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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

シンガポール、”昭和”の一夜

2006-04-10 02:46:12 | アジア

 なにしろいきなりアタマからむせび泣くテナーサキソフォンである。妖しくビブラフォンが夜を転がり、ズージャの乗りの夜の歌謡曲がけだるくはじまる。漂う、昭和30年代の”夜”の感触。

 こうなってくると、この店は当然、藤村有弘演ずる怪中国人の博打打ち、「上海、香港、マカオと渡ってきた」陳がマネージャーを務めるキャバレーであり、用心棒には宍戸錠演ずるところの”エースのジョー”がいなければならず、フラリと入ってくるのは当然、”ギターを持った渡り鳥”小林旭でなくてはならぬ。いずれ、白木マリのダンスのショーも始まるであろう。

 ならばここで歌を歌うのはフランク永井あたりか?と思われるのだが、実はシンガポールのベテラン女性歌手、”Sanisah huri”のアルバム、”Siri Murah”の話をしたいのであった。

 この”Siri Murah”は、マレーシアの歴史的レコーディングを紹介するシリーズらしいのだが、そう、このCDに含まれる曲がリリースされた頃、シンガポールは東南アジアに独特のポジションを有する一国ではなく、まだマレーシア連邦を構成する一地域であったのだ。
 ここに収められた音源は、60年代末から70年代初めにかけて、シンガポールの街で民衆の愛した音楽の最先鋭と思われるものであり、当然、興味深い。

 冒頭の、まるで日本の昭和30年代を思わせるような夜の都会のムード歌謡タッチの”Gelisah”にはともかく一発やられてしまったし、3曲目などは、イントロが完全にいしだあゆみの”ブルーライト横浜”である。その聞きなれたメロディに乗って始まるのは、まるで別の曲なのであるが。

 その他、これも日本のポップスからの影響なのか、それともシンガポール独自の事情でその域に至ったのか、グループサウンズ調のマイナー・キーでエイト・ビート、エレキギター主導のリズム歌謡あり、の昭和フリークぶりである。いやもちろん、そんな風にこちら日本人リスナーには聞こえてしまうということであるが。

 それでも聞き進むにつれ、各曲の裏側に濃厚に漂い出すのは、やはりマレー歌謡の伝統的な響きである。気がつくといつの間にか、一夜の興奮を求めて熱帯アジアのジットリと蒸し暑い空気の中をさすらうシンガポールの”遊び人”の胸のときめき、そんなものをこちらも共有している。それが楽しい盤なのである。

 そう、フランク永井であったらこう歌っているところだろう、”今夜も刺激が欲しくって メトロを降りて 階段のぼりゃ♪”と。まあ、当時のシンガポールの西銀座駅前、一番お洒落な目抜き通りといったら、どの辺になるのか想像も付かないのだが。
 



夜明けに糞バンドを見た

2006-04-08 02:44:41 | アジア

 意味ない時間に起きていると、意味ないものを見てしまうって事でしょうかね。

 ほぼ、夜昼逆転した時間を生きている私でありますが、午前2時とか3時とかになりますと、テレビで天気予報のついでに、あんまり売れてない歌手やらバンドやらのプロモーション・ビデオを流す番組なんかが、まるで時間稼ぎみたいに流されるのを見ます。
 そんなことでもなければ聞けない音楽といいますか、たまに”ダブル・ユー(元モーニング娘)のものなんかが流れると、場違いなほどメジャーなものを見ちゃった気がしたりする。そんな場で私は昨日、それを見ちゃったのであります。

 それは、明らかにアイルランドのポーグス・・・ってのがありましたね、かの国のトラッドを、パンクの手法で料理して見せたバンド?あれの日本製の物まねバンドでありました。

 アコーディオンやらティン・ホイッスルがケルト風味を醸し出し、ボーカリストがだみ声で怒鳴り倒す、と。そのまんまいただき、みたいなバンドですわね。ボーカリストのいかにもな嗄れ声やら、妙にそつのない音を出す楽器組のその手馴れようが、連中がそんな自分たちに何の反省も持っていないことをあからさまにしておりました。
 ともかく、あまりにも物真似だけの連中なんで、見ているこっちが恥ずかしくなってしまった次第。

