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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

お経トランス台湾MIX!

2006-03-13 00:14:55 | アジア

 台湾には、Alpha Music(新點子音楽)とか、Water Music(華特國際音楽)といった、トランスやらユーロビートのコンピレーションを連発しているレーベルがありまして、そのジャケも、ご覧の通り中華風の濃厚な美学に煮込まれたようになっております。

 まあこれなんかは、中身は日本でも聞かれているような欧米のその方面のアーティストの楽曲が収められているんですが、ときに台湾オリジナル音源の、こちら日本人からみるとギョッとさせられるような代物に出会うことがあります。”舞曲大悲咒”なんてアルバムも、その一例でしょうねえ。これ、お経をクラブ系の音楽にアレンジした企画ものなんですよ。

 先日話題にしたマレーシア華人の仏教ポップスなどは、つつましやかな歌声で御仏の教えを伝えようとする神妙な出来になっていたんだけど、これは次元の違うものでしょうねえ。ちょっと曲目表示を写してみますと、

 1)大悲咒(GANBA CLUB MIX 微笑全球舞動版)
 2)大悲咒(REGGAE MIX 雷鬼混音舞動版)
 3)大悲咒 (BUDDHA MONK MIX 菩提謎境舞動版)
 4)大悲咒 (ORIGINAL MIX 梵唱原音慈悲版)
 5)大悲咒 (DANCEFLOOR MIX 加長混音舞動版)

 となっております。おりますと言われたってどうするんだよとお思いでしょうが、いやまったく。”微笑全球”とあるから草野球でも始めるのかと思えば雷の鬼が”混音”してしまうし、菩提謎境なんぞと言われるとなんとなくありがたい場所のような気もしますが、まあ、とどのつまりはよく分からん。

 音自体は、「いつもはR&Bを歌ってます」みたいな感じの女性コーラスが、トランスな、クラブな音をバックに、僧侶の読経の節回しを譜面に起こした、みたいなメロディをのどかに歌い上げて行きます。何しろ中国語なんで、何のお経が取り上げられているのかも分からないんですが。あれこれミックスがあるようですが、あんまり違いは分からず。聴き始めは新鮮なんだけど、ずっと聴いているとちょっと飽きます。

 これなんかは仏教ポップスの系譜に連なるものと言っていいのかどうか、迷わされる代物であります。敬虔な宗教的祈りの感触は、まあ、感じられない。やっぱり企画ものなんだろうなあ。ジャケなんかも凄いです、まるで巨大ロボ・アニメみたいな銀色に光り輝く仏様が、宇宙から撮った地球の写真をバックにアルカイック・スマイルを浮かべていらっしゃる。

 このような企画、仏様相手に悪乗りしてしまっていいのか?と我が日本人なら躊躇してしまうところなんでしょうけど、この辺、中国の人の感性はタフだわ。
 たとえば仏教国・タイの人々などは、このようなアルバムを見たらなんと思うのだろうか?というか、現地にもひょっとして似たようなものが存在していたりして?
 などと突っ込むのも畏れ多いんだけど、宗教と音楽の不思議な関係は、いつも気になるところです。




”モーニング娘。その他”による「童謡ポップス集」の謎

2006-03-12 02:31:00 | その他の日本の音楽

 もう3~4年前の作品になるのか。モーニング娘。や松浦亜弥、メロン記念日等々ハロプロメンバーたちによる、童謡スタンダード集である。

 手元にあるのは四季それぞれに分かれた4枚シリーズなのだが、さらに続編も出ているようだ。売れたのかね?

 稀に凝った、多くは手抜きのアレンジを伴い、彼女らはいつものアイドルの声で、それらよく知られた童謡を歌う。夕焼け小焼け。我は海の子。おもちゃのチャチャチャ。

 おそらく関係者の誰も、この音楽に情熱を持ってなど取り組んでいない筈だ。そんなものが面白い筈がないのだが、聞いていて快感なのはなぜだ?

