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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



元歴元年(1184)、朝廷は讃岐で亡くなった崇徳院の冥福を祈り怨霊をなだめるため、
保元の乱の戦場となった白河北殿の旧地に粟田宮を建立し、
院遺愛の八角の大鏡をご神体にして、
崇徳院とともに藤原頼長・源為義の霊を祀りました。

粟田宮は春日河原に祀られた御廟で、賀茂川の水害を避けるため、
東方の地に移されました。現在京都大学医学部付属病院の敷地となっている
聖護院河原町をその址と伝えています。
度々災害にあい再建をくりかえしましたが、応仁の乱の兵火により荒廃しました。
その後、洛東粟田神社、東山安井の蓮華光院に
移したともいわれますが、明らかではありません。

御廟が粟田宮とよばれるのは、粟田郷にあったことによるものです。

◆崇徳天皇御廟
祇園甲部歌舞練場の裏側に崇徳天皇の廟所があります。
『愚管抄』によると、保元の乱で敗れ、讃岐に配流された天皇の崩御後、
天皇の寵妃烏丸殿が綾小路河原(祇園町南側)の自邸内に
天皇の御影堂を建て菩提を弔ったという。
また『山州名跡誌』によれば、天皇の寵妃の一人阿波内侍
が天皇の崩御後、
その霊が夜毎、光ものとなって現れるので出家し、自邸内に
仏堂を建てて天皇の
菩提を弔ったのが始まりといわれ、
人々はこれを光堂と呼んだとしています。明治維新で仏寺は廃寺となり、
御廟だけが残ったとしています。

『昭和京都名所図会』によると、
阿波内侍は知足院公種(きんたね)の娘で、
天皇の崩御後、仏門に入り仏種尼と称しました。
烏丸殿と阿波内侍は同一人物とも思われますが、
知足院公種という人物については不詳。

治承元年(1177)、後白河院は崇徳院の霊を慰めるため、
崇徳院の御願寺である
成勝寺で、法華法要を行ないました。
崇徳天皇廟・阿波内侍の塔  
◆崇徳地蔵・人喰い地蔵
 「崇徳天皇廟」の旧地に一体の地蔵尊がありました。
崇徳院御影堂の遺物と伝わるこの石仏は明治時代、京都大学医学部
付属病院の建設にともなって聖護院の積善院準堤堂に移されました。
「人喰い」は崇徳(すとく)がなまったものといわれています。


聖護院
 聖護院積善院準堤堂の崇徳地蔵

藤原頼長桜塚址
白河北殿の東部にあたる地に(現・京大熊野寮の東南隅)むかし、
左府(左大臣)藤原頼長の塚があって左府(さふ)塚がなまって
桜塚と呼ばれていたという。
明治になって絹糸紡績会社の工場拡張により塚は破壊され、
石塔とともに相国寺内の総墓地に移されました。
(石塔の横の副碑は移転の由来を記しています。)
頼長は若いころから、学問に優れ生真面目で厳しい性格で
「悪左府」とよばれました。
悪左府とは、恐ろしいくらい頭の切れる左大臣くらいの意味です。

副碑に刻まれた碑文の大意は、
「KA130 藤原頼長墓副碑 碑文の大意 京都市」より転載。
「藤原頼長(1120~56)は,崇徳上皇・源為義らと結び保元の乱を起し敗死した。
相国寺総墓地にある頼長の墓あるいは首塚と伝える五輪塔は,
もともと左京区東竹屋町(丸太町東大路西入)の現京都大学熊野寮の地にあり
『拾遺都名所図会』巻二には「桜塚」と呼び,宇治悪左府頼長の社の旧地とする。
明治21(1888)年,第一絹糸紡績会社が創設され東竹屋町の地に工場を建て,
塚は同工場内に取り込まれた。同社は明治35年に同業会社と合同して
絹糸紡績会社となり,同44年に鐘淵紡績に合併された。
明治40年に工場増築のため塚を発掘し,五輪塔を相国寺墓地に移し,
経緯を記した碑を建てたものである。 
碓井小三郎著『京都坊目誌』(上京第二十七学区)には「(絹糸紡績会社が)
敷地狭隘に名を籍り,無情にも之を発き,地を夷ぐ。
塚の下に石棺の如きものを発見す。
会社は之を相国寺境内に移す。古蹟保存は終に金力の為に犯さる。
事業の発達は慶すべきも,史蹟を失ふは亦歎ずべき也」と嘆いている。」


相国寺の墓地は本坊より西、奥まったところに広大な地を占めています。
頼長の墓は入口を入って左、墓地中央よりやや東寄りにあります。
その傍には、伊藤若冲・足利義政・藤原定家など
歴史的著名人の墓が並んでいます。


藤原頼長の墓(右)と副碑
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔  
白峯神宮
讃岐に流された崇徳院は、恨みと憤りの日々を送り配所で崩御しました。
遺骸は白峰陵(香川県坂出市)に葬られ、院の木造を祀った白峰寺が建てられます。
後世の人々は異変、事件のたびに崇徳新院の祟りと恐れ、
幕末の孝明天皇は都に帰ることなく讃岐の土となった新院の霊を慰めることを
考えていましたが急逝、その遺志を継いだ明治天皇によって明治元年(1868