 ご本家のポーグスには、自国の伝統音楽をネタにパンクな、ニューウェーブなサウンドを奏でる、それなりの理由ってものがあるわけだけれども、今回の彼らには何がある?そんな音を出す根拠、どこにあるってぇの?ただ、小器用に物真似して見せてるだけでしょ?ひねりも何にもありません。アマチュアならそんなものでも”あり”なんだろうけど、CDデビューまでしておいてそれはないでしょ。

 でも、おそらくはそんな自分たちを「いいとこ狙ってる、通好みな俺たち!」とか自己評価してるんでしょうねえ、彼ら。演奏場面の彼らには、そんなプライド高そうな気配が濃厚に漂う。私なんかには胡散臭いだけなんですがねえ。
 こうなってくると、まともに海外のロックの音もコピー出来なかった60年代のグループサウンズが、いっそ、爽やかにさえ思い出されてくるのでありました。

 で、その連中、どんな曲をやっていたかというと、「桜吹雪の中を君は去って行く」なんて、今ウケ歌謡界で定番の、もうどこの犬も猫も歌うような”桜ネタ”の歌詞なんか歌うんですな、これが。
 カッコつけてる分、恥ずかしくならないのかね?ならないんだろうね、きっと。だから、そのへんの感性に問題が。まあ、今日の日本のロック界なんてこんなものって事なんだろうけど。ああ、情けないものを見ちゃったなあ。





粋なマドロスの航跡を追って

2006-04-07 03:59:25 | その他の日本の音楽


 いかにも昔風のドでかいマイクに向かい、船員帽を斜めにかぶり、豪快な笑顔を見せている、そんな岡晴夫のイメージはもちろん、どこかで見たステージ写真からの後付けの記憶であり、彼のそんな颯爽たる舞台姿など私はリアルタイムで見てはいない。あるいは、彼のヒット曲、「東京の花売り娘」が子供の頃の街角に流れていた風景を思い起こす事も可能なのだが、それもまた、その歌を挿入歌とした戦後すぐを舞台とした映画などが記憶に残っているだけである可能性が強い。

 岡晴夫は戦前戦後をまたいで活躍した人気歌手である。戦前は、大日本帝国の中国大陸侵略の尻馬に乗ったかのような(?)「上海の花売り娘」「南京の花売り娘」「広東の花売り娘」などといった”中国の花売り娘シリーズ”でエキゾティックな異郷への憧れを誘い、また、日本の信託統治領だった南太平洋の島々に日本の潜水夫が真珠取りに出かけていた当時の様子をしのばせる「パラオ恋しや」など、世界に雄飛するテーマを掲げた歌謡曲を歌って好評を博した。また、船員帽のステージ写真が表す如く「マドロスもの」も得意とし、船乗りをテーマの、ある種”股旅物”の変種としての”粋な旅愁”を幾たびも歌い上げている。

 リアルタイムでは相当に格好いい存在だったのだろう。時代の最先端のテーマである”大陸への雄飛”が、異国でのロマンスという、親しみやすい姿に擬せられて提示され、また、片々たる日常に縛り付けられて日を送る庶民には願えども叶わぬ気ままなマドロス暮らしを、粋にかぶった船員帽で豪快に歌い上げるのだから。

 そのような歌手であるなら戦前で使命を終え、戦後はナツメロ歌手として後ろ向きの営業をしているのが通例のようだが、彼の場合、戦後に至っても「憧れのハワイ航路」という大ヒットを飛ばしているのが不思議にも思える。まあ、彼の歌手としてのキャリアのど真ん中を第二次大戦が勝手に横断して行ったと見るべきか。歌のテーマも、戦争を挟めども、まるで変っていない。”雄飛すべき海外”が、戦前は中国であったものが、戦後はハワイ、つまりはアメリカに変っているだけである。
 この辺りにも徹底して庶民の願望に忠実な歌謡曲歌手の面目躍如、と皮肉なしで思う。戦さに破れ、異境への憧れは大陸ではなく、”東京の花売り娘”と、自国の都市に仮託するしかなくなってしまったが。それでも何ものかへの憧れを抱いて生きて行くしか仕方のない、しがない庶民たる我々ではないか。