 いつかタモリが井上陽水に向かい、彼の歌の魅力を語った際の言葉が思い出される。「あんたの歌は良いよ。なーんにも言ってないものね」と。「いや、少しぐらいは何か言っているだろう」と、陽水は不満そうだったが。

 それにしても歌手としての辻希美の”破壊力”には敬服させられた。あーでも辻ちゃんもモーニング娘を”卒業”して、もうずいぶんになるんだね。(この”卒業”って言い方、気持ち悪いからやめてもらえないものか)



「来たるべきもの」はすでに来たりし、すでに過ぎ行く

2006-03-11 05:04:50 | 北アメリカ

 「ジャズ・来たるべきもの」byオーネット・コールマン

 昨日の夕方、近所の書店をぶらぶらしていたら、「スイング・ジャーナル」の最新号が目にはいった。スイング・ジャーナルといえばジャズ雑誌の老舗ですな。権威ですな、ある意味。
 で、その最新号です。私はふとそれに目をやり、表紙に麗々しく刻印された「超名盤!オーネット・コールマンの”ジャズ来たるべきもの”特集」に、なんだか可笑しくなってしまったんですわ。だってねえ・・・

 その盤は、ジャズの革命児、オーネット・コールマンがアバンギャルド・ジャズの旗を高々と掲げ、既成のジャズに挑戦状をたたきつけた記念すべきアルバムではあるんだけど。でもそれっていつの話だよ?1950年代の出来事じゃなかったっけ?いまさら”来たるべきもの”でもないでしょ、もう半世紀経っちゃってるんだから。

 結局ジャズと言うのも、すでに終わってしまった、完結してしまった表現世界なんだなあと改めて感じた次第です。おそらくは「ブルーノート・レーベルの何番から何番」なんてのを至上の形態とし、その固定された美学の世界に閉じこもり、年老いてしまった。
 そしてあとは、おんなじ話をただ繰り返し繰り返し積み上げて行く、そんな日々が続くだけ。新譜なんてものが存在しようもないから、やれ、リマスターだの紙ジャケだのってお題目で、同じアルバムを何枚も何枚も重複して買わされて幸せになった気分でいるファン諸氏。

 そして、「こんな革新も存在したのだ!」と、何度も何度も回顧される思い出としての革命が、たとえばオーネットのこの盤である。リクエストにお答えいたしまして何度でも再登場する革命なんて、なんの意味があるのかなあ。乗り越えられるんならともかく。

 今、”ジャズ・来たるべきもの”をはじめて聴いた新しいジャズファンの発言を覗いてみますと。「アバンギャルドな難解さなんて感じない」とか、「怖いものみたさで聴いてみたが、まともな音楽じゃないか」なんて発言が目立つ。
 そうです、オーネットのこの盤なんか、むしろ分かりやすい平明な演奏をしているんです。半世紀前、固定観念に凝り固まった人々が「言語道断のデタラメ音楽」と罵り、変なレッテルを貼っただけであってね。
 



南洋中華街仏教POPS

2006-03-10 02:18:36 | アジア

 「佛曲傳心燈」by蔡可茘

 走在輪廻路上 一路要知足 
 要感謝心去付出 以歓喜心来受苦
 走在輪廻路上 一路要惜福
 用大智彗去領悟 以大慈悲来祷祝
 南無阿弥陀仏 如去如来 来去自如
 南無阿弥陀仏 願将一切衆生度
 
 ・・・え~どうでしょうか、御仏の尊い教えに心洗われましたでしょうか?このアルバムに収められている「自如」なる歌の歌詞なんですが。

 マレ-シアの中華系の人々のコミュニティに流通している、不思議な活力に溢れたロ-カル・ポップスがあります。いかにも南国らしいチャチャチャのリズムがはじける、その上に泥臭い演歌世界が炸裂したりの、なかなかにあなどれない代物であるのですが。
 中国語でも福建あたりの言葉で歌われているケースが目立つんで、日本の愛好家の中にはこれらを”福建ポップス”などと呼んだりしていますが。この世界はいずれ、語らねばならない世界なんだけど、今回はその世界でもさらに傍流の仏教ポップスに関してであります。

