
『平家物語』は冒頭で、お釈迦様のような偉大な方でも、
やがて死を迎えなくてはならない。と語り、
盛んな者はいつか必ず衰え、おごれる者もその栄華はまるで春の夜の夢、
風の前に散る塵のように儚(はかな)いものである、と続けています。
そして中国、わが国の滅びてしまった奢れる人や猛き者の例を挙げています。
その中に「康和の義親」があります。義親(よしちか)は八幡太郎として知られる
源義家の嫡子、頼朝の曾祖父です。その義親が堀河天皇の
康和年中(1099―1104)に九州で乱行し、隠岐に流されたにもかかわらず
出雲で謀反を起こし、平正盛に攻め滅ぼされました。
源頼義とその子義家(1039~1106)の名を高めたのが、
11C後半の東国の戦乱、前九年合戦・後三年合戦です。
後三年合戦で義家が清原氏の内紛を平定したのは、
ちょうど白河上皇の院政が始まった時期でした。
朝廷はこの戦いを私戦と見なし、停戦命令を無視して戦った
義家に何の恩賞も与えず陸奥守を罷免しました。
しかし、京都警護には、源氏の武力を欠かすことができず
大いに利用しましたが、次の官職を与えず、義家はいつまでも
前陸奥守のまま、10年間は閉塞状態でした。
義家が60歳になった頃、ようやく功績が認められて正四位下を賜り、
院の昇殿を許され、復活のきっかけをつかんだ矢先、
晩年の義家を苦境に陥れる事件が起こりました。
任国にいた義家の嫡子対馬守義親は、大宰府の命に従わず、
官物を奪い取るなどして、大宰権帥(ごんのそち)に訴えられました。
義家は義親を連れ戻そうと腹心の郎党藤原資通(すけみち)とともに
朝廷の官使を派遣しましたが、資通はかえって義親に味方し、
その官使を殺害し、翌年、義親は隠岐島へ配流されました。
そして一門の前途を案じながら、老雄義家が68歳の生涯を終えた
翌年の嘉承2年(1107)義親は隠岐を脱出して、対岸の出雲に渡って
国府を襲い、出雲国の目代を殺害しました。義親の謀反です。
朝廷は出雲に近い、因幡国守平正盛を追討使に抜擢しました。
勇猛で名高い義親の追討は、武名を挙げる絶好の機会です。
同年12月19日、正盛は出立するにあたり、摂政藤原忠実に馬を賜り、
郎党を率いて義親の京都の邸宅に行き、鬨をつくること三度、
鏑矢を三本放ち、門の柱を切り落として颯爽と出雲に赴きました。
鎌倉時代の成立とされる『大山寺縁起』によると、
義親は蜘蛛戸(くもど)の岩屋に立て籠もったものの、船を連ねて
岩屋に向かった正盛にたちどころに討ち取られてしまいました。
「蜘蛛戸」は島根半島の先端、美保関の北に位置する雲津浦のことです。
京を出立して1ヶ月後、早くも義親とその家来を討ち取ったという
報告が朝廷に届けられると、朝廷は正盛の入京を待たず、
正盛を因幡守から、但馬守に任命してその功績を讃えました。
『中右記(ちゅうゆうき)』は、正盛は功績も大きいし、帰京前の任官は
先例もあるが、貴族社会の最下層である「最下品(さいげぼん)」の者を
但馬のような「第一国」に任ずるとは許しがたい。と記しています。
天仁元年(1108)正月29日、義親の首を携えた正盛は、多くの郎党を引き連れ、
鳥羽殿で凱旋パレードを白河院にお披露目し、鳥羽作道から京に入ると、
その姿を一目見ようと、物見高い人々で沿道は溢れかえりました。
これ以降、正盛の地位は上昇し、源氏は一路、
衰退への途をたどることとなりました。

「平清盛」(図1平安時代後期とその周辺)より、一部引用しました。


鳥羽作道(とばのつくりみち・鳥羽造道)
平安京の入口である羅城門前より一直線に南下し、
鳥羽に通じる道を「鳥羽作道」とよびました。
平安京造営に必要な資材を運搬するために作られ、その末は桂川を経て
久我(こが)畷に接し、河陽関(現、大山崎)へ、また淀にも続いていました。
多くの外国使節が鳥羽作道を通って羅城門へ、そこから洛中に入り
朱雀大路を経て朝廷に至りました。
院政期、鳥羽離宮が造営されると、この道は鳥羽離宮と
洛中とを結ぶ重要な道路となり、今も国道一号線の西、
千本通りにその真っすぐな道の一部が残されています。