神霊とともに、讃岐白峰寺の院の木像が白峯神宮に祀られました。
 後に淡路島の配所で崩御した淳仁天皇も合祀されました。
神社の敷地は、もと飛鳥井氏(和歌・蹴鞠の宗家)の別邸でしたが、
白峯神宮造営に際し、同家の寄付によると伝えられています。


白峯神宮伴緒社
本殿東側の伴緒社には、保元の乱に崇徳新院のもとに馳せ参じた
源為義・為朝が祀ってあります。

保元の乱その後
讃岐白峯に流された崇徳院は、五部大乗経を筆写し都近くの寺に納めたいと
願い届けますが、許されず送り返されてきました。怨念に燃えた院は「大魔王となり
子々孫々まで皇室に祟りをなさん」と言って爪も切らず髪も剃らず、やつれた姿で
生きながら天狗の姿となり、46歳で配所において崩御されたと伝えられています。

♪うたたねは荻吹く風におどろけど 長き夢路ぞさむる時なき
                          崇徳院(新古今和歌集1804)
(うたたねは荻を吹く風の音に目覚めたけれども、
長い迷いの夢路からはまだ覚める時もないよ)

平清盛は叔父の忠正、忠正の子長盛、忠綱、正綱を
六条河原(六波羅とも)で斬り、この戦いで一番の功労者源義朝は、
その功績に引き換えて父為義の助名を願いますが、
赦されず父を船岡山(七条朱雀とも)で弟たちを船岡山で処刑します。

源為朝(1138~70?)
為義の八男で母は江口の遊女の鎮西八郎為朝は、幼い頃より武勇に優れ、
特に弓の技術は抜群だったと伝えられています。
13歳の時、鎮西(九州)に渡って豊後国に居住し、肥後国の阿蘇氏
(薩摩国阿多氏とも)の婿となり、周辺の武士を傘下に入れようと
奔走して騒ぎを起こしますが、父為義はこれを制止できず解官されました。
保元の乱では為義とともに、崇徳新院方につき奮戦しますが敗れ、
死罪になるところを武芸に長けていたため、
伊豆大島への流罪に減刑されますがここでも暴れ、
伊豆在庁狩野茂光の軍勢に攻められて自害しました。
『アクセス』
「聖護院」左京区聖護院中町15 市バス「熊野神社前」下車徒歩5分
「崇徳天皇廟」東山区祇園町南側(祇園歌舞連場裏) 市バス「祇園」下車徒歩5分位
「相国寺」上京区今出川通烏丸東入る 市バス「同志社前」下車すぐ
「白峯神宮」上京区今出川通堀川東入飛鳥井町 市バス「今出川堀川」下車すぐ
『参考資料』
白洲正子「西行」新潮文庫 小松和彦「日本の呪い」知恵の森文庫 
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)(洛東下)駿々堂
竹村俊則 「京の墓碑めぐり」京都新聞社
村井康彦「京都事典」東京堂出版 「平安時代史事典」角川書店

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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白河北殿は平安時代末、白河法皇によって造営された院御所で、
鴨川東の白河南殿に対して北隣の御所を指し、その跡地は熊野神社より西、
川端通(鴨川畔)に至る丸太町通を挟んだ南北一帯の地です。
(左京区聖護院川原町・東丸太町・東竹屋町・聖護院東寺領町)
白河法皇の崩御後は、鳥羽院の御所、
その後は上西門院統子(崇徳院の同母妹)の御所、
保元の乱では崇徳院方の本拠地となり、
後白河天皇方による夜襲で全焼しました。この時、統子は
父鳥羽院の死去に際し、鳥羽殿に移りこの御所を留守にしていました。


『保元物語』によれば、保元元年(1156)7月2日、鳥羽院が
鳥羽殿で崩御すると、
崇徳新院は同月10日に鳥羽田中殿より
この御所に移り、藤原頼長とはかって
軍勢を集めました。
しかし院の崩御前から準備を進めていた後白河天皇方に比べ

だいぶ出遅れた上、その軍勢は崇徳新院や摂関家に仕えていた
武士ばかりで、
源義朝・平清盛らの有力武士に加え
検非違使や衛府にも動員をかけた
後白河天皇方に比べ
明らかに見劣りのする部隊でした。

大炊御門面の東門には平忠正・多田頼兼、西門には鎮西八郎為朝が守り、
西河原面の門には六条判官為義、北の春日面の門には平家弘が固め、
軍勢は一千騎に
達しましたが、御所が広くて
どこに人がいるのか分からない位だったと記しています。


「此附近 白河北殿址」と刻まれた石碑が、
京都大学熊野寮敷地の北西角の茂みの中に見えます。

石碑の側面には、「昭和十四年三月建之 
京都市教育会」とあります。

この付近には白河上皇の院の御所「白河北殿」がありました。

保元の乱以前◆天皇家
白河法皇が崩御すると鳥羽上皇は祖父白河との関係を噂されていた待賢門院璋子を
遠ざけて「叔父子」と噂のあった上皇の第一皇子・崇徳天皇を退位させます。