 福建ポップス界の人気者だった蔡可茘が1999年に出したのが、御仏の教えをしっとりと歌い上げたこのありがたいアルバム。作詞者の名も、星雲大師やら心然法師などと、なんともありがたい響きを帯びている。いや、もしかしたら本物のお経にメロディを付けてしまったのかも知れないですな。歌詞カードに並ぶ漢字を拾い読みして行くと、そんな可能性も考えられないでもない、そんな気分になってくるのですが。

 このような趣向の仏教ポップスが定番として現地に存在しているのか、いるとすれば、どのような人々にどのように支持されているのか知りたいところですが、毎度おなじみ、なんの情報もなしでありまして申し訳ない次第。

 仏教ポップスといっても辛気臭いばかりでもない、冒頭に挙げた「自如」なんか、実はカーペンターズの曲のカヴァーなんですと言われても納得してしまいそうなフォ-ク・ロック調の親しみやすいメロディであります。
 しかしそこに忍び入る、なにやら親戚の法事にでも出ている気分になる、木魚や鉦の響き・・・そんなアレンジやら、蓮の花があしらわれたジャケ写真など、やはり宗教色濃い物件であるのは確かなようで。仏教徒の端くれとしては、どことなくなんとなく、襟を正して聴かねばならぬ・・・ような気分にもなってくるのでした。

 キリスト教系のポップスなどというものは普通にあるし、歌舞音曲に厳しいイスラム圏にさえ、カッワーリーのような音楽が存在する。が、仏教世界の宗教系ポップスは、あまり語られることもなく、密かに蓮の葉の上で半眼を閉じ、アルカイックな笑みとともに歌われるばかり。なんとかこれらを体系化して語れないものかな、などと思っているのですが。

 

そして、鯨たちの歌さえも

2006-03-09 04:17:42 | 音楽論など

 先日、某所の掲示板で、ひょんなことから、

「鯨の歌のレコードなどあるが、あれらと我ら人類の歌と、通ずるものがあるんでしょうか?あるいは、犬の遠吠え。あれと歌は違うのでしょうか?鳥の鳴き声。虫の音。その辺はどうなのか?」

 なんて事を問うてしまったわけです。

 と、ある人から
”歌う生物学”なる不思議な歌集よりの一節、

>♪春ウグイス 夏セミしぐれ 秋はシカ
>   四季おりおりに 妻を問う声

 を引用しつつの、

>結局、歌って云うのは、コミュニケーションなんだと思いますので、
>全部『歌』と言っていいのではないでしょうか。
>ワタシはそんな風に思います。

 とのご意見をいただいた。なるほどねえ。また、他の方からは、”皇帝ペンギン”の生態に関するDVDで聴くことの出来る、”妙なる音楽のように聞こえてくる”ペンギンたちの鳴き声についてご紹介いただきました。
 そして私は、それらに対して以下のようなレスを書いたのですが・・・

 ~~~~~~~

 ××さま
 なるほど、”すべて歌と認識する”お立場ですか。なんか妙に、
 >四季おりおりに 妻を問う声
 は、悔しいな、とか思う私。いや、悔しいってのも変ですが。
 ボブ・ディランの「昨日よりも若く」だったかな、「自由の鐘」だったかな、その辺の歌の文句にあるんですよ、”空を飛ぶ鳥のように自由に生きたい、などと人は言うが、彼らとて本能の定めた空の道筋を外れて飛ぶことは出来ない”なんて歌詞が。
 彼らの”歌”が、生命の大目的である”繁殖”の実現のためのパートナーを呼ぶ、機能的なものであったら悔しい、何かもっと別なニュアンスをも含むものであって欲しい、なんて・・・私が今書いていること自体が、勝手な思い入れですかね・・・

 ××さま 
 彼らの”歌”も、なんと言いますか、”正しい”歌なんでしょうね、子作り子育てのために、一片の無駄もない歌。”どうせおいらは日陰者~♪”なんて余計なことを歌っている奴はいない(笑)その”動物たち”の”正しさ”が、決定的に人間と違う歌にしていると想像してます。
 ああ、大学時代に読んで、が、その中身はすっかり忘れてしまっている、オランダの哲学者(だったっけ?)ホイジンガの「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)」なんて本を再読したくなって来ました。あるいは”遊びをせんとや生まれけん”か?

