町(約240m)四方の広大な境内に南大門・金堂・講堂・塔・阿弥陀堂・
薬師堂・五大堂・観音堂などの多くの堂宇があったことが確認されています。
建物跡3棟、溝跡、井戸跡などが検出され、最も発掘調査が進んでいます。
武道センター本館の建設工事の際の発掘調査で発見された
平安時代末期の井戸の枠組みが、同センターに復元保存されています。
上半分が石で、下半分が木で作られており、石組は上にいくほど広い
ラッパ状になっていて、石組井戸の初期の特徴を良くあらわしています。
 この付近も六勝寺の跡地と推定され、井戸は尊勝寺で使われていたものと思われます。

丸太町通りから桜馬場通へ

桜馬場通沿いの武道センターの門をくぐると、
左手に発掘された井戸の実物を集め、半分に裁断した状態で復元されています。

武道センター近くの西天王町団地の入口には、尊勝寺跡の説明板がたっています。
昭和61年、当団地の改修工事に伴って発掘調査が行われ、
尊勝寺の御堂跡が見つかりました。

西天王町団地の桜馬場通をはさんで東側(画像右)が武道センターです。

京都会館(ロームシアター京都)には、尊勝寺跡の石碑がありますが、
現在、改修工事中のため、フェンスが張られ立入禁止となっています。(2015年9月)

2016年4月、再度訪ねるとフエンスは外され工事は完了していました。



尊勝寺跡の石碑の側面には、「昭和四十五年三月 京都市」と刻まれています。

◆最勝寺(岡崎最勝寺町) 
最勝寺は尊勝寺の東側、二条大路の北側にありました。文献からは、
南大門・金堂・薬師堂・五大堂などの堂宇があり、
方1町(約120m四方)規模の寺院であったと考えられます。
発掘調査では、築地跡や建物の雨落溝跡などが見つかっていますが、
主要な伽藍については、全くみつかっていません。



岡崎公園の一角に説明板と寺域南限の築地跡があります。

「ここにある石は、岡崎グランド駐車場建設に先立って、平成三年九月から行われた
推定最勝寺跡の発掘調査で検出された二条大路北側の東西築地塀基礎部分に
使用されていた石材で、検出した築地位置の延長に合わせて置いてある。」
(現地説明板)
◆成勝寺(岡崎成勝寺町)
方1町または東西2町と推定される境内には、
南大門・金堂・経蔵・鐘楼・五大堂などの堂宇が建立されました。
この寺は保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐(香川県)に配流されて、
怨霊となったという崇徳天皇の御願寺という特異な性格があります。
後白河院は崇徳院の怨霊を慰撫するため、治承元年(1177)8月、当寺で4日間
法華八講の法要を行いました。また政権を掌握する過程にあった頼朝は、
元歴2年(1185)7月に都を襲った凄まじい大地震を崇徳院の怨霊によるものと考え、
後白河院にたいして、怨霊を崇めるべきであると伝え、翌年には諸国にあてて
地震で倒れた成勝寺の堂宇の修造をすみやかに行うよう命じています。さらに
鎌倉時代にも崇徳院の怨霊を慰撫する御八講が続けられたことが史料に見えます。
みやこメッセの建設に先立って発掘調査が行われましたが、既存の勧業館基礎の
攪乱などにより、溝跡や井戸跡など以外に有力な遺構は検出されていません。

成勝寺跡の石碑は、みやこメッセの東側、小さな公園内にたっています。

◆延勝寺(岡崎円勝寺町・成勝寺町)
六勝寺の中で、一番最後に建てられたこの寺は、東西2町、南北1町と推定されています。
堂宇は南大門・金堂・塔・一宇金輪堂・廻廊などからなり、後に平忠盛により
「近衛殿寝殿」を移築して阿弥陀堂が造営され、丈六の阿弥陀仏が九体安置されました。
丈六とは、立像の高さが約五メートルある仏像で、座像では、その半分の高さの仏像です。
これまでの発掘調査で疎水の西側から、
建物基壇基礎地業跡や庭石、井戸跡などが検出されています。