代わって美福門院得子が生んだ体仁親王(近衛天皇)を即位させますが、
病弱な近衛天皇は十七歳で亡くなります。天皇に嗣子なく鳥羽上皇は崇徳新院の
皇子重仁親王ではなく、新院の弟雅仁親王(後白河天皇)を即位させます。
わが子の即位を強く望む新院は後白河天皇に反発します。
◆摂関家
藤原忠実は康和元年(1099)父の急死により22歳で氏長者(藤原氏トップ)
の座に就きます。藤原氏は代々外戚となって政界を支配してきましたが、
当時は白河法皇の院政最盛期にあり、摂関家の勢力回復に努めた忠実は
保安2年(1121)法皇に罷免され、長男忠通が関白・氏長者となります。
白河法皇が崩御し鳥羽上皇が政務をとりはじめると、法皇から疎まれていた
前関白忠実・次男頼長を上皇は政界に復帰させます。
忠実は摂政の座を次男の頼長に譲るよう忠通に頼みますが断られ、
忠通から氏長者を強引に取り返し頼長に与えます。
摂政職をめぐって父子関係は悪化し忠実は長男忠通を義絶します。
近衛天皇の崩御は崇徳新院の呪詛だとか忠実・頼長が呪詛していたという
噂が乱れとび、忠実父子は鳥羽上皇の信頼を完全に失い再び失脚します。

「保元の乱」
保元元年(1156)鳥羽法皇の死(7月2日)を機に皇位継承に不満を抱いていた
崇徳新院と弟の後白河天皇が対立し、摂関家内部でも藤原忠通、頼長兄弟との
亀裂が絡み合って起こった戦いです。
崇徳新院方の白河北殿では新院と頼長に源為義・鎮西八郎為朝父子、
平忠正(清盛の叔父)らの武士がつき作戦会議が開かれていました。
鎮西で武勇を誇った為朝は「勝利するには夜討ちに及ぶものはない。」と主張しますが、
頼長は「それはあまりにも荒っぽい。朝になると、父忠実が手配してくれた興福寺の

僧兵千騎余がこちらに着くだろうから正々堂々と戦いをすればよい。」と主張するので、
奈良からの援軍を待って出撃ということになりました。これが大きな失敗でした。

一方の後白河天皇、関白忠通側では、手狭な高松殿から東三条殿に移り
信西、忠通の子14歳の基実、平清盛、源義朝らが軍儀を開きます。
義朝が「まず夜討ち!」を称えると、これに信西(しんぜい)が賛同し、
7月11日未明義朝、清盛、源義康の兵600騎が三手に分かれ新院方のたて籠もる
白河北殿に先制攻撃をかけ、源頼政らの200騎の軍勢がこれに続きました。
白河北殿を必死で守る為朝の奮戦も及ばず4時間半程の戦いの後、
朝廷側が勝利します。千余騎で固めていた白河北殿は炎上し、
崇徳上皇は北殿を出て三井寺に逃れようと東山の如意ヶ嶽に上りますが、
山は険しく夜に紛れて下り、紫野の知足院近くの僧坊で出家し、
弟覚性法親王のいる仁和寺に入りました。(『保元物語』)
しかし、すぐ内裏に知らされ、寵妃兵衛佐局(重仁親王の母)らとともに讃岐に流されます。
兵衛佐局は、法勝寺執行信縁の娘で、大蔵卿源行宗の養女です。
頼長は流れ矢を頸にうけ奈良への途中、氏寺興福寺に逃れた父忠実に
使者を送り面会を求めますが、忠実は会おうとはしません。
絶望した頼長は舌を噛み切り最期を遂げます。
負けた側の武士は捕らえられ処刑されることになりました。
源為義を子の義朝が、平忠正を甥の清盛がなどそれぞれ一族の手で、
斬首させるという厳しい措置がとられました。
「保元の乱ゆかりの地」(2)高松神明神社・東三条殿址 
保元の乱ゆかりの地(3)崇徳地蔵・崇徳天皇廟・藤原頼長桜塚・白峯神宮 
『アクセス』
「白河北殿の碑」京都市左京区丸太町通東大路西入南側 京都大学熊野寮内
市バス「熊野神社」下車徒歩5分
『参考資料』
橋本治「権力の日本人」(双調平家物語ノート)中央公論新社 
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店

 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)(洛東下)駿々堂 「歴史のかたち」読売新聞大阪本社
 






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高松神明(しんめい)神社は、高松殿(たかまつでん)の
鎮守の社として祀られていました。
この社は白河法皇の頃には、美福門院の祖父藤原顕季(あきすえ)の
邸宅となっていましたが、鳥羽上皇はこの邸宅を買い上げて
院宮を造り、ここを御所としました。
邸宅の名は池の中島に生えていた高い松の木に由来するという。

久寿2年(1155)に後白河天皇は、高松殿で即位して
ここを里内裏とし、政務を執ったので高松内裏ともいわれました。
保元元年(1156)の
保元の乱では、 崇徳上皇方の白河北殿に対して
後白河天皇方の本拠地となり、源義朝や平清盛の軍勢が
高松殿にぞくぞくと集結しました。
これは1町(121㍍)四方の邸宅で、
手狭なため軍勢が白河の地に出発した後、高松殿を離れた天皇は、
北隣にある左大臣藤原頼長の東三条院を接収し、そこに本陣を移しました。
平治元年1159)の平治の乱で、御所は焼失しますが、
高松明神は、現在も高松神明社として残っています。