 ~~~~~~~

 う~む、私は何を言いたかったのか、お分かりの方はおられますか?あまりうまくいっていない文章だなあ。

 命あるものの流れに沿って(なんて歌の文句がありましたね?)何の矛盾もない”聖なる生命の歌”を歌っているのだろう動物たちの”歌”と、我々”本能”とは別の理念の森に踏み迷ってしまった人間の、奇妙によじれまくった音楽との間に横たわる深淵に対する妙な苛立ちのごとき感情に言及しようとして果たせず、みたいな感じです。ひとごとのようなことを言っていますが。

 なんなんでしょうね。なぜ、人間は歌なんか歌うんでしょう?あるいは、すべての生物たちは。


 


男カンムリ、バイキング!

2006-03-08 03:44:23 | その他の日本の音楽

 知人の日記で”冠二郎のバイキング”が話題になっていて、私は思わずニタニタしてしまったのである。

 演歌界の無冠の帝王、冠二郎が、もはや名も忘れた、深夜の、あまり誰も見ていない感じのバラエティ番組の”今月の唄”かなんかのコーナーで、出したばかりの曲、”バイキング”を唄っているのを見て、なんじゃこりゃと呆れ、その挙句にすっかりファンになってしまったのはいつの事だったか。もしかしたら、もう20年くらい経っているのかも知れない。

 曲のイントロのリズムに乗って、そのご面相の、あまり人相が良いとは言いがたい側面を、まるで誇示するかのように客席に自信満々突き出して、「いつも男はバイキング~♪」とか、妙な発想のリズム演歌を歌い上げる、その強力なキャラ設定は、積み上げた暑苦しさを突き抜けて、いっそ爽やかにさえ感ずる居直りぶりで、なんか可笑しくなってしまったのだ。

 その、カッチリとスプレーで固められているのであろう、不自然に跳ね上がった七三分けの前髪と共に、変なもの好きな我が感性をビビッと刺激してくれた。そうかあ、このところ、名を聞かなかったけど、長の年月を過ごし、いまだに”バイキング”はイチオシ曲なのか。

 「良いぞ、男冠!」と、こいつも名も覚えていない、マイナーな歌謡番組の公開録画で、冠二郎にかけられていた(男からの)声援を真似して声をかけたくなってくる、堂々の勘違いな男っぷりである。
 などと、いくら言い張っても、実物の冠二郎に遭遇していない人には、何のことか分からないだろうなあ。ああ、もどかしい。取りえず世の中にはまだまだ、注目に値する人はいます。と、中途半端に結ぶしかない。
 



”ピアノマン”のうさんくささ

2006-03-07 02:08:48 | 北アメリカ

 今、何かのテレビ・コマーシャルのバックでビリー・ジョエルの”ピアノマン”という曲が流れているでしょう?初期のボブ・ディランが作ったみたいなというか、いかにも60年代のグリニッジ・ヴィレッジ風の、ギターのコードを3つくらいしか知らないような自作自演歌手が作りました、みたいな素朴な感触の曲。途中で差し挟まれるハーモニカの感想も、ただブカブカやってるだけ、みたいな、まさにディラン調のもの。

 ずいぶん以前からテレビから流れるのを耳にしている気がするんだが、もしかしたら複数のコマーシャルで使われているのかも知れない。広告代理店関係者におきましてはお気に入りの曲だったりなんかして。

 まあ、CM関係者にはお気に入りかもしれませんが、私はこの曲、大嫌いでしてねえ。なんか、いかにもうさんくさいじゃありませんか。ビリー・ジョエルなんて男、コードを三つしか知らないどころじゃない、ひょっとして音楽の専門教育を受けてるんじゃないか?ってな人間でしょ?それがわざと稚拙な曲調の歌を一発、でっち上げて歌っている。

