志摩町野北(福岡県)に久米という集落がある。
この地が用明天皇の皇子で、聖徳太子の実弟である来目皇子(くめのおうじ)
ゆかりの地であることを知ったのは、この糸島に住むようになってからのことである。
知ってはいたが、訪れたのは今日が始めてである。
「来目皇子遺跡」の“方向看板”??(葬儀案内ではありません)に導かれて、
車を集落に入れた。
ちょうど道ばたにおばあちゃん二人がいたので、遺跡への道を尋ねると、
「いまは道が荒れているからどうかな」
「そこには碑があるだけで、ご神(ごしん)はそっちのほうにあるんだが」
(そっちとは久米神社のことらしい)
「まあ、行ってみんしゃい」
「いまは木が生い茂っていて周りは見えないが、昔は狼煙(のろし)をあげていた丘だ」
そのようなことを教えてくれた。
教わったとうりマイカーを進めていくとデコボコ道もはなはだしい。
(ランクルで来るんだった!って持ってません)
300メートル程林の道をデコボコ走らせると「来目皇子遺跡」についた。
(Uターンするスペースはあった)
遺跡の説明文には次のようなことが書かれてあった。
日本書紀によれば、来目皇子は602年(推古天皇10年)に、
「撃新羅将軍」となり、軍二万五千を率いて嶋郡(志摩郡)に船舶を駐屯させ、
軍糧を運んだが翌年病気を患い同地で没した。
この時、来目皇子が率いた軍の本営地、あるいは皇子の(※)仮埋葬地とも伝えられるのが、
この地である。
(※)この地に埋葬されたのではなく、周防娑婆(山口県佐波郡)で殯(もがり)―葬儀―
を行い、のちに河内埴生山崗(大阪市羽曳野市塚穴古墳)に埋葬された。
―ここより北に斜面を下ったところにある久米神社には、海神三神とともに来目皇子が、祀られており、
1400年以上たった現在もなお、地元の人々から熱心な信仰をあつめている。
(そういえば、おばあちゃん達は来目皇子を語るとき、少し誇らしげにみえた)
―また有史以前より玄界灘に面した海上交易の要衝としてこの地が繁栄したことがわかっている。
(いまは陸地だが、昔はここら一帯は海だったらしい)
久米は、来目からきているのだろうか。
今日すぐ近くの吉田を托鉢したおりのことです。
羅漢http://www.rakan-fuk.co.jp/
この地が用明天皇の皇子で、聖徳太子の実弟である来目皇子(くめのおうじ)
ゆかりの地であることを知ったのは、この糸島に住むようになってからのことである。
知ってはいたが、訪れたのは今日が始めてである。
「来目皇子遺跡」の“方向看板”??(葬儀案内ではありません)に導かれて、
車を集落に入れた。
ちょうど道ばたにおばあちゃん二人がいたので、遺跡への道を尋ねると、
「いまは道が荒れているからどうかな」
「そこには碑があるだけで、ご神(ごしん)はそっちのほうにあるんだが」
(そっちとは久米神社のことらしい)
「まあ、行ってみんしゃい」
「いまは木が生い茂っていて周りは見えないが、昔は狼煙(のろし)をあげていた丘だ」
そのようなことを教えてくれた。
教わったとうりマイカーを進めていくとデコボコ道もはなはだしい。
(ランクルで来るんだった!って持ってません)
300メートル程林の道をデコボコ走らせると「来目皇子遺跡」についた。
(Uターンするスペースはあった)
遺跡の説明文には次のようなことが書かれてあった。
日本書紀によれば、来目皇子は602年(推古天皇10年)に、
「撃新羅将軍」となり、軍二万五千を率いて嶋郡(志摩郡)に船舶を駐屯させ、
軍糧を運んだが翌年病気を患い同地で没した。
この時、来目皇子が率いた軍の本営地、あるいは皇子の(※)仮埋葬地とも伝えられるのが、
この地である。
(※)この地に埋葬されたのではなく、周防娑婆(山口県佐波郡)で殯(もがり)―葬儀―
を行い、のちに河内埴生山崗(大阪市羽曳野市塚穴古墳)に埋葬された。
―ここより北に斜面を下ったところにある久米神社には、海神三神とともに来目皇子が、祀られており、
1400年以上たった現在もなお、地元の人々から熱心な信仰をあつめている。
(そういえば、おばあちゃん達は来目皇子を語るとき、少し誇らしげにみえた)
―また有史以前より玄界灘に面した海上交易の要衝としてこの地が繁栄したことがわかっている。
(いまは陸地だが、昔はここら一帯は海だったらしい)
久米は、来目からきているのだろうか。
今日すぐ近くの吉田を托鉢したおりのことです。
羅漢http://www.rakan-fuk.co.jp/