延勝寺跡の石碑と疎水に架かる二条橋

二条橋南にも延勝寺跡の石碑と説明板がたっています。

『参考資料』
財)京都市埋蔵文化財研究所梶川敏夫「白河・六勝寺」京都市考古資料館講座の資料
2012225日)
「京都市の地名」平凡社
 山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 
現代語訳「吾妻鏡」(2)(3)吉川弘文館



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京都会館前の案内板

平安時代の終わりごろ、鴨川の東一帯に造営されたのが、六勝寺と白河殿です。
「勝」の字がつく六つの天皇家御願寺が白河・鳥羽両上皇の時代に
相次いで造営され、鳥羽離宮とともに院政期を代表する地域となっていました。
さらに六勝寺の周辺には、院御所(白河南殿・白河北殿)や得長寿院など
多数の寺院が造営され、一帯は急速に発展しました。
六勝寺の発掘調査は、昭和34年(1959)の京都会館建設工事にともなう発掘から始まり、
これまで数多くの発掘調査が実施され、おおよその推定場所が明らかとなりました。
しかし、まだ白河街区全体の区画や正確な寺域など
明らかになっていないことも多くあり、今後のさらなる調査が待たれます。

「六勝寺こみち」の石碑から順にご紹介します。

京都近代化のシンボルである琵琶湖疎水、
広道橋の畔にたつ「六勝寺のこみち」の石碑。


京都市動物園、京都市美術館の南を流れる疎水。

◆円勝寺跡
円勝寺(左京区岡崎円勝寺町)は、法勝寺、最勝寺、尊勝寺、成勝寺、
延勝寺とともに六勝寺と総称された寺院のひとつです。
鳥羽天皇中宮待賢門院の御願寺で、大治3年(1128)に落慶供養が行われました。
現在の京都市美術館から図書館付近の敷地(推定南北1町、東西2町)が、
ほぼその位置にあたると推定されています。

美術館を入って左手、写真正面の石段を上った右側に
「円勝寺発掘調査記念碑」があります。





「岡崎公園 動物園前」バス停のすぐ東側に円勝寺跡の碑があります。

◆法勝寺跡
白河(現在の岡崎)の地には、藤原氏北家代々の別邸があり、
白河院とよばれていました。
左大臣藤原師実によって白河天皇に寄進されたこの土地に
白河天皇御願寺として創建されたのが法勝寺です。六勝寺筆頭寺院として
承保4年(1077)、大部分の伽藍が完成し落慶供養が営まれました。
法勝寺の規模は、東西2町(約240m)南北4町(約480)と
推測されますが、まだ確定していません。
八角九重塔は自然災害により何度も被害を受け、その都度
修復されましたが、南北朝時代の火災で寺の南半分が焼失し、
それ以後、衰退し、応仁の乱以後廃絶したと考えられています。

私学共済事業団の旅館「白河院」前にたつ「白河院址」の石碑。



伽藍配置は東大寺大仏を彷彿とさせる本尊毘盧遮那仏を安置した金堂・
講堂・薬師堂などの主要な堂塔が一直線に並ぶ四天王寺式で、
中でも池の中島には、高さ81mにおよぶ八角九重塔が聳え、
東国から粟田口を通って都に入ってきた人々の目をひく偉容でした。
ちなみに東寺の五重塔の高さは約55mです。

太平洋戦争後までは、京都市動物園の中には「塔の壇」とよばれる塔の基壇が
残っていましたが、アメリカ進駐軍にブルドーザーで破壊されてしまいました。
基壇に使用されていた花崗岩の細長い切石は、園内の池の石橋に転用されています。
京都市動物園は法勝寺伽藍の南半分にあたるとされ、
動物園北の二条通北側には、高さ約2メートル(東西約68m南北約27m)の
石垣の高台が続いています。この高台が法勝寺金堂の基壇跡です。

噴水池の畔に八角九重塔の説明板、その近くに隠れるようにして
「法勝寺九重塔址」の石碑がたっています。
この九重塔は、現在の観覧車の位置にありました。




石橋に用いられている長さ3、8mの布石。


二条通り北側に残る金堂の基壇跡。

白河は桜の名所として知られ、平通盛(清盛の甥)が上西門院(後白河の姉)に
仕える小宰相を見初めたのは、法勝寺の花見でした。
またこの大寺の執行(事務長官)が鹿ケ谷山荘事件に加わった
後白河法皇の側近の俊寛僧都です。

