13/11/05 23:59
数あるモニターの画面のひとつが、また砂嵐に変わる。
マーキュリーは王国の知の中枢たるメインコンピュータ・ルームでただ画面を見つめていた。部屋を囲むように王国内の映像を映す画面はただ暗い。光度が低いだけでなく、それらがもたらす情報があまりにも昏い。
かつて全宇宙で最高の栄華を誇っていた月の王国。マーキュリーが見知って過ごしてきた眩しすぎたこの世界は、今はもうただ暗いという表現しか出てこない。闇に近い灰色の世界から色濃く見えるのは、ただ終末の予感と気配だけだ。
閉ざされた箱のようなこの場所で、マーキュリーはひとり画面を見つめている。ここにいて、王国のすべての叡智を守るのが使命だからだ。
ただ後進国のひとつでしかなかったはすの地球が、かつては考えられなかったほどの力を持ち、不可侵でありもはや伝説ですらあった月を侵し始めているという画面越しの現実を、ただ見ている。
平和に慣れていた月の民は、あまりにも脆かった。守護神の力では抑えきれず侵攻を許したときには、氷が溶けるように崩れ落ちていた。この王国を平和たらしめていた力は武力でなく、抑止力であったから。
また画面のひとつが砂嵐に変わる。
もうデータ上では把握できないが、王家を守るための最後の砦であるこのパレスのどこかでマーズが戦っている。ジュピターが守っている。ヴィーナスがどこにいるかはわからないが、彼女はおそらく臨機応変に動いているのだろう。そして、ここが大丈夫ならまだ王家にまで迫っているものはない。
この状況で、マーキュリーの心は凪いでいる。ひとつひとつ部屋の外の情報がそぎ落とされていく中、無感動にコントロールパネルに向かい作業を繰り返す。被害の状況を把握することも、仲間の位置の確認も、未来への希望も現在の失望もなく、マーキュリーは目先の作業を黙々と行う。それがやるべきことだからだ。
また一つ画面が落ち、部屋全体がなにかの衝撃のせいか重苦しく振動する。この部屋は設計上強固に守られているが、それゆえ物理的な影響が出ているということは、この外は相当な脅威にさらされていると言っていいだろう。
それでも―それでも。
一心不乱なのか、単に穏やか過ぎてほかになにも考えられないのかよくわからない心地でマーキュリーは作業に没頭した。いつもなにかに追われるように仕事をしていただけに、こんな感覚がどこか不思議でもあった。この作業は間もなく終わる。心は乱れない。名残も感じない。
王国の知を統べるその頭脳は、その感情の正体を知っている。これは―
「マーキュリー」
背後から声をかけられた。声をかけられるまで訪問者に気づかなかった。気づいた途端心が乱れた。それを悟られるわけにはいかなかったのでマーキュリーは振り返らなかった。
「・・・ヴィーナス」
「・・・どうなの」
低く静かな声がマーキュリーの耳朶を打つ。明るく陽気だった彼女はどこに行ってしまったのか、と思う。それが彼女のすべてではないのは知っているけれど、最後にヴィーナスのそんな声を聞いたのはいつだったか、もう思い出すのも遠いだけに。
「・・・いいえ」
「・・・・・・戻る」
なにが、とはヴィーナスは尋ねなかった。マーキュリーも具体的な言葉は返さなかった。また画面がひとつ落ちる。
この箱のような場所でも、ただはっきりと見える終わりの予感。永遠だと思っていた王国の歴史は、ここで潰える。月は、既にこのパレス以外は水に墨を落としたみたいに黒く浸食されている。
ここも時間の問題だ。マーキュリーは言葉に出さずに思う。そしてようやく振り返りヴィーナスを見る。ヴィーナスはすでにマーキュリーに背を向けている。大きく息をついて、きれいな仕草で歩き出す。
その姿は、疲れてはいてもやつれてはいない。どこで戦いどこを潜り抜けてここに来たのか、ところどころ煤けたその姿はそれでも、少しもヴィーナスの美しさを貶めてはいない。むしろ、戦士としてあまりにも美しい佇まいに見えて、マーキュリーは一瞬呼吸を忘れた。
守護神の中で一番小さい背中。それでずっと、王国の守護を統べてきた最強の戦士の背中。金糸のような髪を翻し離れていくその姿に、マーキュリーの心の中にも、墨がこぼれるように黒いものが広がっていく。