なお、保元の乱で源義朝の夜襲策を取り入れ、天皇方を勝利に導いた信西の邸は、
『平治物語』によると、
姉小路西洞院(高松殿の南西あたり)に
あったと記されています。 
三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  

室町時代には、神明寺宝性院という神仏習合の寺院でしたが、
明治の神仏分離によって高松神明神社と名を改めました。
鳥居の傍にたつ「此附近高松殿址」の碑

高松神明神社


東三条殿は仁安元年(1166)に焼失し、
釜座通り押小路の角に「此附近東三條殿址」の碑がたっています。



東三条殿は二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130m、

南北約280mに及ぶ細長い地域をいい、はじめ醍醐天皇の皇子重明親王の
邸でしたが、平安時代初期に藤原良房が譲り受けた後は、藤原氏出身の
女子で皇妃母后となった人が居住する慣わしとなっていた所です。
その後、邸は道長に引き継がれ、頼通の頃から藤原氏の
重要な儀式はここで
行われるようになります。
師実、師通、忠実、忠通と代々藤原氏の氏長者の
伝領でした。

忠実(ただざね)は東三条殿を一時、長男忠通に伝えますが、
久安6年(1150)、忠通を義絶して次男の頼長に与えました。
しかし、保元の乱で頼長は朝敵として滅びたので没収されています。

東三条殿想像復元図 『日本歴史館』より引用させていただきました。
『アクセス』
「東三条殿址の碑」京都市中京区押小路通釜座上松屋町 市バス「新町御池」下車2分
又は市バス「二条城前」下車5分
「高松神明神社」京都市中京区姉小路釜座東入北側 市バス「新町御池」下車2、3分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 角田文衛「平安京散策」京都新聞社
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
「日本歴史館」(株)小学館、1993年

 

 

 
 

 

 

 

 


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七条通り、七条七本松の信号近くにある路地入口には、「源為義公墓」の碑が見えます。

突き当りが権現寺で、門前西側の一角に為義の墓があります。

『昭和京都名所図会』によると、この墓は現在の中央卸売市場のある
下京区朱雀堂ノ口町に
ありましたが、明治45年(1912)京都駅停車場拡張により、
権現寺とともに現在地に移されました。


源為義は義朝の父で、六条堀川に館を構えていたことから
六条判官とよばれる源氏の棟梁でした。
大内裏の一番外側を管轄する左衛門府の尉官と市街地を担当する
検非違使(現在の警察にあたる)を兼ねた職を判官といいます。

保元元年(1156)、鳥羽法皇の死を機に後白河天皇と崇徳院とが争った
保元の乱では、息子の義朝は清盛、藤原忠通とともに後白河天皇につき、
為義は八男の鎮西八郎為朝や藤原頼長とともに崇徳院方に味方しました。
親子敵味方に分かれたこの戦いは後白河方が勝利しました。

敗戦後、義朝を頼って為義は降伏しましたが、父に対する義朝の助名嘆願は
容れられず、朝廷の命で朱雀野にて為義は義朝の家臣に処刑されました。

『兵範記』には、為義は朱雀野で斬られたのではなく、義朝の弟頼賢・頼仲・為宗・
為成・為仲らと一緒に
船岡山付近で処刑されたとされています。
白峯神宮の伴緒(とものお)社には、為義・為朝父子が祀られています。
白峯神宮 (崇徳天皇)
『アクセス』
「権現寺」下京区朱雀裏畑町20  市バス「七条千本」下車すぐ
『参考資料』
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川書店 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス

 「平安時代史事典」角川書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂



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西行(1118~1190)は俗名を佐藤義清(のりきよ)といい、鳥羽上皇の北面の
武士として活躍しました。また家人として徳大寺家に仕えますが、
23歳の時に出家、諸国を行脚し、多数の和歌を詠み後世に影響を与えています。

崇徳天皇(1119~1164)は鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、
母は徳大寺家、権大納言藤原公実の娘・待賢門院璋子で、
雅仁(後白河天皇)は、同母弟にあたります。

崇徳天皇の出生について、鎌倉時代の説話集『古事談』には、
「実は天皇は鳥羽天皇の祖父・白河法皇と璋子の間に生まれた子で、
人々はこれを知っていて、鳥羽天皇も崇徳を叔父子とよんでいた。」とあり、
これが保元の乱の一因になったとされています。
この間の事情は、角田文衛氏が『崇徳天皇の生誕』、『王朝の残像』、
『待賢門院璋子の生涯』で、詳細な研究結果を発表されています。
崇徳天皇は優れた歌人で、ひとつ違いの西行とは和歌を通じて親交がありました。

西行が歌人として始めて認められたのは34歳の時です。
勅撰集『詞花和歌集』に読み人知らずとして一首入りました。当時、
西行はまだ歌人としても名をなさず、身分も低いため名をかくされたものです。
この歌集は、当時、歌壇の中心的存在であった崇徳上皇が、
藤原顕輔(あきすけ)に命じて選ばせ、仁平元年(1152)に完成しました。

その後、藤原俊成が撰者となった勅撰集『千載集』に18首入りましたが
千載集が完成した時には西行は71歳になっていました。
崇徳上皇も勅撰和歌集に77首も入っています。