平安京創生館には法勝寺復元模型が展示されています。

法勝寺伽藍配置図(福山敏男博士原図)は、
「中世の開幕」より引用させていただきました。

現在、平安京創生館に移設されている法勝寺復元模型は、
2009年秋まで岡崎勧業館に展示してありました。(2008年2月20日撮影)
六勝寺と白河殿2  
六勝寺と白河殿3
  『参考資料』

(財)京都市埋蔵文化財研究所梶川敏夫「白河・六勝寺」京都市考古資料館講座の資料
(2012年2月25日)

林屋辰三郎「中世の開幕」講談社現代新書 「古代の都3・恒久の都平安京」吉川弘文館



 

 

 



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京都祇園祭の保昌山は、丹後守平井保昌と和泉式部の
恋物語を
モチーフにし、保昌が和泉式部に頼まれ夜中、
紫宸殿の庭に忍び入り、
紅梅を手折ってくる姿をあらわしています。

紅梅を手折ったものの
警護の兵に矢を射掛けられ、
髻(もとどり)が切れ逃げ帰ったが、
恋は見事に実ったという話にちなみ、
明治初年までは
「花盗人山(はなぬすっとやま)」とよばれました。
御神体(人形)は
緋縅(ひおどし)の鎧に太刀をつけ、
梨地蒔絵(なしじまきえ)の台に紅梅を一杯にもってこれをささげています。

宵山には、山の故事にちなみ「縁結び」の御守りが授与されます。





保昌山会所



早すぎました!

やがて現れた保昌の姿を見て、祭りで賑わう町中を次の会所へと走りました。

藤原(平井)保昌は藤原南家の一族で文章博士藤原菅根の曾孫です。
祖父の元方が大納言、母は醍醐天皇の皇子元明親王の娘という名門でしたが、
元方以後は摂関家の敵となり振いませんでした。
名門の誇りを捨てて保昌は藤原道長・頼通父子の家司(けいし)として仕え、
肥前・大和・丹後・摂津守などを歴任します。

摂津守を務める頃、摂津国平井(阪急電車宝塚線山本駅北側)に
住んでいたので平井と名乗っていました。

兵の家の出身ではありませんが、弓箭の道に優れ、心猛く、武者として
称賛されていました。妹は満仲に嫁いで、大和源氏の祖・源頼親、
河内源氏の祖・源頼信を生んでいますが、
弟の保輔は大盗人で、殺人事件などを起こした無軌道者でした。

『御伽草子』の「酒呑童子」では、定光、季武、綱、金時の四天王とともに、
保昌が頼光の鬼退治に従ったとあります。

数ある鬼伝説の中でも大江(枝)山の酒呑童子は最も有名な鬼です。
その原像は都に猛威をふるう疫神でした。平安京が都となり人口が増えると、
居住環境・衛生状態の悪い都に疫病がたちまち広がり、
さまざまな祭祀が行われました。当時は疫病は西から
流行すると考えられていたので、都の西に位置する
大江山(京都市西京区老坂峠)は、重要な祭場でした。
頼光は四天王の故事とともに大枝山酒呑童子や土蜘蛛退治の説話や
物語の中で活躍する優れた武将として知られていますが、
当時の貴族の日記や史料には、四天王を率いての化け物退治のような
活躍はみえず、実態はよく分からないようです。


保昌と和泉式部との恋愛がいつ始まったのかは明らかではありませんが、
保昌は道長の薦めもあり、道長の娘彰子に仕えていた
和泉式部と結婚し、彼女とともに丹後に赴任します。
それは和泉式部が和泉守橘道貞と結婚し、小式部内侍をもうけた後に別れ、
為尊親王・敦道親王兄弟との恋愛の末の、30代も半ばのことでした。
弓矢の達人である保昌は、丹後では暇さえあれば狩ばかりしていたので、
必ずしも結婚生活は順調ではなかったようですが、
後半生のほぼ30年間を一緒に過ごしたと思われます。
和泉式部が保昌との関係が上手くいかなくなった頃、
貴船神社に詣で貴船川に飛ぶ蛍をみて詠んだ歌があります。