 この歌が世に問われたのは70年代なかば、ちょうどそんなアマチュアくさいシンガー・ソングライターたちの”手作りの”歌がもてはやされた時代でした。機を見るに敏な商売人、売れ線の音を「一丁上がり!」ってなノリで、楽勝ででっち上げている。これは胡散臭いですよ。

 しかも事はそのままでは終わらず、2コーラス目に入るとジョエルは1オクターブ上に声を張り上げ、一挙に楽曲全体のクオリティを上げてみせます。「本気を出せば、こんなもんじゃないぜ、俺の実力は」って世間にデモンストレーションしておくつもりだったんでしょうかね。こうなってくると胡散臭い上に、このうえなくいやらしいじゃありませんか。

 けど、この歌が発表された当時、たとえば中川五郎なんてヒトはコロッと乗せられちゃって、当時、連載していた音楽雑誌の連載エッセイで、この”ピアノマン”を、思い入れたっぷりに歌詞の日本語訳までして見せて”今、ボクが偏愛している曲”みたいな紹介記事を書いていたのを私は記憶しています。一連のシンガー・ソングライターたちの流れのうちに連なる歌手の、それも有望株のうちの一人と認識していたみたいですね、五郎氏は。ジョエルを。

 今、中川氏は”ピアノマン”を、そしてそれを評価してしまった過去の自分をどう考えているか、ちょっと訊いてみたい気がしますが、いやいや、本音の答えが返ってくる事が期待できるとも思えませぬ。

 まあしかし、この大衆をなめきったジョエルの音楽稼業、確かにいかにも広告屋の皆さんには心根の深いところで共感を抱かせるものがありそうな気もします。
 うーん・・・まさかこの曲、CM絡みで再び売れてたりしないだろうな。いい加減にしてくれよ、ほんとに。




ジャンゴ・ラインハルトのハコモノ

2006-03-06 02:23:03 | ヨーロッパ

 ”Django Reinhardt ;
The Classic Early Recordings in Chronological Order ”

 CDのボックスセットなどというものは、聴くものではなくてそこら辺に置いておく為のもの、なんて発言もあって、それはそうかも知れないなあなどと、その種のものを集める趣味のない当方は野次馬の立場でなんとなく納得してしまったりするのである。

 なにやら意味ありげな特典やら聞く価値が本当にあるのやら分からない”未発表曲”などが、無駄に金のかかっていそうな豪華パッケージに入れられてドーンとおさまり返っている姿など見ていると、確かにこれは手に入れただけで満足してしまい、そこら辺に置いておくだけで十分、もう聞くこともないんだろうなあと思われて仕方がない。あんなものよりはやはり、一枚一枚コツコツと集めた盤を聴くのが本当だろうなあ。

 などといっている当方であるが、イギリスのJSPなる会社が出している、古いジャズやブルースのボックスものには、つい手が出てしまう。
 そもそもが戦前のジャズやブルース好きの当方なのであるが、気になっていた巨匠の歴史的レコーディングが効率よくまとめられ、無駄に金のかかっていないシンプルな箱に収められたそれからは、置いておくためよりは聴くためのセット、という雰囲気も漂い、好ましく思われるのである。

 また音のほうも”優れたマスタリング技術”などと人は言っているのでそうなんでしょう。というのも間が抜けた発言だが、オーディオ関係にはまるで興味のない身であり、お許し願いたい。
 というわけで、かの”ジプシー・スイング”の開祖、ジャンゴ・ラインハルトの5CDセットだ。

 1930年代半ばあたりのジャンゴ・ラインハルトの録音を集めたものだが、こうしてまとめて聴くと、確かに当時のパリで彼らはとてつもなく熱い時を過ごしていたのだと思い知らされる。相棒、バイオリンのステファン・グラッペリと組んでいたホットクラブ五重奏団による演奏をメインに、時にパリを訪れたアメリカのジャズ・ミュージシャンを迎えて、当時の定番ナンバーが次々に、イマジメイション溢れるエネルギッシュな演奏で展開されている。