生まれながらにして暗い影を負わされた崇徳上皇は悲しい歌を数多く詠んでいます。
西行と崇徳上皇は歌の上だけでなく、身分の違いをこえて
互いに親しい感情をいだいていました。

ある時、西行に縁のある人(一説に藤原俊成とも)が崇徳上皇の勘気にふれたので、
西行が許しを願う歌を上皇に送ると西行の願いを聞き入れて許されたことがあります。
上皇から西行が深く信頼されていたことがうかがわれるエピソードのひとつです。

皇位をめぐる争い、保元の乱で弟の後白河天皇に敗れた崇徳上皇の許へ、
いち早く西行は馳せ参じています。上皇は仁和寺の同母弟、覚性法親王を
頼って仁和寺に入ったのです。敵方に囲まれた仁和寺の上皇を訪ねることは、
身の危険をともないますが、それを承知で西行は思い切った行動をとっています。
二人の間には深い心のつながりがあったことが知れます。

そして崇徳上皇は讃岐に配流され、西行は心を鎮め仏道修行に励まれることを
願った歌を上皇の許に数多く送りましたが、

たずねて行くことはしませんでした。その心中は分かりません。
♪その日より落つる涙を形見にて 思い忘るる時の間もなし 西行
(讃岐へ配流された日から、別れの日に流した涙を形見にして、
上皇のことは片時も忘れたことはありません。)


配流の九年後の長寛二年(1164)八月、崇徳上皇は46歳で崩御、
の死は狂死、病死、自殺他、
二条天皇(後白河法皇の子)の命を受けた
三木近安によって
御子たちとともに柳の木の下で暗殺されたともいわれ、
そこには「柳田」という碑が立っています。
大魔王となって子々孫々まで皇室を滅ぼさんといわれたことが都に伝わり、
始末されたとしても不思議ではありません。これも崩御にまつわる伝説の一つです。

崩御の段階で崇徳上皇という謚(おくり名)は、まだなく
「讃岐の院」とよばれていました。
十四年後の安元三年、鹿ケ谷の謀反が勃発した時、
これは讃岐の院の祟りであるとされ、
その霊を慰めるため「讃岐の院」の院号が「崇徳院」と改められ、
保元の乱の古戦場、春日河原に「粟田宮」が祀られました。

上田秋成の『雨月物語』の巻頭を飾る白峰の「逢坂の関守に許されてより、秋来し山の
紅葉見過ごしがたく、浜千鳥の跡踏みつくる鳴海潟、不尽(富士)の高嶺の煙、
浮島が原、清見が関、大磯小磯の浦々、紫にほふ武蔵の原、塩釜の凪たる朝景色、
象潟の海士が苫屋、佐野の船橋、木曽の桟橋、心のとどまらぬかたぞなきに、
なほ西の国の歌枕見まほしとて…」という道行き文に誘われて、
白峯御陵を
参拝したのはあちこちに山藤が咲き始める平成14年の晩春、
「西鉄旅行四国霊場巡礼」四国遍路のバスツァーでした。

四国八十八ヶ所の八十一番札所「白峯寺」は高松市の少し西、

青、白、黒、紅、黄の峰々が連なる五色台の中、白峰(337m)にあります。
白峯寺の石段下、杉木立の奥に白峯御陵はありますが、
お遍路さんで賑わう境内と違って、ここは訪ねる人もない寂しい御陵です。



崇徳天皇白峯陵(平成28年3月撮影)

頓証寺殿(とんしょうじでん)は崇徳院の御廟所で
傍には参詣した西行をあらわした石像や西行と崇徳院の歌碑、
勅額門(勅使門)には保元の乱で崇徳院方について戦った源為義、為朝の像、
頓証寺殿後方には源頼朝寄進の燈籠や、
皇室、幕府が崇徳院の霊を慰めるために寄進したものも多く残っています。

♪啼けば聞く聞けば都の恋しさにこの里過ぎよ山ほととぎす

♪浜ちどり跡は都に通へども身は松山に音(ね)をのみぞ啼く
(浜ちどりの足跡のような文字だけは都に行くけれども、
我身は遠い松山に都が恋しくしのび泣いている。)
(上皇が写経を都に送った時添えた歌)


西行が
讃岐へ行ったのは、上皇の死から四年後の仁安三年(1168)の
秋のことで、
御陵参拝と弘法大師修行の地巡礼のために旅立ちます。

西行は讃岐につくとまず上皇が住まわれていた「雲井の御所」や

崩御される迄過ごされた「鼓ヶ岡行在所」を訪ね歩きますが、
その遺跡は跡形もなくなっていました。

♪松山の波に流れて来し舟の やがて空しくなりにけるかな
(松山で波に流され着いた舟がやがて朽ち果てたように
崇徳院は崩御されてしまったのだなぁ)


♪松山の波の景色は変わらじを かたなく君はなりましにけり
(松山に寄せる波は変わっていないのに、崇徳院は跡形もなく
なってしまわれたのだなぁ)
と落胆した気持ちを詠み、
御陵へ向かいますが、粗末な御陵は荒れはてて
蔦や葛がからまり見る影もない有様です。
♪よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん
(かって都でお住みになりました金殿、玉楼といってもこのように
崩御された後では
何になりましょか、何の役にも立たぬものなのです。)