 ”動く岡晴夫”をはっきり記憶しているのは、いわゆる”懐かしのメロディ”を特集した番組に出演した際の、とっくに盛りを過ぎた姿である。もう、完全に老人であった岡晴夫には、かっての粋なマドロスの面影はなく、大きく口を開けて出ない声を振り絞る様子が、痛々しく感ぜられた。歌っていたのは”逢いたかったぜ”なる、地味な演歌である。久しぶりに会った男同士の旧友が場末の飲み屋で思い出話をサカナに飲み交わす、そんな歌詞だ。

 ”今度あの娘に出逢ったならば 無事でいるよと言ってくれ”

 その”あの娘”も、もう”娘”なんて歳ではなく、いやそもそも、生死さえ知れたものではなく、逢うあてそのものがなさそうに聞える。そう、いろいろな事があって、とんでもなく長い時が流れたのだから。



ロックンロールの埋葬

2006-04-05 03:34:59 | 音楽論など

 さっき書店に寄ったら雑誌のコーナーに、”アエラ増刊”なんてムックが置いてあって、”あれはロックな春だった”なんて副題が付されていた。で、特集が”よしだたくろう”だった。

 だからグッバイ・ロックンロール。

 三船敏郎のムスメとそのダンナが、よく夫婦揃ってテレビに出てきますな。で、ガキのおしめを代える話とか退屈な家庭の話をさも自慢げに延々として行く。
 あれって、どういう需要があって話してるんだか知らないが、テレビ局があれだけ頻繁に出演させるんだから、ああいう話が聞きたくて仕方がない人間って言うのもいるんだろう。
 そして番組の終わりには、ダンナの歌うコテコテの演歌フォークを、司会者は「ロックの曲」扱いをするのである。ダンナをロック・ミュージシャンと呼んだりするのである。

 だからグッバイ・ロックンロール。

 テレビといえば昨日、ハウンドドックのリーダーが、ガイジンのギター弾きが山口百恵の持ち歌をヘビメタ風に弾いて見せたりする深夜番組に出て来て、”ショッキング・ブルーのビーナス”をロックのエッセンスとか話していたから。ついでに、ロッド・スチュアートも最高のロックシンガーとかも話していたから。

 だからグッバイ・ロックンロール。

 奴がいつまでも生き恥をさらしているのなら、いっそこの手で埋葬をと願う。
 ブライアン、あの時代にあんたがいっちまったのは、あれで正解だったのかもしれない。あれからこっちはこんな具合でさ。



スコット・ジョプリン

2006-04-03 04:32:03 | 北アメリカ

 (Scott Joplin, 1868-1917)

 スコット・ジョプリンなる作曲家の存在をはじめて知ったのは、普通のロックファンをやっていた高校生の頃だったと記憶している。
 音楽雑誌に、「はじめて作曲家として白人世界に認知された黒人ミュージシャン」として、アルバム紹介がされていた。どのような音楽をやっているのだろうと興味を惹かれたものの、小遣いを工面しつつストーンズやアニマルズのシングル盤を買い集める身としては、そんなアルバムに手を出す余裕はもちろんなかった。
 アルバムのジャケには、クラシックの音楽家、ベートーベンやらモーツアルトやらの作品集に使われるような荘重な”肖像画”調で描かれた黒人の顔があるのが、なんだか異様なものに見えた。

 その後数年経ってから、当時のレトロ・ブームのきっかけとなった映画「スティング」でスコット・ジョプリンの曲、”エンターティナー”はテーマ曲に使われ、さらにその曲は我が国のCMにも流用され、といった具合に、彼の音楽は、あっけないほど易々と日常のものとなるのだが。

 そんな具合にして接する事となったジョプリンの音楽、ジャンル名で言えば”ラグタイム”である。聞いてみると、古典ジャズの兄弟分、といった趣のもので、とはいえ、作られた曲を素直に演奏するのを旨とし、アドリブの妙などを楽しむスペースは設けられていない。
 同時期の黒人ミュージシャン、例えばジャズマンやブルースマンたちと同じように、ヨーロッパ音楽のフォームの中に、恐る恐る黒人らしさを紛れ込ませる、といった意匠の覗える音楽である。行進する兵士たちの隊列を乱さぬようにシンコペートする行進曲。
 そう、子供たちにはもはや、「ディズニーランドでパレードの際に流れている音楽」としての方がおなじみだろう。

 私が聞いた事のあるのはピアノ曲とアンサンブルのために書かれた曲のみだが、例えばキイが”C”の曲だったら”ここぞ!”という泣かせどころにE7のコードへ行く、といった仕掛けの結構見えているものが多い。聞いたことはないのだが、いくつか作っているオペラでは、どのような作風の展開をしているのだろう。それはそれ別の引き出しを持っていたのか?