思わず、その腕を後ろから掴んでいた。マーキュリーにはほとんどないと言っていいほど珍しい、行動が脳を介さない本能じみた行動だった。ヴィーナスははっと振り返る。
ようやく顔を向き合わせる。どこかで戦ってきたのか、ヴィーナスの顔は煤けて、少しだけ傷ついていた。それでも、今度こそ本当にマーキュリーは呼吸を忘れた。息が止まるほど美しい、と思った。
ぶくぶくと心に黒が広がっていく。落ちてくるのでなく内側から湧き上っているのだ。今の状況も理性も塗りつぶされていく黒い衝動は、欲望に他ならない。
怪訝な表情を向けるヴィーナスを無視し、マーキュリーはリボンの中央をわしづかみにして自身に引き寄せた。顔が一気に近づく。こんな至近距離から彼女の顔を見るのも、どれくらいぶりなのか。
どくどくと熱が膨らんでいく感覚。眼球がぶるぶる震えてしまうほどの熱。欲情する体。そのまま押し倒した。固く冷たい床にヴィーナスの背中を落とす。倒れる際に流れるヴィーナスの長い髪がマーキュリーの頬を掠め、それだけで理性が飛びそうになる。
抵抗もなく倒れるヴィーナスのリボンをわしづかみにしたまま、マーキュリーはその顔を覗き込み、問う。
「・・・5分。いえ3分でいい」
なんとか声を絞り出す。言葉をかけたのは最後の理性だった。もっとも、愛の女神である彼女にこの状況でそんな声をかけること自体が野暮の極みなのかもしれないが、マーキュリーはもうそこまで考えられない。羞恥も理性も捨て、ただ欲望に突き動かされた。
ヴィーナスは答えない。リボンを掴んだ手に力を込め、変身を解除させる。ぱしん、と音を立てコスチュームが光の粒になり暗い部屋に散る。普段は美しいと思うその光景も、マーキュリーの目には入らない。
今のマーキュリーの意識と視界を支配していたのは、ただ目の前のヴィーナスの裸の肉体であったから。
黙って歓迎も抵抗もしないヴィーナスの肉体に、マーキュリーは床に手を付き餌にありつく犬のよう顔を埋めた。
やわらかくあたたかい肉体に、舌を這わせる。舌先からじわりと熱が広がる。微かに汗の味がするその肉体を、それこそ食むように口に含み、歯を立てた。ヴィーナスの前でこんな振る舞いをするのは、出会って初めてのことであった―直情的で、なんの思いやりもない、本能だけのセックス。
乳首を舐める。口の中で乳首がふっつりと尖っていく感覚に酔って、舌先で転がした。ヴィーナスに触れる部分すべてに集中して、他の思考も感覚もなにもかも捨て愛撫に没頭した。邪魔になったコスチュームのグローブを自分の口でむしるように剥ぎ取ると手のひら全体で肉体に触れる。どこを触れても、マーキュリーの体に甘い痺れが立ち上って来る。腕の下にいる肉体があまりにも美しくて、見ているだけで全身の力が抜けてしまいそうになる。
出会ってからずっと一緒だった、愛の女神のその肉体。どうしてこんなにそばにいて、今まで冷静でいられたのかと思えるほどの衝動。一度崩れた理性は、もうあまりにも脆かった。
「マーキュリー」
鼻にかかった甘い声。ヴィーナスから、そっと首の後ろに腕が回される。熱いものがせり上がってくる感覚。熱のこもった目で見つめられて、理性が焼き切れた。
荒く息を吐いて、肉体に歯を立て、舐め、貪る。口から漏れる音は汚く空気を震わせたが、そんなことに頭を使う余裕がなかった。ただヴィーナスが漏らす吐息に、声に、鼓動にだけ耳をすませた。
あばら骨の形を確かめるように体に触れた。筋肉の筋をなぞるように舌を動かした。乳房のふくらみに噛み付いて、その肉体のしなやかさに心酔する。
ヴィーナスの膝を持ち上げるように腕を回して、顔を足の間に差し入れる。こんな乱暴なだけの短い愛撫でも、そこには既に蜜が滴っていた。
きれいな線対称に開かれた洞窟。日頃秘められた部分も、理屈抜きに美しい。マーキュリーは、ためらわずに顔を埋め、唇より少しだけ歪なその口に、顔を傾けキスをした。