西行の詠んだこの三首の和歌が、崇徳上皇の亡霊と西行が
語り合ったとの
伝説を生み、文学や芸能に大きな影響を与え、
『保元物語』、『撰集抄』、『沙石集』や謡曲『松山天狗』などがつくられ、
さまざまに語られてきました。
『保元物語』、『松山天狗』では、西行が「よしや君 昔の玉の…」の歌を詠むと
やがて廟所が鳴動したとあります。 

江戸時代になると上田秋成は、『雨月物語・白峰』の中で、
崇徳院の御陵に詣でた西行が、あまりの荒廃ぶりに嘆き、
そこで読経しながら、
一夜を過ごしていると「円位(西行の法号)」
「円位」と崇徳上皇の霊が呼びかけ、
保元の乱の経緯や配流後の宮廷や
平家一族への恨みを盛んに語ります。そして
大魔王と化した上皇の霊と
西行との論戦を伝説を交えながら幻想的に描いています。
崇徳院ゆかりの地(西行法師の道)  
崇徳院ゆかりの地(白峯御陵)  
崇徳院ゆかりの地(白峯寺)  
『アクセス』
白峯寺」「白峯御陵」 香川県坂出市青海町
JR予讃線坂出駅よりバス20分 「高屋」下車 徒歩約1時間
『参考資料』
高木きよ子「西行」大明堂 白洲正子「西行」新潮社 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
佐藤和彦・樋口州男「西行のすべて」新人物往来社 「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館
新潮日本古典集成「雨月物語 癇癖談」 新潮社 「香川県大百科事典」四国新聞社
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 



 

 

 

 

 






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白峯神宮は明治元年(1868)に明治天皇が父孝明天皇の遺志をつぎ
讃岐の白峰(香川県坂出市)より崇徳上皇の神霊を移し祀ったのがはじまりです。

崇徳上皇は皇位をめぐって弟の後白河天皇と争い、保元の乱で敗れ、
讃岐の配所で崩御し、遺骸は白峰陵に葬られました。
以後、相次ぐ天変地異や源平の争乱は、上皇の祟りと信じられて恐れられました。

幕末、孝明天皇は都に帰ることなく讃岐で亡くなった崇徳上皇の霊を
京都に迎えようとしましたが、果たせず
その遺志を継いだ
明治天皇が明治改元にあわせて、白峯神宮を造営しました。
勅使は讃岐の白峰陵の前で宣命を読みあげ、
上皇の木像とともに神霊を迎えて京都に帰りました。
次いで明治6年、淡路国天王森山陵(兵庫県三原郡南淡町)の
淳仁天皇の霊も合祀されました。
淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱に巻き込まれ、
孝謙天皇に対して謀反を計ったという罪で淡路島に流され、
翌年の神護元年(765)配所で崩御しました。

社地はもと蹴鞠、和歌の家元・飛鳥井家の別邸でしたが、
飛鳥井氏が寄付し、飛鳥井氏の鎮守神、毬大明神は摂社に祀られました。

これに因んで毎年七月七日には、毬精大明神祭が行われ蹴鞠が奉納されます。



拝殿

崇徳天皇のファンの寄付によって建てられたという石碑。
  秋季例大祭 崇徳天皇祭は九月二十一日に行われ、
十一月十五日には、弓の奉射神事・伴緒社祭もあります。


本殿東の末社、伴緒(とものお)社は保元の乱の際、
崇徳天皇のもとに馳せ参じた源為義・為朝父子の霊を祀っています。

源為義は保元の乱では、子の為朝とともに崇徳院方につきましたが敗れ、
後白河天皇方についた嫡子義朝を頼って降伏します。
しかし、義朝の戦功に代えての助命嘆願もかなわず処刑されました。


源為朝は義朝(頼朝の父)の弟で、武勇に優れ弓をひいては当代随一といわれ、

13歳の時、鎮西(九州)に渡って九州に勢力を張り、鎮西八郎とよばれました。
たまたま上洛していた時に保元の乱が起こり、父とともに崇徳新院方について戦い
大いに奮戦しますが敗れて行方をくらまします。まもなく捕えられ肩と手の関節を抜かれて
伊豆大島に流罪となります。ここで島の代官の婿となって大島はじめ近くの島を
領有して騒ぎを起こし、後白河院の命を受けた討伐軍に攻められ自刃しました。
江戸時代滝沢馬琴によって、壮大なスケールの為朝一代記
『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』が著され人気を博しました。


オガタマノ木(京都市指定天然記念物)は樹齢が八百年と考えられることから、
飛鳥井家の邸宅であった時代に植えられたものと見られています。
5月初めに珍しい花を咲かせ、その実の形から
巫女が神楽などで使う鈴をかたどったといわれ、
榊が使われる前は、オガタマノ木が神前に供えられたとされています。


潜滝社



鞠庭

摂社毬大明神社は、サッカーや球技の神様として信仰され、
球技関係者が参拝に訪れてはボールを奉納しています。

4月中旬、薄黄緑色の花を咲かせる「黄桜」が咲き誇っていました。
崇徳院ゆかりの地(白峯御陵)  
崇徳院ゆかりの地(白峯寺)  
 『アクセス』
「白峯神宮」 京都市上京区今出川通り堀川東入北側 市バス「堀川今出川」下車すぐ
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 
「京都市の地名」平凡社