 いずれにせよ、面白うてやがて哀しき愚かな道化者という、当時白人支配層から黒人が与えられていた役割を忠実にこなしている音楽だ。
 そんな営業用音楽のうちに、当時としての出来る範囲のギリギリで黒人の魂を忍ばせたジョプリンの孤独な戦い、などと思い入れで解釈してしまうのは面白くはあるが事実は見誤るだろう。お金や地位のためにやっていました、というのがむしろ、大衆音楽家としての誠意というものだ。
 
 今、私の目の前にあるジョシュア・リフキンのピアノ・ソロによるジョプリン曲集は、安価盤のCDとして入手したものだが、普通、人がジョプリンの曲に接しようとする際に、最も一般的なものだろう。私が高校生の頃に雑誌で見たのも、この盤に関する記事だったのではあるまいか。
 残念ながら、基本的にクラシック奏者のリフキンの演奏は、やはりキレイ事過ぎてジョプリンの作品の底に脈打つ黒人音楽の醍醐味を楽しむまでは行かない。

 ジョプリン自身の演奏が刻まれたピアノ・ロール紙が残されていて、作曲者の解釈による演奏を楽しむことも可能なのであるが、今、容易に入手して聴くことの出来る状態にはない。それらがCD等にまとめられてリリースされる日を待っている。
 1~2曲、断片的に聴いたそれらの曲の、ジョプリンの血の熱さに直結するような生々しい響きが忘れられない。やはり、本気で聞いたらディズニーランドで流しておける音楽じゃないのだ、本物は。

 ジョプリンは、一世を風靡した彼のラグタイム・ミュージックがすっかり下火になった20世紀の初頭、亡くなっている。失意のままの狂死とも、以前より罹患していた性病が末期に入っていた、とも聞いているが。いずれにせよ、どちらがマシとも言えるものではないから、ここは曖昧のまま彼を送りたい。



恥ずかしいシュビドゥビ

2006-04-01 02:54:25 | 音楽論など

 今、ユーミンこと松任谷由美の”また会える~わ シュビドゥビドゥワ♪”って歌が使われたCMが盛んに放映されていますが、あの歌の、”シュビドゥビドゥワ”の部分を聞くたびに、なんだか恥ずかしくていたたまれなくなってしまうのは私だけでしょうか?

 あの”シュビドゥビ・・・”は、まあ要するにスキャットである、という設定ですよね。
 で、そのスキャットって奴は、ジャズのトランペット吹き兼歌手だったルイ・アームストロングが始めたといわれています。レコーディングの最中に歌詞を忘れてしまったので、急場しのぎにデタラメな言葉で「シュビドゥビ・・・」と歌ったら、それが面白かったので、以後、ジャズ・ボーカルの世界では、この歌詞のないボーカリゼーションの遊びが常道となった、と。

 まあ、伝説の部分も当然、入って来ているんでしょうが、とりあえずそんな歴史解釈でいいでしょう。ともかくスキャットというのはそのようなものである訳ですね。基本的には、その場しのぎのアドリブである。それが”粋”である。そんなものでしょう。

 だけど、ユーミンのあれは、どう聞いてもアドリブじゃないですね。譜面に”シュ・ビ・ドゥ・ビ・・・”と音符を割り振っていった、それを律儀に歌ってみせたものである。バックのアレンジもそのようになっているし、いかにも”歌詞の一部として設定された”シュビドゥビ・・・”を、定められた旋律で歌っています”って姿勢があからさまである。
 なんかねえ。それって、聞く者をして、ものすごく気恥ずかしくさせるものがあるんです。