 聴いていて気がついたのだが、ラインハルトとグラッペリ、ある種の漫才コンビみたいなものなのね。片方に、もう若い頃から流麗なフレーズを湧き出るように繰り出していたステファン・グラッペリがいて、もう一方にまさにイノベイターというべきか、ちょっと間違えれば破滅への道を一気に突き進んでしまいそうな革新的なフレーズを連発するジャンゴ・ラインハルトがいる。
 ジャンゴがボケでステファンが突っ込みって見立てになりましょうか。ジミヘンみたいに聞こえる瞬間があるものなあ、ジャンゴは。

 この二人、どのようにして出会い、互いにどのように評価しあっていたのか。本当の本音のところが知りたいと思う。私が怠け者のせいだろうが、いまだ、その辺の詳しいところが分かっていないのだ。

 ジャケ写真にある五重奏団のステージ写真では、若きパリジャンたるグラッペリがなにやらエエトコのボンボン風にバイオリンを構える後ろで、ジャンゴたちジプシー勢は確かに”禍々しい異人種”の迫力を発散しながら控えている。これはビジュアル的にもかなりインパクトある組み合わせで、そんな連中がこんな凄まじい演奏を聞かせていたんだから、そりゃ濃厚な闇が当時のパリを覆っていたのだろうと、嘆息してしまうのだ。
 



フジ・ミュージックが聴きたい!

2006-03-05 04:01:02 | アフリカ

 アインデ・バリスターが日本に来た際、無理やり買わされたというファックス機は、その後、どうしたのだろう。活躍する事はあったのだろうか、などとふと思う事がある。混迷の地と聞くナイジェリアに住むバリスターと今後、来日コンサートに向けて連絡を密に取らねばならないと想像した日本側スタッフが、バリスターにあちらではまるで一般的ではないファックス機材を連絡用に買わせた、なんて逸話を読んだことがあるのだ。

 ナイジェリアのイスラム系ポップスである”フジ・ミュージック”の歌手であるアインデ・バリスターが来日したのは、いつの事だったろう。彼のCDがわが国で始めて発売になった90年代初めの事だったのだろうが。来日の用件は、アルバムの発売に伴い、日本におけるコンサートを行なう、その下調べのためだったと記憶しているが、それで正しいかどうか。(そしてその日本におけるコンサートは実現しなかったのであるが)

 フジ・ミュージックは、ボーカリストのイスラム色濃い深くコブシのかかった歌声を中心に、基本的にはコーラスとパーカッションのみによる非常に重くファンキーなダンス・ミュージックである。コーラスとパーカッションのみとはいえ、20人を越える”バンド”のメンバーにより編み上げられたサウンド構成は精緻きわまるもので、その複合リズムに身をゆだねているだけで血の沸騰する思いがする。

 音楽に対するまともな感性があるかないかをチェックする素材としてもフジ・ミュージックは使用可能なのではないか。どのように音楽の知識を詰め込んでいようと、フジ・ミュージックを「土人が太鼓を叩いて歌っているだけじゃないか」などと受け取るようでは問題外である、という形で。また、感性の摩滅している人がそんな感想を漏らしそうな趣のある音楽であるのだ、フジは。

 バリスターの音楽に接したのは80年代、同じナイジェリアのジュジュ・ミュージックのスター、サニー・アデが国際的な成功を収め、その人気に便乗する形でわが国の輸入レコード店にもほんの一時的にナイジェリアの歌手たちのさまざまなレコードが溢れた際の事だった。なにやら薄汚れたジャケのレコード群から立ち昇っていた妖気を思い出せば、今も胸が躍る。
 夢のような時間!ナイジェリアの音楽を聴こうにも音盤を手に入れる手立てもない今日、あれは本当にあった出来事なのかと不思議にさえ思えてくるのだが。