 

 


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田中殿は鳥羽殿に最後に造営された御所で、
東殿の西側の「田中」とよばれた場所にありました。
治承3年(1179)の政変(清盛のクーデター)では、
平清盛により後白河院がこの御所に幽閉されました。
 
「田中殿之跡」碑の背面
由緒
十二世紀半に造営された田中殿には 保元の乱直前に崇徳上皇がおられ
白河北殿へうつって源平二氏争乱の幕は切っておとされた
殿はもともと八条院暲子内親王の御所として鳥羽法皇がつくられ
中に御堂が附属していた 昭和五十三年五月
竹田史跡保存会

鳥羽殿は白河天皇が譲位後の御所として建てたもので、総面積180万平方メートルという
広大なもので、院御所はじめ、皇族・貴族たちの邸宅が多く営まれました。
その一角にあった田中殿は鳥羽法皇の皇女八条院暲子内親王の
御所で、
周囲は池に囲まれ舟つき場や
西には寝殿、東には金剛心院などがありました。

現在、田中殿があった辺りは整備されて田中殿公園となっています。

崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子で、母は待賢門院璋子です。
祖父白河法皇の意向により、鳥羽天皇は崇徳天皇に譲位して上皇となります。
それから数年後、法皇が77歳で亡くなると、
鳥羽上皇は崇徳天皇を無理やり
譲位させ、天皇の異母弟の近衛天皇(鳥羽上皇と美福門院の子)を即位させます。
病弱な近衛天皇が17歳の若さで亡くなると、鳥羽上皇は崇徳の意向を無視し、
第四皇子の後白河天皇(崇徳新院の同母弟)を即位させました。近衛天皇の崩御に伴い、
わが子重仁親王を次の天皇にと新院が望んだのは当然のことです。
それが完全に裏切られたため、新院と後白河天皇との間には新たな確執が生じました。

説話集『古事談』には、崇徳天皇は鳥羽上皇の皇子ではなく、
待賢門院が白河法皇と密通してできた法皇の子である。と
天皇の出生の秘密が書かれています。
鳥羽上皇もそのことを知っていて、叔父子とよんで崇徳天皇を嫌っていたといいます。

後白河天皇が即位して一年後の保元元年(1156)、鳥羽上皇が重病にかかると、
事態は一気に加速し、信西や美福門院・関白藤原忠通らが源義朝・平清盛らの
有力武士を動員して、鳥羽離宮や内裏の警護にあたらせました。上皇は自分が死んだら

天下が乱れるであろうと予言しながら、安楽寿院で崩御しました。54歳でした。

安楽寿院は、鳥羽法皇の御願によって、院御所鳥羽東殿に付属して
建立
された寺院で、御殿と寺院が一体となっていました。

崇徳新院は鳥羽上皇の危篤を聞いて安楽寿院に駆けつけますが、対面は
かないませんでした。
自身の死顔を崇徳に絶対見せないよう上皇は遺言したという。
怒った新院は田中殿に引き返し、7日程とどまりますが、寵妃兵衛佐(重仁親王の母)の
知らせで危険を感じ、
田中殿を脱出して白河北殿に移ります。
新院に味方したのは、義朝の父の為義、弟の為朝らと清盛の叔父忠正でした。
後白河天皇方は先手をとり白河北殿に夜襲をしかけ、
ここに保元の乱の戦いの火ぶたがきられました。


皇位をめぐって崇徳新院と後白河天皇の対立、摂関家内部の権力争い、これに源氏、
平氏も父子、兄弟が双方に分かれて戦った結果、勝利したのは後白河天皇方でした。
戦いに敗れた崇徳新院は出家し、弟の覚性法親王を頼って仁和寺に入りますが
断わられ、仕方なく寛遍(かくへん)法務の旧房に入り、源重成の監視下に置かれました。

後白河天皇方の兵に囲まれた仁和寺の新院のもとに、西行が身の危険も顧みず
駆けつけています。西行と新院は1才違い、和歌を通じて心を通わせる親しい間柄でした。
保元の乱の10日後には、新院は鳥羽の草津の湊から、粗末な舟で讃岐へ流されました。
重仁の母・兵衛佐局らとともに八年あまりの月日をそこで過ごし、
二度と都の地をふむことなく46年の生涯を終えました。
「保元の乱ゆかりの地」(1)白河北殿
『アクセス』
「安楽寿院」 京都市伏見区竹田中内畑町地下鉄・近鉄電車竹田駅下車南西へ徒歩7、8分
 「田中殿」 (田中殿公園内)地下鉄・近鉄電車竹田駅下車
『参考資料』

村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 
「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館 「西行のすべて」 新人物往来社
 石田孝喜「京都史跡事典」 新人物往来社 「京都府の歴史散歩(中)」山川出版社
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 
「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン





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祇園甲部歌舞練場の裏側に崇徳天皇の廟所があります。
崇徳天皇の怨霊をなだめるため、後白河上皇は保元の乱の戦場となった
白河北殿(現、左京区聖護院川原町)に崇徳院粟田宮を創始しましたが、
この宮は応仁の乱に罹災し、室町時代、後土御門天皇が
祇園万寿小路の現在地に祀りました。