♪物思へば沢のほたるも我身より あくがれ出る玉かとぞみる

(物思いをしていると、魂が沢を飛ぶ蛍となって、
わが身から抜け出し、闇の空に光って飛んでいる。)

丹後には保昌が任を終えた時、和泉式部は都に一緒に戻らず
「山中」に庵を結び、この地で亡くなったという伝承があり、
宮津と舞鶴を結ぶ間道沿いに式部の墓があります。
王朝美人・才女の末路は憐れであったという伝説が多くありますが、
これもそのひとつと思われます。


清少納言の兄、清原 致信(むねのぶ)は、武門に身を投じ藤原保昌の
有力家人となっていました。保昌と親戚の源頼親との仲は悪く、
頼親は保昌の家人 致信を暗殺しようと企てていました。
寛仁元年(1017)3月、源頼親の命を受けた騎兵および歩兵10余人に
致信は襲われ、
六角富小路の自邸で殺害されました。
『古事談』には、「武士たちはこの場に居合わせた清少納言を法師と見まちがい、
斬ろうとしたが、彼女はとっさに法衣の裾をまくって股ぐらを見せて
難を逃れた」というエピソードが見えます。
藤原道長は頼親について、その日記『御堂関白記』に
「くだんの頼親は殺人の上手なり、たびたび此の事あり」と記し、
道長は武士が殺生を生業とする者であると認識していたようです。


『今昔物語集』には、藤原保昌の説話が収められています。
大筋を簡単にご紹介します。
「十月のある夜中のこと、保昌は狩衣姿で大路を笛を吹きながら歩いていました。
それを見た大泥棒の袴垂(はかまだれ)は、衣を剥ぎ取ろうとしましたが、
なんとなく恐ろしそうなので、寄り添ったまま歩いていくと、
自分を気にする様子も見えず、静かに笛を吹き続けています。
保昌は袴垂が自分の衣装を狙っているのを知ると、自分の家へ袴垂を誘い
「以後もこんな物が欲しいときは、遠慮なくこい」と言って衣装を与えました。
その後、袴垂がこの家の主を確かめると、摂津前司保昌の家でした。
あれが音に聞こえた保昌であったかと思うと、
生きた心地もしなかった。」という説話世界での保昌の風流話です。
祇園祭橋弁慶山   祇園祭浄妙山(筒井浄妙と一来法師)  
『アクセス』
「保昌山会所」京都市下京区東洞院通り松原上ル燈籠町
烏丸四条駅徒歩約7分   
山鉾巡行午前9時~
『参考資料』
 梅原猛「京都発見・丹後の鬼・カモの神」新潮社 角田文衛「平安京散策」京都新聞社
 日本古典全書「今昔物語」(巻25-7)朝日新聞社 「平安京の風景」文英堂
 野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」新人物往来社
 高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」中公新書 
「歴史を読みなおす 武士とは何だろうか」朝日新聞社 
「日本の祭り文化事典」東京書籍株式会社 
「平安時代史事典」角川書店 「日本人名大事典」(5)平凡社 




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須賀神社は、古くは現岡崎東天王町にある東天王社(岡崎神社)に
相対して西天王社とよばれました。
社伝によれば鳥羽天皇皇后の美福門院得子が建立した
歓喜光院の鎮守社として創祀され、
旧地は平安神宮蒼竜楼の
東北にある西天王塚付近にあったと伝えています。


元弘2年(1332)の兵火を避けて吉田神社の末社木瓜神社の傍に移され、

大正13年に旧御旅所の現在地に移り、須賀神社と改めました。 
祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、櫛稲田比売命(クシナダヒメノミコト)、
久那斗神(クナドノカミ)、
八衢比古神(ヤチマタヒコノカミ)、
八衢比売神(ヤチマタヒメノカミ)の五柱を祀り、

昭和39年には交通神社が創始されました。

歓喜光院は永治元年(1141)に美福門院の御願寺として創建され、
現在の平安神宮の北または西北辺にあったとされ、
院地は東西2町と推定されています。

美福門院の死後その娘八条院が伝領すると、女院御所が付設され、
女院は桜の名所であるこの地をしばしば訪れています。
応仁元年(1467)の兵火で焼失し廃寺となりました。