四つん這いになってそのように振る舞う自分が、まるで服従や隷属を誓う犬のようだ。だが、今のマーキュリーはそれが惨めだとは思えない。むしろそうすることが自然なように思えた。それだけ、心も体も、頭もヴィーナスという存在に支配されていたから。
愛し合う恋人のように、角度を変えて口づけを繰り返す。微かに開かれたその部分に舌を差し入れ、流れる蜜をこぼさないように丁寧に舐めた。ひどく喉が乾いて、いくら喉に流れる液体を飲み下しても足りない。息を継がなければいけないのすらもどかしい。自分の鼓動さえ彼女の音を拾うのに耳障りだ。目にかかる前髪と視界に影を落とすまつ毛が目障りで、瞬きをするのも煩わしい。自分の着ているものが邪魔で仕方なくなったが、もう一瞬の変身解除の時間さえ惜しい。口からこぼれて、あとから床に滴る露さえ舐めとってしまいたいと思えるほどの劣情。
物欲しげにひくつく溝に指を差し入れる。下から上になぞり上げると、ヴィーナスの体が震えた。ようやく顔を離したことで、その熱のこもった表情を見た。指に露を擦り込ませるように入口をかき回すと、背中を逸らしたヴィーナスが嬌声をあげる。乳首が誘うように揺れて、もうなにも考えられなくなった。
できるだけ触れ合う面積が多くなるように、マーキュリーはヴィーナスに覆いかぶさる。首筋を舐めあげ、片手で乳房をわしづかみに、もう片手を足の間に侵入させようとして、ようやく唇に口づけをしようとした。
「マーキュリー」
そこでヴィーナスの声。その声は、先ほどと打って変わって冷酷だった。
たった今、ほんの瞬きをする間まで持っていた熱はどこに行ったのかと思うほど、部屋に入ってようやく顔を合わせたときと同じ戦士の表情。だが、それはマーキュリーの劣情を損なうものではない。むしろ、初めて出会ったとき、いっしょに戦う時にずっと見てきたその表情を。
だから止められない。なんとしても口づけをしたかった。その肉体に己の一部を突き立てたかった。少しでも近くに行きたかった。それだけが脳内を支配して、急くようにヴィーナスに体を埋めた。自分で言ったとはいえ、体を重ねるのに3分はあまりにも短い。
「3分よ」
だが、どちらも届かない。
すごい速さで顔を掴まれ視界を塞がれたかと思うと、そのまま体を押しのけられた―というよりはほとんど吹っ飛ばされる感じで、マーキュリーの体はコントロールパネルに叩きつけられた。背中と後頭部が固い金属の壁にぶつかる感覚に目から火花が飛ぶ。その状況を認識する間もなく、次の瞬間、無防備になった鳩尾に固く尖ったものが埋まるように突き刺さる。
「ごぼっ」
重く鋭く無慈悲な一撃。背骨まで響くほどの衝撃。内臓の中身が一気に逆流して、マーキュリーは崩れるように跪いて胃液を吐いた。胃液は鼻からもあふれて息が詰まった。あまりの痛みと苦しさに呻くこともできない。
呼吸もできない苦しさの中、ハイヒールで腹をを蹴飛ばされた事実だけは感覚で理解する。口からも鼻からも胃液を垂れ流したまま、マーキュリーはなんとか顔を上げる。ヒールの感触があるのだから当然だが、ヴィーナスはすでに元の戦士の姿に戻っていた。
そのままもっとひどい暴力がやってくると思った。抵抗はできなくても、どれだけ惨めな姿を見せているのかわかっていてもそれでもマーキュリーは顔を下げなかった。胃液が鼻に詰まってひどい頭痛がしたが、それでもヴィーナスが視界から外れることのほうが怖かった。
だがヴィーナスはすでにマーキュリーから背を向けていた。この部屋に来て、マーキュリーが振り返ったあのときと同じように美しい髪を翻しヒールの音を立てて、遠ざかっていく。
「あなたはもういらない」
静かな、それでいて有無を言わせぬ言葉。
うずくまったままのマーキュリーに一度も振り返ることなく、ヴィーナスは先ほどの情事をなかったかのように、まるであの3分が存在しなかったかのように、コンピュータ・ルームから消えた。
マーキュリーは背後でまたモニターの光が落ちたのを感じながら、口から鼻から流れる胃液をそのままに、床にだらしなく寝そべっていた。
「・・・はは」
口から漏れた笑い声は、狂った人間のそれに聞こえた。だが、マーキュリーは至って正気だ。どうせなら狂っていたほうがよかったのかもしれないが、あいにく、この状況で狂えるほどまともな精神構造では知性の戦士を拝命することはできないのだ。