 その気恥ずかしさをどう説明したらいいのかな・・・昔々、伊丹十三がエッセイの中で”使い捨てライターに給油が出来るようにしてしまう恥ずかしさ”って話をしてましたね。本来、使い捨てるところに”粋”があるものを、ガスの補充が出来るような”立派な製品”にしてしまうせせこましい感性の恥ずかしさ。

 あの歌におけるユーミンの”シュビドゥビ・・・”にも、それに通ずる恥ずかしさがある。ほんの遊びって設定のスキャットなんだから、まさに使い捨て感覚で雑にやったらいいじゃないか。
 いや、音楽の中にはいかにもアドリブ風でいて、その実、きっちりアレンジされたものも普通にある。それは分かっています。それならそれでいい、が、ただもうちょっと粋に、スマートにやって欲しかったって話です。
 その”いかにもアレンジ”を隠さず、生真面目に”シュビドゥビ・・・”とやってしまうあたりが、いかにも貧乏臭くてねえ。恥ずかしくてたまらないんだが。
 
 ”シュビドゥビドゥワ”も次節に至ると、2回目が”シュビドゥビドゥビイドゥワ”と、”ドゥビ”が2度目には1コ増えている。これもきちんと譜面に書かれているんだろうなあ。いかにもそんな感じですね。
 なんというか、そんなちまちまとした”工夫”が施されていて、それがいかにも律儀に演奏され、歌われている。むしろ、「こんな風にきちんと出来る私って偉いでしょ」みたいな得意げな様子で。このあたりも、上で述べました恥ずかしさを倍増させています。

 う~ん、この話が通じる人の一人でも多いことを願います。シュビドゥビ。




暴虐のカッワーリー、アジズ・ミアン

2006-03-29 02:24:38 | アジア

 AZIZ MIAN

 「イスラム神秘主義(スーフィズム)の儀式のための歌」ということらしいんですけどね、パキスタンのカッワーリーなる音楽。なんて説明もいるのかなあ?それなりに知名度もある音楽と思うんで、話はこのまま進めます。

 やはりカッワーリーといえばヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、ということになるんでしょうね。
 手拍子とタブラの打ち出す地の底から打ち出されるような重いリズムや、ヌスラットの強力なスキャットによるインプロビゼイションなど、これはまさに魂の持って行かれ度世界一の音楽と思えた。というか、今でもそう思っているんだけれど、久しぶりに以前集めたカッワーリーのCDをあれこれ引っ張り出して聴いていたら、かって、私としてはそれほど評価していなかったカッワーリー歌手、”アジズ・ミアン”のアルバムが非常に好ましいものに感じられ、ひとこと言いたくなった次第。

 アジズのカッワーリーは、ヌスラットのそれと比べると、ほとんど粗野といっていいような印象を受ける。
 その歌唱の中枢を占めるのは、ヌスラットのような華麗なボーカルによるインプロビゼーションではなく、まるでバックコーラス陣との怒鳴り合いのごとくのワイルドなコール&レスポンスである。声自体も、ヌスラットとは比べものにならないガラガラ声で、微妙なコブシ回しよりは一本調子の押しの強さが売りであり、ヌスラットのもたらす”天上の音楽、地に降りしく”みたいな至福感は、アジズの音楽からは望むべくもない。

 アジズは、生まれ年はヌスラットより6年ほど早く、音楽家としては、やや旧世代に属していると考えてもいいのかも知れない。シンプルな音楽性を剛速球で投げ込んでくるミュージシャンといった印象である。
 そのような事情もあり、カッワーリーに出会った当時は”参考までに聴いておく”くらいの評価だったのだが、いやあ申し訳ないっ!いま、先入観や思い入れなどを廃して虚心に聞いてみると、妙に芸術的なヌスラットより、豪快なノリ一発でアタマから乗せてくれる音楽を聞かせてくれるアジズの方が、よっぽど心地よいのだ。
 地を揺るがせ、そのワイルドな重戦車のような音楽が驀進して行くさまに身を預ける快感、これはたまりませんのだ。

 その辺の良さが見えていなかった私も、リスナーとして不甲斐なかったなあ。いや、凄さが分かりやすいからね、ヌスラットの方が。でもまあとりあえず、遅まきながら、「アジズ・ミアン最高!」と叫んでおきます。