須賀神社・交通神社



美福門院得子の家系は藤原北家の傍流に属し、中・下級貴族の家柄でした。
ところが、得子の祖父藤原顕季(あきすえ)が乳母子として
白河法皇に引き立てられ、
院近臣として急速に台頭してきます。
法皇の寵愛は父の長実にまで及び、
長実は受領を歴任して
巨万の富を蓄え、従三位にまでのぼって公卿となります。


鳥羽上皇の中宮待賢門院璋子は崇徳・後白河両天皇を生み、
白河法皇(鳥羽の祖父)の
庇護のもとで大きな勢力をもっていましたが、
法皇が崩御すると鳥羽は璋子を遠ざけます。

説話集『古事談』には、「崇徳天皇は鳥羽上皇の子ではなく、
璋子が白河法皇と
密通して生まれた法皇の子であり、上皇はそのことを
知っていて、
崇徳天皇を叔父子とよんで嫌っていた。」とあります。
替わって勢力を伸ばしたのが
父の死後入内し、上皇の寵愛を一身に集めた得子(美福門院)です。

得子は崇徳天皇を退位させ、わずか3歳のわが子体仁親王(近衛天皇)を
即位させることに成功します。
鳥羽上皇は病弱な近衛天皇に皇子が誕生しなかった場合に備えて、
崇徳天皇の皇子重仁親王と雅仁親王(後白河天皇)の

皇子守仁親王(二条天皇)を得子の猶子として養育させます。

近衛天皇は17歳の若さで亡くなりました。早速、皇位継承問題が
もちあがり、院近臣や公卿を集めて議定が開かれました。
待賢門院の皇子覚性法親王を還俗させて即位させようとする案や
近衛天皇の姉の八条院を女帝とする意見などもありましたが、
父(崇徳)が皇位を経験した重仁が、帝位につくものと思われていました。

しかし、美福門院は崇徳院政につながる重仁の即位を阻もうと
守仁親王(二条天皇)を押しました。そこへ父をさしおいて、
子が先に皇位を継ぐことは不穏当であると信西が強く主張し、
雅仁親王(後白河天皇)が、ひとまず中継ぎとして即位しました。

後に後白河天皇は「治天の君」として権力を振いますが、
当時は今様に熱中し遊び暮らしていました。
信西の妻紀伊二位は雅仁の乳母です。
信西には、雅仁を即位させて自分がその背後で政治を執ろうという
野心がありました。貴族社会において、乳母は乳母の夫や乳母子らと
一家総出で養君の養育にあたり、
乳母一家と養君の関係はきわめて親密でした。

信西の策謀で天子の器ではないといわれていた弟が皇位につき、
息子の重仁は皇統から遠ざけられました。
崇徳新院が憤慨したのは当然です。
白河法皇以来、院政の権力維持の手段として、幼帝をたて、
青年期に退位させるという方法がとられてきましたが、
この時、後白河天皇はすでに29歳になっていました。

その頃、摂関家でも内紛が起こります。
摂関家の藤原忠実の息子、長男忠通は関白の地位につき、
次男頼長は左大臣でした。
23歳も年の差がある兄弟です。
忠実は頼長の抜群の学才を愛し、忠通から氏長者を取り上げ
頼長に与えたので、忠通は父を憎むようになりました。
また、忠実が鳥羽上皇に働きかけたことによって、
頼長は内覧の宣旨を受けます。天皇の決裁を補佐・助言し
政務に参与する内覧の機能は関白と同じであり、
頼長の内覧就任によって、関白と内覧が並び立つという
異常な事態となりました。
こうして、
父から疎外された忠通は信西、美福門院と手を結びます。
彼らが仕組んだ罠で、近衛天皇の崩御は忠実・頼長父子の
呪詛によるものとの風評がたち、鳥羽上皇はこれを信じたといいます。

後白河天皇即位と同時に忠通には関白の再任の宣旨が下されましたが、
頼長に内覧の宣旨はなく忠実父子は失脚の憂き目をみます。
身に覚えのない噂がもとで宮廷社会から追放された
頼長と崇徳新院が手を組むのは時間の問題でした。
こうした不穏な情勢の中、鳥羽上皇の崩御をきっかけに
保元の乱がまき起こります。