ようやく呼吸ができるようになったものの気道に胃液が残って、頭が苦く痛む。マーキュリーは転がりながら、体を横にしたのはずいぶんひさしぶりだな、と場違いなことを思う。
なんとか戦争を避けようと必死だった、まだかすかに希望があったあの頃。顔色の悪さをマーズに咎められて、無理やり休憩を取らされた時だろうか。正しい生活を、できないまでも少しは努力しろと言った彼女もまた、あのとき濃い疲労を携えひどい隈を作っていたことを思い出す。そのマーズは、今、パレスの前で戦っている。
頭がますます痛くなって、痛みによる生理的な涙で滲む視界で、マーキュリーは自分が吐き出したものをぼんやりと眺めていた。
吐き出したのは、ほんとうに胃液だけ。最後にものを食べたのは果たしていつだったろう。ジュピターに顔色の悪さを心配されて差し入れしてもらったのは、すぐに思い出すことができないほど遥か遥か前だ。片手間でもいいからせめてなにか体に入れろと、傷だらけの手で携帯食を渡してくれた。そのジュピターは今パレスを守っている。
腹部の鈍い痛みに顔をしかめ、それでもマーキュリーは立ち上がる。黙って寝転んで物思いにふけっている時間に、3分はあまりにも長い。
「・・・いかなきゃ」
ヴィーナスの一撃はほんとうに容赦がなかった。解除するも惜しんで着ていたコスチュームがなければ内臓が弾けていただろう。マーキュリーをいらないと言ったあの言葉に偽りはないようだ。
マーキュリーは汚れた顔で歪に笑う。ヴィーナスの言葉に偽りがなければ、マーキュリーの笑みにも偽りはない。吐き気とともに胃の腑からこみあげる笑いを抑えることが出来なくて、胃液がこぼれるのも構わず口角を上げ肩を震わせる。
「・・・ひどい、人」
少しだけふらついたが、それでもしっかりとした足取りで歩き出す。内臓が容赦なく痛みまた胃液がせり上がったが、そんなことはマーキュリーにはどうでもいいことだった。痛みも吐き気も無視すればいいだけだ。
それでも、ヴィーナスのことを思う。せめて彼女の痕跡を体に残しておきたかったのに、傷は目に見えないコスチュームの下だ。まるで命をつなぐ甘露のようにすすった露はすべて吐いてしまった。いっそ吐いたものを床に這いつくばって舐めてしまいたかったが、そんなことはしない。プライドが邪魔するのでも常識が邪魔するのでもなく、ただ時間がないからしない。
せめてどちらかひとつでも残してほしかったのに、ほんとうにひどい人だ―マーキュリーはくすりと忍び笑いを漏らす。
最後のモニターが落ちる。背中に感じる光が消える。このパレスに来てから、なによりも誰よりも長くいたメイン・コンピュータルームを、マーキュリーは後にした。
一歩出た瞬間、部屋を氷漬けにした。一つの氷と化した箱を破壊する。ここを守るのが使命だった。だから、誰にも渡さない。
ほんの少しも振り返らないまま、マーキュリーは、長く自分を閉じ込めていた場所が終わる音を聞いた。自分が終わるときも、氷が割れるような簡単な音なのだろうなと思う。
ほんとうに、コンピュータ・ルームは要塞だったんだなとマーキュリーは壊れゆくパレスを駆けながら妙に冷静に感心する。もう人の気配のない荒廃した世界。輝くパレスがむしろ場違いなように世界は暗い。
走るほど外に近づくほど、腹部に響く痛み。走りながら何度も吐いた。化け物じみた顔色の悪さで憑りつかれるように走るマーキュリーを見つけるものは、しかしもうどこにもいない。目に映るところに守るべきものが、いない。
「(誰もいない・・・!)」
もちろん、死体はそこかしらにある。昏いエナジーに侵された世界では、自らを守る力を持たない者たちはそれに抗する術を持たない。かつてここで、守護戦士ではなくとも女王に忠誠を誓い、平和を愛していた月の民がなんの尊厳もない姿で転がっている。どこを見ても、探しても、生きている存在を確認できない。
ようやく見た、画面越しでない世界。悔しさに奥歯を噛みしめ、またこらえられなくて吐いた。もうなにも残っていないのにどうして出てくるのだろう。それでも一縷の希望を信じ、また走る。