 その後、バリスターの、というかフジ・ミュージックに関しては、台頭する若手のフジ・ミュージックの歌手たちとの競合やら「現地の海賊版カセットで聴けるライブの音はものすごい迫力だ」などなど、途切れ途切れの情報だけが入ってくるだけの時期を過ごし、今ではそんな情報さえ接するのは稀になってしまった。が、いまだにフジ・ミュージックへの憧憬は我が心を去らないし、同じ感情を有するのは私一人ではない。それほどまでに魅惑的な音楽なのだ、フジ・ミュージックは。

 なんとかならないか、関係業者の方々!もう一度、ナイジェリアの音楽がわが国でも聴けるようにしてくれないものか。むなしく放置されているのかもしれない彼のファックスをフル稼働させてやってくれまいか。その価値は十分ある音楽なのだ、フジ・ミュージックは。大儲けにつながるかどうかは、そりゃまた別の話ではあるのだが。


 
 

”Willard ”

2006-03-04 03:31:49 | 北アメリカ


  アメリカのシンガーソングライター、ジョン・スチュワートの1969年のアルバム、”California Bloodlines”に、「オマハの虹」って歌が収められている。変哲もない日常をすごすうちに、ふと駅に向かい、やって来た行く先も知らない電車に乗り込みどこまでも行ってしまいたくなる、そんなあてもない放浪への憧憬を歌った小品だ。

 アメリカのオマハという街、と言っても、まあ、何のイメージも浮かばないなあ。確か中西部のど真ん中にあったんじゃなかったっけ?子供の頃、オマハの町を映した絵葉書をなぜか見たことがあって、だだっぴろい広場の真ん中に大きな噴水がある、その変哲もない光景が何となく記憶に残っているのだが「オマハの虹」理解に、何の役に立つでもない。

 ジョン・スチュワートってシンガー・ソングライターを、私などは「あのキングストン・トリオのメンバーだったジョンがソロ・アルバムを出したんだけど、それがなかなかいいんだってさ」なんて形で聞き始めたのだが、さて、どう説明したものか?かっては、「モンキーズのボーカルだったデイビィ・ジョーンズがソロでヒットさせた”デイドリーム・ビリーバー”って曲、あれを作ったのがジョン・スチュワートなんだよ」で通ったものだが、もうそれだって30年以上も昔の出来事だものなあ。

 70年代の初め頃、ジョニー・キャッシュなどを彷彿とさせるド低音で、自作のポップがかったカントリー・ソングを無骨に歌い上げるジョンの音楽世界に、ずいぶん入れ込んだものだった。彼の歌の主題は、アメリカ合衆国の中西部、広漠たる大地に生きる名も無い人々の生の哀感だった。歌の主人公はいつもしがない農民、トラック運転手、川べりの廃屋で無為の日を送る孤独な男、いつもは温厚だが、戦死した息子の戦場における功績を讃えて国から送られてきた勲章の話になったときだけは、「そんなものが何になる!」とつい声を荒げてしまう実直な雑貨屋のオヤジ、そんな人々だ。

 タイトルに挙げた”Willard ”は彼の 3rdアルバムで、そもそもが地味な彼の作品中でも生ギターの弾き語りにシンプルなバックが付いただけの、さらに地味な出来上がりとなっている。収められた曲はどれも、いかにもギターを爪弾きながら気の向くままに作ったような人懐こい表情を持っていて、ジョンがその歌のうちに込めた、名も無い人々の喜怒哀楽のエコーを伴い、聞く者の心に静かに収まる。

 現在、”Willard ”は 2ndの”California Bloodlines”と2in1の形でCD化されているが、アナログ盤時代、「神様、あなたの真意はどこにあるのでしょう。人は私にあなたの言葉をいつも曲げて伝えるのです。燃やせ、我が子よ、燃やせ、と」という、戦争と自然破壊に対する素朴な問いかけがひときわ印象に残るナンバー、”白い大聖堂”が、収録時間の関係でカットされてしまっているのが、非常に残念である。