この乱において、美福門院は信西とともに優れた
政治的手腕を見せ後白河天皇方を勝利に導きます。
次いで起こった平治の乱の修羅場をみ、その収束を見届けた後に亡くなり、
遺言により遺骨は高野山に納められました。 

美福門院隠れさせ給ひける御葬送の御供に草津といふ所より
舟にて漕ぎ出でける。
曙の空の景色、浪の音、折から物悲しくて読み侍りける。
♪ 朝ぼらけ漕ぎ行く跡に消ゆる泡の 哀れ誠にうき世なりけり  藤原隆信朝臣
(新拾遺集、巻十、哀傷歌)

藤原 隆信の母は美福門院の女房加賀で、
隆信を連れて藤原俊成に再嫁し定家を生んでいます。

藤原隆信が哀しみにくれ歌を口ずさんだ
かつて草津の湊とよばれた羽束橋辺の風景

下鳥羽は古くは草津といい、京から西国へ赴く人々の乗船地にあたるので、
草津の湊とよばれ、高野山、熊野、四天王寺など
参詣する人々が乗船する地でもありました。
高野山不動院・美福門院陵  
『アクセス』
「須賀神社」京都市左京区聖護院円頓美町1(聖護院の向側)市バス熊野神社下車徒歩約5分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 美川圭「院政 もうひとつの天皇制」中公新書 
橋本義彦「古文書の語る日本史」(平安)筑摩書房 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店

下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社 田端泰子「「乳母の力 歴史を支えた女たち」吉川弘文館



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「此附近平清盛終焉推定地」と刻まれた石碑が、
崇仁(すうじん)市営住宅の一角にあります。
この地はもと平安京八条大路と
鴨川の交差点の近くで、左京八条四坊十三町にあたります。
『吾妻鏡』によると、清盛は治承5年閏2月4日に九条河原口の
平盛国邸で亡くなったと記されています。しかし、近年の研究で、
中原師元の日記『師元朝臣記』に盛国邸は「八条河原口」にあったとあり、
『吾妻鏡』の記述と異なることがわかりました。

鎌倉末期に関東で編纂された記録より、同時代に盛国邸と
身近に接していた師元の日記の方が、信憑性が高いと判断され、
平成24年12月、特定非営利活動法人京都歴史地理同考会によって、
「八条河原口」にあたるこの地に石碑が建てられました。

京都駅八条口から八条通りを東へ進みます。



崇仁の名の由来の説明板の所を左折します。

石碑は須原通りに面したJR東海道線や東海道新幹線のすぐ南にあります。









清盛の遺骸は『平家物語』によれば、六道珍皇寺付近の火葬場で荼毘にふされ、
遺骨は摂津国経の島、『吾妻鏡』によれば山田の法華堂
(神戸市垂水区西舞子付近)に納骨されたと伝えています。

盛国は平家随一の郎党で、憲仁親王(高倉天皇)が皇太子に立つと、
東宮の主馬首を兼任し主馬判官ともよばれました。
憲仁親王が生まれたのは盛国の邸で、父は後白河上皇、
生母の建春門院滋子は清盛の妻時子の異母姉妹にあたります。
清盛は娘(建礼門院徳子)を高倉天皇に嫁がせ、徳子が安徳天皇を生むと
天皇の外戚となり権力を掌中におさめました。
ここは清盛が天皇の外戚となるきっかけを得た地ともいえるでしょう。


壇ノ浦の戦いで平家一門が滅ぼされると、平盛国は捕虜となって鎌倉に連行され、
岡崎義実(三浦義明の弟)に預けられました。すでに出家していた盛国は
日夜一言も発する事なく法華経に向かい、飲食を絶ち亡くなりました。
このことを聞いた頼朝は、盛国の態度に大いに心をうたれたと『吾妻鏡』に見えます。
水薬師寺・延暦寺千手の井(清盛の最期)  
平清盛の墓 (清盛塚・能福寺) 
『アクセス』
「 此附近平清盛終焉推定地」の碑 
京都市下京区屋形町7
JR京都駅八条東口から東へ徒歩7~8分
『参考資料』
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 現代語訳「吾妻鏡」(1)(3)吉川弘文館

 



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