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護良親王1308-1335の子・興良親王1326?-?の塚が姫路市香寺町にある : 興良の墓

 

1308 護良親王1308-1335誕生 母は北畠師親娘・資子?-1329
1314  三千院門跡
1318 後醍醐天皇1288-1339即位
1324 ■倒幕計画発覚 笠置山逃避
1325  門主
1326  興良親王1326-?誕生:陸良とも言う
1328  天台座主        
1331 倒幕計画発覚by後醍醐天皇の側近・吉田定房1274-1338:内大臣
   ■元弘の乱 
    鎌倉幕府✖ VS 〇後醍醐天皇(足利尊氏参戦)
    還俗して護良親王となる
    黒木御所の造営開始
1332 護良親王一1308-1335行は吉野入り:楠木正成1294-1336の軍事基盤と同時並行       
1333 ■吉野で挙兵
    鎌倉幕府軍の二階堂貞藤1267-1335が率いる六万の軍勢と戦う 
    7本の矢を受けた護良親王の身代わりに村上彦四郎義光?-1333が自害 
    高野山に落ち延びた護良親王 
    4月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、名和長年に奉じられ、船上山で倒幕挙兵の綸旨を発す
       護良親王や赤松円心1277-1350らは京都を攻めたが、六波羅軍に敗北
    5月、新田義貞1301-1338は護良親王の令旨を受け、鎌倉幕府を陥落
       →北条氏滅亡:北条一門283人が自害
    6月、後醍醐は足利尊氏などの諸将を従え、二条富小路の内裏へと入る
1333 この凱旋パレードに護良親王の姿はなかった
    自身が悪戦苦闘の末に漕ぎ着けた京都合戦が、後醍醐と尊氏の戦いになっていたことに不満
    護良親王は戦後の処理をめぐる発言力を失い、新政権での政治方針も主張できなくなった

1333 6月、■建武の親政:
    ・足利尊氏1305-1358は後醍醐天皇の京都、足利直義1307-1352は鎌倉
    ・鎌倉武士不満、
    ・後醍醐天皇暗殺謀略@京都 By西園寺公宗1310-1335
    ・北畠顕家1318-1338 :建武の新政補佐
    ・北畠顕家      :陸奥守任命   

    護良親王は征夷大将軍・兵部卿に任、信貴山を出て上洛
    後醍醐は御家人制を廃止し、将軍の実質的な効力を無くす
    総勢20万7000騎で入京

1334 護良親王と足利尊氏との対立は激しさを増す 
    一方、後醍醐天皇の寵后の阿野廉子にとって、護良親王が一番の障害
    実子の義良親王(後の後村上天皇)を帝にするため
    尊氏と廉子は、護良親王を失脚させたい考えは一致
    護良親王は「帝位を奪うことなどは全くの誤解である」と申し渡すも、後醍醐天皇には届かなかった
    護良親王が皇位簒奪を企てたとして征夷大将軍を解任
    上意を受けた名和長年らによって、護良親王は捕らえられた
    11月、護良親王は足利方に身柄を預けられ、鎌倉へ送られた:二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉

1335 ■中先代の乱 :北条時行1329-1353 蜂起-鎌倉制圧
    関東各地で足利軍に対し勝利を収める
    7月、その存在が北条軍に奉じられることを警戒した足利直義の命を受けた淵辺義博により、護良親王は殺害された
    護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたため
    護良親王の予測通り、足利尊氏は勢力を拡大
    護良親王の死によって、後醍醐天皇を取り巻く力は著しく削がれて南北朝の内乱が拡大する
    
    ・足利尊氏が鎌倉へ攻め上る:天皇無許可 ---鎌倉奪還
    ・北条時行勢力自刃@北条時行脱出
    ・足利尊氏@鎌倉 京都からの帰還命令無視---後醍醐天皇に反旗

1336 尊氏討伐命令to 北畠顕家1318-1338 By後醍醐天皇
    ・1/02 義良親王を奉じて上京開始
        足利義詮1330-1367、桃井直常?-1376を破って鎌倉入り
    ・1/06 遠江入り
    ・1/12 近江入り
    ・1/13 新田義貞1301-1338、楠木正成1294-1336と合流
    ・1/16 連合軍は円城寺を攻めて足利方を破る
    ・1/27 足利尊氏を破る
    ・2/04 北畠顕家は大将軍の号を賜る
    ・2/10 足利尊氏が再入京---摂津で破り尊氏は九州へ逃げる
    ・2/14 北畠顕家は京へ凱旋
    ・3/02 北畠顕家は権中納言に叙される
    ・3/20 足利を討つために奥州への帰還開始 5月に戻る
    ・   このとき足利尊氏は立て直して上京
    ・   新田義貞は比叡山に敗走
    ・   楠木正成は湊川の戦いで自刃

1336 尊氏擁立の天皇承認(北朝に光明天皇) : 後醍醐天皇は南朝を開く
    興良親王は後醍醐天皇の猶子となって親王宣下を受

1337 北畠顕家は東北平定のために霊山@福島を本拠地とする
    ・8月 尊氏討伐命令By後醍醐天皇
    ・   義良親王を奉じて上京開始
    ・   この時には後醍醐天皇の新政に不満を持つ武士多数で北畠顕家は苦戦
    ・12月 足利軍の城杉本城@鎌倉にて奮戦勝利
    ・    新田義貞の息子・義興と合流
    ・    北条時行とも合流

1338 1/02 北畠顕家は鎌倉出発
    ・1/12 遠江 北条時行は遠州灘の嵐で行方不明
    ・1/21 尾張
    ・2/04 高師泰らが京に進撃:北畠顕家打倒目的
    ・2/21 北畠顕家は大和を占拠
    ・2/28 桃井に敗れて義良親王を吉野に逃がす
    ・3/08 天王寺の戦いで勝利
    ・3/18 敗戦して和泉へ転戦
    ・3/21 高師直?-1351 が追撃
        →ばさらの代表格
        →恩賞の大小決定
        →足利直義とは真逆
    ・5/22 北畠顕家は高師直に敗戦@石津の戦い
    ・6/10 同上 北畠顕家は戦死 

1340 相模次郎・時行を諏訪氏が支えて、足利の守護・小笠原勢と対峙@大徳王子城
1341 興良親王は、夏に常陸国に下向して小田城の北畠親房に迎え入れられた
1349 高師直は足利直義の解任要求(御所巻)
    →直義は戦いを進言
    →足利尊氏1305-1358 は拒否
    →直義  1307-1352 は出家 奈良吉野へ(南朝拠点 後醍醐天皇崩御@1339)
     南朝と結託して高師直打倒目指す

1351 興良親王は、南朝に帰順した赤松則祐に奉じられ、播磨周辺諸国における宮方の中核勢力になった
    →直義は摂津打出浜で師直と激突 ---- 勝利@1351-3-24 師直戦死
    →直義は幕府に復帰
    →幕府は足利尊氏の息子足利義詮1330-1367 が握る ⇔ 直義
    →義詮派が直義派を襲撃
    →尊氏は直義と決別

1352 南朝が鎌倉奪還 時行鎌倉入 南朝が京都を制圧、宰相義詮は近江に逃亡
    →静岡さった山の戦いで直義は負け、幽閉 その後謎の急死(鎌倉武士3万が尊氏に加勢:恩賞授与権を持つ)

1352 鎌倉南朝は尊氏の反撃にあう 時行は鎌倉離脱 かくして南朝逼塞

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