マルコーニの秘儀

2006-03-26 04:19:46 | 南アメリカ

 NESTOR MARCONI

 現役のアルゼンチン・タンゴのバンドネオン奏者としてはどうやら第一人者らしい、マルコ-ニ。その演奏には闇の中の秘儀なんて表現をしてしまいたくなる、神秘的な響きがある。

 かの巨人(らしい)、アストル・ピアソラの作品などを聞くにつけても思うのだが、「唄もの」と比べ、今日の演奏のみのタンゴの、その迷宮的とも言いたい複雑さはどうだろう。
 シンプルに過去へと遡行して行く歌手たちとは逆に、ひたすら「前衛」の道へと足を進める器楽奏者たち。

 だが、多分同じことなのだろう。「現実に背を向ける」という意味においては。
 マルコーニのアルバム、よく就寝前に聞く。瞑想的な演奏がもたらす、意識の底への奇妙な旅の感覚と共に、眠りの内に入って行くのが快いからだ。




ゴールデンカップス論(夕闇の野音に消えたミッキー編)

2006-03-25 02:46:52 | 60~70年代音楽

 (前回、”ケネス伊東編”より続く)

 先日、Hさんのゴ-ルデンカップスに関する文章を読み返しながら思った。GSの時代の終焉と、それに続く野音・ニュ-ロックの時代を、ソ連の解体と新生ロシアの誕生に例えるならば、カップスはゴルバチョフだったんだなあ、と。

 カップスは、結局、Hさんが定義されるようにR&Bのバンドであり、あてがわれた「ダサいGS曲」を嫌々演じる際に最もスリリングなバンドだった。「ニュ-ロック前夜」に先頭を駆けていたバンドではあったが、ニュ-ロックのバンドそのものではなかった。
 そういった視点からカップスの曲を、今、聞きなおしてみると、いかにも重たいバンドの個性、といった感が否めない。重たいといってもヘヴィという意味ではなく、言葉は悪いが「鈍重」といったイメ-ジ。良く言えば「地道」か。70年代を生きるニュ-ロックのバンドは、もっと腰の軽さが必要だったのではないか?メンバ-中、最も「ニュ-ロックだった」のは、当然ルイズルイスだったのだが、彼がバンドの行く末に、どれほどの興味を持っていたのか、怪しいものだ。(ルイズルイスの心の中で「やる気」というものは、どのような形をしているのか、ご存じの方、ご教示ください)
 カップスにとってのニュ-ロックとは、結局「R&Bバンドの逸脱行為」以上のものには成り得ず、カップスが開いた扉からニュ-ロックの世界に入っていったのは、カップスではなく別のバンドたちであり、先頭を走っていたはずのカップスは「革命の日」に御用済みとなり、そして忘れ去られてゆく。この私にしてからが、60年代末期には、あんなに熱い思いで見上げていたカップスの事を、70年代が始まり、野音通いが始まると同時に、すっかり忘れ去っていた。

 N2FO氏の提示されたカップスのディスコグラフィ(1131)を見て、なにか物悲しい気分になるのは、カップスが71年当時発表したアルバムに、ザ・バンドを初めとするアメリカン・ロックのカバ-が収められていることだ。
 60年代末期の「ニュ-ロック前夜」には、「外国の最先鋭の曲」を見つけてきてレパ-トリ-に加える、それだけで栄光の「最先端のバンド」の座は十分、保証された。認知された。あの頃、「ウォ-キン・ブル-ス」や「モジョ・ウォ-キン」や「悪い星の元に」をレパ-トリ-に加えている、それだけでカップスは輝いてみえていた。(なにしろ「アンチェインド・メロディ」なんて曲さえ、先鋭的で恰好良く感じられた時代の話なのだ) が、71年には、もう、それでは済まなくなっていた筈だ。最先鋭のミュ-ジシャンの座は、それら外国の音楽を受け止めた後の、自分なりの回答を模索する者たちのものとなっていた。その連中の、大方の答えはトンチンカンなものだったのだが、それでも、時代の歯車は回ってしまっていたのだ。
 が、カップスは、相変わらず「この曲やるって凄いだろ!」をやっていたのだ。それは、その時代に外国曲のカヴァ-が成されなかった訳ではないが、「その時点のカップス」だからこそ、戦術的にそれはやらない方が良かった。彼らが時の流れに取り残された象徴として残されたアメリカン・ロックのレコ-ディング。
 それらの曲のレコ-ディングがなされた背景がどうなっているのか、事実関係は知らない。そもそも私はそのアルバムを聞いていないのだ。が、大方の想像は付く。