羅城門跡の碑が建つ児童公園から、千本通(鳥羽作道)を南へ歩きます。


平正盛が凱旋した道です。


下向井龍彦氏は「白河院は独立独行の武家の棟梁義家一門を嫌い、
弱小在京武士である平正盛に目をつけ、院に忠実な武家の棟梁に
育てあげようとして正盛を華々しくデビューさせる機会をうかがっていた。
義親追討は院が正盛を新たな英雄としてデビューさせるために
仕組んだ政治ショーだったのである。」と述べておられます。
(『日本の歴史07 武士の成長と院政』)
凱旋パレードの興奮からさめると、京の人々は、かの八幡太郎の息子で、
「悪対馬守」と恐れられた義親が何の武功もない正盛に
あっけないほど簡単に討ち取られたことを不審に思いはじめました。
義親追討後十年もたった頃、義親を名のる人物が各地に現れ、
義親生存説が長く流布したほどです。
伊勢平氏は頼信・頼義・義家と全盛を誇る源氏の影に隠れ、
長い間低迷を続けていました。平氏が院政と結びついて飛躍し、
清盛に続く平氏全盛の歴史が始まるのは、清盛の祖父正盛からです。
正盛は隠岐守在任中の永長2年(1097)、伊賀国山田村・鞆田(ともだ)村の
所領を白河上皇の亡き最愛の娘提子(ていし)内親王の菩提所
六条院に寄進し、上皇の目にとまり恩寵を得ました。
六条院は、藤原顕季(あきすえ)が建立した白河上皇の御所
六条殿(六条北、高倉東、六条坊門南、万里小路西の一部)でしたが、
のち媞子内親王はここを御所とし、内親王が亡くなった後、
上皇はかつて共に暮らした御所を寺院に改めたものです。
しかし身分の低い正盛が直接上皇に所領寄進を申し出ることはできません。
「正盛は祇園女御や院近臣の藤原顕季に仕えたことから、この二人が正盛を
院に結びつけ、平氏を世に出した人々である。」(『平家物語の虚構と真実(上)』)
この所領寄進の効果はまもなく現れ、正盛は若狭守となり、
さらに収入の多い因幡守に任じられました。
一方、義親の任国、対馬国は面積が狭く、収入の少ない国でした。
義家は後三年合戦に勝利したものの、朝廷は私戦として
論功行賞を認めなかったため、私財をなげうって従軍した兵に報いました。
その上、後三年合戦に紛れて、陸奥守として最も重要な職務である
朝廷に対する官物(納税)の納入を怠ったためその完済に追われ、
さらに摂関家領荘園の職まで奪われていました。
義親は父義家の血を受けて武勇に優れた武将でしたが、
父ほどの才覚はなく、思慮分別に欠けていたという。
「成功(じょうごう)の規模によって任じられる国の格が決まるので、
義親が小規模な成功しか行えなかったことには、河内源氏の経済的な
困窮が反映しているのではなかろうか。そうして辛うじて得た地位に
義親は満足できなかったのであろう。(『河内源氏』)
成功とは、朝廷の寺社の造営などの際、私財を出して土木工事を
請負う見返りとして官位や位階を得る制度のことです。
平正盛は朝廷に対する経済的奉仕を念入りに行いましたが、源氏は
経済的に窮乏し、平氏のような奉仕がどうしてもできなかったのです。
鳥羽離宮跡(鳥羽殿)を歩く 平正盛の墓(置染神社)
『アクセス』
「羅城門跡の碑」京都市南区唐橋羅城門町54
九条通から少し北に入った児童公園内に建っています。
市バス「羅城門」下車 徒歩約2分 または近鉄京都線 「東寺」駅下車 徒歩約15分
『参考資料』
高橋昌明「清盛以前」文理閣、2004年 元木泰雄「河内源氏」中公新書、2011年
高橋昌明「平家の群像」岩波新書、2009年
下向井龍彦「日本の歴史07 武士の成長と院政」講談社、2001年
安田元久「人物叢書 源義家」吉川弘文館、平成元年
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(上)」塙新書、1994年
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
元木泰雄編「日本の時代史7 院政の展開と内乱」吉川弘文館、2002年
美川圭「院政」中公新書、2006年 上杉和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
京都市平安京創生館ガイドブック「平安京講和」京都市生涯学習振興財団、2007年
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛南)」俊々堂、昭和61年
京都市埋蔵文化財研究所「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年