ここで物のように転がる彼女たちのひとりひとりに、死を悼む言葉があるだろう。跪いて捧げなければならない祈りがあっただろう。誇りと守りたいものがあっただろう。痛みと恐怖を与えてしまったことを守護戦士として詫びたかった。それぞれの死に違う涙を流したかった。悔やんでも悔やみきれなかった。だが、マーキュリーは立ち止まらずに走る。
誰かひとりでも残っていたら。生きていてくれたら。マーキュリーは走る。誰か。誰か。誰か。声にならない声を上げた。せり上がった胃液が鼻から頬に流れる。頭が痛い。脳が痺れる。がぼがぼと喉から水気の強い呼吸音が漏れる。
ひとりでも多く。せめてひとりでも。どこかで生きていてくれさえすれば、命をかけて守るから。
マーズとジュピターがいないとわかっている方角に走り、パレスの外へ向かう。彼女たちの領域に飛び込むより、守備が手薄な方に向かうべきだと思った。いまさらでも、どれだけ薄くとも望みがあると信じたかった。
だがその望みは打ち砕かれる。どこにも生存者の確認ができないままパレスの外に近づいていく。間もなく外に出る。マーズとジュピターから離れたこの場所、パレスと外の境にいるのは。
心臓が潰れそうなくらいに高鳴る。近づいていく景色。暗い景色の中、見紛うことのない美しく輝くその後ろ姿。
「・・・ヴィーナス」
思わず声が出た。いることはわかっていたし、もう声をかける必要もないことも声をかけられる間柄でもないことはわかっていたが、それでも言わずにいられなかった。一瞬だが、息が止まるほど、思考回路が止まるほど、足が止まるほどその美しさに心奪われた。
だが、それも一瞬だけ。マーキュリーは汚れた顔を拭うと、ヴィーナスの横を黙って通り過ぎる。この瞬間をずっと待っていた。ずっとずっと、待ち焦がれていた。いらないというあの言葉より待っていたかもしれない。高鳴る心臓が爆発しそうだった。黙ってパレスの外を見つめるヴィーナスの、すぐそばを、後ろから。
「・・・マーキュリー」
すれ違いざま、ヴィーナスより一歩前に出たマーキュリーの背後にヴィーナスから声がかかる。そんなつもりはなかったのに、マーキュリーは足を止めていた。しかし振り返ることはしない。振り返らないようにするのが精いっぱいだった。
「どこに行く気なの」
「最前線に出る。軍を止める。生存者を助けに行く」
「許可は出してないわ」
「もうあなたの命令は聞かない」
リーダーと、ブレーンだった者の会話。やりとりする言葉の固さにかつての関係がにじみ出る。ただ、その関係はすでに崩壊していた。もう、とっくにマーキュリーは欲しい言葉をヴィーナスから引き出していたから。
肝心の時に命令を遂行できない、頭脳を守れない、目先の色に溺れるブレーンなどこの王国の頭脳に必要ではない。だからこうやって断ち切ってほしかった。微塵のためらいも後悔もなく不要だと思われたかった。
それははじめて会ったときから、その眩しい姿に目を細めたあのときから、マーキュリーはずっとヴィーナスに捨てられたくて、有事の時に真っ先に切り捨てられる存在になりたくて。コンピュータ・ルームで彼女を抱きながら、いらないという言葉を、戦場で彼女よりも前に出る瞬間をずっと待っていた。
本当は真っ先にプリンセスの守護に行きたいはずのヴィーナス。だが彼女がプリンセスの影になるのはほんとうに最終手段であり、マーキュリーが中で王国の知を守っている以上ヴィーナスは外に出ている。だから。
もちろん王国の復興にこれまでの知の結晶は必要なものだろう。だからさっきまで、ヴィーナスはマーキュリーにあそこを守らせていた。未来があると信じて、戦いの後の未来をマーキュリーに託していた。
だがそのコンピュータ・ルームはマーキュリーが自らの手で破壊してきた。長きにわたる自分たちの信頼もこの手で終わらせた。最早内に守るものは王家のみであり、マーキュリーが中にいないとなれば、ヴィーナスのいる場所はここではない。