 以下2点に関して、考察中。
 1、この「答えを見つける」事と先に書いた「腰の軽さ」は大いに関係があると思うのだが。
 2、これも上に書いたが、彼らがなぜ、あてがわれたGS曲を嫌々演ずる際に、もっともスリリングだったのか?

 ここでいきなり、中断したままの野音話を再開するけれど、私は70年か71年に野音の客席で、ミッキ-吉野に出くわしたことがある。当時盛んだった
、昼過ぎに始まり、夕刻すぎまで続く、「ロックコンサ-ト」の途中だったのだが、我々がバンドチェンジ時に車座を作り、世間話に興じていたら、そこにひょっこりミッキ-が姿を現したのだ。
 やって来た方向から、彼が普通に入場料を払って、正門から入ってきたのは明らかだった。彼は地味な服装と髪形、「ミッキ-吉野である」という事実を考慮に入れなければ単なるデブ、そういうしかない姿で我々の前に姿を現した。ふと、会場をのぞいてみる気を起こした、程度のものだったのだろう。(楽屋を訪ねるのではなく、ダイレクトに客席にやって来た事実に注目)
 我々は口々に「あれ、どうしたの?」「久し振り」「また、やらないの?」などとミッキ-を囲み、まるで数年ぶりにあった同級生を前にしたような口振りで、彼を迎えた。(もちろん、我々はミッキ-の知り合いでも何でもなかった)が、彼は「うわあ、見つかっちゃったな」といったニュアンスの、照れくさそうな苦笑を浮かべ、何も語らず、夕闇の忍び寄る客席中央方向へ歩み去っていった。

 誰かが「またやらないの?」と訪ねたのを、はっきり覚えている。N2FO氏のクロニクルを見ると、ミッキ-の脱退は71年の5月となっているから、その頃の出来事か?いずれにしても、彼がカップスを離れてから、そう長い年月が流れていた訳ではないはずだ。にもかかわらず、我々はミッキ-に「本当に久し振りに会った人物」としての懐かしさをこめて声を掛けたのだ。そんな気分になったのだ、その時。

 ちなみに、ゴルバチョフたるカップスの次にエリツィンとして君臨したのは。結果論だが、そして解散後のメンバ-の活動すべてもコミで言うのだが、おそらく「はっぴいえんど」だったのであり、そしてそれは「日本のロック」にとって、あまり良い事ではなかったと、私は思う。詳細はいずれまた。





ゴールデンカップス論(ケネス伊東編)

2006-03-24 02:53:36 | 60~70年代音楽

 気まぐれですみませんが。
 以前、ある場所に”実力派グループサウンズ”として名高いゴールデンカップスに関して書き込んだ、2部に分かれる文章があるのです。そいつを思うところありましてここに再録します。本日は第1部、”ケネス伊東編”です。

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 1960年代の終わりに、日本の音楽界に忽然と巻き起こったGSブーム。あの異様な熱気をはらんだ季節を、音楽好きな、山ほど屈折を抱えた高校生として過ごしたのは、私にとって幸せだったのか、否だろうか?

 ここで、当時の音楽好き、ロック好きなオトコノコたちにとって、その中でも最もカッコ良かった、先頭を走っていた、と感じられていた、ゴールデンカップスについて書いてみたい。
 横浜の出身でメンバーのほぼ全員がハーフで、とか、何年デビュー、何年解散、ヒット曲には何が、といった資料面は出てこない。他の、もっとマメできちんとした人が、立派な資料をまとめておられるはずなので、そちらを検索願いたい。私は、私なりの切り口で彼らに付いての考察を行ってみるつもりだ。