この地に祀られた理由は明らかではありませんが、
それについて阿波内侍の伝説があります。

『山州名跡誌・巻1』によれば、天皇の寵妃の一人阿波内侍が天皇の崩御後、
その霊が夜毎、光ものとなって現れるので出家し、仏種尼(ぶっしゅに)と名のり、
自邸内に仏堂を建てて天皇の菩提を弔ったのが始まりといわれ、

人々はこれを光堂と呼んだとしています。その後、
鎌倉時代に大円法師が観勝寺光明院を建てたという。
応仁の乱後、寺は荒廃しましたが、江戸時代に蓮華光院と称する
門跡寺院が太秦の安井から移ってきて観勝寺を再興し、
御廟は観勝寺の子院の万寿山蓮乗院が管理していました。
明治維新後、廃仏毀釈の激しい嵐が吹き荒れ、
すべて廃寺となり御廟だけが残りました。

また『愚管抄』によると、保元の乱で敗れ、讃岐に配流された天皇の崩御後、

天皇の寵妃烏丸殿が綾小路河原(祇園町南側)の自邸内に
天皇の御影堂を建て菩提を弔ったという。
烏丸殿と阿波内侍は同一人物なのか別人なのかはわかりませんが、
どちらにしても祇園町南側の地には、
崇徳天皇ゆかりの女性が住んでおられたようです。


祇園の歌舞練場の裏庭には古塚があり、

墳丘の上に阿波内侍の石造五輪塔があります。(『京の墓碑めぐり』)

『昭和京都名所図会』によると、阿波内侍は知足院公種(きんたね)の娘で、

天皇の崩御後、仏門に入り仏種尼と称しました。

知足院公種という人物については不詳。
安井金比羅宮(崇徳天皇)  


いつ通っても崇徳天皇廟の周辺はきれいに掃き清められ静かな一角です。
ところが’07・2月に近くを通りかかると、トラックが停車し土を掘る大きな音がします。

「崇徳天皇御廟所」と刻んだ大小二基の石碑が見えます。





その後、この御廟が気になり再び同年6月にたずねてみると、
立派に再建されていました。
現在、崇徳天皇の月命日に白峯神宮の神職によって祭祀が行われています。

保元の乱に敗れた崇徳新院は讃岐に配流され、寵妃兵衛佐局(重仁親王の母)らとともに
九年の歳月をそこで過ごし、二度と都の地を踏むことなく四十六年の生涯を終えました。
兵衛佐局は法勝寺執行信縁の娘で、のち大蔵卿源行宗の養女となっています。
『保元物語』によると、「
配流地で新院は指を切りその血を混ぜた墨で、
五部大乗経の写経を行いました。完成した写本を都に送り、
京に近い八幡か鳥羽の安楽寿院に納めてほしいと嘆願しましたが、
信西の指図で後白河天皇はこれを拒否し、写本は送り返されてきました。
これに激怒した新院は天狗の姿となり、日本国の大悪魔となり、
天皇家を民とし民を皇にする。と誓い、自身の舌を噛み切った血で
写本に署名し海底深く沈めた。」という。
後世の人々は戦乱や天災が起こる度に、崇徳新院の祟りとして恐れました。
醍醐の一言寺(阿波内侍)  
白峯神宮 (崇徳天皇)  崇徳天皇(白峯御陵)  
崇徳天皇(白峯寺)  
『アクセス』
「崇徳天皇廟」 京都市東山区祇園町南側
      市バス「東山安井」下車徒歩2、3分、又は「祇園」下車徒歩5分
『参考資料』
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 
竹村俊則「京の墓碑めぐり」京都新聞社 竹田恒泰「怨霊になった天皇」小学館文庫

 

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安井金比羅宮は建仁寺の東側にあります。



社伝によれば、保元の乱に敗れて讃岐で崩御した崇徳天皇の霊を慰めるため、
大円法師が建立した光明院が安井金比羅宮の起こりといわれています。
その後、光明院は応仁の乱の兵火で荒廃し、元禄八年(1695)、太秦安井にあった
安井門跡とよばれていた蓮華光院がこの地に移されました。
鎮守社として崇徳天皇に加えて讃岐の金毘比宮の祭神大物主神を勧請、
源頼政を合祀し、安井の金比羅さんとよばれるようになりました。
明治四年の神仏分離令で、寺は大覚寺に吸収され鎮守社だけが残りました。
源三位頼政の霊を合祀するのは、初代安井門跡道尊僧正が、
高倉宮以仁王の遺児であるためといわれています。

終戦後、安井金比羅宮と改められ、交通安全守護、縁結びの神様として、
また絵馬の奉納でも知られ、本殿東の絵馬堂では、
さまざまな珍しい絵馬を見ることができます。
その中には「男断ち」の絵馬や江戸時代の画家山口素絢(そけん)などの作品もあります。
主祭神の崇徳天皇が配流所の讃岐で、もろもろ一切を断って国家安泰を
祈願されたという故事にならい、悪縁切りの神様としても有名です。

境内の「縁切り縁結び石」には、祈願札が一面に貼りつけられています。



境内の藤棚は、かつて藤の名所として名高かった
安井門跡(蓮華光院)を偲ばせています。
『アクセス』
「安井金比羅宮」京都市東大路通八坂上ル西側下弁天町 
市バス「東山安井」下車、南へ徒歩1分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂

 



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