守護戦士のリーダーである責任からここに立っていた彼女。本来の居場所に戻せるものなら、と思った。王家を守れば、守護神さえいれば必ず王国は再興するから。ほかの手がない最終の手段だが、それは最強の布陣でもある。
既に答えは出ているのに、この問答は長すぎる。もう話すことなどないとマーキュリーは再び足を動かす。既にリーダーとブレーンでも、上司と部下でも、守護神としての仲間でもない。
「マーキュリー」
だが、再びマーキュリーは足を止めた。止めざるを得なかった―ヴィーナスに、しっかりと手首を掴まれていたから。
手首の骨がぎしぎしと軋むほどの力で握ってくるその手は、先ほどのヒールによる一撃とは違い、マーキュリーを明確に害する意思のあるものではない。ただ、離さないという意思が骨に沁みこんでマーキュリーの脳髄を侵す。その意図がわかりかねて、振り向くのが恐ろしくなってマーキュリーは前を向いたまま、問う。
「・・・離して」
「・・・・・・・・・」
「あなたがいらないって言ったんでしょう」
「・・・・・・・・・」
「・・・ヴィーナス」
もう二度と呼ぶことがないと思っていた名。捨てられたと思っていた。捨てられて、嘔吐しながらも喜びに震えていた。待って待って、初めて会ったときからずっとこの時を待っていた。
なのにどうしてこの腕を振りほどけないのか―マーキュリーの表情はぐしゃりと歪む。
「・・・あたしが・・・あなたがなにを考えてるか、わからないとでも」
こんな時に声を震わせるほど、ヴィーナスは抜かりある性質ではない。やはり声はどこまでも静かで冷酷だ。むしろ、この手を離さなければいけないことを自分で悟っているようにも聞こえる。
そしてマーキュリーは。ずっと待ち望んでいた、内臓が震えるほどの歓喜だった言葉を、改めて本心からその言葉を言ってくれたという今のヴィーナスのその言葉を聞いて。
「・・・ごめんなさい」
自分がなにに謝ったのか、マーキュリーはわからない。冷たい床の上で乱暴に抱いてしまったことか。貴重な時間を取らせてしまったことか。守護神としてこんな状況を食い止めることができなかったからか。非常に不誠実な行為とわかっていたが、謝罪は懺悔のようにぽろりと口からこぼれ出た。
そして頬を伝うのは、吐き散らしながら走って流れた胃液でなく涙だと気付いた。腹部への無慈悲な一撃と骨が軋むほどの手首の痛み。どちらも痛みを与えられて涙を流しているのに、まるで違う。
ヴィーナスがこの手を離すことはわかっている。離さなければならないのに、こうやって握りしめられているという事実にマーキュリーは涙した。こんな形で愛されていると実感したくなかった。
初めて会っていっしょに戦って手をつないで、いつか容赦なく捨てられることをずっと願いながらも、誰もの幸せで平和な時間を守るために、そばにいられる時間を守るために戦ってきた。彼女にとって、自分が共にいる時間を守ろうと思える存在になることは、憧れで、あり得ることがなくて、もしあるのなら自分から手放さなければならない願いだった。
だって、彼女はリーダーだから。
手が離れる。ヴィーナスがパレスに駆けていくヒールの音を背中で聞きながら、マーキュリーは泣きながら外に走った。愛されていることがうれしくて、それなのに、彼女が手を離してくれるように仕向けた。自分からヴィーナスを手放すことはどうしてもできそうになかったから、初めて嘘がない欲望を押し付けて、ヴィーナスから突き放された。
こんな風に策を張り巡らさなければ、素直に彼女を抱くことも出来なかったけど。それでも一度火がついたあの場での欲望だけは本物だった。時を忘れ呼吸を忘れるほど愛しくて仕方なかった。
自惚れるつもりはないけど、そうしなければならなかかった自分たちを少しでも彼女が悲しいと思ってくれたのなら。
「・・・ありがとう、ヴィーナス」
すべてをわかって、相応の態度を取ってくれたヴィーナスへの言葉は、もはや届くことはない。
暗く霞たなびくパレスの外、マーキュリーはひとり立っていた。地球の軍が遠く朧に見える。こちらに向かってくるの時間の問題で、マーキュリーはたったひとり荒廃した地に立ち、震える膝をぴしゃりと叩き自らを叱咤する。