 デビュ-直後のゴ-ルデン・カップスを、私はTVで見ている。1stアルバムのジャケで見られる、揃いの黒いベストと細いパンツの衣装で、一人一人「ハ-イ、僕は××だよ、趣味は××。よろしくね!」とか、いかにもアイドルな自己紹介をし、その後、「いとしのジザベル」を演奏、という段取りだった。と言っても、詳細は覚えていない。毎度申し訳ないが。しかしその半分は、最後に自己紹介をしたケネス伊東のせいだ。
 戸惑ったような作り笑顔を凍りつかせ、彼はこう言ったのだ。「ボクハケネス伊東デス。ボクノオトウサンハ、あめりか海軍ノ兵隊サンナンダヨ」たどたどしくそれだけ言って彼は、「こ、これで良かったのかな?」みたいな感じの不安そうな視線を宙にさまよわせた。「あ。こいつ、本当に日本語喋れないんだな」と、ちょっと私は驚き、お蔭で、他のメンバ-の「アイドル語り」がどんな具合だったか、忘れてしまったのだ。ルイズルイスあたりがこの事態にどう対処したのか、ぜひとも覚えておきたかったものではあるが。

 例の「天使はブル-スを歌う」に於けるメンバ-の証言を読むと、米兵相手にも本物の英語の歌を聞かせうるサブ・ボ-カリストとしてのケネスの存在が浮かび上がってくるのだが、ケネス自身はカップス内における自分を、どんな風にとらえていたのだろう?

 以前私は「ルイズルイスって黒いか?」などと疑問を呈してみたが、そもそもカップスって黒かったのか?今振り返ってみると彼等は、白人によって誤読された黒人音楽をさらに日本人の感覚で誤読、という二重の錯誤をした音楽をメインにやっていたバンドという気がする。その中央には醤油で黒く濁ったラ-メンの汁を指して「ブラックのフィ-リング」と言い切るデイヴ平尾がいるのだが、そんなデイブの仕切りの内側で、一人だけ白人的感覚による黒人音楽の誤読と言う、他メンバ-とは1ランク異なる錯誤に生き、一人で「裏カップス」をやっていたケネスがいる。もちろん、この「1ランク異なる」というのは、「私にはそう感じられる」というだけの話であり、彼がそうなった原因は、彼が生きていたのが英語文化支配がより強力なエリアだったから、とでも考えるしかないのだが。

 ケネスがボ-カルを取る曲で「裏カップス」は現れてくるのだが、バンド全体の個性が変化することはない。あくまでもケネス一人の裏カップス。表カップスの一部に窓の如きものが開き、裏カップスが顔を出す。演奏が終われば窓は閉じられ、幻想内幻想は消え去る。「表カップス」にケネスが落とす影は、ほとんど見当たらない。どうもケネス伊東という立場、何事かに対する「アリバイ作り」の気配がある。

 一方で「人気GS」なる日本的芸能を演じ、また一方で「本場アメリカから来た米兵にも通用する本格的R&Bバンド」なる神話を演じていたカップス。そんな彼等が内包する矛盾を、一人で地味に受け止めていたのがケネス伊東とは言えまいか。などと書くと、悲劇みたいな響きがあるが、ケネスって、何かというとバンドを抜け、また舞い戻りを繰り返して、いつの間にかハワイに帰ってしまった(行ってしまった、ではない。感じとしては)ヒトなんだよね。そして、やって来た「ニュ-ロックの時代」においては、「GS」も「R&Bバンド」も、時代後れのキイワ-ドでしかなくなってしまい、カップス自体も、時の流れに追い越されていってしまうのだが。

 カップスを聞いていると、エディ播が厚かましいギタ-・ソロ(ケネスに思い入れつつ聞いていると、そう聞こえてくる)を聞かせる際、ケネスがギタ-でバックアップ的フレ-ズをコチョコチョ奏でる局面が時々見受けられる。そんな時、私にはケネスが、初めてTVで見た時の、あの戸惑ったような顔つきで「ソレ、違ウヨ。コウダト思ウンダケドナア…」とぼやきながら、エディのアドリブに控えめな訂正の朱筆を加えている、みたいに聞こえてならないのだ。まあ、二重の錯誤、三重の錯誤って、勘違いという意味においては同じことなんだけどね。

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(次回、”第2部・夕闇の野音に消えたミッキー”に続く)