だがそれは恐怖ゆえではない。戦士としての武者震いだ。長く閉じ込められていた箱のようなコンピュータ・ルームから出て、ようやく戦士として前線に立てることに、吐き気とは違う内臓がぞくぞくするほどの高揚感が湧き上がってくる。やはり戦士として自分は生まれてきたのだ、と改めて思う。
マーキュリーは黙って、周囲に生存者の気配がないことを確認した。いるのなら命をかけて守る気でいたが、いなければ思いきり戦うことができる。ジュピターやマーズが守っている方角に、生存者が集っていることを信じる。王家はヴィーナスに託してきた。もう二度と帰ることはないから、考えることも放棄した。自分がなすべきことは、ここで出来得る限りの進撃を止めること。
もう誰の命令も聞かないマーキュリーは、守るべきものがひとつしかないから、なりふり構わず戦うことができる。マーキュリーは顔を上げる。そこには涙も惑いももうない。
「・・・最後の命令だけは、守って見せる」
ヴィーナスの最後の命令は、王国の知を守ること。だから敵に奪われないように、戦いもせずコンピュータ・ルームにいた。そしてあの箱のような場所で王国の情報をすべて脳に詰め込み、箱を完全に破壊してきた。
今、マーキュリーの脳に、王国の知識が、情報がすべて詰まっている。
「・・・また、必ず、水星の守護神は生まれる」
自分に言い聞かすように声を出した。これまで宇宙でもっとも輝いていた月の情報を地球に渡さないのはもちろんだが、ここまで月に侵攻を許してしまった敗将の知を次の世代に託すわけにはいかない。この戦いが終われば、クイーンとプリンセス、ヴィーナス、マーズとジュピターそして次のマーキュリーが必ず再興を果たす。そこに自分はいなくとも、新しい知が必ず平和をもたらすだろう。そのときに、少しでも悪しき影響を残さないために。
だから、王国のすべての叡智を詰め込んだこの頭脳の終焉により、ヴィーナスの最後の命令は完遂される。今のマーキュリーにとって、守るべきものはもはやそれだけ。
近づいてくる地球軍を前に、マーキュリーは静かに微笑む。そういえば地球の民族には、死に赴く前には内臓を空にしておく作法があるそうだとふと思い出す。そういえば、なにもかも吐いてきたところだ。
死ぬために戦うのではない。死ぬまで戦うだけだ。脳が終わるのはその結果に過ぎないし、そもそもそんなことをヴィーナスが知っていたとは思わないが、結果として死を迎え入れるのにあまりにも出来過ぎた状況だ。
やはり、どこか自分たちにはそういう相性のようなものがあったのだろう。マーキュリーは自らの腹部を撫でる手にくっきりと残るヴィーナスがくれた痣を見て、目を細めた。
やっぱり、私たちは。
欲しくてたまらなかった彼女の痕跡。グローブを剥がしていたほうの手首を巻く毒々しい痣を、グローブをはめたままの手でなぞる。死化粧にするにはあまりに愛おしすぎて、苦しい。死に赴く自分をきちんと彩ってくれたヴィーナスを思い、マーキュリーは笑った。狂った風でもない、素直でやわらかな笑みだった。
王国は必ず復興する。ヴィーナスもマーズもジュピターもいる。危機を乗り越え、より強固で平和な時を作るパレスが頭の中で見える。いつかこんなことがあったと笑って話せる日も来るだろう。ただ、そこに自分だけがいないだけで。
コンピュータ・ルームに閉じ込められ、いろいろ未来を懸念していたときとはもう違う。ようやく戦いの場に立って、もう、そんな、あまりにも明確で、単純で、易しい未来しか見えない。
生への執着も死への憧憬もないまま、ただ明確な意思と覚悟を持ってマーキュリーは駆ける。この頭脳が終わる瞬間だけを待ちわびながら、ようやく立つ最前線に喜びをかみしめながらセーラーを翻した。
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前世の彼女たちにも、完全に絶望しながら戦うより、前向きかどうかはともかく最後までなにかの希望を持って戦うメンタリティがあってもいいんじゃないかと思います。
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